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Friday, 31 July 2015

ジャスパー・フォード作品の翻訳、熱烈待望中

Jasper Fforde の The Big Over Easy を読み終はつた。
おもしろかつたねー。なんでこれが翻訳されないのかね。

なにがおもしろいのか。
もちろん話がおもしろい。
あれこれぶちこみ過ぎなんではないかと思ふ点もないではない。
でもそのぶちこみ過ぎ加減が好きなんだよね。
鶴屋南北作品に対してもさう思ふことがある。
ちよつとそれ、いろいろぶちこみ過ぎでせう、でもそこがいいんだけど、とかね。「盟三五大切」なんかさう思ふなあ。

最後のどんでん返しに次ぐどんでん返しもいい。

あと、個人的には「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」といふ点がいいんだと思つてゐる。
この「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」といふのは、「エキレビレビュー」で千野帽子が「口訳万葉集 百人一首 新々百人一首」について書いた記事の題名だ。
古典の授業で「本歌取」といふのを習ふ。
過去の和歌からことばそのものや表現方法などを取り入れて歌を詠む、和歌の表現方法である。
これは別に和歌に限つたことぢやない。
曹操の「短歌行」の「青青子襟悠悠我心」のくだりは「詩経」にあるのをそのまま借りてきたものだし、その曹操の「歩出夏門行」の一説「烈士暮年壮心不已」のくだりを借りて曹操のこの詩を愛唱した王敦の故事から李白は詩を作つてゐる。

わかる人にはわかる。
The Big Over Easy にはそれがてんこ盛りなのだ。
Nursery Rhymes といひ、Mother Goose といふ、童謡(といふのかね)からの借用が多いのはもちろん、「Norwegian Blue」といふアウムが出てきて「pining for the fjords」ときたら、これはもう「死んだアウム」スケッチでせう、モンティ・パイソンの。
さういふのが一々楽しい。
読んでゐるうちに「これ、なんだかわかんないけど、もしかしたら何かからの引用なのか知らん」と思つてしまふほどである。

考へてみたら、これ、お浄瑠璃とか歌舞伎でもさうなんだよね。
なにか別の芝居からの借用、なにか過去の文学作品などからの引用があちらこちらにちりばめられてゐたりする。
さういふのが楽しいんだよねー。

まあ、さういふのがイヤ、といふ向きもあるとは思ふけどさ。

The Big Over Easy が翻訳されない理由は、「サーズデイ・ネクスト」シリーズありきの内容だからだらうな、と思つてはゐる。
本邦では「文学刑事サーズデイ・ネクスト」といふのかな。
最初の三作だけ翻訳されてゐる。
順番に「ジェイン・エアを探せ!」「さらば、大鴉」「だれがゴドーを殺したの?」だ。
これに Something Rotten を加へた四作が「サーズデイ・ネクスト」の最初のシリーズである。
次のシリーズもすでに三作出版されてゐる。
「だれがゴドーを殺したの?」以降、翻訳作品が出版される気配はないけどね。

たまたま第一作目の「ジェイン・エアを探せ!」が文庫になつた時に入手して、読んでみたらこれがおもしろい。
それで「さらば、大鴉」「だれがゴドーを殺したの?」と読み進んでみたものの、一向につづきが出版されるやうすがない。
それで仕方なく原書を読み始めた。
The Big Over Easy もその流れで手にしたものだ。
おもしろいんだけどなあ。
好きなんだけどねえ。
つづきを日本語で読む日はやつてこないのかなあ。

ジャスパー・フォード作品の特徴は、笑へるのにときにとても切なくて最後は大団円、だと思つてゐる。
「サーズデイ・ネクスト」シリーズがさうだし、The Big Over Easy の Nursery Crime シリーズもさう。The Last Dragonslayer シリーズはまだ一作めしか読んでゐないし、話の展開などは「サーズデイ・ネクスト」によく似たところがあるけれど、やはりさうである。
それに上に書いたやうな引用・借用の嵐も、かな。

ずつと「笑へるのにときにとても切なくて最後は大団円」と思つてゐたのだが、Shades of Greyは切ないだらけだつたやうに思ふ。
これは翻訳されるんぢやないかと期待してゐたが、よく似た題名の別の小説が先に翻訳されてしまつたから、これもないかもしれないなあ。
Shades of Grey は未来の話で、人々はある色しか認識できなくなつてゐる。人によつては赤、人によつては青といつた具合にね。
どれくらゐ色を識別できるかにも個人差がある。
まつたく色を識別できない人々は「Greys」と呼ばれて社会的に最下層に位置する。
とても気になるところで終はつてしまつたので、つづきを待つてゐるのだが、まだかなあ。

ジャスパー・フォード作品、ちやんと読めてゐる自信がないので、翻訳を待つてゐるんだけどなあ。
と、書いたりしたら、そのうち出版されたりしないだらうか。
しないか。

Thursday, 30 July 2015

yPad half S を使ふ

yPad half S を使ひはじめて四週間めになる。
使つてみると、その佇まひに思はず手にして開いてしまふ、そんな手帳だ。

yPad half S

使ひはじめたきつかけは、今月から複数プロジェクトが進行することになる予定だつたからだ。
これは新しい手帳を試してみるいい機会だぞ。
さう思つて、yPad half S を買つてみた。

候補はほかにもあつた。
以前も書いてゐるスライド手帳とか「超」整理手帳とか。このとき yPad half S も候補である、とも書いた。

yPad half S を使ふことにしたのは、入手しやすかつたからである。
「超」整理手帳を使ふことは最初から考へてゐなかつた。売られてゐるのを見かけないし、見かけたとしても一月はじまりしかなささうだ。時すでに七月である。半分をムダにするのはしのびない。

スライド手帳は最後まで悩んだ。
バイブルサイズのシステム手帳のバインダが手元にあつたら、スライド手帳にしてゐたかもしれない。
それに、スライド手帳を使ふなら HIRATAINDER も込みで使つてみたい。
しかしその HIRATAINDER は「えいやっ」で買ふにはちよつとお高い。
あと、「バイブルサイズ」と書いておいてなんだが、スライド手帳はA5サイズの方がよささうな気もする。
うーん……悩む。

といふわけで、あまり悩む必要のなかつた yPad half S にした、といふ次第だ。

yPad half S については、すでに先達がいろいろ書いてゐる。
敢へて書くと、まづ User's Guide が楽しい。
手帳の帯にもおなじことが書かれてゐて、これを見てゐるだけで楽しくなつてくる。
「ハードに使いこんでいくと最初のページの根本が割れてしまうことがあります」といふイラストと手書き文字の文につづいて、「製本テープを貼ると、修復できます」といふイラストと文が出てきて、その吹き出しに「直すともっと好きになります。」と書いてある。
いいでせう。
「直すともつと好きになります。」
修復が必要なほど使ひこむといふことは、その時点でかなり気に入つてゐるはずだ。
それを修復するともつと好きになる。
いいぞいいぞ。

User's Guide のイラストや手書き文字はやさしげだ。どこかとぼけた味の可愛さもある。
一方、巻頭のカレンダーや巻末の書体見分け表などは黒の紙に銀のインキでとてもクールだ。
このギャップもいい。

使ひはじめてみると、やはり実績を書き込むことの方が多い。
とくに最初のうちはさうだつた。
先週くらゐからやつと予定もすこしづつ充実してきたやうに思ふ。

yPad half S は、カバーオンカバーをかけたほぼ日手帳より一回り大きいくらゐのサイズだ。
したがつて、スケジュール表やジョブタスクチャートなどにはあまり字を書き込めない。
小さいからだ。
yPad 5 とかを買ふべきだつたのかなあ。
しかし yPad 5 だと大きすぎる気がする。
yPad half S だとキーボードの前に広げてもちやうどいいやうなサイズだ。
そこがいい。
そこがいいんだけど、たくさんは書けない。
ジレンマだねえ。
もうちよつと使ひこんでみて、よささうだつたら yPad 5(あるいは6とかになるのだらうか)も考へてみるかなあ。

いまのところの使ひ方を記しておく。
予定の段階では、スケジュール表に出勤時間と退勤時間の線を引く。会議などの予定がある場合はそれもあらかじめ線を引いておく。
ジョブタスクチャートにはプロジェクトごとに今週やることやりさうなことを書く。
一週間ごとに見開きでついてくるメモページには、めんどくさい仕事を小分けにしたToDoリストのやうなものを作る。翌日やることのリストなんかも書く。いまのところこれがメインだつたりする。

実績については、起床時間や通勤にかかつた時間などをスケジュール表に線で追加する。
ジョブタスクチャートは予定で書いたことと違ふことがあれば追加する。
メモページに書いたToDoリストのうち終はつたものにチェックを入れる。
そんな感じかなあ。
仕事用なので職場に置きつぱなしにしてゐるが、休みの日の予定もスケジュール表には入れてゐる。
こんな感じだ。

yPad シリーズの売りは、見開きで1週間分のスケジュールと複数のジョブやタスクの進行を同時に見ることができること、だらう。
実はいまのところこの恩恵にはあまりあづかつてゐない。

yPad half S

複数プロジェクトが進行中ではあるものの、一日か二日くらゐで終はる仕事がぼちぼち入つてくる、といふものが多いからだ。
そんなわけで、「これだつたら yPad でなくてもよかつたかもしれないなあ」とちよつと思つてはゐる。

上にも書いたやうに、yPad half S で一番使つてゐるのは一週間ごとに見開きであるメモページだ。
見開き一週間で左側がスケジュール、右側がメモになつてゐる手帳が結構好きなんだけれども、これだとメモが書ききれないことが多い。
yPad half S もたまに心配になるけれど、いまのところ足らなくなるといふことはない。そのうちあるかもしれないな。

しかしまあ、なにを云つても佇まひだね、yPad half S は。
なんだか手に取りたくなつてしまふ。
そして開きたくなつてしまふ。
そんな手帳なのだ。
やつがれにとつてはね。
そんなわけでしばらくは yPad half S を使ひつづけるつもりでゐる。

Wednesday, 29 July 2015

部屋が汚くて時間の使ひ方の下手な浪費家がそれでも芝居に行く件

先日、Twitterで「部屋の汚い人は時間の使ひ方が下手で、今がよければそれでいいから後先考へずお金を使ふ浪費癖があり将来への展望なく蓄へもない」といふやうな内容のつぶやきが回つてきた。

自分のことだよ。
まさにそのとほりだよ。

しかし、それでは部屋をきれいにしたら時間の使ひ方も上手になるのか、と考へて、それはない気がした。
時間の使ひ方がうまくなれば部屋はきれいになるのかもしれないとは思ふ。
でも部屋をきれいしたからといつて時間の使ひ方がうまくなるとは思へないのだ。
それとも「部屋をきれいにする」といふ作業を行ふ課程で時間の使ひ方が変はつてきたりするのだらうか。
むう。

いづれにしても、部屋はきれいにしなければならない。
でも即できさうなのは浪費をやめることだ。
必要のないものは買はない。
贅沢品はあきらめる。
芝居へ行く回数も減らさう。

