My Photo
September 2024
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

« August 2015 | Main | October 2015 »

Wednesday, 30 September 2015

芝居の見方がをかしーよ

昨日、「五右衛門vs轟天」の覚書を書き終はつてしまつた。
今日からなにを書いて生きていけばいいのだらうと途方にくれてゐる。

最初に見に行つたのが8月26日の水曜日だつた。
それから三日後の29日の昼の部も見て、結局9月3日の千秋楽も見に行つた。
やつがれにはめづらしいことである。

短期間にこんなにはまつてしまつたんだもの、「ロス」が来るだらう。
さう思つてゐた。
豈はからんや、そんな喪失感はまつたくやつてこなかつた。
覚書を書きはじめたのが四日後の7日月曜日のことだつた。
以降、29日まで、MONOKAKI B6に89ページ分書き綴つた。
1日平均4ページくらゐ。
1ページを9分くらゐかけて書いてゐる。
たまに書き忘れを思ひ出して戻ると15分といつたところか。
全体で15時間をくだらないとみていいのかな。
書き終へたいま、なんだか胸にぽつかりと穴が空いてしまつたやうな気分がする、と。
これは世に云ふ「ロス」ではあるまいか、と。
「ロス」なのだらう。

普段、芝居の感想は幕間に書く。
歌舞伎の幕間は長い。通常、三十分から三十五分が一度、あと十五分から二十分が一度ある。
そのあひだに、見たことをノートに書きつける。
このときのノートはMoleskineのポケットサイズかSmythsonのPanamaが最適だ、といふ話も何度かしてゐる。
で、わりと発散できてしまふのだね。
たとへば今月の「竹の間」については「ゆるみなし」とか書いてある。
「花水橋」については、先日も書いたやうなことを書いてゐる。

ところが、「五右衛門vs轟天」を見てゐたときはこれができなかつた。
幕間が一度しかなくて、しかも用を足してゐるとメモなんぞ書いてゐる時間がないといふのがひとつ。
当時使つてゐたノートが満寿屋のMONOKAKI B6で、ちよつと取り出してメモを書くのに適したノートとはいへないといふのがもうひとつ。
そして荷物minimumの日にはMONOKAKI B6を持ち歩かなかつたといふのもひとつ。

「五右衛門vs轟天」の覚書には、覚えてゐることを片つ端から書きつけた。
三回見に行つたので、その度に変はる中谷さとみの前説に一ページ使つてゐる。
そのあとは、
「幕が開くと、といふか幕はあがつてゐるので、新幹線の発車時ベルが鳴ると、池田成志(多分)の聲でナレーションが入り、ブラックゴーモン(以下、BG)といふ悪の組織の説明が入る。」
などと書いてあつて、ノートの余白には舞台装置の絵があり、「登場する人物にあはせてシルエットが出る。歌の最中は5から6色にわかれたところに女の人のシルエットが点滅」などと記してある。
先頭を切つて出てくるDr.チェンバレンについては、「「かゆいときにはムヒ」といふナレーションにあはせてムヒを取り出して客席に示す。階段を降り切つたところでムヒを下手袖に投げた時に描かれる放物線から見るとそれなりに重さがありさう」とか、どーでもいいことが書いてある。
以降、だれが上手/下手/階段上舞台中央から出てきて、上手/下手/階段上舞台中央にはける、みたやうなことが延々と書いてある。

ときおり感想も入る。
書いていくうちに書き忘れもあるので、戻つて書き足す。

五右衛門vs轟天 覚書

写真は覚書の一部分。
お竜の入手した巻物が白紙であることを看破した五右衛門とその一行が戯衛門のところに行くくだりだ。
と、書いてしまへばかんたんなのに一体なにをこんなに書いてゐるのか。
「どーでもいいこと」、だな。

とにかく「どーでもいいこと」を書き連ねる。
「どーでもいいこと」しか書いてゐない。
正確なセリフなんかは忘れてゆくしね。
書いていくうちにどんどん記憶は劣化していく。
劣化していく記憶と戦ひつつ、「どーでもいいこと」を書く。
「どーでもいいこと」がやつがれにとつては重要だからだ。
下手袖に投げられたムヒの描く放物線からムヒの重さを想像する、さういふことがたまらなくおもしろい。
#大☆新感線博で、ムヒはウレタンのやうな素材の平たいチュープ型のもので「ムピ」て書いてある、といふことは確認した。

今回覚書を書いてゐて意外だつたのは、画像で覚えてゐることが多いといふことだ。
これまで自分はテキストで覚えるタイプだと思つてゐた。
カセットテープから落語に入つたからか。
昔はアニメーションの映画でさへLPレコードで音声部分だけ、といふものがあつたせゐか。
或は単に目が悪いからか。

しかし、上手から出てきて舞台よろしきところでひとこなしあつて下手にはける、といふのは、多分画像で記憶してゐるから書けることだ。
問題は、映像で記憶してゐるわけではないので、いつ上手から下手にうつつたのかが曖昧なことだ。
紙芝居のやうな記憶しか残つてゐないといふことだな。
画像の記憶が脳の容量を使ふ、と、森博嗣は西之園萌絵に云はせてゐる。
映像ならなほさらだらう。
それほどの容量はない、といふことだな、やつがれの脳には。

記憶との戦ひだつたので、後半はとくにアヤシげな記述が増える。
これを確かめる術がないのが悲しい。
WOWOWに加入すれば見られるらしいのだが、残念乍らテレビを見る習慣を失つて久しいので加入することはあるまい。

そして、今日から何を書いて生きていけばいいのか、まだわからないでゐる。

Tuesday, 29 September 2015

太めの糸も悪くない

かつてタティングレースでマフラーを作つたことがある。
この話も何度か書いてゐる。
京都の顔見世に合はせて毛糸で作つた。
しかし、京都の冬はタティングレースのマフラーでは寒すぎるし、室内はマフラーをするほどでもない。
顔見世に用途を絞るのなら、毛糸ではなくて普通に綿のレース糸にすればよかつた。或は絹の糸。

タティングレースなので、マフラーといふよりはスカーフかな。
Puppy New 2Plyで作つた。
毛糸でタティングをするのは案外楽しいものだ。
なにしろ端糸の始末が楽である。
毛糸がもけもけしてゐるので、ちよつとくぐらしただけで毛同士が絡み合ひ、ほどけにくくなるからだ。

毛糸でタティングをする時の問題は糸の引き加減、かな。
毛糸はなにしろのびるからね。
ちやうどいい引き具合といふのが結局このときは最後までつかめなかつたやうに思ふ。

毛糸でタティングをしてゐてなにが楽しかつたかといふと、結び目がふつくらするところだ。
ダブルスティッチの見た目がふつくらするんだよね。
綿のレース糸にはないと思ふ。
綿のレース糸でも太い糸ならちよつとはふつくらした感じになるかなあ。
でも、見るからにやはらかさうで弾力があつて、もしかしたら中に何か入つてゐるのかも、と思はせるのは毛糸の方だと思ふ。

タティングレースをする人は、どうもどんどん細い糸を使ふ傾向にあるやうに思ふ。
最初はエミーグランデや国内の40番手ではじめた人々も、次第にDMCなどの40番や80番、100番を使ふやうになる。
何年か前に越前屋がコロンの160番を復活させてゐたけれど、いまでもあるんだらうか。

気持ちはわかる。
タティングレースは結び目で作るレースなので、太い糸だと結び目がごろんとしてしまつて、いまひとつ dainty といふ感じではなくなつてしまふのだ。
細い糸で作れば、目が不揃ひでも太いレース糸のときほど目立たないし、可憐に仕上がる。

でもなー、エミーグランデくらゐの太さの糸で作つたタティングレースものも好きなんだよなー。
結び目がはつきり出るところがいい。
このダブルスティッチが好きなんだよ。
さう思ふ。

そんなわけで、毛糸でタティングもしてみたいのだが……
可処分時間が圧倒的に足りなくて、な。

Monday, 28 September 2015

増やしたくない

先週は、アクセントカラーのストールをちよこちよこ編んでゐた。

連休中はあちこち遊び歩いてゐたから云ふほど進んではゐない。
しかし日々編むといふことは大切なことだ。
あと50段ほど編むと終はるところまできた。

すでにかなりの長さがあるので、もうやめてもいいとは思ふ。
しかし糸が半端にあまるのもいやなので、指定段数編むつもりだ。

今年はもうできあがらないかもしれないと思つてゐたけれど、編み上げるところまではたどりつけさうだ。

ここのところ涼しくなつたのも進む原因のひとつだ。
ストールなのでとにかく長い。それが膝の上に乗つてゐると、暑いと我慢できなくなる。
しかし、涼しければ話は別だ。
膝の上に乗つてゐるのもさほど気にはならない。
涼しいといつても夏の終はりの涼しさだつたりはするが、糸は麻と綿との混紡だし、レース模様で穴があちこちあいてゐるから、多少はましだ。

編み上がるころには、まだ使へるかなあ。
10月に入つたら麻はちよつともうをかしいだらうか。
それともまだ大丈夫かな。
大丈夫ならモチベーションも刺激されやうといふものなのだけれど。

ところで、昨日叔母たちに会つてきた。
叔母Aは現在自宅リフォーム中とのことで、もう自分では使はないものをくれたりした。
叔母Bは、叔母Aにあげやうと思つて持つてきた旧ソ連みやげの琥珀のネックレスをくれた。叔母Aは皮膚に直接ネックレスのやうなものが触れるのはイヤなのださうである。

叔母Aがくれたものの中には、マフラーやスカーフがあつた。
マフラーはピンクと白のヘリンボーン模様の毛糸のもの、スカーフはピンクで薄地の絹のものだ。
まあ、自分ではまづ買はないものばかりだ。
ピンクといふのもさうだけれども、マフラーやスカーフは「自分で作るもの」「自分で編むもの」だからだ。

だから、実は薄地の絹のスカーフといふのは以前からほしいなと思つてゐたりもしたのだけれど、一度も買つたことがない。
さういやちよつと違ふけれど、エルメスのスカーフでボビンレースの意匠のものがあつたと思ふ。あれはほしかつたなー。お道具もの柄、いいよね。

そんなわけで、ありがたくいただいてきた。

今年はマフラーは編まないぞ、といふ決意をかためたかつたから、といふの話もある。
なぜか毎年最低一本はマフラーが増えてゐる。
ひどいと二本、三本と増える。
マフラーつて、なんとなく編みたくなるものなんだよね。
なんだかあみものつぽいぢやん。

最近は長い帯状のものよりも輪に編んだものの方が好きで、そればかり編んでゐる。
輪になつてると、首に巻いたときに落ちにくいし、結び目ができないのがいい。
しかもメビウス編みが好きときてゐるから、妙にねぢれたやうなマフラーやショールの類が毎年増えていく。

去年は三角ショールをどこまで大きくできるかといふ実験もした。
糸がある限りつづけるつもりでゐたけれど、中途半端なところで終はりさうだつたから7玉くらゐでやめた。
その前の年はやはりメビウス編みのショールで大きなものを編んでゐる。セーターを編むつもりで買つた毛糸が大量に余つてしまつたので、それを使つて編んだ。こちらはほぼ糸を使ひきつた。たまたまうまいことさうなつた。

今年はなにか別のものを編みたい。
別のものを編んで余裕があつたらマフラー、かな。
しかし、冬になつてから着手すると冬中に間に合はない気がするんだけとなあ。
まあ、冬用のマフラーは毛糸で編むだらうから、いま編んでゐる麻綿混紡の糸よりはずつと編みやすからうし、さくさく進むやうな気もしないではないんだけれどね。

だから、これ以上マフラーを増やしても仕方がないんだつてば。

Friday, 25 September 2015

見てきた映画のあらすじ語れば

映画を見たあと、三森ゆりかの「絵本で育てる情報分析力 論理的に考える力を引き出す<2>」にしたがつて、物語の分析をすることがある。

この本では、絵の見方とテキストを読む力の育て方を説明してゐる。
対象はこどもを指導する大人だ。
でも大丈夫。大人でも十分役に立つと思ふ。
この本を読んでから絵の展覧会に行くのが楽しくなつた。
まづどう見ればいいかがわかつたからだ。
ただし、やつがれの行くような展覧会ではそんなにゆつくり絵を見てゐる余裕はないことが多いのが難点だがなー。

テキストを読む力を育てるには、再話や物語の基本構造の分析などが役にたつのらしい。
そんなわけで、映画を見ては気が向いたときに再話をする心であらすじをまとめ、基本構造にあてはめてみたりしてゐる。

