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Tuesday, 30 June 2015

計画は最初に確認

「The Twirly をつなぐプロジェクト」に光明が見えてきた。

The Twirly は Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフである。六角形で風車のやうな形をしてゐる。これをたくさんつないで最終的にはちよつと壊れた大きな六角形を作るのが「The Twirly をつなぐプロジェクト」だ。

光明といふのは「考へてゐたよりもこの先つなげるモチーフの数が少ない」といふことだ。

……なにをいまさら。
さう云ひたくなるのもごもつともだ。
なにせここのところ「ああ、やつと二段目が終はつたよ」などと目先のことしか見てゐなかつた。
全体像がどうであるかよりも、いま目の前のモチーフひとつを作ることの方がが重要だつた。
さういふことだらう。

もともとのデザインではつなぐ六角形が大きめである。
そのため最初のうちは The Twirly を七つつないで六角形にしたモチーフを1枚と勘定してゐた。
その大きなモチーフを15枚つなぐと完成する。
現在7枚と半分くらゐつなげてゐる。
あと半分ぢやないか。
さう思つたら、俄然やる気が出てきた。

いままでやる気がまつたくなかつたかといふと、さうでもない。
待つたくるやる気がなかつたら、50枚を越えるモチーフをつなぎつづけてなどゐないはずだ。
ただ、半ば惰性のやうになつてゐたとはいへる。
ゆゑに終日のたりのたりかなといつた感じでなかなか進まなかつたのだらう。

それが、ここにきてすでに半ばに達してゐるといふことが判明した。
だつたら完成できるんぢやあるまいか。
さういふ気がしてきた。

最初からちやんとつなぐモチーフの枚数を確認しておくのだつたかなあ。
全部で105枚つなげばできる。
さうわかつてゐたら、もつと早くできあがつてゐただらうか。
できてゐたんぢやないかな。
そんな気がする。

それは今後大きなものを作るときに確認するとしやう。
まだタティングレースで大きいものを作るつもりで買ひこんだレース糸が山とあるしね。

一方で、今回はこれでよかつたのかな、とも思ふ。
The Twirly は作つてゐてとても楽しいモチーフだ。
だからたくさん作ることも可能だらうと見込んではじめたプロジェクトだつた。
でも最初から105枚もつなげなければいけないと認識してゐたらどうだつたらう。
……うーん、105枚くらゐならいけるかな。
いける気がする。
とすると、今回はやはり失敗だつたのか。とほほ。

The Twirly を作るのはあひかはらず楽しい。
Jon Yusoff にお礼を言ひたいくらゐだ。

そして、ゴールが見えてくると(といつてもまだこれまでかかつたのと同等以上の時間がかかるわけだが)、次のことも考へはじめてしまふ。
Mary Konior の Masquerade をたくさんつなげてみたいんだよね。
あと七宝模様をつなげたものを作りたい。
例によつて「それつてほんたうにやりたいことなのか?」「やる必要があるのか?」と思つてしまふこともあるが、まあひとまづは The Twirly をつなぎつづける所存である。

Monday, 29 June 2015

九里をもつて半ばとす

ヨガソックスは、あと数段編んだら伏せ止めといふところまできてゐる。

ヨガソックスを Regia Design Line の Arne & Carlos で編んでゐる。
編みはじめたのが六月十三日とあるから、もう二週間が経過してゐる。
うーん、これは遅い。
ヨガソックスなら休みの日一日で仕上がるはずなのに。
やはり編み気が減退してゐるんだな。

Regia Design Line の アルネ&カルロスの毛糸は、あともう一色一巻だけ買つてあるので、こちらでもヨガソックスを編むつもりなんだがな。
今回が甲の部分が一目ゴム編みなので、次のは二目ゴム編みにしてみやうかな、などと考へてもゐる。
編むのがイヤになつたわけではないと思ふんだがなあ。

よく、なにごとも着手するまでが大変、といふ話がある。
はじめてしまつたら事は半ば済んだもおなじ、といふ人もゐる。
それはそのとほりかもしれない。
しかし、終はらせるのも着手するのとおなじくらゐ、いや、場合によつてはもつと大変だと思ふ。

あみもので考へてみればわかる。
普通に編むことや作り目はちやんとできるのだ。
編みはじめはするからである。
伏せ止めとかとじやはぎといつた技法は、指南書などを見ながらでないとできなかつたりする。
できたとしても、作り目や普通の編みよりも下手だつたりする。
編みはじめはしても、仕上げまでたどりつかないことが多い場合はさうなる。

ずつとゴム編みの伏せ止めやメリヤスはぎが苦手で好きになれなかつたけれど、一時気が狂つたやうにくつ下を編んでゐた時期に両方とも慣れた。
つま先から編みはじめればゴム編みの伏せ止め、履き口から編みはじめればメリヤスはぎがたいていもれなくついてきたからだ。
くつ下は編むのにそれほど時間がかからない。
したがつて、伏せ止めやはぎもさう時間をおかずに何度もやることになる。

それでも、終はらせるのつて、気力が必要なんだよね。
気力が充実してゐないと、終はらせられない。
そして、いま、気力が充実してゐないんだな。
とくに帰宅後。

ところで、くつ下編みは上にも書いたやうにそれほど時間がかからない。
すくなくともセーターとかマフラーとかよりは早くできる。
さういふわけで、編みはじめから編みおはりまで、比較的短期間で体験することができる。
いいぞー、くつ下編み。

といふわけで、いま編んでゐるヨガソックスも今日明日中には終はらせて、次のヨガソックスに着手したいと思つてゐる。

Friday, 26 June 2015

日記帳の変遷

昨日はスケジュール帳について書いた。
今年これまで使つてきた手帳をふり返りつつ、来年の手帳をどうするか、といふ話である。
いままでは実績重視できたけれど、もうちよつと予定をしつかり管理したい。
そのために手帳の候補として、スライド手帳、yPad half S、「超」整理手帳の三つを考へてゐる。
それ以上のことはまだなにも考へてゐない。

今日は日記帳について書く。

小学校高学年から高校にかけて、日記はそれなりにつけてゐた。
小学生のときに文房具屋の女将からキョクトウのノートをすすめられたんだね。
日記を書くならこのノートがいいよつて。
CAMBRIDGE のA5変形にしたと思ふ。
これが確かに大層よくて、しばらくは日記にはこのノートを使つてゐた。
いまでも店頭でこのノートや Edinburgh などを見かけると、日記帳にしやうかなと思ふことがある。
それにしてもいまはずいぶんと高価になつてしまつたな。
当時はもつとお手軽な値段だつたと思ふんだけど……定かではない。

その後あまり日記をつけない日々があつて、またつけはじめたのがほぼ十五年前のことだ。
集文館の掌中三年手帳を買つた。
それ以前も掌中版の三年手帳を買つたことはあつたが、つづかなかつた。
集文館の手帳はつづいたね。六年二冊使つたもの。
二冊目の三年手帳を使つてゐる途中でほぼ日手帳を使ひはじめて、それ以降はほぼ日手帳に日記を書くやうになつた。これがだいたい十年くらゐ前のことだ。

最初は三年手帳で十分だつたものが、もつと書きたくなつてほぼ日手帳になり、さらにほぼ日手帳では足りなくなつて雑記用のノートを持ち歩くやうになつた。
そしていまに至る。

集文館の三年手帳を三年前にまた使ひはじめた。
あひかはらず欄は足りないことが多いけれど、三年手帳だとすくなくとも一年前や二年前に書いたことは見返すことができる。
ほぼ日手帳でそれをやらうとしたら、常に二冊三冊持ち歩かなければならない。
日記は三年手帳に集約しやうかなあ。
そんなことを考へてゐる。
記録は見返してナンボだと思ふからだ。
見返してばかりゐてはなにもできないんだけれどもね。

しかし、ほぼ日手帳はいい。
今年は MOTHER2 のカバーにしてゐて、見るたびになんとなく明るい気分になる。
十年も使つてきたのだから、使ひにくいはずがない。
でもなあ、三年手帳にもほぼ日手帳にもおなじやうなことを書くのはムダなんだよなあ。
といふわけで、以前は三年手帳をやめ、去年はほぼ日手帳をやめてみたわけだ。

ところで、CAMBRIDGE に日記を書いてゐたころ、書くことの大半は「そのとき考へてゐること」だつた。あるいは「感じたこと」だつたかもしれない。
なにをした、といふやうなことはあまり書かなかつたやうに思ふ。
どこに行つてなにをしたかよりも、それでなにを考へどう思つたかの方が、当時のやつがれにとつては重要だつた。

現在、「なにを考へどう感じたか」については、雑記用といふかなんでも用の手帳に書き記してゐる。いまだと Moleskine だ。
ほぼ日手帳やとくに三年手帳には「どこに行つてなにをしたか」を主に記してゐる。
それだけで一日の欄がいつばいになつてしまふからだ。

「どこに行つてなにをしたか」と「なにを考へどう感じたか」をわけて書く必要は、とくにない。
ほんとは一緒に書けばいいのだらう。
三年手帳を先に使ひはじめたゆゑに自然とさうなつてしまつた。
でもそれでずつとつづいてゐるのだから、それでいいのだらうと思つてゐる。

そんなわけで、来年は「どこに行つてなにをしたか」は三年手帳に、それ以外のことはひきつづき Moleskine だの Panama だの 場合によつてはトラベラーズノートやその他のノートなどに書いていかうかな。
いまはさう思つてゐる。

しかし、ほぼ日手帳も捨てがたい。
どうしたものかなあ。
といふわけで、急遽浮上したのが「ほぼ日手帳による易日記」なのだが、それはまた別の機会に。

Thursday, 25 June 2015

予定を管理したい

早いものでもうすぐ六月も終はる。
今年も残すところあと半分といふわけだ。

近年、一月はじまりの来年の手帳の販売開始が早まつてゐるやうに思ふ。
八月くらゐになるともう店頭に並びはじめる。
Smythson の手帳も八月くらゐには発売になる。
ほぼ日手帳の予約開始は九月だ。
先週銀座の伊東屋の本店舗が改築を終へて再開店した。今年の手帳フェアはどうなるだらう。まあ、伊東屋の手帳フェアは例年少し遅めだけれども。