さう思つてゐたはずなのだが、27日(月)、大阪松竹座の千秋楽に行つてしまつた。
すでに17日に見てゐるのに、である。
17日に、これが見納めと思つて見に行つた。
そのはずだつたのだがなあ。

27日に行くことにしたのには理由がある。
「絵本合法衢」はこれを最後に今後はしばらく見られないだらう、もし見ることがあつたとしても、片岡仁左衛門の「絵本合法衢」はこれが最後だらうと思つたからだ。
三年前の国立劇場のときもさう思つた。
だつたらまたしばらくしたら上演されるのぢやあるまいか。
さう考へる向きもあらう。
しかし、おそらく、それはない。
「絵本合法衢」が歌舞伎座でかかるとは思へないし、京都南座でもないだらう。
もしかすると新橋演舞場で、といふことはあるかもしれないが、新生歌舞伎座の開業以来、演舞場では幹部主軸の歌舞伎はかからないやうになつてしまつた。
はじめて「絵本合法衢」を見たのは演舞場だつたけどね。でもあのときは片岡孝夫(当時)も坂東玉三郎もまだ花形役者だつた。

「絵本合法衢」は、記録を見ると1992年の新橋演舞場での上演の前は1980年、その前が1965年とある。
上演のあひだが10年以上空いてゐる。
1992年と2011年のあひだがほぼ20年。
そのあひだ、上演されることがなかつた。
つまらない芝居だからだらうか。
さうは思はない。
なぜといつて、2011年の上演の報を聞いて、飛び上がるほどうれしかつたからだ。
孝夫(当時)の左枝大学之助をまた見ることができる。
新橋演舞場で見たとき、大学之助の血も涙もない極悪の所行に心底参つてしまつた。
なんと悪くてなんとすばらしいのだらう。
冷血でゐて冷徹なさまに、「こんな悪役、見たことない」と思つた。
大学之助は実悪の一なのだらうが、ほかの実悪の役と比べるとやることが狡猾である。
怒りにまかせて殺害を行つてゐるやうでゐて、それを次の悪事に生かす智恵がある。
なにより冷たく冷めた視線がすべてを物語つてゐる。

たぶん、演じる役者がゐなかつたんだらう。
最後の最後まで次々と人が死んでゆき、それも大半は善人だといふ芝居を、おもしろく見せるのは並大抵のことではあるまい。
そして、さういふ芝居はなにも「絵本合法衢」にかぎつたことではないのだらう。

仁左衛門は五代目松本幸四郎のあたり役を演じるといいんぢやないかな。
仁木弾正がさうだし、松王丸とか、「馬盥」の光秀とか、実にいいと思ふ。
以前は感心しなかつた「謎帯一寸徳兵衛」の団七も、いまやつたらとてもいいんぢやあるまいか。
といふのは、演舞場で見たときには「絵本合法衢」の太平次はそんなにいいと思はなかつたのに、国立劇場で見たときには見違へるほどよかつたからだ。

話をもとに戻さう。

そんなわけで千秋楽の日は夜の部の「絵本合法衢」を見に行つた。
ほんたうは、昼の部の「ぢいさんばあさん」も見たかつた。
「下嶋といふ男」にも書いたやうに、今回の大阪松竹座での「ぢいさんばあさん」は今まで見たことのないやうな「ぢいさんばあさん」だつたからだ。
中村歌六の下嶋甚右衛門がよかつたのはもちろん、仁左衛門の美濃部伊織が神に入つてゐた。
美濃部伊織その人にしか見えなかつた。
こんな「ぢいさんばあさん」、もう二度と見ることはない。
さうも思つた。

しかし、千秋楽の日は見に行くのをあきらめた。
浪費するのだもの、せめて午前中くらゐは働かう。
さう思つたからだ。
午前中は働くことで、松竹座に行く言ひ訳にした。
それくらゐしないと、松竹座には行つてはいけない気がしたからだ。

なぜかしら、自分のしたいことをすることに罪悪感を覚える。
ほんたうはこんなことしてはいけないのではないか。
ほかにすべきことがあるのではないか。
「のではないか」ではなくて、いけないし、あるのだ。
それがなにかをわかつてゐないだけで。
いや、わからないふりをしてゐるだけで。
すなはち、部屋の片づけとかだけどさ。

そんな罪悪感をすこしでも軽減しやうと、午前中は働くことにしたのである。
愚かなことだ。

それでも罪の意識はついてまはり、「絵本合法衢」の幕が開くまで消へることはなかつた。
幕が開いて、水門から伊丹屋があらはれるのを見、松嶋屋の最初の殺しを目撃し、花道に播磨屋が登場するのを目にした。
そのたびに「来てよかつた」としみじみ思つた。

だからといつて、浪費した、贅沢をしたといふことにかはりはない。
反省はしてゐる。
でも後悔はしてゐない。

所詮やつがれは部屋は汚いし時間の使ひ方も下手で浪費癖のあるダメ人間なのだもの。

Tuesday, 28 July 2015

栞とか

昨日「タティングレースの栞など作つてゐた」と書いた。
作つてゐたのは、先週も書いた Mary Konior の Black Magic である。
この栞は好きでいくつも作つてゐる。
でも作りはじめるたびに「ああ、さういへばこれ、案外時間がかかるんだつたな」と思ふ。
今回もそれだつた。

Black Magic はリングの直前あるいは直後に前に作つたチェインのピコとつなぐやうになつてゐる。
このつなぎをリングの直前にやるか直後にやるかいつも悩む。
いろいろ試してみて直前の方がきれいにできる気がして今では直前にしてゐる。
このチェイン同士をつないだ直後にリングを作つてまたチェインに戻る、といふ手順に時間がかかつてゐる気がする。
さういふデザインなのだし、そこがまた気に入つてもゐるのだから仕方がない。

リングがちよつと小さめなのももたつく原因なんだな、おそらく。
チェインをつなげて裏返してリングを作つてまた裏返すわけだが、裏返す際にシャトルの糸を調整する必要がある。
リングを作るときよりもチェインを作るときの方がシャトルから出てゐる糸は短い方がよい。
クロバーのタティングシャトルの場合、シャトルに巻いてある糸の量によつては丁度いい長さにすることが不可能なときもある。
また、GR-8 Tatting Shuttle の場合、糸を巻き取るときにいちいち両手でシャトルを持つて戻さねばならない。
GR-8のシャトルがさういふものだといふのは承知の上で、それを上回るよさがあるので気に入つて使つてゐるのだが、Black Magic には向かないよなあ、といつも思ひつつ、今回もGR-8のシャトルで作つてゐる。
だつて好きなんだもん。

そんなわけで、Black Magic はできあがつてゐない。
昨日、急遽大阪松竹座に行くことにして、道中作れたらといふので持つて行つたけれど、新幹線の中では寝てしまつたのでなにもできなかつた。
以前は眠れないこともあつたけれど、最近新幹線の中で寝てしまふことが多い。
ことに東京に向かふときは小田原駅付近に来てからがヤバい。
もうあと少しでつくといふのに、襲ひくる睡魔に勝てないのだ。

Black Magic に着手したのは少し前のことだ。
飯田に行くのにやはり道中なにもしないのはさみしい気がしたのではじめたのだつた。
それをいまごろ取り出してきたのは、ひとつには「The Twirly をつなぐプロジェクト」が大きくなりすぎてしまつたことがある。
もうひとつには、現在満寿屋のMONOKAKIを使つてゐて、栞がほしいと思つたからだ。
この分だと Black Magic ができる前にMONOKAKIを使ひ終はつてしまひさうだなあ。

Monday, 27 July 2015

二足めのヨガソックス

ヨガソックスを仕上げた。

Yoga Socks

並べて見ると、模様を揃へるんだつたなあ、と思ふ。
二本めを編みはじめるときに大量に糸をムダにしないといけなかつたのでやめてしまつた。
糸はムダにはならないかもしれない。
糸が足りなくなつたらそのときに使へばいい。
でもそのときにまた模様が合はなかつたら?
さう思つてそのまま編みはじめてしまつたのだつた。
あと、糸の状態ではどこからどこまでが一模様かわかりづらかつたといふこともある。
次回はチト考へたい。

お手本は「北欧ワンダーニット」のエストニアン・スパイラルのくつ下だ。
本では脚・足ともに28段編むことになつてゐる。
それを脚は45段にして足は28段のままにした。
足部分は、本では一目ゴム編みだけれども二目ゴム編みにした。
履き口の作り目は Twisted German Cast-on、踵の作り目はバックループの作り目を使つた。
伏せ止めは、踵は裏メリヤス編みを編む要領で伏せ止めし、足は二目ゴム編みの止め方を使つた。
糸は Regia Design Line の Arne & Carlos。いい色だ。青い部分がちよつと紫がかつてゐて、スコットランド風にも見える。

足を二目ゴム編みにした理由は、二目ゴム編みの止め方を久しくしてゐないから、とは以前も書いた。
たまにやらないと忘れちやふからね、手が。
二目ゴム編みにして何か違ふか、と聞かれると、とくに一目ゴム編みと違ふところはないやうな気もする。
実際履いてみたときによりメリヤス編み部分が強調される、といふことはあるかもしれない。
それでより模様がよく出る。そんな気がする。

編み終はつてから、なにも編んでゐない。
去年編みはじめて途中で止まつてゐるストールを編むつもりでゐたが、本を出してこないといけない。そこでとまつてゐる。
暑くてなにも編む気にならない、といふこともある。
日曜日は家にゐるときは録画を消化しながら編む。昨日はタティングレースの栞など作つてゐた。

なにを云うても暑い。
こんなに暑かつたことはちよつとないんぢやないかな。
といふのは、夜寝るときに使つてゐるアイスノン系氷枕が、朝になるとすつかりやはらかくなつてゐるからだ。
いままでは朝になつてもそれなりに凍つてたやうな気がするんだけどなあ。
単に床に就いてゐる時間がいままでより長くなつただけだらうか。
うーん、それもある気がする。

それでゐてバスや電車の中は異様に冷えることもあるしなあ。
こんなときは冷房のきいてゐるところに行くとテキメンに眠くなるのだが、今朝は冷えすぎてゐて眠気もさしてこなかつた。

今日で千秋楽といふ芝居も多い。
それですこし落ち着いたら、あみものの本でも出してくることにするかな。

Friday, 24 July 2015

夏のイヴェント

大阪松竹座に行くと、夏の予定はほぼ終はつてしまつたやうな気分になる。
暑さはまだこれからが本番だといふのに。

よくよく考へてみると、人形劇系のイヴェントはこれからなんだな。

五月に「シャーロックホームズの世界展」があつたばかりの横浜人形の家では、今日から9/6(日)まで「ホームズ&ワトソン 推理(ミステリー)の部屋展」を開催する。
前回行つて、NHKスタジオパークでの展示よりずつと見やすかつたし、360度ぐるりと見ることのできたオルムシュタイン校長やモリアーティ教頭が実によかつた。
今回は360度見られる人形があるとしたら校長や教頭以外になつてゐるに違ひない。といふか、別の人であることを期待してゐる。
横浜人形の家には何度か通ふやうかなあ。

