部屋が汚くて時間の使ひ方の下手な浪費家がそれでも芝居に行く件
先日、Twitterで「部屋の汚い人は時間の使ひ方が下手で、今がよければそれでいいから後先考へずお金を使ふ浪費癖があり将来への展望なく蓄へもない」といふやうな内容のつぶやきが回つてきた。
自分のことだよ。
まさにそのとほりだよ。
しかし、それでは部屋をきれいにしたら時間の使ひ方も上手になるのか、と考へて、それはない気がした。
時間の使ひ方がうまくなれば部屋はきれいになるのかもしれないとは思ふ。
でも部屋をきれいしたからといつて時間の使ひ方がうまくなるとは思へないのだ。
それとも「部屋をきれいにする」といふ作業を行ふ課程で時間の使ひ方が変はつてきたりするのだらうか。
むう。
いづれにしても、部屋はきれいにしなければならない。
でも即できさうなのは浪費をやめることだ。
必要のないものは買はない。
贅沢品はあきらめる。
芝居へ行く回数も減らさう。
さう思つてゐたはずなのだが、27日(月)、大阪松竹座の千秋楽に行つてしまつた。
すでに17日に見てゐるのに、である。
17日に、これが見納めと思つて見に行つた。
そのはずだつたのだがなあ。
27日に行くことにしたのには理由がある。
「絵本合法衢」はこれを最後に今後はしばらく見られないだらう、もし見ることがあつたとしても、片岡仁左衛門の「絵本合法衢」はこれが最後だらうと思つたからだ。
三年前の国立劇場のときもさう思つた。
だつたらまたしばらくしたら上演されるのぢやあるまいか。
さう考へる向きもあらう。
しかし、おそらく、それはない。
「絵本合法衢」が歌舞伎座でかかるとは思へないし、京都南座でもないだらう。
もしかすると新橋演舞場で、といふことはあるかもしれないが、新生歌舞伎座の開業以来、演舞場では幹部主軸の歌舞伎はかからないやうになつてしまつた。
はじめて「絵本合法衢」を見たのは演舞場だつたけどね。でもあのときは片岡孝夫(当時)も坂東玉三郎もまだ花形役者だつた。
「絵本合法衢」は、記録を見ると1992年の新橋演舞場での上演の前は1980年、その前が1965年とある。
上演のあひだが10年以上空いてゐる。
1992年と2011年のあひだがほぼ20年。
そのあひだ、上演されることがなかつた。
つまらない芝居だからだらうか。
さうは思はない。
なぜといつて、2011年の上演の報を聞いて、飛び上がるほどうれしかつたからだ。
孝夫(当時)の左枝大学之助をまた見ることができる。
新橋演舞場で見たとき、大学之助の血も涙もない極悪の所行に心底参つてしまつた。
なんと悪くてなんとすばらしいのだらう。
冷血でゐて冷徹なさまに、「こんな悪役、見たことない」と思つた。
大学之助は実悪の一なのだらうが、ほかの実悪の役と比べるとやることが狡猾である。
怒りにまかせて殺害を行つてゐるやうでゐて、それを次の悪事に生かす智恵がある。
なにより冷たく冷めた視線がすべてを物語つてゐる。
たぶん、演じる役者がゐなかつたんだらう。
最後の最後まで次々と人が死んでゆき、それも大半は善人だといふ芝居を、おもしろく見せるのは並大抵のことではあるまい。
そして、さういふ芝居はなにも「絵本合法衢」にかぎつたことではないのだらう。
仁左衛門は五代目松本幸四郎のあたり役を演じるといいんぢやないかな。
仁木弾正がさうだし、松王丸とか、「馬盥」の光秀とか、実にいいと思ふ。
以前は感心しなかつた「謎帯一寸徳兵衛」の団七も、いまやつたらとてもいいんぢやあるまいか。
といふのは、演舞場で見たときには「絵本合法衢」の太平次はそんなにいいと思はなかつたのに、国立劇場で見たときには見違へるほどよかつたからだ。
話をもとに戻さう。
そんなわけで千秋楽の日は夜の部の「絵本合法衢」を見に行つた。
ほんたうは、昼の部の「ぢいさんばあさん」も見たかつた。
「下嶋といふ男」にも書いたやうに、今回の大阪松竹座での「ぢいさんばあさん」は今まで見たことのないやうな「ぢいさんばあさん」だつたからだ。
中村歌六の下嶋甚右衛門がよかつたのはもちろん、仁左衛門の美濃部伊織が神に入つてゐた。
美濃部伊織その人にしか見えなかつた。
こんな「ぢいさんばあさん」、もう二度と見ることはない。
さうも思つた。
しかし、千秋楽の日は見に行くのをあきらめた。
浪費するのだもの、せめて午前中くらゐは働かう。
さう思つたからだ。
午前中は働くことで、松竹座に行く言ひ訳にした。
それくらゐしないと、松竹座には行つてはいけない気がしたからだ。
なぜかしら、自分のしたいことをすることに罪悪感を覚える。
ほんたうはこんなことしてはいけないのではないか。
ほかにすべきことがあるのではないか。
「のではないか」ではなくて、いけないし、あるのだ。
それがなにかをわかつてゐないだけで。
いや、わからないふりをしてゐるだけで。
すなはち、部屋の片づけとかだけどさ。
そんな罪悪感をすこしでも軽減しやうと、午前中は働くことにしたのである。
愚かなことだ。
それでも罪の意識はついてまはり、「絵本合法衢」の幕が開くまで消へることはなかつた。
幕が開いて、水門から伊丹屋があらはれるのを見、松嶋屋の最初の殺しを目撃し、花道に播磨屋が登場するのを目にした。
そのたびに「来てよかつた」としみじみ思つた。
だからといつて、浪費した、贅沢をしたといふことにかはりはない。
反省はしてゐる。
でも後悔はしてゐない。
所詮やつがれは部屋は汚いし時間の使ひ方も下手で浪費癖のあるダメ人間なのだもの。
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