そろそろ来年の手帳について考へてもいいんぢやないかな。
今年の手帳も半分くらゐは使つてきたわけだし。

以前に一度棚卸ししてゐるやうに、今年のスケジュール用の手帳は Smythson SCHOTT'S MISCELLANY DIARY だ。
予定と実績とを記してゐる。
実績の内容は

  • 読んだ本の題名
  • その日使つたかばん
  • 見た芝居の演目(外題)
  • 予定にはなかつたけれど行つた場所
  • インキを入れ替へたペンの名称
  • ポメラの電池を替へた日

などがある。
実績の方がもりだくさんだ。
予定には時間と行く先とだけが書いてある。芝居の題名は見たあとに書き足してゐる。
「予定にはなかつたけれど行つた場所」はたいていは渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーだ。
実はもともと休みの日の予定はたてないことが多かつた。
他人と会ふ約束や芝居などチケットを買つてゐるものなどは書いてあるけれど、それ以外は行き当たりばつたり、その日の気分で行くことが多かつたのである。
今年の五月の連休前に、連休中にやりたいことや行きたい場所をノート用の手帳に書いておいたら、書いてあることは案外実行した。
また、例年連休後は気分が落ち込みがちなのだけれども、今年はそんなことはなかつた。
まあ、予定を書いてそれを実行したから気分の落ち込みが少なかつたのかどうかはわからないけれど、書いておくといふのは結構役に立つんだな、といふことがいまさらわかつた。
そんなわけで、最近 SCHOTT'S MISCELLANY DIARY にも休みの日の予定をちやんと入れるやうにしてゐる。たいていは前日だけれどもね。

Smythson の Oscar Wilde Diary には、NHKラジオ講座のその日のキーフレーズを書き込んでゐる。
キーフレーズ以外にも書き留めたいことがあつたりするので、放送のない土日の欄に書き込んだり、メモ欄に書いたりしてゐる。
キーフレーズだけだと役に立たないかなーと危惧してゐたが、キーフレーズからその日のダイアローグ(スキット、ヴィニエット、whatever)を思ひ出したりするので、これはこれで貴重だと思つてゐる。
でもこれはある程度学んだ言語向けかな。
はじめて学ぶ言語にはまちつと詳細なノートをつけたい。

ほぼ日手帳には日記をつけてゐる。
月間スケジュールページには SCHOTT'S MISCELLANY DIARY とおなじやうに予定を入れてゐる。ここは予定だけ。
日ごとのページに今年は縦書きで日記をつけてゐる。
でもこれは今年でやめやうかなあと思つてゐる。
なぜかといふと、書いてもあとで読み返したりしないからだ。
記録は読み返してナンボだと思つてゐる。
ほぼ日手帳は使つてゐるあひだは読み返したりするけれど、年が改まると前の手帳はしまふから、あまり取り出さないことに気がついたのだ。
使ひやすいんだけどねえ。
日記は三年手帳につけることにして、来年はほぼ日手帳はなしかなあ……。

といふのが、現状である。
ほかに2010年の SCHOTT'S MISCELLANY DIARY を句帳にしてゐたりする。

現状から見て、SCHOTT'S MISCELLANY DIARY は二年目にして問題なく使えてゐるので、これは来年も使ふつもりだ。
SCHOTT'S MISCELLANY DIARY に限らず Panama Diary のよいところは薄くて携帯しやすいところだ。これもよく使ふ理由のひとつである。

Oscar Wilde Diary は今年限定なので来年買ふとしたら Panama Diary なのだけれども、これは買はないかもしれない。ほかの手帳でも代用できるからだ。
Moleskine の活用本で、Weekly Diary を言語習得ノートにしてゐる人の例があつた。あれを真似してみるかなあ。

現状の課題でいふと、予定の部分をもうちよつと充実させたいと思つてゐる。
いままで実績重視だつたけれど、ちよつと気分を変へてみてもいいかな。
そこで、あたぼうステーショナリーのスライド手帳が気になつてゐる。
A5版だと書きでもあつてよささうなんだけれど、チト大きい。A5の入らないかばんもある。
バイブル版は持ち歩くサイズとしてはいいのだけれど、リフィルがどうかなあ。
これは実物を見て検討する予定だ。

先日、yPad half S を使つてゐる人を見かけた。
こんな小さいのもあるんだ、とそのときはじめて知つた。
yPad、よささうなんだけど、大きいんだよね。
やはりそこがネックである。
うーん、これもよささう。

予定をたてるといへば、以前は「超」整理手帳を使つてゐた。
これは結構長いこと使つてゐて、専用カヴァなども持つてゐる。
なぜ使はなくなつたのかといふと、万年筆で書き込むのに向かないからだ。
紙の質の話ではない。紙の質は申し分ない。たいていのペンで書いて問題のないよい紙だと思ふ。
問題は、「超」整理手帳の性質なのだ。
万年筆で書き込んで、インキの乾くのを待つ。
そんな使ひ方は「超」整理手帳には向かない。
さつと開いてささつと書いてさつとしまふ。
あるいは、さつと開いてささつと確認してさつとしまふ。
さういふスピード重視なところが「超」整理手帳にはある。
もしかしたらないのかもしれないが、やつがれにはあつた。
ゆゑに使はなくなつてしまつた。

そんなわけで、予定用にスライド手帳、yPad half S、「超」整理手帳と候補三つある。
スライド手帳と yPad half S とは日付を自分で書き込むタイプなので、別段来年を待たなくても使ひはじめられる。
ちよつと買つて使つてみるかなあ。
とくに yPad half S。
スライド手帳にはバインダが必要だからな。多分我が家にはもうバイブルサイズのバインダはないし。

だが待てよ。
さうすると SCHOTT'S MISCELLANY DIARY は不要になるのではあるまいか。
ぬーん。
やはりよく考へてみないといかんな。

日記帳の話はまた別の機会に。

Wednesday, 24 June 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館 人形アニメーションとホワイエの展示 2015/06

六月五日、六日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回は人形アニメーションとホワイエの展示とについて書く。

人形アニメーションの展示は、展示室の一番奥の方にある。
壁からはなれたところに入口に近い方から「いばら姫またはねむり姫」のケース、「道成寺」のケースが並んでゐる。
その向かひの壁沿ひには奥から「鬼」のケース、「冬の日」のケースが並んでゐて、出口のそばに「火宅」のケースがある。

「いばら姫またはねむり姫」の展示には背景のセットもついてゐる。
窓のはめこまれた壁が二面、暖炉やテーブルセット、床などがある。
テーブルの上には果物をもつた籠がある。
椅子には背もたれがない。
壁は暗い青で、青い花がところどころに散つてゐる。
床はチェッカーボードのやうな柄だ。ところどころにバミつた後が見える。
そして、姫はいつものやうに椅子に座り、刺繍をしてゐる。
いつものやうなんだけれども、セットの中にゐるとまた印象が違ふものだ。
蝋燭の燃えさしひとつとつても、そこに物語が見え隠れする。

いままで見た「道成寺」の展示の中では、今回が一番動きが少ない。
女は立つて空を仰ぎ、袿を引きずつてゐる。
これはいままでも大枠ではかういふ形でゐた。
以前見たときは袿を持つてゐない方の手は胸元にあつたりしたこともあつたが、今回はさういふこともない。
髪の毛も落ち着いたやうすである。以前の展示では極細の針金が見えたが、今回は見つけられなかつたなあ。
動きの少ないせゐか、顔の表情はいつもより険しく見える。
険しいといふか、苦しげ、といふ感じかな。
眉根がひどく寄つてゐるやうに見えるし、顔色も心なしかよくない。
顔色はもちろんこちらの気のせゐである。

「鬼」は、今回兄の方が高いところにゐて、弟の方はすこし低いところにゐる。
作品の中でも山を登る場面があつたと思ふ。
それを思ひ出した。
ポージングは以前見たときとそれほど変はらないやうに思ふ。
「鬼」の展示でいつも思ふのは、手の繊細さ、それも指先まできつちりとした繊細なところだ。
兄も弟も実にきれいな手をしてゐる。指の形もいい。
あと顔がかなり文楽の人形のカシラに近いのもおもしろい。
ここから段々変はつていくんだよねえ。

「冬の日」は、待つてました、だ。
見たかつたんだよねえ。可愛いもの。
ほかの人形アニメーションの人形と比べるとさらに小さい。
小さいけれど、中にこらした工夫などはほかの人形と変はらない、もしくはもつといろいろ入つてゐるのださうな。
芭蕉がまづ一人で立つてゐるのだけれど、この表情がなんともいいんだよねえ。年経て悟りの境地に達したのちの好々爺然とした感じ、とでもいふのだらうか。
三年前の夏、紀伊國屋サザンシアターに「芭蕉通夜舟」といふ芝居を見に行つた。井上ひさしの書いたひとり芝居で、坂東三津五郎が芭蕉を演じた。
劇中の芭蕉はもつと気難しい感じだつたなあ。まあ、若くてこれといつた役職もないところからはじまるからかもしれないけれど。
ひいきのあひだでは「なにもこんな芝居に出なくても……」といふ意見もあり、やつがれなども「さうねえ。だつたらもつと歌舞伎に出てほしいよねえ」などと思つたものだつたが、三津五郎本人はやりたかつたんだらう。ほんたうだつたら去年の12月に再演してゐるはずだつた。
「芭蕉通夜舟」は、たまたま通路際の席が取れた。
劇中、客席を歩いてきた芭蕉が、やつがれのすぐ脇で立ち止まつた。
芭蕉はふり向いて、もう見えなくなつた人々に向かつてなにやら悪態をついた。
多分、坂東三津五郎と最も接近したのはこのときだ。
大和屋はちいさい人だつた。
そのせゐか、飯田で芭蕉を見てゐて、そんなことを思ひ出した。