長野県飯田市で毎年八月上旬に開催されるいいだ人形劇フェスタにも一度行つてみたいと思つてゐる。
今年は8/4(火)から8/9(日)までの開催だといふ。
行つてみたいと思つてはゐるのだが、例年8/23に飯田市川本喜八郎人形美術館で「死者の書」の上映がある。
今年もたぶんあるだらう。
「死者の書」の上映があつたら行くよなあ。
両方あはせて見られたらいいのにと思ふが、なかなかうまくいかない。
今年は前日に予定が入つてゐるので、「死者の書」の上映にも行けるかどうかちよつとわからない。

渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーでも、毎年八月になるとイヴェントが開催される。
同時にヒカリエにある渋谷区防災センターで「人形劇三国志」や「平家物語」の上映会が催される。
最初の年は「人形劇三国志」のうちから五話を選んで上映して、去年と一昨年とはギャラリーの展示にあはせて「平家物語」の上映をしてゐた。
今年もあるかなあ。
ヒカリエのイヴェントごとは、お知らせが結構直前に出るのでうつかりすると予定がつまつてゐてやりくりに四苦八苦することが多い。
しかもいつも盛況なんだよね。

さうかうするうちに上野の森美術館では大河原邦男展がはじまるし、芝居や落語にも行くし、どれくらゐ行けるかなあ。

Thursday, 23 July 2015

展覧会に行く

今年は例年になく展覧会に行つてゐる。
「今年はさうしやうかな」と、New Year's Resolutions といふには大げさだが、考へてゐた。
考へてゐたわりには、最初が四月の連休に入るちよつと前だつた、といふ出遅れぶりだ。
さう云ひつつも、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーや飯田市川本喜八郎人形美術館にはそれなりに行つてゐるんだけれどね。

最初が明治大学米沢嘉博記念図書館で開催されてゐた「没後20年展 三原順復活祭」だつた。
これを皮切りに、サントリー美術館の「若冲と蕪村」、横浜人形の家の「シャーロックホームズ」展、東京国立博物館の「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝」、世田谷文学館の「植草甚一スクラップブック」、太田記念美術館の「江戸の悪」、三井記念美術館の「春信一番写楽二番」に行つた。
去年まで展覧会には年に二回行くかどうかだつたことを考へると、格段に増えてゐる。

展覧会に行かう、といふか、絵を見に行かうと思ふやうになつた所以は、いろいろある。
ひとつには、三森ゆりかの講演を聞いたからだ。
講演の中で絵本を題材に絵の分析や物語の分析についての話があつた。
内容は三森ゆりかの「絵本で育てる情報分析力 論理的に考える力を引き出す(2)」といふ本に詳しい。
それまで、「絵の見方つてよくわかんないや」と思つてゐた。
この講演で、まづは描かれてゐるものをよく見ることからはじめる、といふことを知つた。そして、描かれてゐるものごとから状況を把握する。
それでいいのか。
さう思つて、しばらくは芝居を見るときにさういふ観点から見るやうになつた。
たとへば「野崎村」は、空は青いから昼間、季節は梅の花の咲くころ、そのうち義太夫が語り出すと「年の内」といふことがわかる。
舞台のほぼ中央には家があつて、その家の周りは田んぼか畑、裏手には川が流れてゐるやうだ。
と、こんな感じだ。

絵本も買つてみた。
友人から教へてもらつた「バムとケロ」シリーズから一冊選んだ。
こものなど細かいところまで描かれてゐて、一枚だけでも気をつけて見るのは大変な本だつたが、これもまた楽しかつた。

さうすると次は展覧会だよな。
それも、抽象画にはまだ早いから、ひとまづ具象的な絵の展覧会。

「シャーロックホームズ」と「植草甚一スクラップブック」とはチト毛並みが違ふけれど、ほかは全部具象的な絵の展覧会ばかりだと思ふ。
実際展覧会に行くと大変な混雑ぶりで、一々分析などしてゐられないことばかりではある。
でも、「絵を見る」といふ目的を持つて行つて見るのと、家でぼんやりと絵本などを広げて見るのとでは、やはり見る側の気合ひが違ふ。

数通ふうちに、あまり疲れなくもなつた。
一昨年王羲之展に行つたときは、帰るころにはすつかり疲れきつてしまつて、ちよつとお茶を飲んで休んだくらゐでは立つて電車に乗るのも無理といつた具合だつた。
それが、いまは展覧会が終はつてそのまま電車で帰るのは当たり前になつてゐる。
力のいれ加減がわかつてきたのかもしれない。

ほかに絵を見に行く理由としては、ヒカリエや飯田の展示をよりよく見ることができるやうになるのではないか、芝居をよりよく見ることができるやうになるのではないか、と思つてゐることがあげられる。
実際はどうだかわからないけれどもね。

そんなわけでこの後はまた横浜人形の家で開催される「シャーロックホームズ」展に行きたいし、大河原邦男展と兵馬俑展には行きたいと思つてゐる。

……あんまり「絵」ぢやないね。

Wednesday, 22 July 2015

下嶋といふ男

七月十七日(金)、大阪松竹座で歌舞伎を見てきた。
昼の部の喜利は「ぢいさんばあさん」だ。
若い鴛鴦夫婦がある事件のせゐで別れ別れになつてしまひ、三十七年の時を経て再会する、といふ芝居である。

ある事件には、夫・美濃部伊織の同僚・下嶋甚右衛門が関はつてゐる。
下嶋は家中の嫌はれもので、ヤな男だ。
伊織は「悪い奴ではないのだが、しつこいのだ」と云つてゐる。
伊織と下嶋とは碁敵でもある。
伊織は都に一年赴任することになつてをり、明日は出立の日だ。
下嶋もまた同様に都へ行く。
伊織と妻・るんとは別れを惜しみたい。
だといふのに、下嶋は伊織を家に呼び、碁の相手をさせて帰さうとはしない。
伊織とるんとの気持ちに思ひ至らないのだ。
伊織の家まで追ひかけてきた下嶋はやつとそのことに気がつき、それでもイヤミをさんざん云つて帰つていく。

都に赴任した伊織は、ある夏の夜、友人四人を招いて酒席を催す。
いい刀が手に入つたその祝ひに、といふのだ。
刀は高価なもので、伊織は不足分を下嶋に借りた。
その下嶋は招かれてはゐない。
その場にゐる友人たちは口々に「下嶋とはつきあふな」「金は早く返してしまへ」とうるさいほどに助言する。
そこへ、酔つた下嶋があらはれる。
下嶋はさんざん悪態をついて暴れ、伊織はたうとう刀で下嶋を斬つてしまふ。

下嶋は、伊織のことが好きだつたんだよね。
といふのは、これまで何度か見た「ぢいさんばあさん」でよくわかつてゐた。
でもわからないこともあつた。
たとへば、伊織はもともとは短気な質であつたといふ。
それを、矯正した。
なほつたのは、るんのおかげだといふ。
伊織とるんとは結婚して三年、といふてゐるから、伊織が短気を起こさないやうになつてからそんなにたつてはゐない。

伊織と下嶋とは碁敵である。
話しぶりからして、長いこととももに碁を打つてゐるやうに感じる。
といふことは、下嶋は短気だつたころの伊織を知つてゐるはずだ。
碁を囲めば、何局かに一局くらゐは伊織が短気をおこすこともあつたらう。
それでなくとも日々の勤めの折々に伊織が怒りを爆発させる姿を見てゐただらう。
そんな伊織の宴の席に酔態で乱入したらどういふことになるか、下嶋にもわかつてゐたはずだ。
それなのになぜ、あんな所行に走つてしまつたのか。
それだけ怒りが激しかつたといふことなのか。

と、まあ、これまではそんなふうに考へてゐたわけだ。

今回「ぢいさんばあさん」を見て、下嶋は伊織の短気な面をあまり見たことがないのだらうといふ気がした。
伊織は、下嶋の前ではすぐにカッとなる姿をあまり見せたことがないのに違ひない。
伊織がカッとなつても、即下嶋があれこれ難癖をつけ、伊織の怒りはなかつたことにされてしまつてゐたのではあるまいか。

下嶋は、普段の伊織を知つてゐる。
短気であることも知つてゐる。
でも自分の前ではそんな姿を見せたことはほとんどない。
ゆゑに思ふのだ。
「美濃部は俺のことが嫌ひだらう」と。
さう思ひつつ、他人の前では見せない姿を見せる伊織を見て、
「いや、待てよ。もしかするとそんなに嫌はれてもゐないのかもしれない」
とも思つてゐたかもしれない。

たぶん、下嶋は伊織だけは自分のことをそんなに嫌つてはゐないと思つてゐた。
家中の嫌はれ者の自分を、伊織だけは多少は好いてくれてゐる。

でも、実は違つた。
伊織の口から事実を告げられて、下嶋は絶望するのである。

今月の配役は、美濃部伊織に片岡仁左衛門、美濃部るんに中村時蔵、下嶋甚右衛門に中村歌六である。
仁左衛門の伊織は何度か見たことがある。
時蔵のるんと歌六の下嶋とははじめて見た。

歌六の下嶋は、すつきりした出で立ちの伊織とは対照的に野暮つたい着付で出てきて「つかみはOK」といふところだし、また喋り方が如何にも「ヤな奴」「しつこい奴」だ。
酔態で出てきたあたりはまさしく下嶋の芝居だつた。
「ぢいさんばあさん」を見て、下嶋についてこんなに考へたのははじめてだよ。

仁左衛門の伊織については、芝居を見た直後に「仁左衛門が神がかつてゐる」とつぶやいてゐる。
先月の「新薄雪物語」の大膳と兵衛もさうだつたが、なんかもう「その人そのもの」なのだ。
伊織役は何度か見てゐて、こんなことを思つたのははじめてだ。
るんと再会するあたりなどは、「ぢいさんばあさん」で泣くかと思つたくらゐだ。
実際、三階席では鼻をすする音をあちこちで聞いた。

時蔵のるんはといふと、一見これといつたことをしてゐるやうには見えないるんであつた。
ちよつと控へめで、姉娘らしいしつかりとしたところもあつて、そして、伊織さまが大好きなるんだつた。

「ぢいさんばあさん」がこんなにいい芝居だつたとはね。
いままでなにを見てきたんだらうね。
松竹座は夜の部だけでいいかな、などと考へてゐたが、とんでもないことであつた。
昼の部も見てよかつた。
昼の部を見るきつかけは「歌六の下嶋が見てみたい」だつた。

これから「ぢいさんばあさん」を見る目が変はるなあ。

Tuesday, 21 July 2015

レース糸の色糸

すこし涼しくなつてきたり、冷房のきいたところに行くと、とたんになにか作りたくなる。
家に帰つたらあんなものを作らうとかこんなものを作らうとか考へて、家に着くと暑さのあまりなにもしたくなくなる。
そんな日々がやつてきた。

