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Thursday, 03 September 2015

あて書き芝居の2.5次元性

「五右衛門vs轟天」の千秋楽を見てきた。

感想を書いてゐると、俳優の名前より役名で書いてしまふことが多いことに気づく。
ひとりで二役を担ふ人も多いのでむべなるかな、といつたところではある。
しかし、原因はそこにはないのではないか。
そんな気がする。

以前、「2.5次元」の話を聞いてきたことについて書いた。
渋谷ヒカリエにある渋谷区防災センターで開かれた「芝居の中の三国志」の講演のときのことだ。
不勉強にして、「2.5次元」についてはこのときはじめて知つた。
やつがれの理解では、「2.5次元」といふのは、物理的に3次元に存在してゐるものの実は別人、といふことだ。
コスチュームプレイとかがそれにあたる、と講演でも云つてゐた。
ここでいふ「コスチュームプレイ」とは、正式な意味でのコスチュームプレイではなくて、いはゆる「コスプレ」のことだ。
コスプレをしてゐるときはなにがしかの登場人物だつたりするのかもしれないが、ひとたび衣装を脱いで化粧を落としてしまへばまつたくの別人になる、といふ感じかなあ。
演劇も「2.5次元」だ、といふ話だつた。
まあ、その通りだな。
舞台上ではハムレットだつたりブランチだつたり玉手御前だつたり弁慶だつたりしても、ひとたび舞台を降りればまつたくの別人だ。
2.5次元つて、なんだか切ない。
そのときさう思つた。

これもしつこく書いてゐるけれど、カーテン・コールといふものがあまり好きではない。
なぜ好きではないのか。
役者が役を演じるのは幕が開くところから閉じるところまでだ。
ひとたび幕が閉じて、役の衣装と化粧のままの人々は、これはいつたいなんなのか。
役か?
それとも役者に戻つてゐるのか?
役者に戻つてゐるのなら、舞台用の化粧はけばけばしすぎるし、衣装は場合にもよるけれど派手すぎる。
このわけのわからない状況が、どうにも我慢ならない。

ゆゑにカーテン・コールのない歌舞伎とか文楽とかが好ましかつたんだけれども、最近は歌舞伎や文楽でもカーテン・コールがあたりまへになりつつあつたりする。
舞台に立つ人々にとつても、カーテン・コールはうれしいものなのらしい。
だつたらさう目くじらたてずにおくか、とも思ふ。

そんなわけで、最近ではカーテン・コールに出てくる人々は、まだ役を演じてゐる人々である、と思ふやうにしてゐる。
さうでなかつたらあの衣装と化粧はをかしい。
町中であんな恰好で歩きまはつたりするだらうか。
自宅であんな恰好をしてゐる……かどうかは、まあ、好きずきだな。

一々さう考へてしまふのは、舞台上にゐないときの役者に興味がないからだ。
まつたくないといつたらウソになるけれど、舞台に立つてゐないときの役者についてあまり知り過ぎると、芝居を見る目が曇ることになる。

ゐるでせう、「あの役者さん、浮気してるのよ」だとか「離婚したばかりなのにもうつきあつてる人がゐるんだつて」だとか噂する向きが。
噂するだけならかまはない。
しかし、浮気をしてゐる、離婚したばかりなのに別の人とつきあつてゐる、といふことをもとに芝居の善し悪しを判断するのはなにか違ふんぢやあるまいか。
いや、なにかが違ふ。
まちがつてゐる。
芝居の善し悪しは、芝居の出来だけで判断すべきであつて、私生活によつて判断するのはまちがひだ。

でも世の中はさうではないらしい。
西村晃が水戸黄門役について、こんなやうなことを云つてゐた。
「(いままでは悪役が多かつたから考へたことはあまりなかつたけれど)、黄門様を演じるからには普段の生活に気をつけないといけない。黄門様らしく正しく生きないと」、と。
つづけて「長いこと銭形平次を演じてきた大川橋蔵はさぞかし大変なことだらう」とも。
それつて、俳優の私生活を役柄と同一視する人が多いつてことだよね。
俳優自身が気をつけるのは自由だが、周囲が俳優にそれを押しつけるのはどうかと思ふんだよね、ぼかぁ。

私生活に問題があらうがネットでの発言がバカバカしからうが、そんなのは芝居の出来には無関係だ。
関係のあることもあるかもしれないが、そのときは芝居の不出来自体を云々するものだ。
自明の理だと思ふのだが、でもさう思はない人も多い。
さういふ人は、たぶん2.5次元よりも3次元よりの人なんだらう。

やつがれは2.5次元よりも2次元よりなんだと思ふ。
だから、役者の名前よりも役の名前で言及してしまふのだらう。

好きな映画俳優・映画女優がゐないのも、おなじ理由なんだらうな。
ある映画を見て気に入つた俳優/女優がゐたとして、ほかの作品も見てみたくなつて見る。
二、三作見ると、「うーん、なんか違ふかも」と思つてしまふ。
好きだつたのは、その俳優/女優ではない。
最初に見た作品でその人が演じた役が好きだつたのだ。
2次元よりだよなあ、どう考へても。

劇団☆新感線では役をあて書きすることが多いと聞いてゐる。
あて書きするといふことは、実在の3次元の人間の特徴を引き出すといふことだ。
デフォルメされるわけだ。
それつて、ちよつと次元が下がるつてことだよね。
それも、役の、ではなくて、俳優/女優自身の存在する次元が下がる。
実際の俳優/女優本人は3次元の存在であるにも関はらず、だ。
客は存在する次元が少し下がつた俳優/女優を見、演じる役と同一視する。
2.5次元かー。

今日見てきて、昨日あんなことを書いておきながら「やつぱり村木よし子、好きだなー」と思つたりとか、「古田新太、やうすがいいよなー」と思つたりしたけど、それは舞台上にゐて役を演じてゐるときの村木よし子であり古田新太が好きなんだよね。
めんどくさいね、我ながら。

試みに俳優名で書くと、舞台の端に立つてゐるときの右近健一と粟根まことはいいね。リアクションが細かくて。
右近健一なんかあんなにお茶目に動きまくつてゐるのに、ぜんぜん邪魔ぢやないんだよなあ。立ち位置がいいのかな。
それを見ちやふと舞台の真ん中に集中できなくなつて困るんだが、まあ、楽しいからいいか。

といふわけで、「五右衛門vs轟天」の感想は後ほど役名を主に書く形でいづれ。

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