芭蕉の右、すこしはなれたところに名古屋の連衆が並んでゐる。
正平、重五、野水、杜国、荷夸の五人だ。
いづれも座してゐて、楽しさうな笑顔を浮かべてゐる。
ひとりひとり羽織の紋や衣装の柄が違ふのはもちろんのこと、着付け方や羽織紐、袴の紐の結び方が違ふなど実に細かい。杜国と荷夸とは袴なしだ。
人形アニメーションではとくに思ふのだが、よくぞこんなに細かい柄の生地を探してきたなあ。
このケースだけでものすごく楽しめてしまふ。

「火宅」のケースには小竹田男、菟名日処女、血沼丈夫がゐる。
これまで見たことのある「火宅」の展示のときは、小竹田男も血沼丈夫も菟名日処女を見てゐた。
今回は、小竹田男はあらぬ方向を、血沼丈夫は赤い梅を見てゐる。
小竹田男の思ひつめたやうな顔、血沼丈夫の行き場のないやうすはこれまで見たものにもあつた。
菟名日処女はやや高い位置にゐる。その表情は、これまで見たものよりも苦悩が深いやうに思つた。
なぜ小竹田男も血沼丈夫も菟名日処女を見てゐないのか、菟名日処女の苦悩はどこからやつてくるのか。
そんなことを考へてゐると、やはりこのケースの前でも立ちつくしてしまふのだつた。

ホワイエには、ヤンヤンムウくん、ブーフーウー、ミツワの三人娘、おおきなかぶ、ほろにがくんのほかに、パペットアニメーショウの彫り物じいさんとトイレの男、それから「シンデレラ」のシンデレラと王子様が展示されてゐる。
パペットアニメーショウは、今回アニメーション上映作品として見た。
間近で見るとかなり大きい。
美術館の方のお話だと、ウレタン製なのではないかといふことだつた。
経年による変化でいつくづれてもをかしくない、そんな状態なのだといふ。
そんな貴重なものを見られるなんて、実にありがたい。

トイレの男はトイレやトイレットペーパーホルダーなどのセットとともに飾られてゐて、このセットがまた異様にリアルで細かい。
しかも、その手に握られてゐるのはくしやくしやになつた飯田市川本喜八郎人形美術館のパンフレットぢやあるまいか。
細かいなー。思はず笑つてしまふ。

ぢいさんも皺や刺青の表現にうなる。
刺青は川本喜八郎自身のものとは違ふ柄(柄?)のやうだ。
また会ふこともあるのだらうか。
それとももうこれが最後かな。
そんなことを思ひながら見た。

トイレの男とぢいさんといふユーモラスなふたりの右隣のケースにゐるのがシンデレラと王子様といふのもおもしろい。
なんだらう、この取り合はせ。
絶対合はないはずなのに、妙にマッチしてゐるのがいいな。

今回も、美術館の方々から展示のことはもちろんその他まことにさまざまなことを教はつた。大変ありがたいことだ。
うかがつたお話などは、いまの時点ではあまり書いてゐない。
実際に行つて、実際に聞いた方がいいと思つたからだ。
手帳には覚えてゐるかぎりのことを記したので、今回の展示の会期が終はるころに書けたらと思つてゐる。

諸葛亮と特異なキャラクターはこちら
江東の群像はこちら
玄徳の周辺はこちら
曹操の王国はこちら
許昌の都と漢中・蜀・南蛮はこちら
女人平家はこちら

Tuesday, 23 June 2015

やるべきことか

The Twirly をつなぐプロジェクトは、あひかはらずの進捗具合である。

The Twirly は Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフである。六角形で風車のやうな形をしてゐる。
これをたくさんつないでちよつと壊れた巨大な六角形にするのが「The Twirly をつなぐプロジェクト」だ。

あひかはらずといふのは、進んではゐるが、ぱつと見た感じ全然進んだやうに見えないといふことだ。
ある程度のサイズになると、さうなつてくるよね。
とくに小さいモチーフをちまちまつなぐやうなものはさうなる。
3段目に入つて3枚目をつないでゐるところなのだが、全然大きくなつた気がしない。
全体だと52枚目か。
さう考へると、よくぞここまできたものだ、と思ふが、まだまだ先は長い。

つなぎつづけてゐて、「もうやめやう」といふ気にはならない、といふ話は以前も書いてゐる。
いまやめたらどうにもならない形をしてゐるから、やめるとしても3段目ができてからだ。
いや、3段目でつないだ3枚を切つてしまへばいいのか。
さうすると2段でちやうどいいかもしれない。あと7枚つないだ方が形はよくなるからそれくらゐはつけ足すことにしても、それなら先が見えてゐる。

全然先の見えない状況で(見やうと思へば見られるが、あと何枚必要かを現時点では把握してゐない)、それでもつづけてゐるのは、これまた以前もちらつと書いたやうに「ほかにすることがないから」だ。
ほかにタティングレースでやることを考へるのが面倒くさいから、ともいへる。
The Twirly をつなぐプロジェクトさへやつてゐれば、手持ち無沙汰になることはない。

昨日もあみものについておなじことを考へたけれど、これでやつがれはほんたうにタティングレースが好きといへるのだらうか。
好きぢやなければやらないし、こんなに時間のかかるものを作らうとも思はないもの。

それでもときに「自分はほんたうにタティングレースが(あるいはあみものが)好きなのだらうか」と疑問に思ふことがある。
もつといふと、「いまやるべきことはこれなのか」かな。

それを考へ出すと「それは違ふ」とかいふことになつて、いままで無駄に買ひためた糸やビーズが無駄になるので、あまり深くは考へないことにしてはゐる。

でも、真面目な話、やつがれのいまやるべきことはほんたうにタティングレース(またはあみもの)なのだらうか。
すなほに「そのとほり」とは答へられない自分がここにゐる。

Monday, 22 June 2015

ヨガソックスは仕上がらず

先週はほとんど編めてゐない。
先週ここに載せた写真とほとんど変はらない「ヨガソック-to-be」が机の傍らにある。
編み気の衰へ? うむ。まあ、そうかな。

Regia Design Line Arne & Carlos の毛糸を使つたヨガソックスは、先週末、風邪でどうにもだるくてはじめたものだつた。
かぎ針編みのプルオーバーは、段が改まるたびに編み図を確認しなければならない。
また絹糸なのでそれなりに糸を引きつつ編んでゐる。
それが風邪つぴきにはつらかつたんだな。
あるいは余裕がないのかもしれない。
余裕がないときつて、編み図や編み方を確認する、と考へただけでつらいんだよね。
そんなことできつこない。
Overwhelmed つて感じ。
それで、さほど力を入れることもなく、編み図の確認も不要で、毛糸で編めて、編んでゐるあひだ躰にくつつかないもの、といふことでヨガソックスに着手したわけだ。
風邪をひいて寝込んでゐるあひだ、すなはち家に籠もつてゐられるあひだはうまくいつた。
外から帰つてきたへとへとの状態では、なぜか編み針を手にする気にはならなくて、ねえ。

これもふしぎなもので、どんなに疲れて帰つてきても、編むときは編む。
今回は咳が疲れの原因だつたりもするので、毛にはあまり近寄りたくなかつたのかもしれない。無意識のうちに避けてゐた、といふかさ。

かういふのも気持ちの波なので、そのうちガンッと編む日も来るんぢやないかな。
さう思ふにつけ、「やつぱり自分はそんなにあみものが好きといふわけでもないのかもしれないな」とも思ふ。
なにかしてゐないと手持ち無沙汰である、といふことで編んでゐることが多いからなあ。

でも、一度でいいから歌舞伎座(新橋演舞場でも南座でも松竹座でもかまはないが)で、芝居見物をしながら編みものをしてみたい。ここにも何度も書いてゐるけれど。
手元を見ずに編めるものを持つていけばいい。
音も毛糸に竹の針ならほぼしない。
歌舞伎座に二階桟敷があれば、できたと思ふんだがなあ。
いまの歌舞伎座の二階席にあるあれは桟敷ぢやないよね。
なんと呼んでゐるのか知らないが、あれを桟敷と呼んでは先代の歌舞伎座の二階桟敷に申し訳がたたない。
いまどき歌舞伎座でお見合ひもなからうし、二階桟敷は滅びる運命だつたのかもしれないが。

閑話休題。
咳もだいぶおさまつてきたので、今週はまちつと編めるといいなあ、と思つてゐる。

Friday, 19 June 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館 女人平家 2015/06

六月五日、六日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回は「女人平家」のケースについて書く。
このケースは入口から一番遠いところにある。
入口に近い左側から、政子、静、麻丸、蓬子、円、徳子、二位の尼、山吹、巴、葵の順に並んでゐる。

政子の衣装は前回前々回とおなじなのかな。
ケースの左端奥に立つてゐる。
照明の加減で左半身に影ができてをり、見る角度によつて変はる陰翳の加減がおもしろい。
顔の左側に影が落ちてよからぬことを考へてゐるやうにも見えるし、ちよつとさみしげなやうすにも見える。
前回の展示では政子は頼朝と向かひあつて立つてゐて、「顔もえ上げず」といつたやうすが大変に新鮮だつた。
はぢらふ政子。
もちろん、長い人生のあひだにはさういふこともあつたらう。
でも北条政子とはぢらひと、といふ風に考へると、なんとなくしつくりこない。
でも実際に目の当たりにしちやふとね、「ああ、こんな感じになるんだー」といふのがよくわかる。
今回の展示ではさらにいろんな面を見ることができるんぢやないかな。