物語の基本構造とは、「冒頭」「発端」「最初」「次」「その次」「その次」「クライマックス」「結末」「終はり」だといふ。
「パシフィック・リム」でいふとこんな感じだ。
以下、「パシフィック・リム」のネタバレになるのでご注意。

冒頭は、2014年、太平洋の深い海溝から怪獣が出現し沿岸諸国を襲ふ。人間はイェーガーといふ二人乗りのロボットを作つて怪獣に対応する。

発端は、2020年、イェーガー乗りの主人公は兄と怪獣退治に行くが、兄が怪獣に殺されてしまひ、みづからもイェーガーに乗るのをやめる。

最初は、2025年、主人公は香港で独自路線を歩み始めたイェーガー部隊に呼ばれて、イェーガー乗りのパートナーと出会ふ。

次は、イェーガーの試運転時、パートナーが思ひ出したくない過去を思ひ出してイェーガーは暴走し、主人公とパートナーとはイェーガーに乗れなくなる。

その次は、それまで一頭でしか現れなかつた怪獣が二頭同時に現れ、四体あるうち二体のイェーガーがやられてしまふ。主人公とパートナーとは緊急発進し、怪獣を退治する。

その次は、怪獣が三頭同時に現れ、主人公と司令官とがイェーガーで怪獣の現れる海溝に核弾頭を沈めに行く。

クライマックスは、司令官の乗つたイェーガーが犠牲になり、主人公は気を失つたパートナーを先に逃がして海溝に潜り、イェーガーともども怪獣を爆破させる。

結末は、海溝にあつた怪獣の出入り口は閉ぢ、主人公は助かる。

終はりは、怪獣はもうやつて来ない(とりあへず、続篇ができるまでは)。

こんな感じだらうか。

なぜ「パシフィック・リム」を持ち出したのかといふと、いままでやつてみた中でこの映画の内容が一番きれいにまとまつたからだ。
登場人物の名前を出さなくてもあらすじを語れるのがいいんだと思ふ。
登場人物の名前を出すと、どうしても「あ、この人の話も入れないと話がつながらない」といふ事態になりがちな気がする。
「野崎村」は登場人物の名前を出してもうまくまとまつたので、よくできた芝居なのだらう。

あとは上川隆也主演の「真田十勇士」も自分的にはうまくまとめられた。さきほど見返してみて、「そんな内容だつたつけかー」と思つたけど。
え、勘九郎主演の「真田十勇士」? それは聞かない約束よ。

あらすじを書き出して物語の基本構造にあてはめてみたものを見直すと、「これつてこんな話だつたつけか」と思ふことがある。
自分の記憶にあるのはそんなところぢやないんだけどな、みたやうな、さ。

上川隆也主演の「真田十勇士」の記録を見ると、登場人物は幸村と家康、佐助と花しか出てこない。
それだけだと自分の中で抵抗があつたやうで、むりやり半蔵と才蔵・小介・甚八の名前を出してゐるが、いま見直すとそのくだりは基本構造には必要ない。

むりやり書いたことから明らかなやうに、基本構造に出てこないところばかりやつがれは記憶してゐる。
基本構造には出てこないところにしか興味がないといつてもいいくらゐだ。
先日「キングスマン」を見てきてあらすじを基本構造にあてはめてみたけれど、「そーゆーことが書きたいんぢやないんだけどなー」と思ひながらの作業になつてちよつとつらかつた。

ゆゑに、見てきた映画なり芝居なり或は読んだ本のあらすじをかうして基本構造にあてはめてみるのは、やつがれにとつては有意義なことなのだと思ふ。
「自分が見てゐるものは本質ではない」と思ひ知るきつかけになるからな。

Thursday, 24 September 2015

初ゲキ×シネ後の「花水橋」

9月18日(金)、シネクイントで初ゲキ×シネを見に行つてきた。
もとの舞台は「五右衛門ロックIII ZIPANG PUNK (以下、「ZIPANG PUNK」)だ。
シアターオーブで一度だけ見た。
ほんたうは「鋼鉄番長」も見たかつたけれど、買ひそびれてしまつた。

シネマ歌舞伎も見たことがない。
映画館に行くといふ習慣がないせゐだらうか。
舞台で見ればいいぢやない、と思ふからか。
或は以前初春興行を中継しに来たカメラマンが舞台のことをさほど知らないやうすだつたせゐで不信感があるのか。
いや、さすがに映画館でかけるのだから、そんなもののわからない人がカメラを操作することはあるまい。

単にめんどくさいといふだけかな。

そんなわけで、舞台を映像化したものを映画館で見るのははじめてだつた。
TVではしばしば見てゐる。
記録として貴重かとは思ふ。
「いまそこを写してほしいわけぢやないんだよね」といふこともあるけれど、概ね文句はない。

「ZIPANG PUNK」を見に行つた翌々日、歌舞伎座に秀山祭の夜の部を見に行つた。
夜の部は「伽羅先代萩」の通しだ。
「花水橋」を見て、自分の好きなやうに見られることに喜びを覚えた。
なにしろ、見たいところが見られるのである。
「花水橋」といふのは、遊び呆けた殿様である足利頼兼が往来でお家のつとりをたくらむ悪人の手下に命を狙はれる場面である。
月明かりもない夜とて、頼兼も悪人の手下たちも手探り状態だ。
舞台一面に手下たちが散らばり、時折ほぼ舞台中央にゐる頼兼に切りかかる。
おそらく、映像にしてしまつたら、このときカメラが追ふのは頼兼で、そこに写るのは頼兼と頼兼に襲ひかからうとしてゐる人ばかりだ。
その他の舞台上をうろうろと頼兼を探してゐる人々はゐないことになつてしまふ。
カメラに写つてゐないからだ。

このあと花道から絹川谷蔵といふ相撲取りが出てくる。
絹川は頼兼に忠誠を尽くす。
ゆゑにここからは絹川と悪人の手下たちとの立ち回りになる。
舞台中央で絹川は悪人の手下たちをばつたばつたと投げ倒す。
頼兼はといふと、上手後方の「花水橋」と書かれた欄干の傍らにただ立ち尽くしてゐるだけだ。
ここも、たぶんカメラは絹川を写すのだらう。
そして佇んでゐるだけの頼兼はフレームからはづれてしまふ。

それつて、楽しくなくない?

とにかく、この日やつがれは「見たいところが見られる幸せ」といふものがあることを思ひ知つたのだつた。

ゲキ×シネがダメだ、といふわけではない。
見てゐて楽しかつたしね。
「こんな場面あつたつけか」のオンパレードだつたけれど、それもまた記憶を新たにするといふ意味でおもしろかつた。

目が悪いのでシアターオーブのときはよくわからなかつたのだが、猫の目お銀を演じる蒼井優がとにかく可愛い。
うわー、可愛い。
こんなに可愛かつたんだー。
と、見てゐて思はずにこにこしてしまふ。
これはゲキ×シネで得た収穫だ。

可愛いといふと、シャルルを演じる浦井健治の頬がふつくらしてゐるといふのも舞台を見てゐるときは気がつかなかつたなあ。
太つてゐるわけぢやないし、素顔もそんなに頬が目立つといふことはないと思ふのだが、シャルルはなぜか頬がふつくらとして見えて、妙に可愛かつた。

一方、春来尼を演じる高橋由美子は、存在自体が可愛いのでシアターオーブで見たときも可愛かつたし、映画館で見ても可愛かつた。
佇まひつて大事。とくに舞台では。
これもゲキ×シネで得た収穫のひとつだ。

しかし、ゲキ×シネで不自由を感じないわけでもなかつた。
「ZIPANG PUNK」で一番記憶に残つてゐる場面が、なんだかひどくあつさりして見えた。
麿赤兒演じる秀吉、古田新太演じる五右衛門、橋本じゆん演じる慶次郎、粟根まこと演じる三成の四人が対峙する場面がそれである。
劇場で見たときは、この場面の緊迫したやうすに「うわー、濃いー」と思ひ、「この場面だけでおなか一杯だー」と思つた。
とくにアクションとかあるわけぢやないのにね。

これが、ゲキ×シネで見ると、あのときの緊迫感に欠ける。
なんだかさらさらと進んでしまふ。
「五右衛門ロック」といひながら、この芝居の主役は三浦春馬演じる明智心九郎と蒼井優演じる猫の目お銀だ。
「五右衛門ロック」における五右衛門は、「義経千本桜」における義経のやうなものだとやつがれは思つてゐる。
五右衛門は、義経よりはずつと見せ場もあるし目立つてゐるけれどもさ。

主役のゐない場面だから、あつさり済ませたのかなあ。
そんな気もする。

この四人の場面は、おそらくカメラを切り替へてはいけなかつたのだ。
四人全員が舞台装置も含めてずつと視界に入つてゐる状態で見るのが正しい。
長回しが正解だつた。
たぶん、さういふことなのだと思ふ。

これもまた、ゲキ×シネで得た収穫なのかな。なのだらう。

そもそも動物の目が動くものを追ひかけるんだらうな。
だとしたら、映画を撮るカメラが動くものを追ひかけるのは当然のことだ。
しかし、舞台全体が動いてゐるときに、一部分だけ止まつてゐる、そんなところがあつたら逆に目立つだらう。
「花水橋」の絹川の立ち回りのときの頼兼のやうに。
或は「ZIPANG PUNK」で大詰め開始直後、舞台前面でわーつとチャンバラの始まる中、やや下手寄り後方でつまんなそーなやうすで座つてゐる三成のやうに。
でも頼兼にしても三成にしても、カメラの枠からはづれてしまふ。
まあ、仕方がないといへば仕方がない。

ゲキ×シネつて、主役よりも脇役に注意が行つてしまふ人間には向かないんだな。
これは、ゲキ×シネを見に行く前からうすうす感じてゐたことではある。
主役や話の本筋だけ追ひかけてゐれば文句のない人にはとても向いてゐると思ふし、世の中の大半はさうなのだらう。

とはいへ、くどいやうだけれども、楽しかつたけどね、「ZIPANG PUNK」見て。

舞台を見たときは初見だからわからなかつたけれど、五右衛門が変装してゐるといふ前提の人物の、「バレちやあ仕方がねえな」の見顕しの部分が、今回はわかつてゐるから余裕をもつて見ることができたし。
粟根三成の五右衛門、右近アビラの五右衛門、麿秀吉の五右衛門、あらためて見るとそれぞれおもしろいんだわ、これが。
さうわかつて見ると、本来自分の演じてゐるときと微妙に違ふ部分もあつたりなかつたするしね。

それはゲキ×シネでなくても、舞台を二度見に行けばわかるんぢやない、といふ話もあるかもしれない。
さうなんだけれどもさ。
しかし舞台のチケットはなかなか手に入りにくいこともあるし、また少々お高いといふ話もある。

そこでゲキ×シネですよ、奥さん。

といふわけで、舞台のDVDなんかも一枚も持つてゐなかつたりするのだが、今後買つてしまふやうな気がしてならない。

Wednesday, 23 September 2015

働くことはからだに悪い

連休も終はらうとしてゐる。
休みのあひだはずつと体調がよかつた。
毎日はかつてゐるものの数値の安定してゐることといつたら。

ひとつには、いつもより睡眠を取つてゐる。
また、いつもより適切に食事を摂つてゐる。
そして、いつもより歩いてゐる。
ここでいふ「いつも」とは、平日をさす。

平日は、とにかく仕事ですべてが縛られてゐる。
起きる時間、出かける時間、帰つてくる時間が縛られてしまふと、食事の時間や睡眠時間もおのづと制限されてしまふ。
おなかがすいたなあと思ふときに食べられぬ結果食べ過ぎてしまつたり、とくにおなかがすいてゐないときに時間ができたりするのであまり食べずにゐるとその後思はぬ時間におなかがすいたりする。
歩いたり動いたりする時間も自由には取れない。

さういふときこそライフハックだよ、といふ向きもあるだらう。
しかし、一日が24時間ときまつてゐて、職場で過ごす時間と通勤時間、それに朝や夜の準備する時間などを考へると、そんなに時間はあまつてゐないのだ。
すなはち、可処分時間がない。

一方、連休のあひだはどうかといふと、なんかもう可処分時間だらけだ。
本来するべき家事をすべてはふり捨ててゐるからだ。
やるべきことをやらずに遊び呆ける。
またはひたすら眠る。
普段できないことをあれこれする。

