芝居のとき何か書きたくなつて
芝居を見てゐる途中で無性にメモを取りたくなるときがある。
以前は取ることもあつた。
はじまる前からメモ帳を開いておき、芯を出し入れするときに音のしない筆記具を手にして、筆記具の先が紙についたりはなれたりしても音のしないやうに、字を書くときも音のしないやうに書く。
できないことはない。
できないことはないけれど、やめた。
以前も書いたやうに、そのほかの上演中にメモを取る人々と同類だと思はれたくないからだ。
やつがれの知るかぎり、上演中にメモを取る人は音に鈍感である。
平気でボールペンやシャープペンシルをかちかち云はせて芯を出し入れし、ペン先が紙にあたつてはなれるときの音を気にもしない。
あれ、なんなんでせうね。
本人は音など出してゐないつもりなのか。
それとも芝居の間だからいいとでも思つてゐるのか。
あと、視覚や聴覚に訴へるものつて、ことばにしたとたん抜け落ちる情報がものすごく多いから、といふこともある。
ことばにしなければ伝はらない。
それも事実なのだけれども、たとへばこの世のものとは思はれぬほど美しい役者がゐたとして、「この世のものとは思はれぬほど美しい」と書いた時点で「なーんだ、そのていどか」といふことになつてしまふ、といふことはある。
「この世のものとは思はれぬほど美しい」と表現されたものなど、これまでに掃いて捨てるほどあつた。
その末席にひとり加へる、そのていどのことになつてしまふ。
語彙が乏しいから?
それはある。
もつと語彙を増やして表現も増やして、的確に書けるやうになればこの懸念ももう少し減るのだらうとは思ふ。
それでもなほ、ことばによる限界は如何ともしがたい。
ところで、先日世田谷文学館の「植草甚一スクラップ・ブック」展に行つてきた。
植草甚一は、試写会で大量にメモを取つてゐる。
いまより小さめで縦横比でいふと横が狭いステノグラファーに走り書きで、ときにはちよつとした絵なども加へて書いてゐる。
つまらなかつた映画だらうか、「ここでメモを取るのがいやになつた」なんぞといふメモもあつた。
植草甚一は、大抵の人(おそらくは映画評論家)が一部分しか覚えてゐないくせに映画についてとやかく云ふのが許せなかつたのらしい。
淀川長治と双葉十三郎と、あと一人だれだつたかの三人だけは別で、この三人は映画全体をよく覚えてゐる、と書いてあつた。
試写会上映中にメモを取つてゐたのは、映画全体を覚えておくためだつたのだらう。
しかしだよ。
さうやつてメモを取らないと覚えてゐられないやうな内容の映画つてどうなのよ、とも思ふ。
芝居もまた然りで、メモなんぞとらなくても残つたものこそ重要なんぢやあるまいか。
文楽とか歌舞伎とか、「お勉強」と思つて見てゐる人々もあるから、仕方がないかなとは思へども、「お勉強ならおうちか学校でやつてね」と云ひたいところをいつもぐつと堪へてゐる。
自分もメモを取りたいと思ふからだ。
やはりメモしたいときはある。
ものすごーくいいセリフのときとかね。
歌舞伎座のさよなら公演のときにかかつた「筆法伝授」の中村吉之丞のセリフがそれはすばらしくてね。
文言だけメモしたところでそのすばらしさは残らないとわかつてはゐても、あのとき無性にメモを取りたいと思つた。
取らなかつたけどね。
と、あれこれ書いてゐるのは、今月歌舞伎座でメモを取りたいなと思つてゐるからだ。
久しぶりに禁を犯してメモを取つてしまふかもしれない。
もちろん音をたてないやう万全を期しての上だけどな。
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