政子の隣に静がゐる。
飯田では白拍子姿しか見たことのなかつた静だが、今回は袿など着て立つてゐる。
これまでの印象は、なんとなく大味な感じ、だつた。
とらへどころがなかつたのかもしれない。
とくにものすごく美しいといふわけでもなく(失礼)、白拍子姿で舞ふてゐる途中といつたやうすなどはどこを見てゐるのかよくわからず、ゆゑになにを考へてゐるのかもよくわからない。
やつがれの受けた印象はそんな感じだつたのだが、今回は違ふ。
なんだかこれまでよりのびのびして見える。賢さうでもある。
小首をちよつと傾げたやうすなどは、まるでこちらに「なにか?」と語りかけてゐるかのやうだ。
衣装は楓模様の下に水の流れる模様に桜の花、かな。

政子と静との手前に、蓬子親子がゐる。
「女人」平家といひながら、麻丸はこの中では緑一点だ。ぢつと己が両手を見てゐる。
手を見てゐるといふのはなんなのだらうか。自分の来し方行く末を考へてでもゐるのだらうか。
そんな兄を、円は右の方少しはなれた位置から見守つてゐる。
そして、そんな麻丸と円とのあひだに、蓬子がゐる。
麻丸と円とを抱くやうにしてゐて、ちよつと前屈みになつてゐる。
さういや以前ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリー外のケースに、麻鳥と麻丸、円がゐたことがあつた。
このときは「蓬子はゐないのかー」と思つた。
今回は「麻鳥はゐないのかー」だな。
「女人」平家だからだけど。
この三人のやうすの微笑ましさは、「玄徳の周辺」のケースの美芳と玲々とに通じるものがある。
動乱の世といつても、戦争ばかりやつてるわけぢやないし、戦に従事してゐる人ばかりぢやない。
あたりまへなんだけれども、小説やTV番組を見てゐるばかりだとうつかり忘れてしまふ。
美芳親子や蓬子親子を見ると、さうしたことを思ひ出す。

通じるものがある、といへば、ケース中央やや高いところにゐる徳子と二位の尼とにもある。
このふたりと、「玄徳の周辺」のケースの玄徳と劉禅とに、どことなく相通ずるものがある。
「女人平家」のケースでは徳子は座つて母を見上げ、二位の尼は厳しい表情で徳子を見下ろしてゐる。
この二位の尼の表情の厳しいところが玄徳と似通つてゐる気がする。
徳子は、前回の展示では今にも倒れ伏さんとする清盛の隣に座つてゐた。「父の娘」といふ感じだつた。
今回は「母の娘」だな。
劉禅にはどこかしら父にくつてかかるやうすが見受けられるけれど、徳子にはさうしたやうすはない。
従順に母の云ふことを聞いてゐる。
あるいは母のことばを聞くことでなにか悟るところがあつたのかもしれない。

対する二位の尼は、「こんなに厳しい表情もできるのか」といつたやうすだ。
飯田の二位の尼といふと、観音様か聖母マリアかといつた風情で佇んでゐるのを見てきた。
その表情は慈悲に満ちてゐる。
それでゐてどこか衆生を眺め心痛める憂ひもある。
そんな二位の尼も、我が子相手には眦をきつとあげるのだなあ。
ますます惚れてまうやんか。

時子・徳子母子の右側には、山吹、巴、葵がゐる。
山吹は膝をつき、腰を浮かせた体勢で、葵の方を睨んでゐる。
飯田の山吹は恨みの最大級につのつたやうすが印象的だ。
恨み以外の感情を抱くことはないのだらうか、とさへ思ふ。
そこはちよつとした顔の角度や写し方などで、熟練した人の手にかかればなんとでもなるのかもしれない。
でも見るたびに「恨むために生まれてきたわけぢやないのにね」とちよつと悲しい気持ちになる。

巴と葵とはどちらも今回は鎧を脱いだ普段の装ひでその場にゐる。
巴は座つてこちらを見てゐる。
こちらから訪ねて行つたところ、玄関先で待つてゐて「ようお出でなされました」とかなんとか云つてにつこと微笑んだところ、といふやうにも見える。
人形劇以外でこんな出で立ちの巴を見るのははじめてだな。
これが、とても強さうなのだ。
もしかすると鎧姿のときよりも強さうかもしれない。
着てゐるものは静とさう変はらない。
普通におとなしやかに座してゐて、なにか荒つぽい所行に及んでゐるわけでもないし及ばうとしてゐるわけでもない。
なのに、なぜだかとても強そうなのだ。
芯が強い、といふのはあるとは思ふ。
でもそれだけではなくて、見るからになにか武芸の心得のある人、といふ風に見えるのである。
なぜだかは何度も見てみたがわからなかつた。
柔術とかやつてさうな感じなんだよね。
時代は違へど「女三四郎」といつたやうすだ。

葵は全然そんなことないのにね。
葵はすつと立つてゐて、山吹の方に視線を向けてゐる。
余裕にあふれた表情で、「ふふん」といふ聲すら聞こえてきさうなほどだ。
そんなに余裕がある状況でもないだらうに。
葵にはそれがわからないのだらう。
だから山吹から報復を受けることになる。
さう思ふと、また葵もあはれなんだよな。

以下、もうちよつとだけつづく。

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Thursday, 18 June 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館 許昌の都と漢中・蜀・南蛮

六月五日、六日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今日は「許昌の都と漢中・蜀・南蛮」について書く。
このケースはメインのケースの先にある。
入口に近い方左から、張魯、華佗、張松、献帝、伏皇后、穆順、普浄、峠の居酒屋の女将、孟獲の順に並んでゐる。
ケースの題名からわかるとほり、いろんな人が並んでゐる、雑居ケースだ。

張魯は五斗米道の教祖にふさはしい派手な出で立ちで左側を睨んで立つてゐる。
教祖として信者たちにあがめ奉られる人としてはふさはしい衣装を身につけてゐる。
しかし、どうもこの張魯はこの場所にしつくりとおさまつてゐるやうには見えない。
衣装のせゐかなあ。
ぱつと見たときに、「舞台袖で相方の来るのを待つてゐるお笑ひ芸人のやうだ」と思つてしまつた。
待つてゐるだけだから、なんとなく手持ち無沙汰だ。
相方がゐるといふことは、ピンでは舞台に立つことはない。
実際はそんなことはなかつたらうと思ふのだが、でもまあ、人形劇の張魯だからなあ。

張魯のやや後方、すこし高いところに華佗がゐる。
水墨画の趣の衣装がいつもいいなあと思ふ。
こちらを見て立つてゐて、いつ見ても福々しい。見てゐるとなんだか穏やかな心持ちになつてくる。
華佗先生にも関羽の大手術を行つてゐるところみたやうな見せ場の展示があつてもいいのに、とも思ふが、かうしてにこにことしたやうすで立つてゐるのが一番華佗らしいのかもしれない。

華佗の手前に張松がゐる。
両腕を広げて手を胸よりやや低い位置まであげて立ち、なにごとか訴へてゐるやうに見える。
張松の衣装の一部がほつれてゐて、「曹操のところで痛い目にあはされた時にできたものか知らん」などと思つてしまふ。
張松は人形劇での出番もここで展示されることもそんなに多くはないからだ。
前回見たときは華佗とさう変はらないやうな地味な出で立ちだつたやうな気がしたが、今回はそれなりにきらびやかなところもある衣装を身につけてゐる。
張松は、しかし、ここにゐる人ぢやないな。
法正あたりと一緒にしてあげればいいのに。
とはいへ「玄徳の周辺」に入るべき人でもないしなあ。
不遇の人、といふことなのかもしれん。

ケース中央後方高いところに献帝と伏皇后が向かひあつて立つてゐる。
献帝の表情はビーズびらびらの向かうにあつてよくわからないけれど、このふたりはいつ見ても薄倖さうだ。
伏皇后の顔立ちがそもそも幸薄さうだもんなあ。
顔自体が小さめで、眉根が寄つてゐて、この世の不幸を一身に背負つてゐる。
そんなカシラに見える。
伏皇后は献帝になにごとか不安を訴へてゐるやうすだ。
献帝はそんな伏皇后を安心させるやうなことばを持たないのだらう。
「かうしやう」と思つても、必ず曹操に邪魔されてしまふし。
時折、董卓はどうして献帝を立てやうとしたのか不思議に思ふことがある。
少帝の方が暗愚だつたんでせう。
「三国志演義」などでは陳留王はえらく賢いこどもだ。
だつたら少帝の方が操りやすいのぢやあないか。
何后を排除したかつたのかもしれないけど、だつたら少帝を母親から引き離してしまへばよかつたのに。
あるいは何進残党がまだたくさんはびこつてゐたのか。
そんなところなのかな、と思つてゐるのだが、かうして献帝を見てゐると、賢くはあつても結局最後には折れる性質だつたからなのかなあ、と思はないでもない。
賢いから我を張らないのか。

そんな献帝と伏皇后との前には穆順がゐる。
荒々しく引き回されたのか、腰をつき、片足からはくつが脱げてゐる。
髪は乱れ、やや伏せた顔は恨めしさうに右上の方を睨んでゐる。
今回のヒカリエの展示では、初日は程昱がやはり腰をつき、文官にはめづらしく足を見せてゐた。くつとか、かうなつてるんだ、とえらくもりあがつたものだ。
それが何日か後に行くと、今のやうな状態になつてゐて、ちよつとがつかりした。
「また見られるから」といふ甘えを許してはくれないんだなー。
今回の穆順はどことなくその程昱のリヴェンジ的な感じで見てしまふ。
リヴェンジつて何に対してのだよ、とは思ふがな。
くつがちやんと脱着できることがはつきりわかるのもおもしろい。