この連休は、連休前の金曜日に午後半休を取つて、「五右衛門ロックIII ZIPANG PUNK」を見に行つたのを皮切りに、土曜日には渋谷区主催の川本喜八郎人形ギャラリー関連講座である「人形と声と遣い手と」といふイヴェント、日曜日には大☆新感線博と歌舞伎座で秀山祭夜の部の「伽羅先代萩」、月曜日こそこれといつてなにもしなかつたものの、火曜日には上野の森美術館で大河原邦男展、そして今日は「キングスマン」を見に行つて、その足でパルコ・ミュージアムで開催されてゐた大☆新感線博の最終日に行つてきた。
もりだくさんだ。

出かけることが多かつたので、飲酒もしてないしね。遠出しなかつた月曜日にちよつと飲んだくらゐ。

健康的だなあ。

思ふに、働くといふことは躰によくないのだらう。
大河原邦男展で「最低野郎」などのお酒を販売していた白糸酒造の方が云つてゐた。
昔、母親が営業で毎日のやうに飲んでゐて、よく胃潰瘍を患つて台所で血を吐いてゐた、と。
働くつてさういふことなんだな、と。

さう考へると、長期の休みといふのはやはり必要なんだらうと思ふ。
さう我と我が身に云ひ訳してゐる。

Tuesday, 22 September 2015

半端なレース糸をどうしやう

半端なレース糸がたくさんあつて困る。

どうも「これ、どんな色だらう」といふので買つたLisbethの糸がたくさんあるんだな。
一玉買ふんだけど、なかなか使ひきれない。
使ひ切らうにも中途半端でどうにもならない、とかね。

みんな、さういふレース糸はどうしてゐるんだらう。
タティングレースの本にはシャトルに残つてしまつた半端な糸を使つた作品なんかが載つてゐたりする。でもその作品を作りたいか、と云はれると、返答に窮するな。

さう、シャトルに残つた糸も悩みどころなんだよねえ。

毛糸は、案外使ひきつたりするものだし、どうにも半端な糸でもモチーフの一部に使つたりすることがある。
たとへばこの帽子はくつ下を編んであまつた毛糸に茶色の毛糸を合はせて作つた。くつ下毛糸はほぼ使ひきつた。

Four Block Cap

かういふの、レース糸だとうまくできないんだよねえ。
工夫が足りないせゐなんだけどもさ。

レース糸でもグラニースクエアのやうなのを作ればいいのかな。
或は写真の帽子のやうになにかしら新たなレース糸を買つてそれにあはせればいいのか。

あまり毛糸にはなにかしら新たな毛糸をあはせて編むべし、といふのは、群ようこの「毛糸に恋した」に出てゐた。
群ようこの知り合ひのニッターがさうしてゐる、といふのだ。
レース糸もさうなのか知らん。

レース糸の中には、大物を作らうとして何個か買つてある糸もある。
The Twirly をつなぐプロジェクトも、最初から大きいものを作らうといふので蔓日日草色のLisbeth #40を4個くらゐ買つた。
問題は、さういふ糸がほかにも何セットかある、といふことだ。
蔓日日草色の糸は、最初からThe Twirlyをつなぐプロジェクトにするつもりだつたから着手できたけれど、ほかの糸は「こんな色で大きなものを作りたい」といふので買つたものだ。
それでいつまでたつても手つかずになつてゐるんだな。

無計画に毛糸やレース糸を買つてはいけない。
わかつちやゐるけどやめられない。

Monday, 21 September 2015

停滞中

結局、アクセントカラーのストールを編みつづけてゐる。
それほど進んでゐないし、今年中に編み終はるかどうかもアヤシい。
あと八十段くらゐあるんだよね。編めるだらうかー。
編んでゐればそのうち終はるとは思つてゐるけれど。

秋冬は、今年こそは茶羽織を編まうと、ここにも何度か書いてゐる。
問題は毛糸だね。
買ふやうかな。
手持の毛糸で編むことも考へてゐるのだが、どうもかう、「これ」といふものがなくてね。
しかし買ふのも抵抗があつて、だな。
これだけ在庫抱へてゐるのに買つてもよいものか、と。
これはいつもの悩みだね。

もうひとつの悩みは、袖をつけるか否かだ。
先日文楽に行つたら、大変よい佇まひの老紳士が袖なしの茶羽織を羽織つてゐたんだよね。
袖がないとカジュアルになりがちだけれども、その人はそんな風ではなかつた。
黒くてよさげな生地だつたからかなあ。

以前「毛糸だま」で見かけた茶羽織には袖があつた。
それで袖も編むつもりでゐたけれど、別に袖なくてもいいんぢやない。
そんな気もしてゐる。

しかし、袖のない茶羽織とヴェストとの違ひつてなんだよ、とも思ふ。
なんかもういつそヴェストでもいいんぢやない?
そんな気もする。
「かう編め」といふ指定がないから、思ひ悩んでしまふんだよねえ。

いつそ、ドミノ編みの本に載つてゐるポンチョのやうなのを編むかなあ。短い版だつたら茶羽織に近いんぢやあるまいか。

考へてゐるうちにどんどん茶羽織から遠ざかつていく。

ひとまづは、アクセントカラーのストールを編めるだけ編まう。
そのうち茶羽織に関してもいいアイディアが浮かぶかもしれないし。

Friday, 18 September 2015

ノートのサイズに悩む

今週からSmythsonのPanamaを使つてゐる。

Stationary

前回使つてゐた満寿屋のMONOKAKI B6サイズは、「五右衛門vs轟天」の感想メモといふかただのメモの途中で終はつてしまつた。
27ページあるから余裕で書き終はるよな、と思つてゐたのにな。
甘かつたなー。
「五右衛門vs轟天」のメモは、引き続き新たなMONOKAKI B6サイズに書き続けてゐる。
今日やつと第一幕分を書き終へた。
前のノートに書いた分とあはせると50ページを超えるけど、第二部の方が時間的には短いし、記憶もどんどん劣化してゐるので、100ページになることはないだらう。

そんなわけで、PanamaとMONOKAKIとを並行して使つてゐる。
やつがれにはめづらしいことだ。
大抵現在進行中で使ふノートは一冊だからだ。

主に使つてゐるのはPanamaなんだけれども、なんだか小さい気がして仕方がない。
そりやB6サイズと比べたらほぼ預金通帳サイズのPanamaは小さいよな。
当然、1ページに書ける量も少ない気がする。
1ページに書ける量はそんなに変はらない気がしてゐたんだけどなー。
MONOKAKIを使ひはじめたときに文字数と行数を数へてさう思つたんだけど、その後文字の大きさが変はつてゐるのかもしれない。

MONOKAKI B6サイズを使ひはじめたとき、この大きさはいいな、と思つた。
それまでは主に預金通帳サイズか文庫サイズのノートを使つてゐた。
それで不自由なかつたし、狭い机の上で使ふことを考へると最適な大きさだと思つてゐた。
幕間に取り出してちよつと書き込むのにも向いてゐる。
でも、心のどこかでもつと広い空間に書き込みたいよなあ、と思つてゐたのだらう。
B6サイズにはこれまで欠けてゐたものを埋めるものがあつた。
それで最初のうちはとても気に入つてゐて、予備も買つてあるし、このままB6サイズを使ひつづけるか、とまで思つてゐた。

ところが、かばんを変へるとか荷物ミニマムで行きたいといふときに、B6サイズはかさばることが判明した。
それで持ち歩かない日もあつた。
さうなると、書きたいときに書くことができない。
たまたまお茶を飲みに入る余裕があつたときに、ノートを開いて書き込むといつたことができないのだ。
それで「五右衛門vs轟天」のメモを書きはじめるのも遅れてしまつた、といふ面もある。
書きはじめるのが遅れた一番の理由は「書きはじめたが最後なかなか終はらないだらうから」だとは思ふけれどもね。

そんなわけで、結局Panamaに戻つてきてしまつた。
Panamaにしたのは、MONOKAKIの前に使つてゐたのがMoleskineのポケットサイズだからだ。

で、実際に書き込んでみると「なんだか小さい」と思つてしまふ、と。
当たり前だがな。

まだ「五右衛門vs轟天」の覚え書きをつづけるので、しばらくはMONOKAKIと併用する。
その結果、「やつぱりB6サイズがいいな」になるのか、それとももとの預金通帳サイズに戻るのか。
ちよつと様子見だな。

Thursday, 17 September 2015

勝ち負けは関係ないけど萬年筆

勝負萬年筆は、デルタのドルチェヴィータである。

Stationary

いや、ほかにも何本かあるんだけどもさ。
たぶん、自分の中で一番これ、と思つてゐるのは中屋万年筆の新溜透かし・青(たぶん)の昇龍だ。
でもこれは普段持ち歩かない。
自宅用のペンである。

あとモンブランの146も勝負萬年筆で、長いこと手帳の自署欄は必ずこれと決めてゐる。
これも普段は自宅用にしてゐる。

それからグラーフ・フォン・ファーバーカステルのペルナンブコ。これは最近専用のペンシースが劣化してきて持ち歩くのが怖いのでやはり自宅用になつてゐる。

持ち歩いてゐるペンの中ではドルチェヴィータが勝負萬年筆。
さういふことになる。

そもそも「勝負」つてなんだよ、といふ話になるが、さうね、たとへば客先でなにか書かないといけない時とかね、さういふ場面で使ふペンつてことかな。

ドルチェヴィータは書斎館で求めた、といふ話は何度か書いてゐる。
このときのほかの候補がモンテグラッパのミクラかビスコンティのヴァン・ゴッホだつた。
店頭でその旨を伝へると、「イタリアのペンはおすすめしないんですけどねえ」的なことを云ひつつも、店員さんがペンを用意してくれた。
試し書きさせてもらつて、いづれもいい感触だつた。
なぜイタリアのペンはすすめないなどと云はれるのかわからないくらゐよかつた。
中で、一番書きやすかつたのがドルチェヴィータだつた。

当時は値上がりする前だつた。
いまだつたら買へないなあ。

ドルチェヴィータのうつくしさを称へた文章はすでに数多存在するので、ここではあれこれ云ふまい。
ただ、黒とオレンジに銀色を合はせたところがすばらしい、とだけ書いておく。
金だとかうはならないよ。

インキはデルタ純正のブルーを入れてゐる。
デルタのブルーもいろいろ感想があるけれど、明るさを感じる青だと思ふ。
アウロラのブルーも好きな色で、こちらはもうちよつと深い青のやうに感じる。
黒いキャップにオレンジの軸、銀色のペン先から流れ出てくる色としては、純正で正解のやうに思ふ。
海の色、かなあ、この青は。
コンヴァータ内部で熟成すると深みの出るのもまたおもしろからずや。

ペン先も、ちよつとスタブといはうか、縦の線と横の線との太さが微妙に異なる感じのするところもいい。
細字なのではつきりわかるほどではないけどね。
この書き味は丸研ぎぢやない気がする。
手持ちのペンの中でかういふ書き味はこれがはじめてだつた。

「勝負萬年筆」といひながら、普段から遣つてゐる。
ペンは遣つてナンボでせう。
遣はないとインキもかたまるしね。
いまは三本差しのペンシースにスーヴェレーン800と大橋堂のペンと一緒に入れて、あはせて「旧枢軸国」と呼んでゐる。
日独はたまに入れ替はるけど、伊はほぼドルチェヴィータできまりだ。

やつがれにとつてのドルチェヴィータはそんなペンである。

Wednesday, 16 September 2015

大☆新感線博 ざつと偵察篇

「五右衛門vs轟天」の千秋楽から一週間ちよい、渋谷パルコ・ミュージアムで「大☆新感線博」がはじまつた。
「五右衛門vs轟天」ハイから抜け出せぬまま、9/12(土)に行つてきた。
この日はあまり時間がなかつたので、偵察ていどの軽い気持ちで行つた。
展示物が多くて細かいといふ話を聞いてゐたからだ。

とにかくですね、まづこれだけは云はせてください。

「秋味R」のおリカがリカちやんぢやない!

ジェニーぢやん! ジェニーぢゃん!

