ただ見てゐるだけ
「絵本合法衢」を見てゐると、「人間国宝の片岡仁左衛門の長男片岡孝太郎にそつくりな」といふやうなセリフがあつた。
朝から大阪松竹座に籠りきりだつたので、その時はじめて「ああ、松嶋屋が人間国宝になつたのだな」と知つた。
たまにかういふことがある。
高校野球の決勝戦の行方とか、内閣総理大臣になるのは誰だとか、芝居の最中セリフに織り込むことがある。
でもまあ今回のはチト格別だつたな。
その少し前、「ぢいさんばあさん」を見て、「仁左衛門は神がかつてる」とつぶやいてゐる。
先月歌舞伎座で「新薄雪物語」の秋月大膳と園部兵衛とを演じたあとでのこの美濃部伊織のよさ。
伊織はこれまでも何度も見てきた。
つひぞいいと思つたことはなかつた。
それが、今日はいい。
孝夫のころから江戸前の芝居やときに新歌舞伎で聞くくどいセリフ回しが苦手だつた。
名セリフの途中で妙にねばるやうな、そんな調子だ。
せつかく声はいいのだから、もつとさらりと云へばいいのに。
ずつとさう思つてゐた。
でも、今年の河内山だつたかな、以前のやうなくどいセリフ回しが、まつたく気にならなかつた。
気にならなかつたどころか、「いいぢやん、これも」と思ふほどだつた。
聞くこちらがあのセリフ回しに慣れたといふことなのかもしれない。
しかし、云ふあちらも、以前とおなじやうに云つて、しかもなほ自然に聞かせる術を身につけたのかもしれない。
「絵本合法衢」の太平次もさう。
新橋演舞場で見たときに、孝夫(当時)の左枝大学之助のすばらしさはわかつたけれど、太平次はさうでもなかつた。
有り体に云ふと、あまり関心しなかつた。
愛嬌が上滑りするといふか、ね。
それが三年前に国立劇場で見たら見違へるやうに太平次がよくなつてゐて、「生きてるだけでいいことつてあるんだなあ」と思つた、といふ話は以前書いたやうに思ふ。
今回の大阪松竹座もまさにそんな感じで、「ぢいさんばあさん」がこんなにいい芝居だつたなんていままで思つたこともなかつたし、「絵本合法衢」は三年前もよかつたけれど、今回は場所柄も手伝つてか、さらに殺し場が陰惨味と迫力を増してゐたやうに思ふ。
生きてゐるとイヤなことも多い。
しかし、自分はなにもしてゐないのに、いいこともある。
さういふことなんだな、多分。
一言、「おめでたうございます。嬉しく思ひます」とのみありぬべきを。
わかつてはゐてもあれこれ書いてしまふのがよくないところである。
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