穆順の隣、すこしはなれたところに普浄が立つてゐる。
人形劇には出てこなかつた。
関羽の千里行のときに出てきて、その後関羽の菩提を弔ふ(と当時云つたのかどうかわからないが)人、と認識してゐる。
普浄は川を挟んで関羽の家の向かひに住んでゐたことになつてゐる。
飯田の普浄は実によい顔をしてゐる。
滋味があるといふかね。お坊さんだしね。
それでゐて、きつと笑ひも理解してゐる人なんだらうなあ。
どことなく微笑んでゐるやうに見えるカシラのせゐかさうも思ふ。
「ビルマの竪琴」の水島安彦を思はせるやうな衣装を身につけてゐるのも関係あるかも。
「三国志演義」なり吉川英治の「三国志」なりを読んだだけで、こんなに具体的に顔が思ひ浮かぶものなのか。
はじめて見たときにさう思つた。
それは普浄に限らないわけだが、人形劇に出てこなかつたことも考へると、つひ、さう思つてしまふ。
動いてゐるところを見てみたかつたねえ。

普浄の隣に峠の居酒屋の女将が立つてゐる。
山賊の女首領といふべきか。
人形劇オリジナルの話である「張飛の虎退治」の回に出てきた、派手な出で立ちのおばあさんだ。
孟獲の派手さに立ち向かへるのはこのばあさんだらうなあ。
足をやや前後に開き、腰をひねつて両の拳を腰にあてて肘を張り、「どーだい」とでも云ひたげなやうすでこちらに迫つてくるやうな恰好で立つてゐる。
「ヤッターマン」のドロンジョが年を経たらこんな感じになるのぢやあるまいか。

孟獲は、ややジョジョ立ちな趣ですこし高いところに立つて左の方を見てゐる。
いつ見ても派手だし、衣装がデカいよね。
このまま宝塚の衣装にしてもいいんぢやあるまいか。オストリッチの羽根も使つてるしさ。
まあ、宝塚の羽根の方が華やかかもしれないけれど。といふか、宝塚の羽根は年々盛りが増えていくばかりな気がするけれど。
この衣装だと立つ以外のポーズはむづかしいのかもしれないなあ。
そんなわけで、やつがれ勝手の心眼で見たときに「ジョジョ立ちつぽい」とか思つてしまふのかもしれない。

以下、つづく。

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Wednesday, 17 June 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館 曹操の王国 2015/06

六月五日、六日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回は「曹操の王国」について書く。
このケースはメインのケース「玄徳の周辺」の向かひにある。
いつもはメインのケースとこのケースとのあひだに一人~二人用のケースがふたつくらゐ並んでゐるが、今回はない。
そのせゐか、いままでは「影のケース」といふ印象のあつた「曹操の王国」のケースが、今回は心持ち見やすい、そんな気がする。
もちろん、いままでが見づらかつたわけではないんだけどね。

「曹操の王国」のケースには入口に近い向かつて右から張遼、曹仁、許褚、夏侯惇、程昱、曹操、夏侯淵、曹丕、曹植、賈詡、仲達、荀彧の順で並んでゐる。
張遼と荀彧とがそれぞれ左右の端にゐて、曹仁・許褚・夏侯惇でひとかたまり、程昱・曹操・夏侯淵でひとかたまり、曹丕・曹植と賈詡・仲達でひとかたまりといつたところかな。

張遼は人形劇には出てこなかつた。
その割には眉の動くカシラで、おそらく目も閉ぢるか横に動くかするのだらうと思はれる。
前回の展示のときは、ひどく困つたやうな表情に見えて、「なにをそんなに悩んでゐるのか」ととても気になつた。
今回は表情自体は変はらないのだが(あたりまへだ)、前回ほど困つたやうには見えないのは、こちらが人形の張遼に慣れたからかもしれない。
あるいは正面切つて立つてゐて、自信たつぷりに見えるせゐかも。
帯に大きく獅子が配置されてゐて、なかなか華やかだ。
張遼、いろいろ見せ場もあるのにねえ、ゐるなら出ればよかつたのに。
さうも思ふが、呂布亡きあとの曹操・夏侯淵・郭嘉の三人体制の中にもう一人増やすのはためらはれたのだらう。
夏侯淵とかさなる部分も大きいし。
この時点では李典なんかも「曹操の名もなき配下」といつた感じだしね。

曹仁は、今回はおとなしさうに立つてゐる。
はじめて見たときも「三国鼎立~五丈原」のときで、このときの曹仁もおとなしげに見えた。
周囲がみんな個性的過ぎるからだな、とそのときは思つた。
今回は夏侯惇のことを気遣つてゐるやうに見える。
なにがあつたんだ、とか、なんでこんなことになつた、と、責めるでなく問ひかけてゐるやうに見えるのだ。
責めるやうなそぶりを見せる手もあつたのだらうが、このちよつと心配さうなところが今回の曹仁のいいところだ。

許褚は、そんな曹仁よりやや奥にゐて、やはり夏侯惇を見てゐる。
ちよつと離れてゐるせゐか、傍観者のやうに見える。
許褚といへば、前々回の展示ではなにかやらかしたらしく、曹操から厳しく睨まれてゐたものだつた。
今回、曹操が絡んでゐないといふことは、夏侯惇がなにかしたのだとしても、たいした話ではないのだらう。
人形劇の許褚は愛嬌のある顔立ちといふこともあつて、なんとなくその場に和やかな雰囲気を加へてゐるやうに見える。

曹仁から聲をかけられ、許褚からは見つめられてゐる夏侯惇はといふと、「いつたい何をしでかしたんだ」と気になるくらゐ、狼狽したやうすに見える。
視線をそらしてあらぬ方を見やり、「聞かないでくれ」と全身で訴へてゐる。
なにをやらかしたのかねー。
この夏侯惇・許褚・曹仁の三人の図があまりにもおもしろいので、ケースの前にあるソファに座つてしみじみ眺めてしまつた。
しみじみ眺めたところでなにがわかるわけでもないし、ソファに座ると若干ケースを見上げるやうになるので立つて見たときとまた印象も変はる。
夏侯惇は前回の「三国鼎立~五丈原」のときに見たときは、それはそれは「これが夏侯惇だらうか」と思ふほど思慮深げなやうすに見えて、思はず何度もその前で立ち止まつてしまつたものだつた。
呂蒙のところで「これが呂蒙か」と思つた、と書いたが、夏侯惇もそんな感じだつた。
その後の展示で如何にも夏侯惇らしい夏侯惇も見てゐるけれど、見るたびにその存在が気になる。
人形劇のときはそれほどでもなかつたのになあ。
飯田の夏侯惇はいつ見てもいい男だ。
まあ、今回は、ちよつとやらかしちやつた感があるけれど、それもまたよし。

程昱は、高いところにゐる曹操を見上げてゐる。
ケース正面から見ると横顔を見ることになる。
人形劇の程昱といふと、ずる賢さうな表情が印象に残るが、横顔はすつきりとしてゐて、「ずる」がどこかに消へ失せたやうな感じがする。
飯田に来る直前にヒカリエに寄つて、ちよつとくどいカシラの程昱を見てきたからさう感じるのかもしれないなあ。
ヒカリエの程昱も、いまは曹操を見上げてなにか献策してゐるやうに見える。
ヒカリエの程昱は、人形劇のときよりもさらに陰謀家めいたカシラになつてゐる。
人形劇のときはどこかしら齧歯類系の小動物を思はせるやうな可愛さ(といふのだらうか)のあつた程昱だが、ヒカリエの程昱からはその可愛さがそげ落ちてゐる。
飯田とヒカリエと、比べて見るとおもしろい。

比べて見るとおもしろいのは、今は曹操なのかな。
ヒカリエの曹操はカシラだけは人形劇の収録のときに使つたものだといふ話だ。
赤壁の戦ひに破れて憤怒の表情のカシラである。
Webをあちこちを見てまはると、川本喜八郎自身は1カットくらゐの使用のつもりだつたのに結構長いこと使はれてしまつた、といふ曰く付きのカシラださうな。
人形アニメーションなら、1カットといふのもうなづける。
「人形劇三国志」の赤壁の戦ひの場面は、あれはきつと長回しで撮りたかつたのだらう。
ゆゑにカシラを取り替へる時間がなかつた。
さういふことなのだと思つてゐる。
そこらへんがおもしろいところなんぢやあるまいか。
飯田の曹操は、程昱からなにかしら提言を受け、夏侯淵を見下ろしてゐる。
でもほんたうに見てゐるのは夏侯淵なのだらうか。
視線の向きからいふと、息子たちのことを考へてゐるのではあるまいか。
そんな気もする。
曹操くらゐになると、跡継ぎを誰にするかは曹操一人の胸の内では決まらない。
居並ぶ臣下それぞれの思惑が大きくことを左右する。
どんなに決断力にすぐれた指導者でも、舵取りを誤る確率が高い。
跡目相続のゴタゴタも、さう考へると仕方がないのかなあ。

夏侯淵は、曹操を見上げてゐる。
見上げてゐるのだがー。
飯田に来る直前にヒカリエに行つたのがいけないんだなー。
ヒカリエの夏侯淵は、まるで使へない人だからだ。
ヒカリエに行くと、夏侯淵は腕を組んでなにやら考へごとをしてゐるやうに見える。
いや、いま、そんな場合ぢやないから!
お前が動かなくてどーするんだよ。
見るたびにさう思つてしまふ。
夏侯淵がそんな調子だから大敗を喫しちやつたんでしょー、もー。
まあ、それくらゐのやうすで夏侯淵は立つてゐる。
不思議なもので、その印象をそのまま飯田の夏侯淵にもひきずつてしまふんだね。
すまぬ。