「The Twirly をつなぐプロジェクト」は職場の昼休みのうち空いた時間でちよこちよこつづけてゐる。
何度も書いてゐるやうに、大きくなつてきてしまつたので、そろそろ出先で作るのはよしにして、家で作らうかと思つてゐる。

先日、大阪に出かけた折りには、そんなわけで違ふものを持参した。
Lisbeth #40 の牡丹色の糸とシャトルにその糸を巻き付けたもの、である。
Mary Konior の Black Magic が作りかけになつてゐるものだ。
牡丹色なので Black ぢやないけどなー。

Black Magic を黒い糸で作つたことは二回あるかないかだ。
一度だけ指定の DMC Cordonnet Special #40 の黒で作つたことがある。
DMC のコルドネスペシャル40番にはかつて色糸があつた。
そんなにたくさんはなかつたけれど、黒とか赤とか青とか水色とかあつたやうに思ふ。すくなくとも青と水色とは手元に使へぬまま残つてゐる糸がある。
廃番になると、もつたいなくて使へなくなつてしまふんだよね。
黒糸もそんな感じで後生大事に持つてゐたのだが、糸だつて劣化するだらうし、それだつたら使はうといふので、Black Magic を作つた。

DMC、コルドネスペシャル40番の色糸は復活させないのかな。
もうさせないのか。
なぜDMCといふかと云ふと、DMCなら、国内で入手可能になるだらうと思ふからである。
Anchorもあるぢやん、といふ話もあるが、Anchorの40番手はそんなに好みの糸ぢやないんだよね。
DMC Cebelia も同様。
コルドネスペシャルが好きなんだけどなあ。

ところで黒い糸といふのはなぜか結びづらい。
個人的な感想である。
それも、BabiloなどDMCのものだけでなく、オリムパスでも同様だ。
なぜか、結び目にわづかにすきまが空いたやうになる。
気のせゐかもしれないけれど。
染料のせゐなのかなあ。

何度か書いたやうに、オリムパス40番の緑やターコイズブルーの糸が好きだ。
結び目がぱつきりした印象に仕上がるからだ。
どこか乾いたやうな印象の糸なのである。
オリムパス40番ならなんでも一緒だらうと思ふとさうではない。
オリムパス40番の段染糸には、異様にしつとりとした手触りの糸もある。
おなじ糸なのになぜ、と考へて、違ふところは色以外に思ひつかない。
よつて、染料によつて糸の感触が変はるのかな、と思ふに至つたわけだ。
そのとほりかどうかはよくわからない。
最近オリムパス40番もあまり使つてないしな。

かぎ針編みしかしてゐなかつたころは、あまり気にしたことはなかつた。
タティングレースの方が気になるのかもしれない。

と、かう書いてゐるのは涼しいところでだつたりする。
糸の話をしてゐるうちに、いろいろ作りたくなつてきてしまつた。
しかし、家に帰るととたんにその気持ちがしぼんでしまふんだよなあ。
やれやれ。

Monday, 20 July 2015

暑さとの戦ひ

颱風の去つた後、暑い。
いや、来てゐたときから暑い。
蒸して窓など開けても家の空気の入れ換へにはならず、そのまま暑くなつたものだからとにかく暑い。

そんな中、ヨガソックスは足部分に入つてゐる。
今週中には編み終はるだらうか。
そんな感じだ。

編み終はるかどうかは、二目ゴム編みどめをする気力があるかどうかにかかつてゐる。
これはいつもとおなじことだ。
片方編み終はるときに久しぶりに二目ゴム編みどめをやつてみた。
一目ゴム編みのときはあまり考へずとも手が動いた。
二目ゴム編みどめはちよつと考へながらでないとできなかつた。
群ようこの「毛糸に恋した」に掲載されてゐた座談会で、三目ゴム編みどめの方法を編み出した、でも忘れた、なんぞといふ話があつたな。
どうやるんだらう、三目ゴム編みどめ。
二目ゴム編みどめだつてややこしいのに。

そんなわけで、この暑さに負けず、やる気にあふれてゐればできあがるのかな、といつたところだ。
ヨガソックスができあがつたらどうしやう。
去年編みかけのままはふつてあるストールを仕上げるか。
先に手を着けてそのままになつてゐるかぎ針編みのプルオーバーをなんとかするか。
それとも全然別のものを編むか。
悩んでゐる。

去年編みかけのストールは、風工房の本に出てゐたもので、マスタード色が気に入つて編みはじめた。本では赤である。
裏を編むときも増減のあるレース模様で、あまり進んでゐなかつた。
模様はいいし、差し色としていいと思ふんだけどなあ。
と、かう書いてゐても暑いので、ストールなんかいらない、といふ気持ちになつてしまふ。

プルオーバーはなほさらだ。
だつたら暑くても躰にはあたらないから編めるくつ下なり手袋なりを編んだ方がいいだらうか。
そこまでして編むか。
暑さとの戦ひだな。

Friday, 17 July 2015

ただ見てゐるだけ

「絵本合法衢」を見てゐると、「人間国宝の片岡仁左衛門の長男片岡孝太郎にそつくりな」といふやうなセリフがあつた。
朝から大阪松竹座に籠りきりだつたので、その時はじめて「ああ、松嶋屋が人間国宝になつたのだな」と知つた。

たまにかういふことがある。
高校野球の決勝戦の行方とか、内閣総理大臣になるのは誰だとか、芝居の最中セリフに織り込むことがある。
でもまあ今回のはチト格別だつたな。

その少し前、「ぢいさんばあさん」を見て、「仁左衛門は神がかつてる」とつぶやいてゐる。
先月歌舞伎座で「新薄雪物語」の秋月大膳と園部兵衛とを演じたあとでのこの美濃部伊織のよさ。
伊織はこれまでも何度も見てきた。
つひぞいいと思つたことはなかつた。
それが、今日はいい。

孝夫のころから江戸前の芝居やときに新歌舞伎で聞くくどいセリフ回しが苦手だつた。
名セリフの途中で妙にねばるやうな、そんな調子だ。
せつかく声はいいのだから、もつとさらりと云へばいいのに。
ずつとさう思つてゐた。
でも、今年の河内山だつたかな、以前のやうなくどいセリフ回しが、まつたく気にならなかつた。
気にならなかつたどころか、「いいぢやん、これも」と思ふほどだつた。
聞くこちらがあのセリフ回しに慣れたといふことなのかもしれない。
しかし、云ふあちらも、以前とおなじやうに云つて、しかもなほ自然に聞かせる術を身につけたのかもしれない。

「絵本合法衢」の太平次もさう。
新橋演舞場で見たときに、孝夫(当時)の左枝大学之助のすばらしさはわかつたけれど、太平次はさうでもなかつた。
有り体に云ふと、あまり関心しなかつた。
愛嬌が上滑りするといふか、ね。
それが三年前に国立劇場で見たら見違へるやうに太平次がよくなつてゐて、「生きてるだけでいいことつてあるんだなあ」と思つた、といふ話は以前書いたやうに思ふ。

今回の大阪松竹座もまさにそんな感じで、「ぢいさんばあさん」がこんなにいい芝居だつたなんていままで思つたこともなかつたし、「絵本合法衢」は三年前もよかつたけれど、今回は場所柄も手伝つてか、さらに殺し場が陰惨味と迫力を増してゐたやうに思ふ。

生きてゐるとイヤなことも多い。
しかし、自分はなにもしてゐないのに、いいこともある。
さういふことなんだな、多分。

一言、「おめでたうございます。嬉しく思ひます」とのみありぬべきを。
わかつてはゐてもあれこれ書いてしまふのがよくないところである。

Thursday, 16 July 2015

芝居のとき何か書きたくなつて

芝居を見てゐる途中で無性にメモを取りたくなるときがある。
以前は取ることもあつた。
はじまる前からメモ帳を開いておき、芯を出し入れするときに音のしない筆記具を手にして、筆記具の先が紙についたりはなれたりしても音のしないやうに、字を書くときも音のしないやうに書く。
できないことはない。
できないことはないけれど、やめた。
以前も書いたやうに、そのほかの上演中にメモを取る人々と同類だと思はれたくないからだ。

やつがれの知るかぎり、上演中にメモを取る人は音に鈍感である。
平気でボールペンやシャープペンシルをかちかち云はせて芯を出し入れし、ペン先が紙にあたつてはなれるときの音を気にもしない。
あれ、なんなんでせうね。
本人は音など出してゐないつもりなのか。
それとも芝居の間だからいいとでも思つてゐるのか。

あと、視覚や聴覚に訴へるものつて、ことばにしたとたん抜け落ちる情報がものすごく多いから、といふこともある。
ことばにしなければ伝はらない。
それも事実なのだけれども、たとへばこの世のものとは思はれぬほど美しい役者がゐたとして、「この世のものとは思はれぬほど美しい」と書いた時点で「なーんだ、そのていどか」といふことになつてしまふ、といふことはある。
「この世のものとは思はれぬほど美しい」と表現されたものなど、これまでに掃いて捨てるほどあつた。
その末席にひとり加へる、そのていどのことになつてしまふ。
語彙が乏しいから?
それはある。
もつと語彙を増やして表現も増やして、的確に書けるやうになればこの懸念ももう少し減るのだらうとは思ふ。
それでもなほ、ことばによる限界は如何ともしがたい。

ところで、先日世田谷文学館の「植草甚一スクラップ・ブック」展に行つてきた。
植草甚一は、試写会で大量にメモを取つてゐる。
いまより小さめで縦横比でいふと横が狭いステノグラファーに走り書きで、ときにはちよつとした絵なども加へて書いてゐる。
つまらなかつた映画だらうか、「ここでメモを取るのがいやになつた」なんぞといふメモもあつた。

植草甚一は、大抵の人(おそらくは映画評論家)が一部分しか覚えてゐないくせに映画についてとやかく云ふのが許せなかつたのらしい。
淀川長治と双葉十三郎と、あと一人だれだつたかの三人だけは別で、この三人は映画全体をよく覚えてゐる、と書いてあつた。
試写会上映中にメモを取つてゐたのは、映画全体を覚えておくためだつたのだらう。

しかしだよ。
さうやつてメモを取らないと覚えてゐられないやうな内容の映画つてどうなのよ、とも思ふ。
芝居もまた然りで、メモなんぞとらなくても残つたものこそ重要なんぢやあるまいか。

文楽とか歌舞伎とか、「お勉強」と思つて見てゐる人々もあるから、仕方がないかなとは思へども、「お勉強ならおうちか学校でやつてね」と云ひたいところをいつもぐつと堪へてゐる。
自分もメモを取りたいと思ふからだ。

