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Wednesday, 22 July 2015

下嶋といふ男

七月十七日(金)、大阪松竹座で歌舞伎を見てきた。
昼の部の喜利は「ぢいさんばあさん」だ。
若い鴛鴦夫婦がある事件のせゐで別れ別れになつてしまひ、三十七年の時を経て再会する、といふ芝居である。

ある事件には、夫・美濃部伊織の同僚・下嶋甚右衛門が関はつてゐる。
下嶋は家中の嫌はれもので、ヤな男だ。
伊織は「悪い奴ではないのだが、しつこいのだ」と云つてゐる。
伊織と下嶋とは碁敵でもある。
伊織は都に一年赴任することになつてをり、明日は出立の日だ。
下嶋もまた同様に都へ行く。
伊織と妻・るんとは別れを惜しみたい。
だといふのに、下嶋は伊織を家に呼び、碁の相手をさせて帰さうとはしない。
伊織とるんとの気持ちに思ひ至らないのだ。
伊織の家まで追ひかけてきた下嶋はやつとそのことに気がつき、それでもイヤミをさんざん云つて帰つていく。

都に赴任した伊織は、ある夏の夜、友人四人を招いて酒席を催す。
いい刀が手に入つたその祝ひに、といふのだ。
刀は高価なもので、伊織は不足分を下嶋に借りた。
その下嶋は招かれてはゐない。
その場にゐる友人たちは口々に「下嶋とはつきあふな」「金は早く返してしまへ」とうるさいほどに助言する。
そこへ、酔つた下嶋があらはれる。
下嶋はさんざん悪態をついて暴れ、伊織はたうとう刀で下嶋を斬つてしまふ。

下嶋は、伊織のことが好きだつたんだよね。
といふのは、これまで何度か見た「ぢいさんばあさん」でよくわかつてゐた。
でもわからないこともあつた。
たとへば、伊織はもともとは短気な質であつたといふ。
それを、矯正した。
なほつたのは、るんのおかげだといふ。
伊織とるんとは結婚して三年、といふてゐるから、伊織が短気を起こさないやうになつてからそんなにたつてはゐない。

伊織と下嶋とは碁敵である。
話しぶりからして、長いこととももに碁を打つてゐるやうに感じる。
といふことは、下嶋は短気だつたころの伊織を知つてゐるはずだ。
碁を囲めば、何局かに一局くらゐは伊織が短気をおこすこともあつたらう。
それでなくとも日々の勤めの折々に伊織が怒りを爆発させる姿を見てゐただらう。
そんな伊織の宴の席に酔態で乱入したらどういふことになるか、下嶋にもわかつてゐたはずだ。
それなのになぜ、あんな所行に走つてしまつたのか。
それだけ怒りが激しかつたといふことなのか。

と、まあ、これまではそんなふうに考へてゐたわけだ。

今回「ぢいさんばあさん」を見て、下嶋は伊織の短気な面をあまり見たことがないのだらうといふ気がした。
伊織は、下嶋の前ではすぐにカッとなる姿をあまり見せたことがないのに違ひない。
伊織がカッとなつても、即下嶋があれこれ難癖をつけ、伊織の怒りはなかつたことにされてしまつてゐたのではあるまいか。

下嶋は、普段の伊織を知つてゐる。
短気であることも知つてゐる。
でも自分の前ではそんな姿を見せたことはほとんどない。
ゆゑに思ふのだ。
「美濃部は俺のことが嫌ひだらう」と。
さう思ひつつ、他人の前では見せない姿を見せる伊織を見て、
「いや、待てよ。もしかするとそんなに嫌はれてもゐないのかもしれない」
とも思つてゐたかもしれない。

たぶん、下嶋は伊織だけは自分のことをそんなに嫌つてはゐないと思つてゐた。
家中の嫌はれ者の自分を、伊織だけは多少は好いてくれてゐる。

でも、実は違つた。
伊織の口から事実を告げられて、下嶋は絶望するのである。

今月の配役は、美濃部伊織に片岡仁左衛門、美濃部るんに中村時蔵、下嶋甚右衛門に中村歌六である。
仁左衛門の伊織は何度か見たことがある。
時蔵のるんと歌六の下嶋とははじめて見た。

歌六の下嶋は、すつきりした出で立ちの伊織とは対照的に野暮つたい着付で出てきて「つかみはOK」といふところだし、また喋り方が如何にも「ヤな奴」「しつこい奴」だ。
酔態で出てきたあたりはまさしく下嶋の芝居だつた。
「ぢいさんばあさん」を見て、下嶋についてこんなに考へたのははじめてだよ。

仁左衛門の伊織については、芝居を見た直後に「仁左衛門が神がかつてゐる」とつぶやいてゐる。
先月の「新薄雪物語」の大膳と兵衛もさうだつたが、なんかもう「その人そのもの」なのだ。
伊織役は何度か見てゐて、こんなことを思つたのははじめてだ。
るんと再会するあたりなどは、「ぢいさんばあさん」で泣くかと思つたくらゐだ。
実際、三階席では鼻をすする音をあちこちで聞いた。

時蔵のるんはといふと、一見これといつたことをしてゐるやうには見えないるんであつた。
ちよつと控へめで、姉娘らしいしつかりとしたところもあつて、そして、伊織さまが大好きなるんだつた。

「ぢいさんばあさん」がこんなにいい芝居だつたとはね。
いままでなにを見てきたんだらうね。
松竹座は夜の部だけでいいかな、などと考へてゐたが、とんでもないことであつた。
昼の部も見てよかつた。
昼の部を見るきつかけは「歌六の下嶋が見てみたい」だつた。

これから「ぢいさんばあさん」を見る目が変はるなあ。

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