曹操の左、少しはなれたところやや低い位置に曹丕と曹植とが立つてゐる。
曹丕は背中を向けて顔だけちよつと曹植をふり返つてゐる。
曹植はおとなしげなやうすで、曹丕のことを呼び止めてみた、といつたところか。
酒見賢一は「泣き虫弱虫諸葛孔明」の中で、「曹丕は別段曹植のことを嫌つてゐたわけぢやないんぢやないか」といふやうなことを書いてゐる。
うむ。なんか、そんな気がする。
周りはあれこれ煽るけど、当の本人たち自身がどうだつたかはわからない。
でも飯田の曹丕は曹植のことが嫌ひだね。
積極的に嫌ひでなくても疎ましく思つてゐる。
表情にそれが出てゐる。
まだ曹操は生きてゐる時点でのふたり、かな。

一方の曹植は、とにかく「いい人」顔をしてゐるので、まあ曹丕のことを憎く思つてはゐないのだらう。
弟として兄を呼び止めてみた。
そんな感じがする。
「七歩の詩」は、曹植の作ではないといふ。
曹植の詩にしては稚拙だからだ、といふのがその理由なのらしい。
稚拙かどうかはわからないが、でもやつがれも「七歩の詩」は曹植の作ではないと思つてゐる。
「何ぞ太だ急なる」つて、豆がらだつて燃えてるんだからさ。
むしろ、豆がらは今まさに燃えてゐる、その苦しみの中にある相手に対して「何ぞ太だ急なる」つてどーゆーことだよ。
豆は豆がらにむかつて、「もつとゆつくり燃えておくれよ、ぼくのために」とでも云つてゐるのか。
冗談も休み休み云つてほしいよね。
もしほんたうにこれが曹植の作なのなら、そんな甘えてふざけた根性でゐるから嫌はれ疎まれ左遷されるんだよ。
とはいへ、飯田の曹植にはさうした甘ちやんつぽいところがあるのも事実なんだよなあ。

賈詡は曹丕の手前、低い位置にゐる。
顎をぐつと引いて目は曹丕・曹植の方を見やつてゐる。
見やうによつてはなにかしら悔恨の情を抱いてゐるやうにも見える。
でもやつぱり、なにか悪だくみでもしてゐるところなのかなあ。
それもひとまづは口に出しては云へないやうな悪だくみを。
曹丕と曹植とが仲良くなると、まづいことになるぞ、とかさ。

その向かひにゐる仲達は、もつと前向きに悪だくみをしてゐるやうに見える。
前向き、といはうか、悪だくみを曹丕に進言しやうとしてゐるところ、といはうかね。
飯田で見る仲達はいつも白地の衣装な気がするなあ。気のせゐかな。
黒地の衣装だつたらもつと悪いことを考へてゐるやうに見えたのかも。
ここの曹丕と賈詡と仲達といふ並びはなんだかとつても「濃いぃ」感じがする。
人形劇を見てゐたときも、この三人に程昱が加はると、さらに「濃いぃ」感じがした。それで四人とも目を横に動かしてゐたりすると、もつと「濃いぃ」。
きつと悪さが濃いのだらう。

そんな曹丕・曹植および賈詡・仲達のやうすを見てゐるのが荀彧である。
最初に見たときは、彼岸にゐる荀彧は「わしやもう知らんもんね」とでも云うてゐるかのやうに見えた。
でも何度か見てゐるうちに、どうも未練たらしく見えてきたんだな。
ほんたうだつたらああもあらう、かうもあらう、でも自分はもう曹操から見限られた人間だからなぁ、みたやうな、ね。
哀愁の荀彧。
そんな感じかな。

以下、つづく。

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Tuesday, 16 June 2015

ノマド向きとはいへど

The Twirly をつなぐプロジェクトは一応進んでゐる。
外ではあまりビーズをあしらつたタティングをしないからだ。

Nina Libin はその著書で「現代のノマドへ」と書いてゐる、とは何度も書いてゐる。
糸にビーズを通してシャトルに巻けば、どこででもビーズタティングができる。
毎日通勤に相当の時間を費やしてゐる人、すなはち「現代のノマド」でもできる。
さういふ内容である。

何度も書いていることからわかるやうに、やつがれはこの Nina Libin のことばが大変に気に入つてゐる。
通勤するばかりが「現代のノマド」の移動時間ではあるまい。
休みの日にはどこかに遊びに行くこともあらうし、長期の休みには遠出することもあらう。海外に赴く人もゐるだらう。
さうしたすべての人に、ビーズタティングが向いてゐる。

うーん、まあさうなんだけどね。
ビーズは通さなくてもいいかもしれないよね。
といふわけで、The Twirly をつなぐプロジェクトなわけだ。
シャトルに糸を巻いて持ち歩き、時間のあるときにはいつでもどこでも取り出してタティングする。
いいぢやあないか。
ビーズはうまいこと巻かないとほしい時に手元に出てきてくれない。
そこはもーちよつと落ち着いた場で慣れてからでないと、持ち出せないなあ。
さう思つてゐる。

ところで The Twirly をつなぐプロジェクトは三段目に入つた。
早速いまひとつ失敗してゐる。
以前も書いたやうに、もともとはもつと大きい六角形同士をつなぎたいと思つてゐた。
でも「これ!」といふモチーフなりドイリーなりを見つけられなかつた。
それでお気に入りの六角形のモチーフである The Twirly を七つつないで大きな六角形にして、これをつなぐやうにした。
しかしね、The Twirly にした時点で、「七つつないだ大きな六角形」と考へるのはやめた方がよかつた。
未だに「七つつないだ大きな六角形同士をつなぐ」といふ呪縛から逃れられないので、段が変はつた途端につなぎ方がなんだか不格好といふか不器用な感じになつてしまつてゐる。
The Twirly をつなぐ、と考へたらもつとわかりやすくいい感じでつなぎつづけることができるだらうに。
と、三段目の最初の一枚をつなぎ、二枚、三枚とつなぐたびにその思ひが強くなる。

四段目をつなぐときには、この教訓を活かしたい。
と、ここに書いておけば忘れないだらうか。

最後になつたが、The Twirly とは Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフである。六角形で風車のやうな形をしてゐる。
このモチーフをたくさんつないで最終的にはちよつと壊れた大きな六角形にするのが「The Twirly をつなぐプロジェクト」だ。
多分、世の中でこのプロジェクトを遂行してゐるのはやつがれだけだらう。
ま、そんなプロジェクトである。

Monday, 15 June 2015

ヨガソックス着手

連休のちよつと前から、休みの日は前もつてやることを書き出しておくことにしてゐる。
やること、といふか、やりたいこと、かな。
全部できるとは限らないし、書いてゐないことをやることもある。
でも今年の連休はこれでだいぶ有意義に過ごせたんぢやないかな。すくなくとも例年よりは。

といふわけで、この週末も「これをしやう」といふことをいろいろ書き出してはゐた。
たとへば「世田谷文学館に行く」とかね。だつたらついでに「ヒカリエに行く」とかね。
あとはクリストファー・リーを偲んでなんか映画を見やう、とか。

計画をたてた時点で薄々わかつてゐたことだけれど、出かける系の予定は全滅だつた。
風邪をひいてしまつたからである。
六月最初の日曜日に東洋館から帰つてきたときから、のどは痛かつた。
このときにきちんと処置をしなかつたのがいけなかつたんだな。
世田谷文学館には行けなかつたし、ヒカリエにも行けなかつた。
映画については、ずつとはふつてあつたリチャード・レスター版の「三銃士」のDVDを見た。
そんな感じかな。

予定をたてた時点で出かけられない可能性を考へてゐたので、あみものでやりたいことも書いておいた。
それが「ヨガソックスを編む」である。

Estonian Spiral Sock in Progress

林ことみの「北欧ワンダーニット」に載つてゐるエストニアン・スパイラルのヨガソックスを編むつもりでゐた。
使用する毛糸は Regia Design Line のアルネ&カルロスもののひとつだ。青・水色・桃色と白の糸である。
前回書いたやうに、「この値段なら一玉100gだらう」と思つて一玉づつしか買つてゐない。
一時は買ひ足すことも考へたが、「さうだ、ヨガソックスなら50gでも足りるかもしれない」と思ひなほした。
どうやら、足りそうである。
もう一玉色違ひで買つてあるので、そちらもヨガソックスになることであらう。

ヨガソックスとはなにかといふと、つま先とかかとの部分のないくつ下のことだ。
なぜこれがヨガソックスと呼ばれるのか。
ヨガのときに履くからだらうと想像はつく。
おそらく、つま先とかかととは裸足のままの方が床をつかまへやすいとかなんとか、さういふ理由なのだらう。
さう推測してゐる。

寒くなると、足先が冷える。
ゆゑにつま先のないヨガソックスは自分には用のないもの、とずつと思つてゐた。
しかし、外出するときなどは足首もまた冷える。
かういふときにヨガソックスが役に立つ。
つま先とかかとといふくつ下でもつとも修理の必要な部位がないといふのもいい。

そんなわけで、とくに用事のない土日ならヨガソックス一足くらゐは編み始めから仕上げまでできるところなのだが、今回は片方もしあがらなかつた。
……と書いたところで片方できた。
片方できたら即もう片方に着手するのがくつ下や手袋完成の極意である。
といふわけで、こんな感じだ。

Estonian Spiral Sock in Progress

Regia Design Line の Arne & Carlos は色番03653を使つてゐる。
この毛糸は、色のくり返しのピッチが長い。
色自体は短いピッチで変はるのだが、一模様が長いのだ。
わかりやすいところから編みはじめてはみたものの、もう片方を編むときにおなじやうな位置からはじめられるかどうか、確信がもてない。
全然柄の違ふところから編みはじめるのも味かな、とは思ふ。

風邪で寝込んでゐるのにあみものか、といふ向きもあらう。
寝込んでゐるといつて、一日中まるまる寝ることはない。
そんなことしたら夜眠れなくなつてしまふ。
夜眠ることを考へて昼間寝ないからよくならないのかもしれないな、とも思ふが、月曜日から出勤することを考へたらあまり生活のリズムを変へない方がいいやうな気がする。