このときの衝撃を、なんと表現したらよからうなあ。
心の中では楳図かずおの描く少女のやうに叫んでゐた。
よくぞ心の声をおもてに出さなかつた、と自分で自分を褒めてあげたい。
それくらゐの衝撃であつた。
衝撃のあまり、初代ジェニーと勘違ひするくらゐ動揺した。
冷静になつてみれば、初代ジェニーの可愛さはあんなものぢやないのだ。
なにしろモデルがアグネス・ラムだからな。

「五右衛門vs轟天」のおリカはリカちやんだつたけどね。
でもマー・ピンピンさんがなにものかはわからなかつた。
といふか、確認するだけの冷静さが失はれてゐた。
やれやれ。
また行きますよ、マーさんを確認しに、ね。

これまた冷静になつて考へてみると、おそらく「秋味R」のころつて、ジェニーの方がリカちやんよりも手に入りやすかつたんぢやないかな。
一時、おもちや屋の店頭ではジェニーものの方がリカちやんものより多い時期があつた。
それと「秋味R」の上演時期がかさなつてゐるものと思はれる。

あと単純に考へると、ジェニーの方がリカちやんよりも舞台映えはするのかもしれない。
ジェニーの方が五cmばかり背が高いからね。

と、いまは冷静に書いてゐるが、再見したら梅図かずおの描く少女のごとく叫んでしまふだらう。
もちろん、心の中で、な。

しつこくおリカの話をつづけると、「秋味R」のおリカ(といふ名のジェニー)は和装である。
「五右衛門vs轟天」のおリカは洋装。
これも、一時ジェニーはお着物を着た状態で売られることがあつたんだよね。とくにお正月とかが近づくと。
ジェニーと「ジェニーフレンド」と呼ばれる何人か(マリーンとかフローラとか)が着物姿でおもちや屋の店頭に並んでゐた。

最近はそもそもおもちや屋を見かけなくなつた。
最寄り駅の商店街にあつたおもちや屋もつぶれてしまつた。
以前は、すくなくとも「秋味R」当時はダイエーとか西友とかスーパーマーケットにいけば、おもちや売場があつた。
あのころ町田駅を経由して通勤してゐて、町田の東急百貨店でお迎へした子がゐたもの。小田急より東急の方がいい子を揃へてゐたんだよね。
いまは百貨店には辛うじておもちや売場が残つてゐるやうにも思うが、あつてもおさみしい状況だつたりする。
そしてたいていジェニーはゐない。
ゐるとしたらリカちやんだ。
さういふ事情が「秋味R」と「五右衛門vs轟天」とのおリカにも影響してゐるんだらう。

「五右衛門vs轟天」のおリカが洋装なのは、お竜といふか松雪泰子といふかのコスプレのためもあると思つてゐるけれどね。

気を取りなほして、ざつと見てきた印象をば。

入り口を入ると、壁一面に旗揚げ当時からのチラシや写真、資料が貼られてゐる。
時系列に並んでゐて、現在の団員がいつ入団したかわかるやうになつてゐる。入団年にその役者のコメントが貼られてゐるからね。あと入団当時の若い頃の写真も貼られてゐたりもする。
またごくごく小さいモニタが二カ所くらゐ設置されてゐて、昔の貴重な映像が流されてゐる。でもよく見ることはできなかつた。このあたり狭くて混んでゐて見るものがたくさんあつて、立ち止まつて映像を見てゐる余裕がないのだ。
往時を知る人にはなつかしさいつぱい、知らなくても楽しさいつぱいだ。
ここだけで下手したら一日ですよ、奥さん。

見ていくと、いきなり舞台衣装が飾られてゐたりする。
最初に気がついたのは「髑髏城の七人」の極楽太夫の衣装だつた。確か1990年のもの、と書いてあつたやうに思ふ。
和調ではないもののどこか和調な大柄の花を描いた衣装で、バラの花弁のところどころに赤いブレードでふちどりしてあるのが印象的だつた。
ブレードも一種類ぢやなくて、ぱつと見たところ二種類は使つてある。
花弁全部ではなくてところどころ、といふのもセンスなんだらうなあ。

このあとも衣装はところどころにあつて、「薔薇とサムライ」のアンヌの海賊衣装なんかもかざられてゐるんだけれども、これが思つたよりも小さい。
ゆりちやん、こんなに小さいか?
さう思ふくらゐ小さい。
去年「中村吉右衛門展」に行つたときに展示されてゐた「熊谷陣屋」の熊谷の衣装もえらく小さく見えたから、マネキンに着せるとさうなつてしまふのかもしれない。
ちなみに、唯一思つてゐたより大きいと思つたのは「レッツゴー!忍法帖」の猿飛のサダの衣装である。
すまぬ。

年表的資料の展示部分が終はると、小道具がたくさん展示されたエリアになる。
これがまたもー細かいやらたくさんあるやらあちこちに展示されてゐるやらで見切れない。
天井からつり下がつてゐるかと思へば床におかれてゐたりもするし、「どうすりやいいのさこのアタシ」と途方にくれてしまふこと請け合ひである。
剣とか刀とかがまづ目に入つたなあ、やつがれは。
「アテルイ」のときのアテルイが使つてゐた剣のそばに「蒼の乱」のアラハバキがあつたりするのがなんとなくニクい。
重さを知るために持つてみたいと思ふけれど、それはもちろんダメ。
「LOST SEVEN」の鉄のアイゼン(鉄の鉄……ま、いいか)の剣なんかもありましたよ。
「LOST SEVEN」はチラシを見たときもちよつと胸熱でしたよ。

小道具の中に「秋味R」のおリカを見つけて心の中で絶叫した、といふ話はすでに書いたとほり。
お料理もののコーナーとかもあつたな。
ちよつともう思ひ出せないけれど、書ききれないくらゐの小道具が展示されてゐる上に、高橋岳蔵といふかインディ高橋といふかによる手書きメモが各所に貼られてゐたりして、気が抜けない。
ここも下手すると一日かけられるな。もつとかかるかも。

その先に「この先逆流禁止」の注意書きがあつて、ちよつと細い廊下のやうになつた部分の両脇の壁にお面がかざられてゐる。
うわー、「七芒星」だよー、と思ひながら進むと、「五右衛門vs轟天」当時の楽屋をちよいと再現したエリアにたどりつく。
着到板もここにある。

棚には舞台に持つて出る小道具が役別にトレーに載せられてゐたりする。
かうして見るとマローネさまの扇つて案外小さいのね。アンドリューの銃とかも。
舞台で使ふものだから、もつと大きいものだと思つてゐたよ。
Dr.チェンバレンの計算尺も思つてゐたより細かつた。
といふか、この計算尺、スライドしないぢやんよ。それどころか、カーソルもないよ。
計算できないぢやん!
計算尺ぢやないぢやん!
と思つたけれど、もしかしたらDr.チェンバレンならこれでも計算できるかもしれないので(どーやつてだ)、それでよしとしたい。

刀とか剣とかはちよつと深めの箱につめこまれてゐて、使用する人の名前の書かれた札がついてゐたりする。
かうやつて判別するやうにしてゐるのねえ。

化粧前は二人分。
ひとつは中谷さとみ、といふことは記憶にあるのだが、もう一方は保坂エマだつたかなー。ここはまた確認しにいかう。しにいつたら変はつてるかもしれないけれど。
実際に楽屋で使つてゐただらうものがあれこれ展示されてゐて、「かういふものを使つてゐるのかー」と大変興味深い。
そのうしろには、衣装替へのある役の人の衣装がわりと無造作に並んでゐる。
後半のエスパーダの衣装、思つてたよりずつと派手だつたな。

その先に、「心臓の弱い人はのぞいてはいけない」といふ旨のことはり書きがあつて、舞台で使用した生首とか死体とかが展示されてゐる。「五右衛門vs轟天」エリアにあつてここだけはいろんな芝居で用ゐたものが飾られてゐる。
染五郎とか古田新太とかそつくりそのまま。
いや、怖いの苦手だからじつくり見られなくてそれくらゐしか記憶にないのさね。
すまぬ。

その先に行くと開けたところに出て、「五右衛門vs轟天」の全登場人物の衣装が飾られてゐる、のらしい。
雛壇にマネキンが並んでゐるので、上の真ん中の方の衣装はよく見えないのが残念である。
下手側(といふか)に行くと、ばつてん不知火の衣装とかばつちり見ることができるけどね。
このそばには解体されたヤッターゴエもあつて、客席からはよく見えなかつた今週のビックリドッキリメカなんかも間近で見ることができる。

ヤッターゴエの前方で、「五右衛門vs轟天」内にあつた「通りすがり」部分の上映もしてゐる。
やつがれが見たときは鉄腕イワンとアンヌさまだつた。
鉄腕イワンねえ。
轟天と鉄腕イワンとがいずみちやん……ぢやなくて、まあいいか、とリヴァーダンスで戦ふ、とかあつたよねえ。
轟天とイワンとはそのあと倒れ伏しちやふんだが、いずみちやん(ぢやないよ)はそのあともセリフとかあつて、「すごい、すごいよ」と思つたなー。懐かしい……

ぬらくら森の人々の乗り物(履き物? 履かせ物?)とかも間近で見られるし、食ひ倒れ人形といふか道頓堀人形といふかも一周ぐるりしみじみと拝見した。

その向かひに撮影許可ポイントがある。
劇中の人のコスプレをして写真も撮れるのらしい。
ここは賑はつてゐたのでスルーしてしまつた。

あとは物販コーナーがあつて、着到板を模した札に感想を書くコーナーがあつて、おしまひ。
外に出たらちやうどシネイクントでの上映が終はつたところだつたのか、入場するのに待ち列ができてゐた。

とりあへず、あともう一度くらゐは行きたい。
展示品の中にこの秋冬に編みたいものの参考になる衣装があつたのでなー。

Tuesday, 15 September 2015

不器用といふ基本設定

どこにも明記してはゐないが、月曜日はあみものの話、火曜日はタティングレースの話を書くことにしてゐる。

全然違ふ話に流れていつてしまふことがあることは自覚してゐる。

土日に芝居を見に行くことが多いので、週明けは芝居のことなど書きたい。
さう思ふこともある。
現状だといまだに「五右衛門vs轟天」ハイがつづいてゐるので、なにかとこの芝居について書いてしまふ。

でも今日はやつぱりタティングレースの話。
あみものとタティングレースとは「自分の基本設定」だと思つてゐるからだらう。

まあ、そもそもこの「基本設定」といふのが「五右衛門vs轟天」に出てきたセリフからの引用なんだけれどもね。
アビラ・リマーニャといふ人物のセリフである。
アビラは「武器商人」であることが基本設定なのだつた。
やつがれ的にはアビラは「歌ふ人」が基本設定なのだが、「五右衛門vs轟天」ではソロはなかつたなー。残念。
そのせゐか、つひこの間「good old-fashioned」といふことばを耳にした途端、「lover boy」とつづけたくなつてしまつて、毎日「Good Old-Fashioned Lover Boy (邦題は「懐かしのラヴァー・ボーイ」だらうか)」となぜか「Play the Game」をくり返しくり返し聞いてしまふといふループに陥つてゐる。

もとい。

あみものとタティングレースとが基本設定である、といふのは、「不器用である」といふ基本設定の裏返しなんだと思つてゐる。

以前も書いた。
「自分は不器用ですから」といふセリフについて、「不器用であるといふことは、つらいことなんだよ!」と怒つてゐた友人について。
さう、不器用であるといふことは実につらいことである。
世の中の大抵の人は不器用ではないからだ。
針に糸を通すことひとつとつても、不器用な人間には世を嘆くほどつらい。
最近はデスクスレダーといふ超絶すぐれものがあるからいいけれど、でもデスクスレダーではタティングシャトルの穴に糸をとほすことはできないしね。

不器用だと、家事全般がつらい。
料理にしても掃除にしても洗濯、繕ひもの、なにもかも、つらい。
家事は、器用な人用にできてゐるとしか思へない。
料理にしたつて、ねぎひとつ切るのにも器用か不器用かで全然違ふ。
ねぎなんてのは日々切るものだから、手慣れてゐるかどうかなんてそんなに関係ない。
幸ひなことに、家事はあまり他人と比べられるものではない。
でもなー、小学校の家庭科の授業でお米を研いだとき、隣で研いでた子はほんたうにうまかつた。
なぜ自分はあんな風にお米を研げないのだらう。
その後しばし考へて、いまでもときどき「あの子のやうに研げたら」と思ふことがあるけれど、やはりあの同級生のやうにはお米は研げずにゐる。
記憶をうつくしく改竄してゐる面もあるんだらうけれどもね。