やはりメモしたいときはある。
ものすごーくいいセリフのときとかね。
歌舞伎座のさよなら公演のときにかかつた「筆法伝授」の中村吉之丞のセリフがそれはすばらしくてね。
文言だけメモしたところでそのすばらしさは残らないとわかつてはゐても、あのとき無性にメモを取りたいと思つた。
取らなかつたけどね。

と、あれこれ書いてゐるのは、今月歌舞伎座でメモを取りたいなと思つてゐるからだ。
久しぶりに禁を犯してメモを取つてしまふかもしれない。
もちろん音をたてないやう万全を期しての上だけどな。

Wednesday, 15 July 2015

新しい古いノート

満寿屋のMONOKAKIを使ひはじめた。

MONOKAKI

買つたのは三年前のことだ。
そのときはいろいろ書く用手帳として Smythson の Panama を使つてゐた。初Panamaだつた。
MONOKAKIは最初のうちは長文になりさうなものを書くのに使つてゐた。
そのうち Panama にも長いものを書きとめるやうになつた。
当時人生何度めかの漢詩ブームがきてゐて、MONOKAKIは気に入つた詩を書き写すノートになつた。
ブームは去らずにまだつづいてゐるが、あまり書き写すこともなくなつて現在に至つてゐる。

今回、途中のページからいろいろ書く用ノートとして使ふことにした。
使ひはじめてまづ驚いたのが、筆記するときの感触がとてもやはらかいことだ。
うーん、MONOKAKIはもつとかたい印象だつたんだけどな。かたいといふか、乾いてゐるといふか。
よくよく考へてみると、それはアサヒヤ紙文具店のクイール・ノートの書き味だつた気もする。
クイール・ノートも満寿屋の原稿用紙に使はれてゐる紙を使つたノートだ。
クイール・ノートの書き味の印象はかたい。比較対象にもよるけれど、これまで使つてゐたMoleskineなどよりはさらりとした印象がある。
MONOKAKIはMoleskineとさう変はらない感じがするんだよなあ、やはらかさに関しては。
それでゐて、紙に記されるペンの線は細い。
Moleskineだと中細字か中字かと思はれるやうな線になる細字のペンも、MONOKAKIに書くときつちり細字の線になる。ここはクイール・ノートとおなじだ。
やはらかく感じるのは気温や湿度の関係なのかなあ。
いづれにせよ、やはらかい書き味が好きなのでとても気分よく書いてゐる。
#などと云ひつつクイール・ノートも好きなのだが、それはまた別の話。

MONOKAKIはサイズもいい。
やつがれのMONOKAKIはB6だ。
これまで使つてきたのは、トラベラーズノートをのぞき、Moleskine のポケットサイズか文庫サイズの手帳ばかりだつた。
このサイズのよいところは、持ち歩きに便利なところだ。
机の上のスペースもあまりとらない。
でも、ちよつと長い文章を書くときに「もうすこし大きければなあ」と思ふことしきりだつた。
だけど、大きいと持ち歩くのが不便だし、カバンにも入らないかもしれないし。

さう思つてゐたけれど、B6なら問題ない。
A5だとちよつと大きすぎる。場所もとるし、1ページ1内容を実現しやうとするとムダな空白が多くなるサイズだ。
B6はいいね。こんなにいいとは思はなかつた。
サイズは個人の好みによるところが大きい。
いまは気に入つてもそのときどきによつて変はることもあらう。
しかしこのサイズ、気に入つたな。
次もB6にしやうかと思ふくらゐである。

ただし、B6だとMoleskineのポケットサイズほどには気楽に取り出せない。
それにMONOKAKIに1行だけなにか書き記す、といふのもなんだかもつたいない気がする。

といふわけで、以前も書いたやうにちよつとしたメモ書きにはRhodiaを使つてゐる。

Rhodia

Rhodiaはこれまでも伝言だとかその日その場でしなければならないことのメモなどに使用してきた。
書いたメモはほぼすべて捨てるものばかりだつた。
今回、捨てないメモもRhodiaに書いてゐる。
捨てないメモだつたらRhodiaではなくてノートに書くべきぢやあるまいか。
さんざん迷つたけれど、いまのところ、まあ、なんとかなつてゐる。
捨てないメモはRhodiaのカヴァの入つてゐた箱に入れてゐる。
少し放置して、それから取捨を決める予定だ。
そんな時間が取れるのかどうかはそのときにわかる。
カヴァにさしてゐるのはセーラー万年筆のルクルだ。ナガサワ文具センターの多聞パープルグレーを入れてゐる。
紫色の罫線に紫色のインキはどうかと思つたが、インキが落ち着いた色なので競合するといふことはない。

インキといへば、これまでMoleskineを使つてゐたため休ませてゐたペンに順次インキを補充してゐる。
どれもMONOKAKIになら問題なく使へる。
そんなことがたまらなく楽しい。

Tuesday, 14 July 2015

Tatting Keeps Me Sane.

The Twirly をつなぐプロジェクト進行中である。
でも昨日タティングシャトルの糸がなくなりさうなことをすつかり失念してをり、レース糸を持参するのを忘れたため、ちよつとしか進めなかつた。
しかし、先も見えてきたわけだし(といひながらまだこれまでつないできたのと同じ数のモチーフをつなぐのだが)、「これなら完成できさうだ」と思ひながら結んでゐる。

一応説明をしておくと、The Twirly は Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフである。六角形で風車に似た形をしてゐる。
このモチーフをたくさんつないで最終的にはちよつと壊れた大きな六角形にするのが「The Twirly をつなぐプロジェクト」だ。

さて。
夕べ、「Knitting keeps me sane... sort of.」とつぶやいた。
ここのところちよつと「編み気」が落ちてゐる、といふ話は昨日書いたとほりである。
でも世間一般からすると編んでゐる方なのぢやあるまいか。
「世間一般」といふのがなにをさすのかはさておき、やつがれが一週間にあみものに割く時間は世界の全人口の一週間における平均あみもの時間よりも多い。
おそらく多い。
タティングレースに関しては明らかに多いと信じてゐる。

編み気が落ちてゐるのに、それでも編むのはなぜか。
編まないと買ひ込んだ毛糸が減らないから、といふのも理由だし、あみものさへしてゐればなにかしら生み出すことができるから、といふのもさう。

でもまあ、正気をたもつため、といふのもある意味あたつてゐるのかもしれない。
正気をたもつため、といふのは大げさかな。
平静をたもつため。うん、この方が近いかな。

ここでも何度も書いてゐるやうに、Yarn Harlot がそんなことを書いてゐる。
カナダでも病院や銀行や郵便局などでは長いこと待たされるものなのらしい。
さういふときに平静な気持ちをたもつため、編む。
Yarn Harlot aka Stephanie Pearl-McPhee は、病院や空港などで編んでゐると、編まない人(non-knitters、だな)から話しかけられ、最終的には「わたしにはとてもそんなことはできないわ。時間がなくて」といふやうなことを云はれる、といふやうなことも書いてゐる。
「いや、でも、いまここで私と話してゐるその時間はどうなの。あなたもわたしとおなじやうに待つてゐて、それで時間がないつて、ご冗談でせう」といふやうなことも書いてゐる。

また、「編む人(knitters)は、賢いからつまらないことをおもしろくするために編むのだ」といふやうなことも云つてゐる。

病院などで待たされる長い時間、とくに病院はいつまで待たされるかわからないところだ、さういふところで過ごす無為の時間を楽しく過ごすために編む。
さうだよねえ。
大抵の人は本を読んだりするのだらうが、編む人は編むのである。
さうして延々と待たされる無限地獄から逃れるのだ。

あみものは、やつがれにもそんな感じの効用をもらたしてくれる。
そして、タティングも。
あみものほどではないが、タティングでも「Tatting keeps me sane.」といふ人はゐる。
思ひはおなじだらう。

そんなわけで今日も The Twirly をつなぎつづける。

Monday, 13 July 2015

ヨガソックスとダメの人

二足めのヨガソックスの片方を編み終はつた。

Yoga Socks in Progress

即もう片方に着手するのがくつ下や手袋を完成させる秘訣である。
ここでも何度も書いてゐる。

脚部分は、一足めは50段編んだけれど、今回は45段にした。
ちよつと短いかなあ。
なにをもつて短いとするかは微妙なところだが。
足部分は、予定どほり二目ゴム編みにした。
一目ゴム編みとなにか違ひがあるか、と訊かれると返答に困る。
単に試してみたかつただけだからだ。
二目ゴム編みにしたらどうかなあつて。
履き心地もさることながら、模様の出方が一目ゴム編みとは違つてくるんぢやあるまいか。
さう思つたのである。
あと、最近二目ゴム編みのとめ方をやつてゐないので、久しぶりにやつておきたかつた、といふのもある。
やらないと忘れるからね。

それにしても進みが遅い。
6/30に編み始めたから、片方編み上げるのに二週間近くかかつてゐる。
をかしいなあ。
もうあんまり編みものは楽しくないのだらうか。
さう思ふとちよつとさみしい。

昨日Twitterで「部屋の汚い人は時間の使ひ方が下手で、いまさへよければいいから浪費癖がある」といふやうなつぶやきが流れてきた。
さうだつたのか。
やつがれは時間の使ひ方が下手だつたのか。
云はれてみればうなづけることばかりである。
たとへば日々一杯一杯な気分で暮らしてゐる。
どうすればこの一杯一杯な気分から逃れられるのか、これまた日々模索してゐる。
模索しても一杯一杯だ。
なるほど、時間の使ひ方が下手だからなんだな。
それでいつでも「もうこれ以上は無理」といふ状態なんだな。

浪費癖についてはもうほんとにそのとほりで、今月もなんとか松竹座の千秋楽に行けないか知らんなどと考へてゐる。
ほかにすることがあるだらう。

時間の使ひ方についてもさうなんだな。
ほかにすることがあるだらう。
さういふことなんだと思ふ。
それこそ部屋を片づける、とかさ。

部屋を片づけはじめたら、それこそあみものなどしてゐる暇はない。
ほかのことはなにもできなくなるだらう。
さう思ふから、つひ片づけよりもあみものその他を優先させてしまふ。
さうか、これもまた時間の使ひ方が下手といふことか。

たまにやらなきやといふので片づけをはじめることがある。
だが、ものすごい状況なので、一カ所片づけるのにも異様に時間がかかる。
途中でイヤになつてしまふが、そのままの状態にすると足の踏み場がないからイヤイヤながらもなんとか通れるくらゐには片づける。
これでなにもかもイヤになつてしまふんだな。

と、自分が如何にダメな人間であるか、延々考へてしまつて、「ダメだなあ」と思ひながら布団に入り、「なんてダメなんだらう」と思ひながら布団から出た。

月曜日からこれだよ。

ダメなことはわかつてはゐるけれど、具体的にどこがどうダメかと云はれるときついのは、「自分はダメだダメだ」と思つてゐても心のどこかで「さうダメでもない自分もゐる」と思つてゐるからだらう。