また、風邪だからといつて、なにもしないでゐると、「ああ、この週末はなにもできなかつた……」と気分が落ち込むことになる。
そんなこといつてるから風邪がよくならないんだよ。
うむ。それはさうかもしれない。
ここらへんはすると決めたことをするかそれとも休むかのトレードオフがむづかしいところだ。
まあ、結局、編みはじめてしまつたわけだけれどね。

これがもつとむづかしい模様とかだつたら編みはじめはしなかつた。
エストニアン・スパイラルはこれまでも何度か編んでゐるし、手元を見ずともそれなりに編める模様である。
つまり、リラックスした状態で編めるといふことだ。
風邪でまゐつてゐるときに、これは重要なポイントである。

できあがつても履くのは涼しくなつてからだらう。
あるいはつま先とかかととはないから、想定よりは早く履きはじめることができるかな。

そんなわけでかぎ針編みのプルオーバーはまつたく進んでゐない。

Friday, 12 June 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館 玄徳の周辺 2015/06

六月五日、六日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回はメインのケースについて書く。
このケースのテーマは「玄徳の周辺」だ。
玄徳・劉禅父子を中心に人々が取り巻いてゐる、といつた趣である。
向かつて左奥から法正、張飛、関羽、左手前から美芳、玲々、馬超、黄忠、中央奥に玄徳、劉禅、その右手前に趙雲、馬謖、関平、馬謖の背後に魏延、姜維といつた順で並んでゐる。

法正はなんとなく蚊帳の外にゐるやうに感じられる。
隅にゐるからだらうか。
前回の「三国鼎立~五丈原」のときはおなじケースの中央手前やや右よりのところにゐて、「さすが太守になるだけあつて、いい位置にゐるなあ」と思つたものだつた。
文官は外へお行き、とでも云はれたのかな。
前回見たときは「ダンディなをぢさま」つぷりにばかり目がいつてしまつた。
今回は衣装の梅模様ばかり見てしまつた。円を六つ重ねたあれは梅だらう。桜ぢやないよな。
中央にゐる玄徳父子の方をやや見上げるやうにしてゐて、輪に入らうといふ意思を感じるだけに、チト不憫な気もする。

法正の手前に玲々をおんぶした美芳がゐる。
このケースで思はず立ち止まるのはまづここだ。
背後から母の顔を覗かうとする玲々の愛らしさと、ふりむいて我が子の顔を見る美芳の表情のやさしげなことといつたらない。
ケースの角の切り落としたやうになつてゐる部分から見ると、最高だ。
美芳のベストアングルなんではあるまいか。
見てゐるだけで思はず微笑んでしまふ。
今回、メインのケースと相対するケースとのあひだには展示はなく、ホワイエにある椅子が八つほど並べられてゐる。
座つてのんびり展示を眺めたいところだが、残念ながら椅子の位置と美芳・玲々との位置がチト合はない。
合つてたらずつと見てしまふなあ、きつと。

法正の隣、ややはなれたところに張飛がゐる。
さうか、この距離感が法正の「蚊帳の外」感を強めてゐるのかな。
張飛は両腕を垂らしてやや広げ、手のひらをこちらにむけて「なんでだよ」とでも云ひたげなやうすで立つてゐる。「いいぢやねえか」かもしれない。
視線の先には玄徳父子がゐる。
この親子に対して、張飛はなにか云ひたいことがあるのだらう。
実際口に出してゐるだらうとも思ふ。

そんな張飛の隣には関羽が立つてゐる。
髯に手をやつて、おなじく玄徳父子を見てゐるものの、関羽はどことなく傍観モードだ。
自分が口を出すことではない。
さう思つてゐるのではあるまいか。
よくよく見ると衣装の裾がほつれてゐて、三十年の重みを感じてしまふ。

美芳母子からすこしはなれた位置に馬超がゐる。
玄徳の配下に入つたからだらう、毛皮のマントは身につけてゐない。どこかすつきりとした出で立ちである。
でもその衣装には豹柄があしらつてあつたりするんだよね。
馬超も玄徳父子を見てはゐるものの、特に思ふところがあるやうには思はれないのは、仲間にはなつたものの、なつて以降の登場・活躍に乏しいからかなあ。

そこへ行くと黄忠にはもつと情があるやうに思はれる。
視線の先には玄徳父子がゐて、その手は胸にあてられてゐる。
感じ入つた、とでもいつたやうすだ。
黄忠は、人形劇ではきかん気の強い老将といつた印象が強いけれど、飯田で会ふともつと思慮深げなやさしい人に見える。一見柔に見えて実は剛、といつた感じとでもいはうか。
それもまた黄忠の一側面なのだと思つてゐる。

黄忠の右、ややはなれたところに趙雲がゐる。
ややはなれてはゐるものの、あひだに玄徳と劉禅とがゐるので趙雲が蚊帳の外にゐるやうに見えるといつたことはない。
趙雲も玄徳父子を見上げてゐる。
趙雲も関羽とおなじやうに自分がどうかう云ふ立場ぢやない、といつたやうすに見受けられる。
でも関羽よりはもうちよつと能動的といはうか、きつと若殿の言ももつともとかなんとか、そんなことを考へてゐるのぢやあるまいか。
なにしろ二度も助けちやつたしねえ、劉禅のことは。

ケース中央奥高い位置に、玄徳と劉禅とが立つてゐる。
玄徳は劉禅を見下ろしてゐて、劉禅は前のめりになつて父を見上げてゐる。
この玄徳の表情がとても厳しい。
劉禅がなにか阿呆なことを云つて、それを咎めてゐる。
そんな風に見える。
いや、人形劇の劉禅だからそんな阿呆なことは云はないか。
劉禅の甘さを戒めてゐる。
そんな感じかなあ。
飯田でこんなに厳しい表情の玄徳に会つたのははじめてだ。
それにしても飯田の玄徳はいつ見てもいい男だ。
東映時代劇全盛のころのヒーローに似た雰囲気がある。
どこかちよつとくどいんだよね。
以前、八丁堀にある職場に東京駅から歩いて通つてゐたことがある。
フィルムセンターの前にさしかかると、「旗本退屈男」を上映してゐたらしく、白黒写真のポスターの早乙女主水之介がこちらをはつたと睨みつけてゐるのを毎日見てゐた。
わかつてゐても思はず見ちやふんだよね。
ものすごい目力なんだもの。
あのなんともいへない色気に似たものが飯田の玄徳にはあるんだなあ。

劉禅はやや前傾姿勢で玄徳を見上げてゐる。
父親にくつてかかつてゐる。
そんな風にも見える。
人形劇の劉禅は賢いいい子なので、阿呆なことは云ふまい。
でもまだこどもなわけで、幼い意見や世間知らずの妄言を吐くやうなことはあつたらう。
そんな感じなんぢやないかなあ。
それを張飛は「いいぢやあないか」と思ひ、関羽はしづかに見守り、馬超は仲間になつたばかりだしやうすを見ておくかといつた感じで、黄忠は我が主君父子はすばらしいと思つてをり、趙雲は若殿持ちだけど玄徳の云ふことももつともと思つてゐる、とかなんとか、まあそんな場面なんぢやああるまいか。
あ、法正か。法正はどうなんだらうね。法正もなにか云ひたげではあるけれど、如何せん物理的にも心理的にも距離が遠すぎる。

馬謖、関平、魏延、姜維はこの四人で別世界といつた趣だ。
馬謖と関平、魏延と姜維、なのかな。魏延と姜維とはそれぞれにまた別々な感じもする。
馬謖と関平とはなにやら話し合つてゐるやうすだ。
馬謖がなにやら持論を滔々と述べてゐるのかもしれない。
いい人の関平さんはその馬謖に合はせてゐるのかも。
馬謖は前回の展示のときは奥の方にゐたと記憶する。それで気づかなかつたのだらう、今回見たら「馬謖の衣装つてこんなに派手だつたつけか」とちよつと驚いた。
派手、といふよりはきれいなのかもしれない。
馬謖は人形劇での出番も少ないし、展示もこの「三国鼎立~五丈原」のときだけだから、あまり劣化してゐないのかも。

関平は関平でやはりなにか云ひたげなやうすでゐる。
馬謖が滔々と持論を述べてゐる、といふのはやつがれの勝手な妄想で、単にふたりで話し合つてゐるので関平もなにか云ひたさうなのかもしれない。
うーん、でもやつぱり人のよささうな関平さんは、馬謖が延々と喋つてゐるのを聞きつつ、「それはさうだけど」とかなんとか、相槌を打ちつつ反論を試みてゐるやうに見えるなあ。
人形劇の関平は孔明から見ると弟弟子にあたるわけだし、それなりに学もあるんぢやないかなあ。

魏延はこのケース最大のエニグマである。
大げさかもしれないけど。
向かつて左の方を睨んでゐるのだけれど、なにを睨んでゐるのかさつぱりわからないのだ。
向かひのケースの中にゐる曹操の武将の中の誰かか。
あるいは手前にゐる馬謖かあるいは趙雲か。
それとも単に不満でそつぽを向いてゐるだけなのか。
まづ、向かひのケースといふことはなささうだ。何度か向かひのケースの前から確認してみたけれど、魏延の視線はこちらまで伸びてはゐないと思ふ。
それでは趙雲か、はたまた馬謖を睨んでゐるのか。
趙雲を睨んでゐる、といふのはもしかするとあるかもしれない。
今回、いはゆる「五虎将」が玄徳父子をとりまいてゐるといつたやうすなので、「なぜ自分はあの中に入れないのか」と不満を抱いてゐるといふことはありうる。
それで一番自分の近くにゐる趙雲の方を睨んでゐる。
その可能性はある。
うーん、でもやつぱり馬謖を睨んでゐるのかなあ。
「この青二才めが」とか思つてゐるのかもしれない。
前回の展示のときは剣舞の最中といつた恰好だつたんだよね、魏延。
今回は角度によつてはなんだかいい男に見えるぞ。