不器用だと、家庭科とか図画工作・美術とかいつた授業はつらい。
当然だけれども。
やつがれは、絵を描くのはそんなに嫌ひではないと思ふ。すくなくとも、過去には好きだつた。いまはすつかり描かなくなつてしまつた。
「お前は絵が下手だ」「お前は不器用だ」といふ無言のプレッシャをひしひしと感じるうち、段々描かなくなつてしまつた。
そんな気がする。
無論、プレッシャといふのは思ひ過ごしなのかもしれないけれど、学校で描く絵といふのはほかの子の作品と一緒に掲示されることがあるし、成績がつくし、なにより親はあまり子どもが絵に夢中になつたりするのを喜ばなかつたりする。

つまるところ、不器用かどうかといふのは、絶対的なものではなく、相対的なものであることが多い。
他人とくらべて器用か不器用か、といふことだ。
だつたら他人とくらべなければいいんぢやない。
さうも思ふ。

でもなー、これも以前も書いたやうに、たまに全然やつたことのない手芸に挑戦したりすると、如実にわかるんだよな、不器用さが。
あみものやタティングレースはそれなりに日々やつてゐることなので、さして不自由を感じることはない。
くつ下もさんざん編んだので、メリヤスはぎにも抵抗はないし、引き返し編みも同様だ。一目ゴム編みどめは考へごとをしながらでもできる。二目ゴム編みどめはちよつと無理だけど。
それで、錯覚してしまふんだよね。
もしかしたら、自分はそれほど不器用ではないのではないか、と。

それが、生まれてはじめての手芸に挑戦すると、「不器用」といふ基本設定が前面に出てしまふ。
道具なぞ使はうものなら、その道具をうまく取り扱ふことができない。
それはもう、泣きたくなるくらゐできない。

で、「でも自分にだつてできることはあるもん」といふので、あみものとタティングレースとに返つていく。
そんな感じなんぢやないかなあ。

これもまた以前も書いた。
ケーブルテレビを契約してゐたころ、日曜日の午後はスタートレックを見る時間帯だつた。
オリジナルといふよりは、「ディープ・スペース・ナイン」とか「ヴォイジャー」を放映してゐたやうに思ふ。
大抵二話か三話の連続放送だつた。
タティングレースをしながら見るのがつねだつた。
ガラックの大仰なセリフを聞き、オドーとクワークとの奇妙な関係を追ひ、ザ・ドクターのピノキオ的悩みを悩み、ジェインウェイ艦長にヘップバーンの面影を見つつ、タティングシャトルを動かす、あの至福の時。
「かうしてスタートレック見ながらタティングするのが一番楽しい」と語る相手のゐたあのころ。

たぶん、それがやつがれの基本設定なのだらう。

Monday, 14 September 2015

どうにもいびつで

先週は、リカちやんサイズのベレー帽を編んでゐた。

ベレー

結局、ROWANSPUN 4Plyを出してはこなかつた。
たまたま見つかつたニッケの中細毛糸があつたからだ。
ほとんど黒に近いチャコールグレーで微妙に霜降りな感じの色の毛糸で編んだ。
例によつて「五右衛門vs轟天」ハイがつづいてゐるので、あまり編む時間がとれなかつたりして、完成には至つてゐない。

完成には至つてゐないのは、形がどうにもいびつだからである。
一応円に近くなるやうに増減目の位置はたまにずらしつつ編んでみたんだけどなあ。
たぶん、一番最初に円を編む時点ですでにゆがんでゐるのだ。
編み続けていくと、そのゆがみが次第に顕著になつていく。
そんな感じがする。

うーん、をかしいなあ。
まあ、とりあへず無理矢理形をととのへてかぶせてみれば、かぶれないことはないのだけれどもねえ。
ほどいてやりなほすか、それともこれはこれでとつておいてなにがいけないのか確認しつつ新しく編むか。
悩んでゐる。

モデルをそばにおかずに編んだので、想定よりもちよつと slouchy にできちやつたしな。
当初の予定では、細編みでかつちり編んで、ちよつとこぶりなものにしやうと思つてゐた。
大きくなりすぎてしまつたのは、ゆがみを矯正しやうとしたからといふのもある。
ほどくにしても、ちやんと目の数段の数を数へてからにするか。

この毛糸はなかなかいい色なので、ベレー帽とお揃ひのヴェストも編まうかと思つてゐる。
これはちやんと設計図……ぢやなくて編み図を引かないとダメかな。
形はきまつてゐる。
多少糸を継ぎつつ編む必要がある形なのが難だが、まあいいだらう。
胴のあたりでちよつと増減目を入れたいけれど、サイズ的にむづかしいだらうか。
などと、考へてだけはゐる。

でもやつぱり先に去年からしかかつてゐるストールを仕上げる方が先決だらうか。
このまま来年に持ち越してもいいことはないやうな気がする。
できあがれば十月中くらゐはまだ使へさうだし。

さういひながら、ハイなもんだから気持ちが落ち着かなくて、なかなか編み針を手にする心の余裕がないんだよね。
早くこのハイな状態が抜ければいいのだが……
でもまあ、「五右衛門vs轟天」のおかげで「人形の服を編む」といふ基本設定を思ひ出したので、しばらくはこのままでもいいことにするか。

Friday, 11 September 2015

「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ」

先日、「松王丸についてちよこつと考へたりしてゐる」と書いた。

「寺子屋」は、毎月歌舞伎座に通ふやうになつたきつかけの演目である。
團十郎の松王丸、吉右衛門の源蔵、時蔵の戸浪に宗十郎の千代だつた。
劇評は芳しくなかつた。
顔合はせ的には文句ないのに、といふやうな評が多かつたやうに記憶してゐる。

でも、三階席高いところから見てゐて、なんだかわかつちやつた気がしたんだな。
それまでも何度か歌舞伎を見てはゐて、実はこの前の月にも歌舞伎座に来てはゐた。
歌舞伎は基本的には見取り狂言といつて、いろんなお芝居からいい場面・人気のある場面だけもつてきて上演する。
さうすると、ひとつひとつの芝居は結末のないまま終はるんだな。

いい例が「与話情浮名横櫛(ヨハナサケウキナノヨコクシ)」だ。
この芝居の中でよく上演される「源氏店」の場は、最後、お富を囲つてゐたのが実はお富の兄であることがわかつて、そこで幕が閉じる。
最近ではそのあと与三郎が出てきて「これからふたり一緒だね」的な終はり方をする場合も多い。守田勘弥の考案した演出だと聞いたことがあるが確認してはゐない。

はじめて最後に与三郎の出てくる演出を見たときは「なるほどなあ」と思つたものだが、何度も見てゐるとやつぱりお富が実の兄の存在を知つて戸惑ふところで終はる方がいい気がしてくる。
だつて、この後まだ話は続くんだしさ。

「与話情浮名横櫛」を書いた二世瀬川如皐といふ人は大変長い台本を書く人で、それを押さへるために「台本は何ページまで」といふきまりができたくらゐだ。当時の台本は書き抜きだつたらうからどうやつて分量を数へたのか定かではないけれど、まあ、さういふ決まりができた。瀬川如皐のためだけに。そして如皐は、紙を切り貼りすることでページ数を守りつつ長い作品を書き続けた、といふ。
さういふ人の書く芝居だもの。話の途中で終はらせちやつたりしたら如皐があの世で怒りまくるのぢやあるまいか。

七月に海老蔵の与三郎と玉三郎のお富でやつたときは、与三郎の出てくる演出をつけなかつた。
見識がある。
いづれ、海老蔵も團十郎のやうに「与話情浮名横櫛」の通しをやるかもしれないしね。

これほど甚だしくはないかもしれないが、ほかの芝居も似たりよつたりだ。
たまに意味が通じるものがあつたら新歌舞伎だつたりする。

なーんかわかんないしもやもやするんだよねえ、と思つてゐたわけだが。

さういふことはすべてどうでもいい。
さう思ふくらゐ、「寺子屋」はわかる芝居だつた。
腑に落ちる。
そんな感じだ。

人は、真実自分を理解してくれる人のためにはどんなことでもする、たとへそれが我が子を殺すことであつても。
「士は己を知る者のために死す」と故事にもある。「義経千本桜」の「すし屋」にも出てくる晋の豫譲のことばと伝へられてゐる。
「すし屋」では弥助実ハ平維盛が、晋の豫譲の故事にならつて頼朝からの陣羽織をずたずたにしうやとするのだが、あーた、そんなところに豫譲をもちだしてきたら、豫譲が怒り狂ふよ、といふくらゐ、維盛は甘ちやんだ。
……といふ話ではなかつたか。

松王丸は、おそらく、「ほんたうの俺を理解してくれる人なんてゐない」と思つてゐたのに違ひない。
そして、「いや、ひとりだけゐる。菅丞相が」と思つてもゐたらう。
職場の人間も、親兄弟に至るまで、みな自分のことを誤解してゐる。自分はほんたうにはそんな人間ぢやあない。
丞相さまだけだ、俺のことをわかつてくれてゐるのは。

さういふ話なのか、これは。
と、そのとき思つたんだな。
すつかりわかつた気にもなつた。
なんだよ、昔から人間変はらないんぢやんよ。
さうも思つた。

その後芝居を見てゐると、松王丸は、兄弟の中でもひとりだけ仲間はづれ的な存在であり、おそらく職場ではしつかりと勤めつつも鬱々と心楽しまかつたんぢやあるまいか、と思ふやうになつた。
「寺子屋」で、松王丸が「桜丸が不憫でござる、桜丸が、桜丸が」と先に腹を切つた弟・桜丸について大落としの泣きを見せる場面がある。
ここは、「桜丸が、といひながら息子のことを思つて泣いてゐる」派と「ほんたうに桜丸のことを思つて泣いてゐる」派とある。
やつがれは「ほんたうに桜丸のことを思つて泣いてゐる」派だ。
だつて、状況から考へて、桜丸が死んだ時点では、松王丸はこんな風に泣けなかつたはずだもの。
当時松王丸はまだ藤原時平の舎人といふ立場だ。
そんな松王丸が、桜丸のために泣けるだらうか。しかもあんな大落としで。
家でなら泣ける? さうかなあ。だつて松王丸は家でだつて強面で通してゐたんぢやないの? だつたら妻と子との前でさうさうあんな風には泣けないはずだ。
我が子を菅丞相の子の身代はりにすることをもつて、松王丸はやつと本心に立ち戻ることができた。
その結果の大泣きである。
「桜丸、桜丸」と云つてゐるうちに、ほんたうに桜丸のことが不憫になつて泣けてしまつた。
さういふ感じなんぢやないのかなあ。
まあ、人間、ほんたうはそんなに単純ぢやないと思ふんだけどね。
桜丸のことも息子・小太郎のことも思ひ、その他もろもろのことが去来して泣けた。
その方が自然かもしれない。

松王丸には、本心を明かすまでは心底悪役でゐてほしい。
それが松王丸が自身に課してきた役割だと思ふからだ。
上にも書いたとほり、松王丸は自分のことを兄弟の中ではひとりだけ相容れない存在だし、勤め先も自分が望んで仕官した先ではないと思つてゐる。
さうした鬱屈が、より松王丸の悪役ぶりに磨きをかける。
そんな気がする。

でもここのところさういふ屈折した感じの松王丸を見てゐない気がするんだよなあ。
最近つて、今年に入つてから、かな。

さういふ屈折を求めてしまふのは、現代的なことなのかもしれないけれど。

それにしても、「きみは、ほんたうは、いい子なんだよ」がこれほどの殺し文句だとは世の人はあまり思はないんだらうな。
トットちやんはたまたま素直だつたからよかつたかもしれない。
でも、「誰もわかつてくれねー」などと世を拗ねた人間にはあだやおろそかに云つてはならないことばだ。
さう云はれた人間は、自らのみならず、家族の命さへ差し出してしまふからだ。
「寺子屋」はさういふことを教へてくれる芝居でもある。

あー、でも、云はれなくても「すし屋」になつてしまふことを考へると、云はれても云はれなくてもおなじなのかな。

こどものころから「きみは、いい子なんだよ」と云ひ聞かせて育てる、といふのが一番いいのかもしれない。

Thursday, 10 September 2015

なにを書いてなにを書かぬか

MONOKAKI B6に「五右衛門vs轟天」の感想メモを書き始めた話は昨日書いたとほりだ。

昨日はヤッターゴヱが出てくるところまで書けた。
19ページ目に入つたところである。
なんとなく、ばつてん不知火までは書けさうな気がしてゐるが、マローネさまにはたどりつけない気がしてゐる。
その前のウマシカで力尽きさうな気がしてならないのだ。

