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Wednesday, 30 September 2015

芝居の見方がをかしーよ

昨日、「五右衛門vs轟天」の覚書を書き終はつてしまつた。
今日からなにを書いて生きていけばいいのだらうと途方にくれてゐる。

最初に見に行つたのが8月26日の水曜日だつた。
それから三日後の29日の昼の部も見て、結局9月3日の千秋楽も見に行つた。
やつがれにはめづらしいことである。

短期間にこんなにはまつてしまつたんだもの、「ロス」が来るだらう。
さう思つてゐた。
豈はからんや、そんな喪失感はまつたくやつてこなかつた。
覚書を書きはじめたのが四日後の7日月曜日のことだつた。
以降、29日まで、MONOKAKI B6に89ページ分書き綴つた。
1日平均4ページくらゐ。
1ページを9分くらゐかけて書いてゐる。
たまに書き忘れを思ひ出して戻ると15分といつたところか。
全体で15時間をくだらないとみていいのかな。
書き終へたいま、なんだか胸にぽつかりと穴が空いてしまつたやうな気分がする、と。
これは世に云ふ「ロス」ではあるまいか、と。
「ロス」なのだらう。

普段、芝居の感想は幕間に書く。
歌舞伎の幕間は長い。通常、三十分から三十五分が一度、あと十五分から二十分が一度ある。
そのあひだに、見たことをノートに書きつける。
このときのノートはMoleskineのポケットサイズかSmythsonのPanamaが最適だ、といふ話も何度かしてゐる。
で、わりと発散できてしまふのだね。
たとへば今月の「竹の間」については「ゆるみなし」とか書いてある。
「花水橋」については、先日も書いたやうなことを書いてゐる。

ところが、「五右衛門vs轟天」を見てゐたときはこれができなかつた。
幕間が一度しかなくて、しかも用を足してゐるとメモなんぞ書いてゐる時間がないといふのがひとつ。
当時使つてゐたノートが満寿屋のMONOKAKI B6で、ちよつと取り出してメモを書くのに適したノートとはいへないといふのがもうひとつ。
そして荷物minimumの日にはMONOKAKI B6を持ち歩かなかつたといふのもひとつ。

「五右衛門vs轟天」の覚書には、覚えてゐることを片つ端から書きつけた。
三回見に行つたので、その度に変はる中谷さとみの前説に一ページ使つてゐる。
そのあとは、
「幕が開くと、といふか幕はあがつてゐるので、新幹線の発車時ベルが鳴ると、池田成志(多分)の聲でナレーションが入り、ブラックゴーモン(以下、BG)といふ悪の組織の説明が入る。」
などと書いてあつて、ノートの余白には舞台装置の絵があり、「登場する人物にあはせてシルエットが出る。歌の最中は5から6色にわかれたところに女の人のシルエットが点滅」などと記してある。
先頭を切つて出てくるDr.チェンバレンについては、「「かゆいときにはムヒ」といふナレーションにあはせてムヒを取り出して客席に示す。階段を降り切つたところでムヒを下手袖に投げた時に描かれる放物線から見るとそれなりに重さがありさう」とか、どーでもいいことが書いてある。
以降、だれが上手/下手/階段上舞台中央から出てきて、上手/下手/階段上舞台中央にはける、みたやうなことが延々と書いてある。

ときおり感想も入る。
書いていくうちに書き忘れもあるので、戻つて書き足す。

五右衛門vs轟天 覚書

写真は覚書の一部分。
お竜の入手した巻物が白紙であることを看破した五右衛門とその一行が戯衛門のところに行くくだりだ。
と、書いてしまへばかんたんなのに一体なにをこんなに書いてゐるのか。
「どーでもいいこと」、だな。

とにかく「どーでもいいこと」を書き連ねる。
「どーでもいいこと」しか書いてゐない。
正確なセリフなんかは忘れてゆくしね。
書いていくうちにどんどん記憶は劣化していく。
劣化していく記憶と戦ひつつ、「どーでもいいこと」を書く。
「どーでもいいこと」がやつがれにとつては重要だからだ。
下手袖に投げられたムヒの描く放物線からムヒの重さを想像する、さういふことがたまらなくおもしろい。
#大☆新感線博で、ムヒはウレタンのやうな素材の平たいチュープ型のもので「ムピ」て書いてある、といふことは確認した。

今回覚書を書いてゐて意外だつたのは、画像で覚えてゐることが多いといふことだ。
これまで自分はテキストで覚えるタイプだと思つてゐた。
カセットテープから落語に入つたからか。
昔はアニメーションの映画でさへLPレコードで音声部分だけ、といふものがあつたせゐか。
或は単に目が悪いからか。

しかし、上手から出てきて舞台よろしきところでひとこなしあつて下手にはける、といふのは、多分画像で記憶してゐるから書けることだ。
問題は、映像で記憶してゐるわけではないので、いつ上手から下手にうつつたのかが曖昧なことだ。
紙芝居のやうな記憶しか残つてゐないといふことだな。
画像の記憶が脳の容量を使ふ、と、森博嗣は西之園萌絵に云はせてゐる。
映像ならなほさらだらう。
それほどの容量はない、といふことだな、やつがれの脳には。

記憶との戦ひだつたので、後半はとくにアヤシげな記述が増える。
これを確かめる術がないのが悲しい。
WOWOWに加入すれば見られるらしいのだが、残念乍らテレビを見る習慣を失つて久しいので加入することはあるまい。

そして、今日から何を書いて生きていけばいいのか、まだわからないでゐる。

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