一千時間やる
先週は編めたり編めなかつたりする一週間だつた。
土曜日は仕事の関係でとあるワークショップに参加してきた。
ある道のエキスパートになるには十年間は修行をつづける必要がある、だとか、なにかをうまくできるやうになるには最低一千時間はかかる、だとか、さういふ話を聞いた。
十年間の内訳は、毎日三時間厳しい修行や練習をする、すると十年間でだいたい一万時間になる、といふことなのらしい。
なるほど、世の中に「エキスパート」が少ないわけだ。
歌舞伎役者もこの伝なのかな。
梨園の御曹司たちはこどものころからずつとお稽古をつづけて来て、舞台で主な役をやるころにはお稽古にかけた時間はとつくに一万時間を超えてゐるだらう。
それでもおなじやうにお稽古をしてきた役者の中にも差はあるものなのだから、世の中やつぱり厳しい。
ところでやつがれはとにかく不器用である。
今年も上記ワークショップのつづきがあるので行かれないが、スピニング・パーティーなどでまつたくやつたことのない手芸などをやつたりすると即わかる。
周囲の人々はすぐにコツを理解するのか初めてでもそれなりにきれいなものが作れたりするのに、やつがれの作るものはなぜかぐちやぐちやなのだ。
なぜつて、不器用だからだけどさ。
不器用といふよりは、要領が悪いのだらうか。おなじやうなものか。
鈍くさい。うむ。それもあるかもしれん。
しかし、そんなやつがれでもそれなりに編みものはしてゐる。
こどものころから、といきたいところだが、途中ブランクは結構あつて、日々編むやうになつたのはここ数年、いや、考へてみたら世紀の変はる前からだから、かれこれ二十年近くは編んでゐるのだらうか。編まない日もあるけれども。
タティングレースはそれよりもちよつと短いくらゐだと思ふ。
一万時間は無理でも、一千時間くらゐは編んだり結んだりしてゐるんぢやないかなあ。
それで、出来はともかく、まがりなりにも履けるくつ下を編めたり、タティングレースの栞を作れたりするのではないか。
個人的にはそんな感じである。
では、なぜつづけられてゐるのか。
といふ話を明日しやうと思ふ。
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