それはさておき。

つぶやいたとほり、月曜から水曜の三日間で一生分の「轟」の字を書いた気がする。
いままで生きてきてこんなに「轟」の字を書いたことないよ。
「轟」の字の草書体まで調べちやつたよ。
調べて、あとでわかるやうに書ける自信がなかつたので、そのままだよ。
まあ、なんだかわからないぐちやぐちやした字のあとに「天」と書いてあればわかるやうな気もするけども。

その割に「五右衛門」と書くのはそんなにつらくない。
考へてみたら「右衛門」はよく書くからね。大成駒とか播磨屋さんとかね。
書き慣れてゐるからそんなにつらくないのかもしれない。
「轟」の字も書き慣れればつらくなくなるだらうか。
これもつぶやいたやうに全部感想メモを書き上げたあかつきには「轟」の字も七生分くらゐ書くやうな気がするから、そのうち慣れるかな。

ところで、メモを書いてゐると、「こんなことばは一生口にもしないし文字にも書かんだらう」と思つてゐたやうなことばを書き記さねばならない事態に直面したりする。
なにを大げさな、と思はれるかもしれないが、人間、「これだけは絶対口にしたくない」とか「これだけは絶対使ひたくない」といふことばがあるものだ。
ない人もゐるかもしれないけれど。
やつがれの場合は「学び」とか「気づき」とかかな。
それも、「学びを得る」とか「気づきを得る」とか絶対云ひたくないし、「さう云つて恬として恥ぢるところのない人に日本語についてどうかう云はれたくないわ!」と心の底から思つてゐる。

あと、どうしても使ひくないことばがもうひとつある。
元は生と死の生の方を意味する外来語で、そのうちの頭の二文字を取つて「い」をつけ、形容詞風にしたことばである。
頭の二文字だけ使はれる場合も多い。
絶対イヤ。
なにがあつてもイヤ。
だつてうつくしくないんだもの。
使ふとしたら本来の形かそこからの派生形である英語のカタカナ化した形でしか使ひたくない。
でも世の中の人はふつーに使つてゐるんだよなあ。
むー。

しかし、といふことは、やつがれもまたほかの人から見たら「そんなことばは絶対使ひたくない」といふやうなことばを使つてゐるだらうことは明らかなので、ここはお互ひ様といふアレなのだらう。

それにしても、まさか「ブルセラショップ」とか書き記す日がやつて来やうとはねえ。
お釈迦さまでも気がつくめえとはこのことだ。
感想メモを書いてゐて、「書く日が来るとは思はなかつた」と思ふことばの大半は下ネタ系のことばだ。
インターポールの言い換へ(←やつぱり使ひたくないらしい)とかね。
お食事中にはちよつと、と思はれるやうなことばとかね。

お上品ぶつてゐるつもりはない。
「学びを得る」とか「気づきを得る」や、上で書いたある単語の上の二文字とちがつて、一応メモとして記してはゐるし。
そもそも、普段のことば遣ひからして、上品とはほど遠いしね。

それに、なんといふか、「ブルセラショップ」とか書き記してゐる自分がおもしろい、といふ感覚もある。
なんだらうね、この感覚は。
ちよつと他人事。
書いてゐる自分を外から見てゐる自分がゐる感じ。
「へー、そんなことばも遣ふんだね」、とか、ある意味新鮮である。
これだけでも感想メモを書きはじめてよかつたな、と思ふ。

感想メモを書きはじめてよかつたと思つたことはほかにもある。
ひとつには、自分にとつて「五右衛門vs轟天」はむかしなつかし東映時代劇のオールスター映画のやうなものだ、といふことに気がついたことだ。
まんがまつりぢやないんだよね。特撮でもない。
時代劇。
右太衛門と千恵蔵とが出てゐて、その他全員勢ぞろひ的な、満漢全席的な、なんかもうどこを見ても超絶豪華といふやうな、そんな感じ。
この場合、五右衛門と轟天とどちらが右太衛門でどちらが千恵蔵か、とか、さういふ話ではない。
ああ、ただ「五右衛門vs轟天」には錦之介にあたる人はゐないね。
そんな感じ。

また、書くことでなんとなく頭の中がすつきりするといふのもよいことだ。
書き出した分はもう脳内にしまつておかなくていいしね。
その一方で、書き出すことで記憶として定着するといふこともある。
もやもやと脳裡をよぎるだけだつたことどもが、実体を得る感じとでもいはうか。
そんなわけで「ま、まだヤッターゴヱ……」と思ひつつも書いてしまふのだらう。

でも、おそらく、これだけは書かないだらうと思つてゐることもある。
最初に見た日から二週間が過ぎ、これだけ日々「五右衛門vs轟天」のことを考へてゐると、おぼろげながらに「なぜ自分は「五右衛門vs轟天」が好きなのか」といふことが見えてくる。
否、自分にははつきりわかつてゐる。
この、「なにが好きだか、どうして好きだかよくわからない」とか寝ぼけたことを云うてゐるやづかれにはめづらしいくらゐ、明快に好きな理由が判明してゐる。

それを、この場で書くのはチト気恥づかしい。
そして、他人は見ないだらうノートに書くのも、なぜだかはばかられる。
書くと、それがほんたうのことになつてしまふやうな気がして怖いのだ。

なにを云つてゐるの。明快にわかつてるんでせう?
さういふ向きもあるだらう。
うん、まあ、さうなんだけれどもさ。

でも上にも書いたやうに、書き出すまでは脳裡をぼんやりとよぎるもやもやしたものに過ぎない。
きちんとことばにした途端、それはほんたうになつてしまふのではないか。
書いてしまふと変更できないのでは。
そして、「これが真の理由です」と云ひ切る自信もまたない。

web検索などして他人様のblogで「五右衛門vs轟天」の感想を拝見してゐると、自分の感想メモなんか足下にも及ばないやうなディープで濃い感想ばかりだ。
「自分はこれが好きだ」といふ確たる自信のなせるわざなのだらう。
世の中、自分の好みに正直で素直な人間ほど強いものはない。
生まれてこの方物心ついてより「自分はなにが好きなんだらうか」「自分はほんたうにこれが好きなんだらうか」と疑ひつづけてきた人間には到底たどりつけない境地である。
勝ち負けでいつたら完敗だ。

でも敗者には敗者の書き方といふものもある。
あると思ひたい。
つまらないものになつても、だ。

とは云ひながら、古来から「戀すてふ」だの「忍ぶれど」などと云ふくらゐだから、書かなくてもわかつちやつてるんだらうな、と思つたりもする。
たぶん、なにもかもバレてゐる。

Wednesday, 09 September 2015

B6サイズぢやデカ過ぎる

月曜日からやつと「五右衛門vs轟天」の感想といふかメモといふかを書きはじめた。

千秋楽から四日。すでに記憶が薄れてきてゐる。
残つてゐるうちに、とノートに記しはじめて、なぜそれまで書かなかつたのかわかつた。
書いても書いても終はらないからだ。

現在のノートはMONOKAKIのB6サイズだ。
中谷さとみによる前説の話を書くだけで、一ページが終はつてしまつた。
「ま、まあ、三公演分あるから、仕方ないよね」と気を取りなほして書いていくと、Dr.チェンバレンの登場場面までで一ページ近く費やしてしまふ。
六ページめの半ばまできて、やつと轟天が登場して、その二ページ後に轟天の正体が判明した。

終はらんよ。

書いてゐてときに絶望におそはれ、うつかりセイント死神の滝口順平のものまねを書き落としてしまふし。
痛恨の大失態だ。
このやつがれとしたことが滝口順平のものまねを書き落とすだなんて。
書き落とすだなんて。
書き落とすだなんて。
ああ、やつがれのスカポンターン(滝口順平の声で是非。滝口順平のものまねをするセイント死神ならなほ良し)。

もちろんあとから追記したけれども。

おそらく、話が進むにつれて記憶の方も薄れていくはずなので、もつとあつさりした内容になつていくだらう。
それだけが現在の心の支へである。

書いてゐて思ふのだが、ノートもいけないんぢやないか。
MONOKAKIはとてもすばらしいノートである。
満寿屋の原稿用紙とおなじ紙を使つてゐる、とは以前も書いた。
七月からあらためて使ひはじめて、一度に書く量が異様に増えてゐる。
書いてゐて楽しいからだ。
ペンを選ばないし、Moleskineを使ふときには出番のないペンと実に相性がいい。

ただ、デカい。
B6版なんだけどなー。
荷物ミニマムにしたいときなど、「今日はいいか」といふのでかばんに入れるのをやめてしまふ。
さうすると、出先では書くことができない。
かういふときにどうしてゐるかといふと、Rhodia の No.11メモ帳に書き記してゐる。
しかし、メモ帳に書ける量はたかが知れてゐる。
どうしても忘れたくないことだけ、さらつと、といふ感じになつてしまふ。
と思つていまどんなことをメモしてゐるかと見てみたら「典膳さまはあのあとおリカにネチネチいぢめられたのに違ひない」とか書いてあつて、「お前の忘れたくないこととはそれかーっっ!」と軽く過去の自分に絶望してしまつた。吁噫。

メモは、しかし、有用だ。
考へといふのは、ランダムに浮かぶものだからだ。
いまかうして「五右衛門vs轟天」にはまりまくつてゐる状態でゐながら、一方で「寺子屋」の松王丸について考へてゐたりする。
去年のいまごろは銀座のGUCCIで中村吉右衛門の写真展が開かれてゐて、そのとき見た衣装のこととかを思ひ出したりもする。
それについて書きたい。
書き留めておきたい。
でもノートは「五右衛門vs轟天」の感想の途中だ。
メモ、でせう、ここは。

B6のノートは、やつがれの暮らしにはチト大きすぎるんだな。
芝居の幕間に取り出してちよこちよこ書けるやうなサイズぢやないしね。
MONOKAKIはとても気に入つてゐるけれど、「なんでも書く帳」には今後はならないだらう。
かばんを変へたらまた別かもしれないけれど。

結局、Moleskineのポケットサイズとか、Smythson の Panama とかに戻るんだらうな、このあとは。
預金通帳とほぼおなじ大きさのこのふたつの手帳なら、荷物ミニマムにしたいときでもかばんに入るし、幕間なんかにちよこつと書いたりもしやすい。

ただ、問題は、現在使つてゐるMONOKAKIが終はりかけてゐて、しかも「五右衛門vvs轟天」のメモは終はりさうにないといふことだ。
MONOKAKIは予備も買つてあるから、「五右衛門vs轟天」メモのつづきはそちらに書くことにして、MoleskineなりPanamaなりを「なんでも書く帳」にするかな。

Tuesday, 08 September 2015

なにが作りたいのか

タティングレースをはじめたのは、人形の服用のレースを作れないかと思つたからだつた。

過去にも書いたかもしれない。
もともと、やつがれはかぎ針でレースを編むのが好きではなかつた。
なんか、役に立たなそーぢやん、ドイリーとかつて。
それに、家には先達の作つたドイリーやテーブルランナーがすでにあつて、自分が作つたものを置く場所もなささうだつたし。
それが、リカちやんやジェニーの服を編むやうになつて、レース針やレース糸を使ふやうになり、それぢやあといふのでかぎ針でレースを編むやうになつた。

しかし。
自分に編めるていどの太さの糸では、人形用としてはいかにももつさりしすぎてしまふ。
オリムパスやダルマの40番糸で、ドイリーを編む要領でスカートを編んだりするのはなかなかいい感じだ。
でもエジングとしてはどうにも大きくなりすぎてしまふんだよね。

当時、藤重すみの「かわいいタッチングレース」が発売されたばかりで、手芸店でよく見かけた。
クロバーのタティングシャトルもモデルチェンジしたばかりだつたらしく、これまた店頭におかれてゐた。
そんなわけで、タティングレースをはじめてみて、糸をフリップすることを理解できずに一週間くらゐ過ごし、その後「シャトル二つ遣ひ」と「スプリットリング」の違ひがわからずにまた一ヶ月くらゐ過ごすことになる、といふ話は何度か書いてゐる。
「かわいいタッチングレース」の解説ページによると「シャトル二つ遣ひ」は「スプリットリング」だつたんだよね。

その後、藤戸禎子の「華麗なるレース タッチングレース」を購入して、やつとシャトル二つ遣ひにもスプリットリングではない方法がある、といふか、そちらが主流、といふことを知り、やつとやつがれのタティング人生ははじまるのだが、これまたすでに何度も書いてゐるとほりだ。

