惰性的に日々結ぶ
昨日、「感情を込めてもダメ。受け手を感動させるのは技術である」といふ話を書いた。
だから人を感動させるものはそんなに多くないし、万人を感動させるものはもつと少ないのだらう。
あんまり多くても困るしね。
ところでこれまた先日、「情熱とは燃やすものではなくて燠のやうに一見くすぶつて見えるやうなものなのではあるまいか」といふ話を書いた。
赤々と燃える炎よりも、しづかにくすぶる燠のやうな火の方が温度も高いし長いこと安定する、といふ話を千野帽子が書いてゐた。
燠のやうな熱意の方がなにかをするのに長続きする。
それは惰性ではないのか。
さう思つてゐたところ、おなじ「日経ビジネスONLINE」に、成毛眞が「惰性的に、今を生きよう」といふ記事を書いてゐるのを読んだ。
この記事で成毛眞は、「スポーツ選手は試合後などのインタヴューで「(1)いつも通りにやつた、(2)次も同様に取り組む」としか言わない」と書いてゐる。
惰性的に続けられるのは、評価されるべき能力だ。とまで書いてゐる。
ま、成毛眞は「昨日と同じことを、ただし少しずつインプルーブしながら繰り返すこと」と言つてゐて、「その少しづつ improve するのが大変なんぢやんよ」と思はないでもないのだが。
職場の上司はなぜか「モチベーション」とやらを重要視する。
面談などあると、「モチベーションを持つて働いてゐるかどうか」を訊かれる。
あんまし、モチベーションとかないんだよね。
むしろ、モチベーションがなくても、またはモチベーションが下がつた状態でも働き続けることの方が重要だ。
だつてモチベーションつて上がり下がりするものぢやん。
そんなものに頼つてたら仕事できないだらう。
といふやうなことをやんはり伝へると、「いや、モチベーションは大事なんだ」と上司は力説するのだが、かういふ上司に限つて部下のモチベーションを下げるのがうまいのはどういふことなのか。
もとい。
モチベーションとかやる気とか、さういふ気分に左右されるやうぢやダメなのだ。
モチベーションがなくとも、やる気が下がる一方でも、いつも通りに働く。それがプロだらうよ。
さう、気分に左右されてはいけないのだ。
さう思つて「The Twirly をつなぐプロジェクト」を見てみると、これがまあ、みごとに気分に左右されまくつたモチーフばかりで涙が出るよね。
その日によつても違ふし、もつと云ふと、リングによつて、チェインによつて、甚だしくはピコによつて大きさがまつたく異なる。
ダメぢやん。
糸の引き加減にもその日の気分は出る。
むづかしいよねー。
といふわけで、やつがれは日々「惰性的に」タティングレースをつづけてはゐるけれど、「少しづつ improve」はしてゐない。
むしろ、「少しづつ deteriorate」なんぢやないかと思ふ。
ダメぢやん。
やつぱり技術がないんだな。
結び目を整える技術。
糸の引き加減の技術。
ピコのサイズをそろへる技術。
さうした技術が欠落してゐる。
もともと不器用ときてゐるしね。
ま、他人様を感動させやうと作つてゐるわけでもないし、これはこれでいいのかな。
といふ、意識の低さがまたいけないんだらうけど。
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