心を込めるのは受け手の方
先週もあまり編めてゐない。
原因は、水曜日に赤坂ACTシアターで「五右衛門vs轟天」を見てきたから、だな、たぶん。
見たら「五右衛門vs轟天」ハイになつてしまつて、いまに至つてゐる。
どうしてももう一度見たくて、土曜日に当日券を求めて行つてきた。
バカかね。
バカだね。
現在もアクセントカラーのストールをちまちま編んでゐて、どうやら今年もこのまま放置して年を越しさうな予感がする。
よくよく思ひ返してみたら、去年は腱鞘炎のやうな症状が出てあまり編めなかつたことが判明した。
職場でマウスその他を使ひ過ぎ、指をのばしたり曲げたりすると痛かつたりして、な。
今年はそんなこともないのに編めてゐない。
いかんなあ。
ところで先日、Twitterでこんな内容のつぶやきを見かけた。
「合唱団に入つてゐて、管弦楽団と共演することになり、指揮者にどう歌へばいいか確認したところ、「感情は込めるな。感情を込めると音程が乱れる。観客を感動させるのは技術である」、と。」
そうなんだ。
するとテレビなんかで歌手が心を込めて歌つてゐるやうに見えるあれは、「心を込めて歌つてゐるやうに見せ聞かせする技術を駆使してゐるところ」、なんだらうか。
楽器の演奏でも感情豊かに演奏してゐるのを見かけるけれど、あれも「感情豊かに聞こえるやうな技術で演奏してゐる」のかな。
それともあるていどプロになると、感情を込めたくらゐで音程がずれたりはしないのだらうか。
しないのかもしれないな。
もとい。
これつて、あみものにも云へることなんぢやあるまいか。
冬場になると、クリスマスやとくにヴァレンタインズデイなどのイヴェントに合はせて贈り物用にマフラーなど編む女子が増える。
普段編んでゐないから、一針一針思ひを込めたりする。
や、それ、重たいつて。
そもそも手編みのマフラーといふ時点で物理的に重たいのである。
機械編みで細い糸を使つてできたマフラーならいざしらず、最低でも中細、大抵の場合は並太以上、ときに極太超極太糸で編まれる手編みのマフラーは、重たい。
まあ150gで済むことはないね、中細毛糸でもない限り。
超極太糸で編むとして、1玉50g換算で5玉は使ふと思ふんだよね。超極太だと5玉ぢやたいして長くならないかなあ。
そこに「一針一針思ひが込め」られてゐたりする。
そりや重たいでせう。
だつたら軽くてあたたかい市販のマフラーをあげた方がまだましだ。
まあ、いいですよ。
相手もその「一針一針思ひが込め」られたマフラーを受け取めてくれるのならね。
さういふこともあるだらう。
これも、技術なのだ。
寒い冬に気になる相手の襟元をあたためてくれるやうなものを編む技術。
細くて軽い糸でふんはりあたたかく編む技術。
或は重たい糸でもあまり重くならないやうに編む技術(そんな技術あるのかどうか知らんが)。
編む方は、淡々と編むだけ。
編めたもの、たとへばマフラーに感情を込めるのは、もらつた方または身につける方だ。
さういふものなのではあるまいか。
上記のつぶやきにしてもさうだ。
歌ひ手は感情はこめずに技術で歌ひ、聞き手がそこに感情を見いだして込める。
さういふことなんぢやないかな。
無味乾燥すぎる?
でもただ編んでゐるときつてそんな感じぢやないかなあ。
淡々とただ黙々と編む。
さうかうするうちになにかできあがる。
そこに感情を見つけるのは、身につける人だ。
まあ、身につけるのは編んだ本人かもしれないけどさ。
送り手や作り手が感情を込めて酔つてはいけない。
それをするのは受け手の方だ。
そして、受け手が感情を込めやうが見いだせずに終はらうが、それは受け手の自由なのである。
さういふことなんだと理解してゐる。
« 何かが間違つてゐる | Main | 惰性的に日々結ぶ »
Comments