さうやつて、タティングレースを楽しむやうになつて、やつと「これは自分の求めてゐたものとは違ふ」といふことに気がつくことになる。
タティングレースで人形の服用にエジングを作るつて、ちよつと無理。すくなくともやつがれにとつては。
80番手の糸でもなんか太いもんね。
横浜人形の家に行くと、ビスクドール用のレースのくつ下が展示してあつたりして、これが実に細い糸と針とで編まれてゐる。
これくらゐの細さを扱ふことができないと、自分が求めるものを作ることはできない。

といふわけで、その時点ではあつさりタティングレースで人形用のものを作るのはあきらめた。
のちに、試みにモチーフつなぎにしたものをスーパー・ドルフィー用のショールにしたりはしたけれど、それ以外では人形ものを作つたことはないなあ、タティングレースでは。

海外のサイトなどを見ると、バービー用にタティングレースでレースのヴェストを作つてゐる人もゐる。
さういへば、日本ヴォーグ主催のジェニー展か何かで、タティングレースのドレスを着てゐるジェニーがゐたなあ。
どちらも見てすばらしいとは思つたけれど、それも自分が作りたいものではなかつた。

自分はなにが作りたいのだらう。

現在は、「The Twirly をつなぐプロジェクト」をあひかはらずつづけてゐる。
これは自分の作りたいものだ。
さう思ふ。

でも、タティングレースをはじめたときに作りたかつたもの、あれはなんだつたんだらう。
いまとなつてはもうわからない。

気が向いたら人形用になにか作つてみるかなあ。
ドイリーをオーバースカートとかにしてみるとか、いいかもしれないよなあ。

Monday, 07 September 2015

人形向きの色

「五右衛門vs轟天」ハイなので、リカちやん人形用になにか編まうと思ひ至つた。

なぜ「五右衛門vs轟天」でリカちやんなのかといふと、登場するからである。

さて、今年は去年に比べてくつ下を編んでゐるし、人形向きの毛糸には困らないだらうと思つて毛糸を見てみたらこは如何に。

確かに、中細毛糸はたくさんある。
しかし、人形向きな色がない。

人形向きな色。
どんな色を想像されるだらうか。

やつがれが求めてゐたのは、茶色とか灰色とかでちよつとツイードかheatheredな糸のやうに微妙な色合ひの毛糸だ。
できれば色は深い方がいい。
さう考へてゐた。
これから寒い季節になるし、さういふ色がいいんぢやないかと思つたわけだ。

おリカ自身が可愛いから、さういふ色が似合ふ。
さうも思つた。

書店に並んでゐる赤ちやん向けのあみものの本に掲載されてゐる作品は、いづれも淡い可愛らしい色のものが多い。
パステルカラーとでも云はうか。
なぜさうなるのかといふと、毛糸会社の売つてゐる赤ちやん向け毛糸がさういふ色ばかりだからである。
この話は以前も書いたな。
ダイヤマフィンに茶色系の糸があるくらゐで、ほかは白、生成、ピンク、水色、ミントグリーン、たまご色といつたやうな色ばかりだ。

翻つて英米のあみものの本を見ると、赤ちやん用の作品でも暗い茶色やチャコールグレーのやうな灰色を使つたものを目にする。

パステルカラーになる理由もわからないではない。
だつてその方が汚れがわかりやすいもの。
濃い茶色や灰色では汚れが目立たない。
目立たない方がいいぢやない、といふ向きもあるかもしれないが、赤ちやん用といふことはできるだけ清潔にしておきたいといふ思ひもあらう。
結果、パステルカラーに落ち着く。
さういふことなんだと思ふ。

でも、当の赤ちやんは可愛いので、渋い色を着せたりすると、赤ちやんの可愛さがさらに引き立つたりするんだよね。
と、英米のあみものの本を見て思ふわけだ。

リカちやん人形といふのは、可愛いものである。
赤やピンクといつた可愛らしげな色にフリルやレースなんぞをあしらつた服が実によく似合つたりする。
でも、渋い色の方がおリカ自身の可愛さを引き立てるんぢやないかなぁ。

さう思つて毛糸をあさつて見たんだけどなあ。
うーん、ここは秘蔵のRowanspun 4 Ply を出してくるしかないか。

Friday, 04 September 2015

外堀ばかり埋めてしまふ

先週の水曜日に「五右衛門vs轟天」を見てきてからといふもの、「五右衛門vs轟天」ハイな日々を送つてゐる。
昨日千秋楽を迎へて、これでしばらくは落ち着くのかな、と思つてゐたけれど、まだまだ気分は昂揚してゐて、「五右衛門vs轟天」ロス、といふところにいまだ至つてゐない。

これからロスが来るのかなあ。
手回しが早いもんだから西田佐知子の「女の意地」とか歌つてしまつたりするけれど、いまのところまだそんなに「こんなに苦しいものなら」といふ気分にはなつてゐない。
それに、そもそも「別れにやならない」のは「女の意地」のせゐではないしね。
それにしても、西田佐知子、いいね。

それはともかく。

なんで今回こんなに「五右衛門vs轟天」にはまつてしまつたのか。
気分が昂揚してゐるので冷静には考へられない。
が、ひとつには、劇団☆新感線のネタものが好き、といふのが理由としてあげられる。
これは最近書いたな。
最初に見た新感線の芝居がネタものだつたといふのが大きいんだらう。
なぜネタものが好きなのか。
ネタものには、引用が多いからだ。

「ted」といふ映画がある。
クマのぬひぐるみの出てくるアレね。
この映画は、80年代くらゐのいはゆるサブカルチャーを元にしたネタがこれでもかといふくらゐ出てくる。
なんたつて冒頭にジョニー・カーソン・ショーだよ。
もうそれだけでかなり knock out な感じだ。
ボストンでの話だといふのに、出てくるNBAの選手の名前はカリーム(字幕では「ジャバール」)だし、カーチェイスのときに出てくる名前は「T.J.フッカー」。本邦では「パトカーアダム30」とかいふ邦題で放映してゐたドラマのタイトルロールだ。
思ひ出すよねー。楽しかつたよねー。

かういふ楽しみ方が劇団☆新感線のネタものにもある。
新感線のネタものの方が教養を必要とするけれどもね。
劇団がこれまで上演してきた芝居の記憶がある方が楽しいし、いはゆるサブカルチャー的にもアニメやまんが、映画にテレビドラマだけではなくて、ここ数年のうち人気のあつた舞台、ミュージカル、はてはアイドルについてまで、実に幅広いネタが埋め込まれてゐる。
やつがれは、新感線歴は浅いし、歌舞伎と文楽以外の舞台はほとんど見ないのでミュージカルネタもわからないことが多い。今回は「エリーザベト」ネタがあつたらしいのだが、わからかなつた。
あとアイドルもわからないことが多い。「東方で神起」とか云はれても、「ああ、きつとこんなやうな振り付けでこんなやうな歌を歌つてゐるんだらうなあ」といふことくらゐしかわからない。

それでも総じておもしろい。
埋め込まれてゐるものの元ネタがわからなくてもおもしろいのだ。
そこに「なにかが埋め込まれてゐるつぽい」といふことがわかれば。
たぶん。

「内容が深刻ではない」といふことも理由のひとつだなあ。
劇団☆新感線の芝居はネタものでなくても「人生とは」みたやうな話はなくて、活劇的わくわく感に満ちたものが多い。
中でもネタものはそのわくわく感がほかの芝居よりも大きいやうに感じる。
おそらく、人は「人生とは」とか考へたくなるものなのだ。
なんかその方がやうすがいいぢやん。
でも、そんなのどうでもいい。
舞台の上ではひたすら「おもしろいことおもしろいこと」に満ちてゐれば、それでいい。
さう思ふ。
「人生とは」と深く考察できるやうな芝居を「おもしろいことおもしろいこと」と思ふ向きもあるだらうし、さう思はせる芝居もあることだらう。
そこは人それぞれだし、出会ひによつてもちがつてくる。
自分の場合は、ネタものと合つたんだらう。
ものごとを深く考へるのとか、苦手だしね。

それから、恋愛要素が薄い、といふのもあるかな。
ないわけぢやないけど、それが中心といふわけでもない。
これも好きずきだ。
やつがれは、恋愛要素はあんましない方が好き、といふだけ。

とかう、外堀ばかり埋めて或は掘つてしまふ。
なかなか本丸には至れさうにない。
このまま本丸に至ることなく「五右衛門vs轟天」熱はさめていくのだらうか。
そんな気がしないでもない。

Thursday, 03 September 2015

あて書き芝居の2.5次元性

「五右衛門vs轟天」の千秋楽を見てきた。

感想を書いてゐると、俳優の名前より役名で書いてしまふことが多いことに気づく。
ひとりで二役を担ふ人も多いのでむべなるかな、といつたところではある。
しかし、原因はそこにはないのではないか。
そんな気がする。

以前、「2.5次元」の話を聞いてきたことについて書いた。
渋谷ヒカリエにある渋谷区防災センターで開かれた「芝居の中の三国志」の講演のときのことだ。
不勉強にして、「2.5次元」についてはこのときはじめて知つた。
やつがれの理解では、「2.5次元」といふのは、物理的に3次元に存在してゐるものの実は別人、といふことだ。
コスチュームプレイとかがそれにあたる、と講演でも云つてゐた。
ここでいふ「コスチュームプレイ」とは、正式な意味でのコスチュームプレイではなくて、いはゆる「コスプレ」のことだ。
コスプレをしてゐるときはなにがしかの登場人物だつたりするのかもしれないが、ひとたび衣装を脱いで化粧を落としてしまへばまつたくの別人になる、といふ感じかなあ。
演劇も「2.5次元」だ、といふ話だつた。
まあ、その通りだな。
舞台上ではハムレットだつたりブランチだつたり玉手御前だつたり弁慶だつたりしても、ひとたび舞台を降りればまつたくの別人だ。
2.5次元つて、なんだか切ない。
そのときさう思つた。

これもしつこく書いてゐるけれど、カーテン・コールといふものがあまり好きではない。
なぜ好きではないのか。
役者が役を演じるのは幕が開くところから閉じるところまでだ。
ひとたび幕が閉じて、役の衣装と化粧のままの人々は、これはいつたいなんなのか。
役か?
それとも役者に戻つてゐるのか?
役者に戻つてゐるのなら、舞台用の化粧はけばけばしすぎるし、衣装は場合にもよるけれど派手すぎる。
このわけのわからない状況が、どうにも我慢ならない。

ゆゑにカーテン・コールのない歌舞伎とか文楽とかが好ましかつたんだけれども、最近は歌舞伎や文楽でもカーテン・コールがあたりまへになりつつあつたりする。
舞台に立つ人々にとつても、カーテン・コールはうれしいものなのらしい。
だつたらさう目くじらたてずにおくか、とも思ふ。

そんなわけで、最近ではカーテン・コールに出てくる人々は、まだ役を演じてゐる人々である、と思ふやうにしてゐる。
さうでなかつたらあの衣装と化粧はをかしい。
町中であんな恰好で歩きまはつたりするだらうか。
自宅であんな恰好をしてゐる……かどうかは、まあ、好きずきだな。

一々さう考へてしまふのは、舞台上にゐないときの役者に興味がないからだ。
まつたくないといつたらウソになるけれど、舞台に立つてゐないときの役者についてあまり知り過ぎると、芝居を見る目が曇ることになる。

ゐるでせう、「あの役者さん、浮気してるのよ」だとか「離婚したばかりなのにもうつきあつてる人がゐるんだつて」だとか噂する向きが。
噂するだけならかまはない。
しかし、浮気をしてゐる、離婚したばかりなのに別の人とつきあつてゐる、といふことをもとに芝居の善し悪しを判断するのはなにか違ふんぢやあるまいか。
いや、なにかが違ふ。
まちがつてゐる。
芝居の善し悪しは、芝居の出来だけで判断すべきであつて、私生活によつて判断するのはまちがひだ。

でも世の中はさうではないらしい。
西村晃が水戸黄門役について、こんなやうなことを云つてゐた。
「(いままでは悪役が多かつたから考へたことはあまりなかつたけれど)、黄門様を演じるからには普段の生活に気をつけないといけない。黄門様らしく正しく生きないと」、と。
つづけて「長いこと銭形平次を演じてきた大川橋蔵はさぞかし大変なことだらう」とも。
それつて、俳優の私生活を役柄と同一視する人が多いつてことだよね。
俳優自身が気をつけるのは自由だが、周囲が俳優にそれを押しつけるのはどうかと思ふんだよね、ぼかぁ。