そんなことないから。

Friday, 10 July 2015

Writer's Block といふわけではなけねども

日々の雑記用に使つてゐるMoleskine ポケットサイズも残すところ3ページほどとなつた。
だいたい二ヶ月で一冊のペースだ。
以前は三ヶ月に一冊くらゐだつた。
前回Moleskineを使つたときだつたか、それともそのひとつ前くらゐからか、二ヶ月に一冊くらゐのペースになつてゐる。

ペースの変はつた所以は、「とりあへず思ひついたことはなんでも書かう」と思ふやうになつたからだ。
そもそもMoleskineをはじめとする雑記用手帳を使ふやうになつたきつかけは「とりあへず思ひついたことはなんでも書かう」といふことだつた。
すでに前人もいろいろ云つてゐる。
「とりあへず思ひついたことはなんでも書かう」と誓ひながら、案外「あ、これ書いておかう」と思つても案外人は書かないものなのだ。
書き記すものが手元にあつても、だ。

世に「writer's block」といふことばがある。
作家などが壁にぶちあたるなどして一時的に書けなくなることを指すのらしい。
俗に「スランプ」ともいふ。
それとはまつたく違ふけれども、なにか、書き記すことを妨げるものがある。
そんな気がする。

たとへば、以前は雑記用手帳に芝居のことなどほとんど書かなかつた。
書くとしたら見てきた芝居の感想だけだつた。
ときどき頭にふつとわく「あの役者でこんな役を見られたら」だとか、「あの役者とあの役者であの芝居をやつたら」だとか、過去に見てたまに思ひ出す芝居の話だとか、さういふことは一切書かなかつた。
意図して書かなかつたわけではない。
おそらく、無意識のうちに「それは書きとめるに足らぬもの」と判断してゐた。
block があつたわけだ。

なぜ書かないのか。
書きとめはじめて、その理由がわかつた気がする。
まづ、とめどがない。
書きはじめると延々と書いてしまふ。
しかも、下手すると次の手帳に変はつたらまたおなじことを書いてゐるやうな気もする。

あみものやタティングレースのこともほとんど書かない。
「今度あれを編まうかな」とか「あれを作りたいなあ」とか、さまざまなことが脳裡をよぎる。
でも手帳には書かなかつた。
これもおなじことを何度も書いてしまふからなんぢやないかな、といふ気もする。

おなじことを何度も書かないためには、一度吐き出したらそれをまとめておく必要がある。
そしてまとめたものを折に触れて見返す。
使つてゐる手帳に書いてあれば見返すこともあるし、Moleskineは見返したくなることにかけては最高の部類のノートである。
でも、次の手帳になつたら、まあほとんど見ないね。
使ひ終へた手帳は家にある。
家にゐる時間なんて、一日のうちどれほどもない。
したがつて、見返してゐる時間がないのだ。

それに気がついて、何冊か職場に置くやうにしてみた。
今度は置き場所が拡散してゐるのが気になる。
まあ、なにかとうまくいかないわけだ。

まとめた情報は電子データにしていつでも見られるやうにしておく、といふのも手なんだけどね。
実際、さうしてゐるものもある。

なぜかこれまであまり書かなかつた芝居の話やあみもの・タティングレースの話は、書き出してみると楽しい。
なんでこんなに楽しいことをいままで書かずにきたのだらう。
我ながら不思議に思ふほどだ。
なにが壁だつたのかね。
実際に動きはじめないと脳はやりたがらない、といふアレなのかな。

思ひついたことをなんでも書きとめるやうにすると、そのうち段々書きとめるべきこととさうでないことの区別もついてくるのだといふ。
残念ながらやつがれはいまだその段階に至つてゐない。
そのうち至るだらうと信じてゐる。

Thursday, 09 July 2015

散漫でもいい

嶋浩一郎のアイデアのつくり方」を読んだ。

この本を読んで一番よかつたことは、「整理整頓できなくてもいい」「散漫力の持ち主でもいい」といふところかな。
幼いころからずつと自分ではダメだと思つてきた部分を「それでもいいんだよ」と云つてくれる。
まあ、ほんとはそれではダメだし、許されるのは嶋浩一郎レヴェルの人間だけなんだらうけれど、でもダメな自分を肯定してくれるといふ点では稀有な一冊である。

この本は、たまたま駅にある本屋に立ち寄つたところ、面陳されてゐた。
ぱらぱらとめくつてみたら、おもしろさうだつたので買つてみた。

と書けばかんたんなのだけれども、買ふまでには紆余曲折があつた。
面陳されてゐるくらゐだから、最近出版されたものだらうと思つたのが発端だ。
だからよく行く本屋で買はうと思つた。
ところがその本屋には在庫がない。
閉店されると困る本屋をほかにいくつか回つて、やはりない。
仕方なく駅の本屋で買つた。

奥付を見て納得した。
かなり以前に出版された本なのである。
2007年とあるから、8年は前の本だ。
なんでこれが面陳されてゐたのか。
謎は深まるばかりである。

おかげでこの本に出会ふことができた、ともいへるがね。

しかし、なぜ今まで知らなかつたのだらう。
8年前だつたらライフハック系のblogやサイトをすでに巡回してゐたはずだ。
それに、「アイデアのつくり方」といひながらこの本には、Moleskine(「モールスキン」と表記してゐるところが実に好ましい)やペリカーノJrへの愛が語られてゐる。
文房具系のblogやサイトで紹介されてゐてもをかしかなかつたはずだ。

Web検索をかけてみると、出版当時ライフハック系のサイトなどでもすこしは紹介されてゐたやうだ。
しかし、それほど大きくとりあげられてはゐない。
思ふに、ライフハック系のblogやサイトの主になるやうな人は、整理整頓が大好きなのに違ひない。
したがつて、本書のやうに散らかし放題を推奨し、「情報はラベルをつけたら死ぬ」といふやうな考へ方には組みしない人が多いのだらう。

やつがれはといふと、家の中は人をあげられないやうな状況だし、職場の机の上はさしてものがあるわけではないものの、なんとなく雑然としてゐる。引き出しの中も同様だ。
これではいけないとずつと思つてゐて、この本を読んだあともやはり「このままぢやいけないよね」と思つてはゐるのだが、しかし、「それでもいい」と云はれるとやはりなんだか安心する。

本書に出てくる「散漫力」といふことばも心強い。
やつがれにはとにかく集中力といふものがない。
……と書いて、ないのは集中力ではなくて根気だつた、といふ話は以前も書いたことを思ひ出す。
羽生善治が自著の中でさう書いてゐた。
将棋を指してゐるこどもは対局中でも隣の盤面を覗いたりして落ち着きがないが、それは根気がないからだ。集中はしてゐる。そのときどきで自分の盤面や隣の盤面に集中してゐる。ただその集中力を持続する根気がないのだ、と。

いづれにしても、集中力がない。
周囲からはさう見えるだらう。
自分だつてずつとさう思つてゐたのだから。
したがつて、散漫力ならある。
それを「力」ととらへるのなら。

散漫力があるといふことは、なにごとも拡散しやすいといふことだ。
すなはち、家の中のエントロピーが増大しやすい、といふことでもある。

マインドマップをかいてはすぐやめてしまふのもそのせゐだ。
かいて、拡散するだけ拡散する。
枝が四方八方に伸び、関連すると思へることはほぼすべて書き出すことができる。
だが、そこで止まつてしまふのだ。
そこから集約することができない。
散漫力の持ち主だからである。

そこで、役立つだらうと思はれるのが、この本に出てくる「情報の接着剤」の話だ。
ランダムにならんだ情報の共通項を見つけてひとくくりにしてみる。
それかー。
たとへば、週刊誌の車内吊り広告でもいい。
まつたく無関係な見出し同士の共通点を見つけてひとくくりにする。
さういふ訓練をする。
自分に足りなかつたのは、それかー。

といふわけで、情報の収集についてはそんなに一生懸命やつてはゐない。
ひとまづは「情報同士の接着」に注力してみるつもりである。

Wednesday, 08 July 2015

先行作品に似てゐても

「マッドマックス 怒りのデス・ロード(以下「怒りのデス・ロード」)」は見てゐるうちに「ペルシア親子(T^T)」と思つたのだが、「マーベル・アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン(以下「AOU」)」は予告篇を見たときに「なんだ、キャシャーンか」と思つてしまつた。
この違ひはなんだらうか。

「AOU」はまだ見てゐないので、見たら「おおおおお、キャシャーンだ!」と思ふのかなあ。

といふのは、「TIGER & BUNNY」を見てゐたときに「キャシャーンで「シメール」なのか!」と思つたからだ。
先行作品に似てゐることが悪いわけぢやあない。
取り入れ方次第だ。

だいたい先行作品に似てゐるのがダメだつたらお浄瑠璃や歌舞伎は見られないもんね。
現在歌舞伎座で「与話情浮名横櫛」といふ芝居がかかつてゐる。
通称「切られ与三」。
お富与三郎とも呼ばれるこの芝居の男女逆転版がある。
人呼んで「切られお富」。
そのまんまぢやん、と云はれればそのとほりなのだが、そこはそれなりに工夫がこらされてゐる。

あるいは「盟三五大切」といふ芝居がある。
これは「五大力恋緘」といふ芝居を元にした話を忠臣蔵の世界にぶちこんだ芝居である。
これを見て、「なーんだ、忠臣蔵かー」と思ふ人はたぶんゐない。
ゐても「え、忠臣蔵だつたの?」だらう。
「五大力恋緘」については「あの芝居をこんな風に変へちやつてまあ」と思ふに違ひない。

先月歌舞伎座で「新薄雪物語」がかかつた。
この芝居の「花見」の段をそのままもつてきたのが「青砥稿花紅彩画」だ。「青砥稿花紅彩画」は別名「白浪五人男」ともいふ。
「白浪五人男」には、「楼門五三桐」といふ芝居から石川五右衛門が南禅寺の山門に上つて「絶景かな絶景かな」とやらかすあの場面をそのまま持つてきた場面がある。
客は文句を言ふだらうか。
「新薄雪ぢやん!」だとか「五右衛門ぢやん!」とあげつらふだらうか。
さういふ人もゐるかもしれないが、大抵は「ああ、これはあの芝居のあの場面からとつてきたんだな」と思ふ。
その程度である。

先行作品に似てゐる、あるいは先行作品から設定を借りてくる、それは悪いことではない。
最近は著作権だのなんだのと喧しいけれど、昔からみんなやつてゐることだ。

「AOU」について云ふと、予告篇で「なーんだ、キャシャーンか」と思つてしまつた、といふのが大きい。
見る前からわかつてしまつてゐる。
そこが評価の低くなる所以なのだらう。

そこらへんは個人的な嗜好による部分も大きい。

たとへば「ドラゴンボールZ 神と神(以下「神と神」)」と「ドラゴンボールZ 復活のF(以下「復活のF」)」とではどちらがおもしろかつたか。
やつがれは圧倒的に「神と神」なんだな。
「復活のF」は見てゐて、「あ、これは伏線。あれも伏線。あれは回収したけどこつちはまだだなー」とか思ひながら見てしまつて、全然楽しめなかつた。
「神と神」はさういふことがなかつた。
伏線をあからさまに提示されると、物語に入り込みづらくなつてしまふんだよね。
一歩引いて読んでしまふ、といふか。

