なにを書いてなにを書かぬか
MONOKAKI B6に「五右衛門vs轟天」の感想メモを書き始めた話は昨日書いたとほりだ。
昨日はヤッターゴヱが出てくるところまで書けた。
19ページ目に入つたところである。
なんとなく、ばつてん不知火までは書けさうな気がしてゐるが、マローネさまにはたどりつけない気がしてゐる。
その前のウマシカで力尽きさうな気がしてならないのだ。
それはさておき。
つぶやいたとほり、月曜から水曜の三日間で一生分の「轟」の字を書いた気がする。
いままで生きてきてこんなに「轟」の字を書いたことないよ。
「轟」の字の草書体まで調べちやつたよ。
調べて、あとでわかるやうに書ける自信がなかつたので、そのままだよ。
まあ、なんだかわからないぐちやぐちやした字のあとに「天」と書いてあればわかるやうな気もするけども。
その割に「五右衛門」と書くのはそんなにつらくない。
考へてみたら「右衛門」はよく書くからね。大成駒とか播磨屋さんとかね。
書き慣れてゐるからそんなにつらくないのかもしれない。
「轟」の字も書き慣れればつらくなくなるだらうか。
これもつぶやいたやうに全部感想メモを書き上げたあかつきには「轟」の字も七生分くらゐ書くやうな気がするから、そのうち慣れるかな。
ところで、メモを書いてゐると、「こんなことばは一生口にもしないし文字にも書かんだらう」と思つてゐたやうなことばを書き記さねばならない事態に直面したりする。
なにを大げさな、と思はれるかもしれないが、人間、「これだけは絶対口にしたくない」とか「これだけは絶対使ひたくない」といふことばがあるものだ。
ない人もゐるかもしれないけれど。
やつがれの場合は「学び」とか「気づき」とかかな。
それも、「学びを得る」とか「気づきを得る」とか絶対云ひたくないし、「さう云つて恬として恥ぢるところのない人に日本語についてどうかう云はれたくないわ!」と心の底から思つてゐる。
あと、どうしても使ひくないことばがもうひとつある。
元は生と死の生の方を意味する外来語で、そのうちの頭の二文字を取つて「い」をつけ、形容詞風にしたことばである。
頭の二文字だけ使はれる場合も多い。
絶対イヤ。
なにがあつてもイヤ。
だつてうつくしくないんだもの。
使ふとしたら本来の形かそこからの派生形である英語のカタカナ化した形でしか使ひたくない。
でも世の中の人はふつーに使つてゐるんだよなあ。
むー。
しかし、といふことは、やつがれもまたほかの人から見たら「そんなことばは絶対使ひたくない」といふやうなことばを使つてゐるだらうことは明らかなので、ここはお互ひ様といふアレなのだらう。
それにしても、まさか「ブルセラショップ」とか書き記す日がやつて来やうとはねえ。
お釈迦さまでも気がつくめえとはこのことだ。
感想メモを書いてゐて、「書く日が来るとは思はなかつた」と思ふことばの大半は下ネタ系のことばだ。
インターポールの言い換へ(←やつぱり使ひたくないらしい)とかね。
お食事中にはちよつと、と思はれるやうなことばとかね。
お上品ぶつてゐるつもりはない。
「学びを得る」とか「気づきを得る」や、上で書いたある単語の上の二文字とちがつて、一応メモとして記してはゐるし。
そもそも、普段のことば遣ひからして、上品とはほど遠いしね。
それに、なんといふか、「ブルセラショップ」とか書き記してゐる自分がおもしろい、といふ感覚もある。
なんだらうね、この感覚は。
ちよつと他人事。
書いてゐる自分を外から見てゐる自分がゐる感じ。
「へー、そんなことばも遣ふんだね」、とか、ある意味新鮮である。
これだけでも感想メモを書きはじめてよかつたな、と思ふ。
感想メモを書きはじめてよかつたと思つたことはほかにもある。
ひとつには、自分にとつて「五右衛門vs轟天」はむかしなつかし東映時代劇のオールスター映画のやうなものだ、といふことに気がついたことだ。
まんがまつりぢやないんだよね。特撮でもない。
時代劇。
右太衛門と千恵蔵とが出てゐて、その他全員勢ぞろひ的な、満漢全席的な、なんかもうどこを見ても超絶豪華といふやうな、そんな感じ。
この場合、五右衛門と轟天とどちらが右太衛門でどちらが千恵蔵か、とか、さういふ話ではない。
ああ、ただ「五右衛門vs轟天」には錦之介にあたる人はゐないね。
そんな感じ。
また、書くことでなんとなく頭の中がすつきりするといふのもよいことだ。
書き出した分はもう脳内にしまつておかなくていいしね。
その一方で、書き出すことで記憶として定着するといふこともある。
もやもやと脳裡をよぎるだけだつたことどもが、実体を得る感じとでもいはうか。
そんなわけで「ま、まだヤッターゴヱ……」と思ひつつも書いてしまふのだらう。
でも、おそらく、これだけは書かないだらうと思つてゐることもある。
最初に見た日から二週間が過ぎ、これだけ日々「五右衛門vs轟天」のことを考へてゐると、おぼろげながらに「なぜ自分は「五右衛門vs轟天」が好きなのか」といふことが見えてくる。
否、自分にははつきりわかつてゐる。
この、「なにが好きだか、どうして好きだかよくわからない」とか寝ぼけたことを云うてゐるやづかれにはめづらしいくらゐ、明快に好きな理由が判明してゐる。
それを、この場で書くのはチト気恥づかしい。
そして、他人は見ないだらうノートに書くのも、なぜだかはばかられる。
書くと、それがほんたうのことになつてしまふやうな気がして怖いのだ。
なにを云つてゐるの。明快にわかつてるんでせう?
さういふ向きもあるだらう。
うん、まあ、さうなんだけれどもさ。
でも上にも書いたやうに、書き出すまでは脳裡をぼんやりとよぎるもやもやしたものに過ぎない。
きちんとことばにした途端、それはほんたうになつてしまふのではないか。
書いてしまふと変更できないのでは。
そして、「これが真の理由です」と云ひ切る自信もまたない。
web検索などして他人様のblogで「五右衛門vs轟天」の感想を拝見してゐると、自分の感想メモなんか足下にも及ばないやうなディープで濃い感想ばかりだ。
「自分はこれが好きだ」といふ確たる自信のなせるわざなのだらう。
世の中、自分の好みに正直で素直な人間ほど強いものはない。
生まれてこの方物心ついてより「自分はなにが好きなんだらうか」「自分はほんたうにこれが好きなんだらうか」と疑ひつづけてきた人間には到底たどりつけない境地である。
勝ち負けでいつたら完敗だ。
でも敗者には敗者の書き方といふものもある。
あると思ひたい。
つまらないものになつても、だ。
とは云ひながら、古来から「戀すてふ」だの「忍ぶれど」などと云ふくらゐだから、書かなくてもわかつちやつてるんだらうな、と思つたりもする。
たぶん、なにもかもバレてゐる。
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