私生活に問題があらうがネットでの発言がバカバカしからうが、そんなのは芝居の出来には無関係だ。
関係のあることもあるかもしれないが、そのときは芝居の不出来自体を云々するものだ。
自明の理だと思ふのだが、でもさう思はない人も多い。
さういふ人は、たぶん2.5次元よりも3次元よりの人なんだらう。

やつがれは2.5次元よりも2次元よりなんだと思ふ。
だから、役者の名前よりも役の名前で言及してしまふのだらう。

好きな映画俳優・映画女優がゐないのも、おなじ理由なんだらうな。
ある映画を見て気に入つた俳優/女優がゐたとして、ほかの作品も見てみたくなつて見る。
二、三作見ると、「うーん、なんか違ふかも」と思つてしまふ。
好きだつたのは、その俳優/女優ではない。
最初に見た作品でその人が演じた役が好きだつたのだ。
2次元よりだよなあ、どう考へても。

劇団☆新感線では役をあて書きすることが多いと聞いてゐる。
あて書きするといふことは、実在の3次元の人間の特徴を引き出すといふことだ。
デフォルメされるわけだ。
それつて、ちよつと次元が下がるつてことだよね。
それも、役の、ではなくて、俳優/女優自身の存在する次元が下がる。
実際の俳優/女優本人は3次元の存在であるにも関はらず、だ。
客は存在する次元が少し下がつた俳優/女優を見、演じる役と同一視する。
2.5次元かー。

今日見てきて、昨日あんなことを書いておきながら「やつぱり村木よし子、好きだなー」と思つたりとか、「古田新太、やうすがいいよなー」と思つたりしたけど、それは舞台上にゐて役を演じてゐるときの村木よし子であり古田新太が好きなんだよね。
めんどくさいね、我ながら。

試みに俳優名で書くと、舞台の端に立つてゐるときの右近健一と粟根まことはいいね。リアクションが細かくて。
右近健一なんかあんなにお茶目に動きまくつてゐるのに、ぜんぜん邪魔ぢやないんだよなあ。立ち位置がいいのかな。
それを見ちやふと舞台の真ん中に集中できなくなつて困るんだが、まあ、楽しいからいいか。

といふわけで、「五右衛門vs轟天」の感想は後ほど役名を主に書く形でいづれ。

Wednesday, 02 September 2015

戀とはどんなものか知らん

お前が歌ふな、ケルビーノ!
といふ話はさておき。

「五右衛門vs轟天」といふ芝居のことはとても気に入つてゐるし、好きだとも思つてゐる。
でも個々の役者についてはどうかなあ。

先日ワークショップで洞察について学んで来たことは書いたとほりだ。
中に、「なぜ」と五回問うて原因を追究しろ、といふ話があつた。

問うてゐると、だんだんわけがわからなくなつてくる時がある。
果たして自分はほんたうにこれが好きなのか、と、気持ちがゆらいでくるのだ。

長いこと、自分にはあんまり好きなものとかないんだな、と思つてゐた。
世の中を見渡すと、なにかを好きになつた人といふのは、みなとても熱いからである。
ああいふ熱さ、情熱のやうなものつて、あんましない気がするんだよね、自分には。

劇団☆新感線を見に行くきつかけがなんだつたのか、すでによくわからない。
劇団の芝居を見る前に、古田新太と右近健一とは野田秀樹の芝居でそれぞれ見たことがあつた。
古田新太に関しては、さらにその前にテレビの深夜番組で一度見かけたことがあつて、なぜか記憶に残つてゐた。
おそらく、たまたま「ぴあ」で発売開始の記事でも見たんだな。
それでチケットを買つて行つてみた。

大変おもしろく見て、その話を職場の新感線大好きな先輩に話したところ、舞台のヴィデオを貸してくれた。
見てみたら、一人なんだかすごく気になる人がゐる。
自分の見た芝居には出てゐなかつた。
村木よし子だつた。
これは舞台で見たいぞ、と思つて次の芝居にも行つた。
以降つづいてゐる。

それでは自分は村木よし子が好きなのだらうか。
嫌ひではないと思ふ。
舞台に出てくるとうれしい。
歌も好きだ。
山本カナコとハモつたときのあの空間の広がる感じはいつ聞いてもいい。
でも、積極的に好きかと訊かれると返答に窮する。
考へてみたら、劇団外の芝居に出てゐるところを見たことがない。

劇団☆新感線の役者で劇団外で見たことがある人はそんなに多くない。
上にあげた古田新太と右近健一以外には、橋本じゅんと粟根まことくらゐかな。
いづれも「見に行つたら出てゐた」といふ感じで、「この人が出てゐるから見に行つた」といふわけではない。
古田新太だけは、古田新太だつたらおもしろいかもしれないと思つて見に行つた芝居が二つある。

それでは自分は古田新太が好きなのだらうか。
嫌ひではないと思ふ。
こんなにやうすのいい役者もさうはゐない。
主役嫌ひでならしたやつがれが、古田新太の演じる主役はそんなに嫌ひではない。
でも、積極的に好きかと訊かれると返答に窮する。

さうやつてつきつめていくと、「好き」つてどういふことなんだか、よくわからなくなつてくるのだつた。

以前、坂東八十助(当時)についてここにも書いたことがある。
納涼歌舞伎で丸本の大役を初役でやる時に、必ず二度見に行つた話だ。
そのころは、別段八十助が好きだとは思つてゐなかつた。
丸本が好きだし、初役で演じるのだつたらまづは初日付近で一度見たい。そして楽の近くでもう一度。
さう思つてゐた。
それが、「忠直卿行状記」を見たときに、はじめて好きであることに思ひ至つた。
すでに書いたことで恐縮だが、八十助の演じる忠直卿が愛妾(玉太郎時代の松江)に向かつて「あれを見よ」と遠くを指し示す、その指の先を思はず追つてしまつた。
そこには客席があるばかりだつた。
照れ苦笑ひをひとり笑ひ、「ああ、きつと自分は八十助が好きなんだな」としみじみ思つた。

八十助といふか三津五郎では、おなじやうなことが何度かあつた。
ほかの役者ではないことだ。
たまに勘九郎でこれに近いことがあるかな。でも指さした先をうつかり見てしまつた、なんぞといふことはいまだかつてない。
三津五郎だけなんだよなあ、いまのところ。

と、つらつら考へるに、自分は単に「好き」といふ気持ちを抑制してゐるだけなのかな、とも思ふ。
好きになるといろいろつらいからさ。
先月は「棒しばり」と「芋堀長者」とが故人をしのぶ演目だつたのらしいけれど、「逆櫓」を見ても「京人形」を見ても思ひ出すことばかりで、でもそんなのは自分だけらしくて、それもまたつらさをいやましにした。
八十助の樋口、好きだつたんだけどな。
絶対もう一度見たい。
さう思つてゐたんだけどな。

こんな思ひをするくらゐなら、もう好きになんかならなくていいよ。
と、昭和歌謡のやうなことを考へたりもする。

やつがれの「好き」はその程度だ。

2015年8月の読書メーター

2015年8月の読書メーター
読んだ本の数:5冊
読んだページ数:1813ページ
ナイス数:14ナイス

The Fourth Bear: A Nursery CrimeThe Fourth Bear: A Nursery Crime感想
生まれた惑星を異にする二人や現実の人間とPDR(persons of dubious reality)の人間との戀愛がなんだか切ないんだなあ。やはりバックアップはこまめにとらないといかんね。
読了日:8月8日 著者:JasperFforde
三国志演義 (二) (講談社学術文庫)三国志演義 (二) (講談社学術文庫)感想
注にある「後漢にはなかつた地名」とか「後漢にはなかつた官位」とか見て、「そこまで極めなくてもいいのに」と思うてしまふやつがれは三国志のことがそれほど好きではないのかもしれません……。
読了日:8月15日 著者:
SFまで10000光年SFまで10000光年感想
時折おなじ号に掲載されてゐた小説を思ひ出したりして我ながらびつくりしてゐる。まとまつた形で読むことはないだらうと思つてゐたのになんたる僥倖だらう。その深さその速度はちよつと理解できないけれど、多分、今後何度も読み返すことになるだらう。そんな予感がする。
読了日:8月20日 著者:水玉螢之丞
平家物語 (上巻) (角川ソフィア文庫)平家物語 (上巻) (角川ソフィア文庫)感想
こども向けの「平家物語」は案外そのままだつたんだなあ、と思ひつつ読んだ。やつぱり有王丸が俊寛に会ひに行くところは悲しいねえ。これがあるから「平家女護島」の「俊寛」には今ひとつ乗れないのだつた。あと、いまさら富士川の合戦の前振り(といふか伏線といふか)に気がついたりした。鵺退治は死んでからなんだねえ。大人向けの「平家物語」はいろいろ新鮮だ。
読了日:8月25日 著者:佐藤謙三
三極発想法―図式化・単純化すると物事の本質が見えてくる三極発想法―図式化・単純化すると物事の本質が見えてくる感想
発想法の本なんだけれども、発想に使ふのは自分にはむづかしさう。拡散したアイディアを収束するのにまづ使つてみるかなあ。
読了日:8月26日 著者:佐伯邦男

読書メーター

Tuesday, 01 September 2015

惰性的に日々結ぶ

昨日、「感情を込めてもダメ。受け手を感動させるのは技術である」といふ話を書いた。
だから人を感動させるものはそんなに多くないし、万人を感動させるものはもつと少ないのだらう。
あんまり多くても困るしね。

ところでこれまた先日、「情熱とは燃やすものではなくて燠のやうに一見くすぶつて見えるやうなものなのではあるまいか」といふ話を書いた。
赤々と燃える炎よりも、しづかにくすぶる燠のやうな火の方が温度も高いし長いこと安定する、といふ話を千野帽子が書いてゐた。
燠のやうな熱意の方がなにかをするのに長続きする。

それは惰性ではないのか。
さう思つてゐたところ、おなじ「日経ビジネスONLINE」に、成毛眞が「惰性的に、今を生きよう」といふ記事を書いてゐるのを読んだ。
この記事で成毛眞は、「スポーツ選手は試合後などのインタヴューで「(1)いつも通りにやつた、(2)次も同様に取り組む」としか言わない」と書いてゐる。

惰性的に続けられるのは、評価されるべき能力だ。
とまで書いてゐる。

ま、成毛眞は「昨日と同じことを、ただし少しずつインプルーブしながら繰り返すこと」と言つてゐて、「その少しづつ improve するのが大変なんぢやんよ」と思はないでもないのだが。

職場の上司はなぜか「モチベーション」とやらを重要視する。
面談などあると、「モチベーションを持つて働いてゐるかどうか」を訊かれる。
あんまし、モチベーションとかないんだよね。
むしろ、モチベーションがなくても、またはモチベーションが下がつた状態でも働き続けることの方が重要だ。
だつてモチベーションつて上がり下がりするものぢやん。
そんなものに頼つてたら仕事できないだらう。
といふやうなことをやんはり伝へると、「いや、モチベーションは大事なんだ」と上司は力説するのだが、かういふ上司に限つて部下のモチベーションを下げるのがうまいのはどういふことなのか。

もとい。

モチベーションとかやる気とか、さういふ気分に左右されるやうぢやダメなのだ。
モチベーションがなくとも、やる気が下がる一方でも、いつも通りに働く。それがプロだらうよ。

さう、気分に左右されてはいけないのだ。

さう思つて「The Twirly をつなぐプロジェクト」を見てみると、これがまあ、みごとに気分に左右されまくつたモチーフばかりで涙が出るよね。
その日によつても違ふし、もつと云ふと、リングによつて、チェインによつて、甚だしくはピコによつて大きさがまつたく異なる。
ダメぢやん。

糸の引き加減にもその日の気分は出る。
むづかしいよねー。
といふわけで、やつがれは日々「惰性的に」タティングレースをつづけてはゐるけれど、「少しづつ improve」はしてゐない。
むしろ、「少しづつ deteriorate」なんぢやないかと思ふ。
ダメぢやん。

やつぱり技術がないんだな。
結び目を整える技術。
糸の引き加減の技術。
ピコのサイズをそろへる技術。
さうした技術が欠落してゐる。
もともと不器用ときてゐるしね。

ま、他人様を感動させやうと作つてゐるわけでもないし、これはこれでいいのかな。
といふ、意識の低さがまたいけないんだらうけど。

« August 2015 | Main | October 2015 »