世の中には一歩引いて鑑賞した方がおもしろい物語もあるのだらうと思ふ。
あるいは一歩引いて鑑賞すべき物語もあるのかもしれない。
さういふ物語はあまり好きぢやないんだな。

「復活のF」は見たところ「おもしろかつた」といふ意見が多いので、きつとおもしろかつたのだらう。
フリーザさまはまちつと活躍すると思つてたんだけどなー。

そんなわけで、「AOU」を見に行く気はすつかりそげてゐる。
したがつて、やつがれの中では「AOU」は今後ずつと「なーんだ、キャシャーンか」でありつづけるやうな気がする。

それはそれでもつたいない気もするんだよなあ。

Tuesday, 07 July 2015

タティングレースの新刊を見て

今年に入つて、タティングレースの新刊を二冊ほど目にした。
一冊は二月の終わりごろ、もう一冊は先月の終わりごろ出版されたのだといふ。

どちらもまだ入手してゐないし、いまのところ入手する予定はない。
本屋の店頭でぱらぱらと見た感じだと、これまで出版されてゐるものとさう変はつたやうすがないからだ。

以前は、タティングレースの新刊といふだけで一も二もなく買つてゐたものだつた。
次にいつ出るかわからない。
店頭からなくなつたら、もうめぐり会へないかもしれない。
さう思つてゐたからだ。

それが、ここのところ年に二冊くらゐは出版されるやうになつてきた。
そして、なんとなく内容がかぶるところがあるやうに思はれてきた。

たとへば、あみものの本の場合、作り目や増減目、ふせどめやとじはぎの仕方は、大抵本の最終ページ付近にあつて、そんなに詳しく出てゐるわけではない。
初心者向けの本の場合は詳細な行程が写真付きで紹介されてゐることがある。
そんな感じだらうか。

一々「編み針とは」とか「とじはぎに使ふ針とは」などとつた説明はない。

タティングレースは違ふ。
まづ「タティングシャトルとは」といつた道具の説明にはじまつて、甚だしい場合はシャトルへの糸の巻き方を説明したのち、ダブルスティッチの作り方の説明が出てくる。
以下、ピコの作り方とかつなげ方とか延々つづく。

これ、必ず載せないといけないんですかね。

以前、藤戸禎子の本で普段あまり使はないやうな技法以外の説明は一切なし、といふものがあつた。
それでいいんぢやないかなあ。
初心者向けの詳しい説明はほかの本に譲つて、ひたすら作品の写真と編み図、特殊技法だけ載せたタティングレースの本が、そろそろ出てきてもいいんぢやあるまいか。
だつてさういふ本はもうあるのだもの。

あみものでできてタティングレースでできないはずがない。
さう思ふ一方で、あみもの人口とタティングレース人口の差を考へて、仕方がないのかな、とも思ふ。
あみものなら、どーしてもわからないことがあつたら家族や友人に訊けばやり方を知つてゐる人もゐるかもしれない。
タティングレースは、まづないな、さういふことは。
「このドイリーの作り方がわからないなー」と思つても、周りに訊ける人がゐない。
さうすると、タティングレースの本にできるだけ詳しい説明が載つてゐた方がありがたい。

さういふことなのかな。

ところでタティングレースの最新刊には糸始末の方法として結んで切るか縫ひ針で縫ひこむかしか出てゐなかつた。
Magic Thread とか、異端なんですかね。
リングやチェインを作りながら糸端を始末していく方法とかも、だめなんだらうか。
最初は手間だけれども、こつちの方がかんたんだしきれいにできると思ふんだがなあ。

Monday, 06 July 2015

ヨガソックス完成

ヨガソックスができあがつた。
Yoga Socks

林ことみの「北欧ワンダーニット」に出てゐるエストニアン・スパイラルのくつ下を、Regia Design Line Arne & Carlos で編んだものだ。

編み方は以下の通り。
針は2.5mmの五本針を使つた。
作り目の数は本の通りにした。
作り目は Twisted German Cast-on を使用し、一段目は裏メリヤス編みにした。
脚部分は本では28段だが、50段編んだ。
踵部分の伏せどめは裏メリヤス編みを編む要領でとめた。
踵部分の作り目はバックループの作り目にした。
甲部分は本の通り編んで、伏せどめは一目ゴム編みの伏せどめにした。

Twisted German Cast-on は、普通の指でかける作り目といはれてゐる Long Tail Cast-on より伸縮性があるやうな気がして選んだ。

作り目の次の段を裏メリヤス編みにしたのは、編み地をすこしでも平らにしたかつたからだ。
即模様編みをすると編み地が裏返つてしまふ気がしたんだよね。

脚部分を長めにしたのは、毛糸をギリギリまで使ひたかつたから。

裏メリヤス編みを編む要領でとめたのは、その方が普通に伏せどめするよりも伸縮性があると思つたから。

甲部分が28段なのは、そろそろ毛糸の残りが心配になってきたから。

こんなところかな。

模様はできるだけ合はせてみたつもりだけれども、踵に入るところでずれたね。
ここはもうちよつと気を遣つて多少段数が増減しても模様が合ふやうにするべきだつたな。

エストニアン・スパイラルはバイアスになるので脚部分はもつと細くなるものと思つてゐた。
思つてゐたほど細くならなかつたね。
かけ目があるからかなあ。
履いてみてもきつい感じはしないので、これはこれでよし、かな。
Jaywalker だともつと細くなるよね。

編みはじめるときには、寒くなつてきたときに足首をあたためるのに使へたらと思つてゐた。
実は案外いまの時期にも役立つ。
蒸して暑いけれど、気温自体はそんなに高くないので足先が冷えることがある。
そんなときはヨガソックスの出番だ。
つま先部分がないから最初は物足りない気がするけれど、履いてゐるうちにほのかにあたたかくなつてくる。
いいぢやあないか。

といふわけで、次も編みはじめてしまつた。

Yoga Socks in Progress

これも Regia Design Line Arne & Carlos で編んでゐる。
こつちの色合ひの方が好きだなー。

こちらは脚部分をもう少し短くして、甲部分は二目ゴム編みにするつもりでゐる。
模様合はせはどうしやうかなあ。
前回もしないつもりでゐたけれど、今回は思ひきつて合はせないで編んでみるかなあ。

Friday, 03 July 2015

赤青鉛筆

赤青鉛筆が嫌ひだつた。

赤青鉛筆

赤青といふが、実のところ朱紺である。
この朱と紺との組み合はせがどうにもうつくしくない。
幼児のころにはさう見えた。
朱色で塗つたとなりに紺色を塗ると、妙ににごつた色に見える。
これはいまも変はらない。

もうひとつ、嫌ひな理由は、赤青鉛筆は教師の使ふものと思つてゐたからだ。
これを理由とは認めたくない。
でもおそらくさうなんだと思ふ。
テストやかきかたの提出課題が返つてくると、赤青鉛筆であれこれ書かれてゐる。
あれがイヤだつたんだらうな。
だが待てよ。
記憶の中の担任は、朱色のフェルトペンのやうなペンを使つてゐたやうな気がする。
だとしたら赤青鉛筆の記憶はみづからの捏造か。
それはあり得る。
いづれにせよ、赤青鉛筆は自分より上位の人間が「あなたは間違つてゐる」と伝へるときに使ふもの、といふ意識があつた。
認めたくないけどあつた。
あつたんだらう。

あと、これは細かいことなんだけれども、紺色側の削り際に朱色が覗くのも好きではなかつた。
多分、軸の部分はまづ朱色を塗つてその上から半分だけ紺色を塗るんだらう。
きつちり半分に塗れないのか。
以前はさう思つてゐた。

かくも嫌ひな理由のある赤青鉛筆をなぜ使ふやうになつたのか。
あみものをするやうになつたから、だらう。
以前も書いた気がするが、あみものをするやうになつてから好きな色の幅がものすごくひろがつた。
あみものをする以前だつたら黄色なんて自分からはまづ選ばない色だつた。
それが、黄色い毛糸を買ふやうになつた。
最初はやはらかいたまご色のやうな色だつた。
そこからさまざまな色合ひの黄色い毛糸を買ふやうになつた。

朱色も以前は好きな色ではなかつた。
そもそも赤色系が好きではなかつた。
それが、いつしか赤い毛糸を買ふやうになつてゐた。

赤にもいろいろある。
朱色系だつたりマゼンタ系だつたり、明るかつたり暗かつたり。
如何にも赤といふ色よりも、暗くてちよつと青みがかつた色を選ぶことが多いかな。
しかしさういふ色よりも朱色系の方が自分には合ふかな、といふ気もする。

さうして好きな色が増えたところに、赤青鉛筆だ。
いいぢやあないか。
これも以前書いたやうに思ふが、やつがれは蛍光ペンが苦手である。
どうも好きになれない。
学校に通つてゐた時分には、線を引くときには色鉛筆を使つてゐた。
それも単に「赤」とか「青」とか「緑」ではなくて、「ローズマダー」だの「デルフトブルー」だの「メイグリーン」だのだ。
原色に近い色を忌避してゐたんだな、当時は。
それはいまもさうかもしれない。

「ローズマダー」の代はりに「ヴァーミリオン」、「デルフトブルー」の代はりに「プルシャンブルー」。
あり、だらう。
さう思つた。

実際に使ひはじめてみると、朱と紺とを一緒に使ふ機会といふのは案外ないことにも気がついた。
すくなくともやつがれの使ひ方だとあまりない。

使ひはじめてわかつたこともある。
これまだ使つてこなかつたのは、筆圧が低いからだらう、とかね。
赤青鉛筆は結構筆圧をかけないと色がくつきり出ない。
色鉛筆が全般的にそんな感じだ。
この、「くつきり出ない」ところがいい。
むかしはさうは思へなかつたのに、いまはさう思ふ。
力の入れ加減で色の出方が変はるのがおもしろい。
いまはさう思へる。

また、実際に使ふときは線を引くことが多い。
線を引くときには字を書くときより筆圧がかかる。
よつて色もくつきりと出る。
いいぢやあないか。

そんなわけで、出先では三菱鉛筆の、自宅ではトンボ鉛筆の赤青鉛筆を使つてゐる。
年をとるのも、まんざら悪いばかりぢやない。

Thursday, 02 July 2015

ブロガーズトート 如何に使ふか

先日、ブロガーズトートを使ひ倒してゐるといふ人のブログを読んだ。
さうなんだよな、ブロガーズトート、いいんだよな。

大きくてなんでも入る上に、さつと取り出したいものをさつと取り出すことのできるポケットが充実してゐる。
それに右肩にかけて使ふことを前提にしてゐるので実に使ひやすい。
最近ル・ボナーのパパスを愛用してゐてつくづく思ふのだが、左肩にかけて使ふ前提のカバンを右肩にかけて使ふと、ファスナーひとつとつてもまことに開けにくい。
肘を張らないと開けられないので、混雑してゐる電車の中では開けることを断念することもしばしばある。
ブロガーズトートにはファスナーといつて内ポケット用しかないが、ポケットの位置など、右肩にかけたときにものを取り出しやすくできてゐる。
なんでも入るからこれ一つ持てば忘れものの心配もない。
墓参時の線香や花束やらなにやら入れるのにもとても役立つカバンだ。
最高ぢやん。

と、買つてしばらくはさう思つてゐた。
しかし、まあ、問題がないわけでもない。

なんでも入るからなんでも入れてしまふ。
それで重たくなりすぎてしまふ。
これが問題のひとつ。

もうひとつは、満員電車内ではやはり邪魔、といふことだ。
以前ここでブロガーズトートとひらくPCバッグとどちらにしやうか悩んでブロガーズトートにした、といふ話を書いた。
決め手は通勤電車で邪魔になるかならないか、だつた。

どちらも邪魔になるのは仕方がない。
でもブロガーズトートならくたつとするからカバンの中身によつては小さくなつてそれほど邪魔にならないんぢやあるまいか。

この目測は正しかつた。
といつて、ひらくPCバッグを持つてゐるわけではないので比較はできないが、ブロガーズトート単体でいふと、中身が小さいときにはカバンはくたつとした躰に沿ふ。したがつて、周囲にそれほど迷惑をかけずに済む。

でも、大抵荷物は多いからね。
荷台があいてゐればそこにおけばいいのかもしれない。
しかし、中身は「なんでも入り」だ。
社員証から定期券から財布から、なんでも入つてゐる。
そんなカバンを手元からはなすことができるだらうか。
できない。
できないね、まづ。

世の中の男の人は鍵だの財布だの定期券入れだのを着てゐるもののポケットに入れてゐるのだらう。
だから電車の荷台にカバンを置くことにそんなに抵抗がないんだと思ふ。
まあ最近はセキュリティだのなんだのとうるさくて、職場に持つて行くやうなカバンを手元から離すのはよろしくない、といふ風潮もあるかもしれない。
満員電車の中ではそんなこと云つてゐられないはずなのだが、かたくなにカバンを提げたままの人もゐないわけぢやあない。
とはいへ、見てゐるかぎり、結構荷台を使ふ人は多い。
最低限必要なものは身につけてゐるからできることだらう。

そんなわけで、荷台に置くわけにも行かず、かといつて足下に置くのも邪魔だよなあ、といふわけで、ブロガーズトートは満員電車の中ではかなり邪魔になる。
ブロガーズトートのせゐぢやないんだけどね。

といふわけで、最近ではブロガーズトートの出番はめつきり減つてゐる。
旅行カバンと化してゐるといつてもいい。
これがまたいい感じで使へるんだなあ。
大きくて軽いのがいいし、中身が少なければかばんもそれなりにくたつと小さくなる。
ポケットが充実してゐるので細かいものを分けてしまふこともできる。
ブロガーズトートにはアクセサリーを入れる内ポケットがあつたりするのだが、いままでその用途で使つたことはなかつた。
旅行カバンとして使ふやうになつて、就寝時に時計などを入れるやうにしてゐる。

いいぢやあないか。

とはいへ、やつぱり普段も使ひたい。
土日にふらりと出かけるときに使つてみやうかな。

Wednesday, 01 July 2015

2015年6月の読書メーター

2015年6月の読書メーター
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2273ページ
ナイス数:14ナイス

サイエンス・ブック・トラベル: 世界を見晴らす100冊サイエンス・ブック・トラベル: 世界を見晴らす100冊感想
科学なのにすすめてる本が「易経」とかあつてイカす。科学のはずなのに、いま自分が興味ある分野の本もすすめられてゐたりもする。ひとまづ図鑑からはじめてみやうかな。
読了日:6月1日 著者:
文化を実験する: 社会行動の文化・制度的基盤 (フロンティア実験社会科学)文化を実験する: 社会行動の文化・制度的基盤 (フロンティア実験社会科学)感想
題名に惹かれて読む。実験して得た結果の原因を「ああではないか」「かうではないか」と想像はするけれど、それを実証することはできないんだなあ。人文科学の「科学」とは何なのだらうか。そんなことを考へながら読んだ。
読了日:6月3日 著者:山岸俊男
易経〈上〉 (岩波文庫)易経〈上〉 (岩波文庫)感想
「サイエンス・ブック・トラベル」で紹介されてゐたので読んでみたらおもしろいぢやあないか。なに云つてゐるのかわからないけど。1か0かですべてを説明してゐるけれど、世の中単純に吉か凶かぢやないつてことかな。
読了日:6月9日 著者:
易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)感想
いい時も悪い時も逆の方向に進みつつある。いづれにしてもただ待つてゐるだけではダメで、なにかしら貞しい行ひが必要である。といふ話なのかな。貞しい行ひがなんなのか、といふのがむづかしいところだ。あるいは世の中中庸が肝要、といふ話なのかもしれない。
読了日:6月12日 著者:
芸人と俳人芸人と俳人感想
又吉直樹は割と「死」といふ言葉を使ふ。山本夏彦が自著に「半分死んだ人」といふ題名をつけやうとしたところ、編集者に「関西では受け入れられませんよ」と云はれたのださうだ。時代は変はつたのか。それとも個人的な資質か。教へる側と教はる側とが見事に響き合ふ稀有な例かと思ふ。
読了日:6月14日 著者:又吉直樹,堀本裕樹
科学・技術と現代社会 上科学・技術と現代社会 上感想
読みやすい。云ひたいことが明快なためだらう。でもこれだけ云はれても受け付けない人はまつたく受け付けないんだらうな。「高血圧と塩分の関係」とか今でも研究中なことをはつきり書いちやつたりするのはどーかと思つたりもした。一般向けだからいいの?
読了日:6月19日 著者:池内了
Service Design: From Insight to ImplementationService Design: From Insight to Implementation感想
やつてみないとわからないなー。客のことだけでなく、自分たちのこともちやんと考へるといふのはいいと思つた。客のためだけ考へて働いてゐるとときにツラいばかりだものね。
読了日:6月24日 著者:AndyPolaine,LavransLøvlie,BenReason
易の話 (講談社学術文庫)易の話 (講談社学術文庫)感想
岩波文庫の「易経」を読んだあとだつたのでよりわかりやすかつたかも。「易経つて占ひの書ぢやないよなー」といふ感想が確信に変はつた。
読了日:6月29日 著者:金谷治

読書メーター

次の手帳の予定

現在雑記用に使つてゐる Moleskine Pocket Size の残りはあと22ページとなつた。
いま、本格的に次の手帳のことを考へてゐる。

「手帳」と書いたが、次は満寿屋の MONOKAKI B6サイズにするつもりでゐる。
三年前に買つて、十ページほど使つて放置してあるものを使ふつもりだ。
前回の雑記ノートはトラベラーズノートだつた。
大きいし、トラベラーズノートの入らないカバンを使ふこともあるのでどうかとも思つたが、考へてゐたより使ひ勝手はよかつた。

トラベラーズノートで使ひづらいなあ、と思つたのは、まづゴムでとめてあることだ。
いざ取り出して書かうとすると、このゴムがなかなかうまくはづせないのである。
いつそのことゴムを使はないことにしやうかとも思ふたが、使ひはじめたばかりのトラベラーズノート ブルーエディションは、ゴムでとめてゐないと妙にふくらむ。
仕方なくゴムでとめて使つてゐた。

もうひとつ、トラベラーズノートで使ひづらいなあと思つたのは、やはり大きすぎるといふことだ。
たとへば、観劇の際幕間にちよろつとなにか書きたいといふときに、トラベラーズノートは大きすぎる。
やはらかいので下にかたいものをおく必要もある。

ではトラベラーズノートのいいところはなにか。
まづ、ペンを選ばないところだ。
トラベラーズノートを使つてゐたときは、使ふペンで迷ふことがなかつた。
手持ちのペンで書いてもにぢんだり裏抜けしたりしないからだ。
しかも書きやすいしね。

もうひとついいところは、A4サイズの紙を折り畳んではさめることだ。
Moleskine のポケットサイズにだつて折り畳めばはさめるぢやあないか、といふ向きもあるかもしれない。
それはそのとほりだ。
でもそれだとかさばるし、見づらくなる。
トラベラーズノートだとA4用紙の短い辺とノートの長い辺とを貼り合はせて用紙の方を蛇腹式に折れば、あとから見やすい。
折るのにはキングジムのオレッタが役だつたりもする。
もともと雑記用のノートになにかを貼りつけることはしなかつたやつがれだが、トラベラーズノート以降、貼りつけられるものは貼りつけるやうになつた。
いま使つてゐるMoleskine Pocket Size には芝居や展覧会の半券を貼りつけてゐる。
今後見返すのがちよつと楽しみだ。

では MONOKAKI B6サイズはどうなるだらうか。
まづ、大きすぎるといふことはあると思ふ。
でも普段持ち歩くカバンには問題なく入るので、そこはいい。
やはらかいのでなにか下敷きがほしいところだが、ノートカバーをつけてゐるのでなんとかなるだらう。
さうなると残る問題は、さつと取り出してささつと書けるかどうか、といふ点である。

書けないね。
多分書けない。
だいたい、もつたいない気がするもの。
そんな用途に MONOKAKI を使ふなんて。

そこで、並行して Rhodia の投入を考へてゐる。
ちよつとしたメモはRhodiaに書いて、まとまつた内容はMONOKAKIに書く。
どうだらうか。
もつといふと、普段はRhodiaにメモをして、あとで見返して必要なことをMONOKAKIに書く。
これをやつてみたい。

日中はメモを書いてそれをあとでまとめる。
これをやりたいと、確かここにも何度か書いてゐる。
問題は、現在まとめる時間が取れてゐないことと、メモとか云ひながらメモを超えたまとまつた文を書きがちなことだ。
まとめる時間はなんとか捻出するとして、長い文を書きたくなつてしまふ点をどうするか。
悩むところだ。
Rhodia は No.11 を使ふつもりなので、そんなに長い文は書けない。
だから自然とこの悩みは解消されるといいなあ、と思つてゐる。
甘いかな。

といふわけで、いまの Moleskine を使ひ終はつたら、MONOKAKI B6サイズと Rhodia No.11 との二頭立てでいくつもりだ。
Rhodia はね、なぜか在庫が何冊かあるんだよね。
使ふつもりで買つて、そのままになつてゐるのが。
机の脇においてちよこちよこ使つてはゐるけれど、あまり減つてゐないのだ。
Rhodia は自分向きではないのかもしれないな。
そんなことも思つたりもするけれど、ものは試しだ。

Rhodia の紫の罫線には茶色いインキが似合つたりするんだけど、ペンはなににしやうか知らん。
そんなことを考へるのも楽しいんだよねえ。

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