姜維もなにを見てゐるのかよくわからないけれど、馬謖と関平との対話を傍らで聞いてゐる、といつた趣なのかもしれない。
馬謖のところでも書いたけれど、姜維もまたぱりっとしたやうすで立つてゐる。
出番が少ないし、展示もこの時期だけだものね。
人形劇の姜維は正面から見るとやや寄り目でちよつと変はつたタイプに見えるが、横顔はとても凛々しい。前回の展示のときに気がついた。
帯は龍柄なんだな。指は五本。一部四本だつたりもするけれど、おそらく一本はかくれてゐるのに違ひない。

以下、つづく。

諸葛亮と特異なキャラクターはこちら
江東の群像はこちら

Thursday, 11 June 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館 江東の群像 2015/06

六月五日、六日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回は展示室を入つて入り口正面奥にあるケースについて書く。
このケースのテーマは「江東の群像」だ。
向かつて左側から黄蓋、甘寧、程普、周瑜、貞姫、孫権、魯粛、諸葛瑾、陸遜、呂蒙、徐盛の順に並んでゐる。
周瑜まででひとかたまり、諸葛瑾まででひとかたまり、徐盛まででひとかたまりといつたところか。

黄蓋はケースの奥の方に、甘寧はその手前に立つてゐる。
程普と周瑜とを取り巻いてゐるといつた感じだ。ふたりとも右側を向いてゐる。
人形劇の黄蓋は、赤壁の戦ひのときに矢を受けて倒れ、そのあとどうなつたかわからない。あの描き方では死んだのではないかといふ気がする。
でもこのやうすだと生きてゐたんだよね。多分。

人形劇の甘寧は印象が薄い。
甘寧はもつと日焼けした感じなんぢやないかなあ。
それとも日に焼けても赤くなるだけで色が黒くなつたりはしないのだらうか。
さういふタイプなのかもしれない。

程普は両肘を張つて片手のこぶしをもう片方の手でつつむ礼の形を取つてゐる。腰も若干低い。
背後に立つてゐる周瑜の方を向いてゐるので、程普をちやんと見るには斜めから見るやうにする。
程普をこんなに間近で見るのははじめてかもしれないなあ、やつがれは。
新宿高野やジャスコのときには見たのかもしれないけれど、すでに記憶にない。
以前の展示のときに、「甘寧と徐盛とは雰囲気がよく似てゐて、甘寧の方が色白で皮膚がピンク色」といふやうなことを書いた。
この二人に比べると程普は個性的だ。古株で人形劇にもかなり最初のうちから出てゐたからかもしれない。そのわりに出番が少ないのが残念だ。
程普を間近で見るのははじめてかも、と思ふ所以は、衣装にある。
荒磯が使はれてゐることに気がついたからだ。
荒磯については、以前この美術館で教へていただいた。後白河法皇の衣装に使はれてゐたと記憶する。
海の男といふか江の男にはふさはしい柄なのではあるまいか。

周瑜は少し高いところにゐて、程普を前にあらぬ方向を睨んでゐる。
程普からなにがしかの報告を受け、考へ込んでゐるといつた態だ。
前回のやさしさうなやうすから一変、策士の表情を浮かべてゐる。
人形劇の周瑜らしい表情だ。
あひかはらずいい男である。
周瑜は兜の色が金古美とでもいひたいやうな色になつてゐる。先祖伝来の兜なのかな。古めかしくて趣がある。

貞姫は、孫権の前でうなだれてゐる。
こちらには背を向けてゐるので顔はよく見えないけれど、ひどく力ないやうすだ。
どうしちやつたのよ、と云ひたくなる。
どういふ場面なのかね。
ひとたび嫁いで戻つてきたの図、かね。
貞姫のやうすはさうかもしれないが、その前にゐる孫権のやうすを見るとさうではないやうな気がしてくる。

といふのは、孫権は高いところにゐて椅子に座してゐるのだが、腰を浮かせて妹の方に身を乗り出してゐるからだ。
貞姫がなにごとが云つて、それに反応して思はず腰を浮かせた。
そんな風に見える。
貞姫を問ひつめてゐるやうには見えない。ひとまづ「なにっ?」と驚いてゐる、そんなやうすだ。
さらには、どこか貞姫を慮るやうすもうかがへる。
前回の展示では孫権は椅子の脇に立つてなにやら下知してゐるやうすで、これが実にいい男だつた。
失礼ながらも「孫権つてこんなにいい男だつたつけか」と思つたほどである。
今回の孫権もいい男だ。こんなによかつたかな。
なにかしら動きのある方が、孫権はいいのかもしれないなあ。
孫権に限らないか。

孫権のななめ右前には魯粛が立つてゐる。貞姫の方を見てゐる。
人形劇だと荊州から貞姫を連れ帰るのは魯粛だ。
ことの次第はよく理解してゐるのだらう。
この場面が、貞姫が荊州から戻つてきて以降のことだとして、だけど。
また、自分が口をはさむ問題ではない、とも思つてゐるのかもしれない。

それはその背後、孫権の隣に立つ諸葛瑾もおなじだ。
視線は貞姫に向いてゐるが、傍観してゐる感じがする。
躰の芯が若干傾いてゐるから、興味はひかれてゐるんだらうとは思ふ。
諸葛瑾は前回前々回と「失意の諸葛瑾」とでも名付けたいやうな趣であつた。
前回は孫権の前にひざまづいて頭を垂れ、見る角度によつては照明の加減で影ができる関係で、悲劇の人のやうに見えた。
前々回はなんだか力ないやうすで立つてゐて、なぜこんなに打ちひしがれたやうすでゐるのかと不思議でならなかつた。
今回はそんなことはないぞ。よかつたよかつた。
と思ひつつ、ちよつともの足りないやうな気もすることも否めない。

勝傑……ぢやなくて陸遜は右やや上に立つ呂蒙を見て立つてゐる。
陸遜ももしかしたら間近で見るのははじめてなのだらうか。
今回はじめて帯に祗園守のやうな模様が大きく入つてゐることに気がついた。腹側と背側と両方に入つてゐる。全体的に黒つぽいのでわかりづらいが。
思はず「成駒屋!」とか聲をかけたくなつてしまふ。
ケースの右端から見ると、真摯な表情で呂蒙を見上げてゐて、いい人のやうに見える。

呂蒙は、陸遜や徐盛よりちよつと高いところにゐて、悪だくみ中といつた表情で立つてゐる。
二年前の五月に見たときとは別人のやうだ。
二年前の五月の呂蒙は、人形劇のときとも別人のやうだつたからなあ。
人形劇の呂蒙といへば完璧にヒールで、その扱ひに方々から非難の声があがつたといふ話だ。
ひどすぎるもんね、やることが。
しかし、あらためて人形劇の「関羽の死」あたりを見返すと、この徹底的な悪であるところがいつそ清々しい。
いいぢやん、人形劇の呂蒙も。
さう思ふ。
二年前の五月の呂蒙は、左の方をわづかに見上げてゐて、まるで大洋に出て新天地を目指す船の船長とでもいひたいやうな意気揚々とした明るい表情を浮かべてゐた。
ヒール? とんでもない。
どこか夢見るやうな表情でもあつて、呂蒙にもこんな顔ができるんだなあ、と感じ入ることしきりだつた。
このときは呂蒙と夏侯惇とが「こんな表情もできるとは!」といふ趣で、この二人の前に何度も立つたものだつた。
人形劇に出てゐたときのことを考へたらあり得ないやうな表情もいいけれど、如何にも「らしい」表情もいい。
できれば両方見たいね。

徐盛も呂蒙を見上げてゐるが、ケースの右端に背を向けてゐるのでその表情をよく見やうとすると魯粛の前あたりから回り込むやうにして見ることになる。
呂蒙になにかことばをかけてゐるのだらうか。
それとも呂蒙がなにか云ふのを待つてゐるのか。
かういふ人形同士が話しあつてゐるかのやうな展示つて、自分が展示室に足を踏み入れるまでは実際にガヤガヤと話してゐたんぢやないかといふ気になる。
「人間が来た!」といふのでそのまま動きを止めてみました、みたやうな感じとでもいはうか。
ちよつと仲間に混ぜてほしいやうな気もするけど、さうはいかないところがなんだか切ない。

以下、つづく。

諸葛亮と特異なキャラクターはこちら

Wednesday, 10 June 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館 諸葛亮と特異なキャラクター

六月五日、六日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
五月三十日に展示替へがあつた。新展示を見るのが目的である。
今回三国志は「三国鼎立~五丈原」、平家物語は「女人平家」、人形アニメーションは「いばら姫またはねむり姫」「道成寺」「鬼」「冬の日」「火宅」。特別展示が終はつたのでホワイエでの展示が増えてゐる。

展示室に入つてまづ出迎へてくれるのが孔明である。
うわ、丞相閣下御みづからお出迎へだよ。
さう思つてしまふのは、白い衣装だからだ。
衣装がふはりと風に吹かれてふくらんでゐる。
川本喜八郎の人形アニメーションといふと、風を感じる作品だ、といふ印象がある。
実際は無風状態で撮つてゐるんだけれど、また無風でなければ撮れないけれど、そこには明らかに風が吹いてゐる。
「道成寺」や「火宅」、「死者の書」で囂々と吹き付ける風に女や菟名日処女、郎女がなぶられてゐるところはもちろん、今回「火宅」を見て、菜つみをする女たちのあひだにも早春の風がほのかに漂つてゐる感じがした。
さういや「人形劇三国志」でもよく風が吹いてゐたな。
関羽の頭巾や髯が風に揺れてゐる場面がよくあつた。

風と孔明といふのはなぜだかとても似つかはしい。
ほぼ真正面から風を受けてゐる姿は、入口の戸が開いて、それで風が吹いてきた、といふ風にも見える。
二年前の五月にはじめてこの美術館に来たときも、三国志の展示内容は「三国鼎立~五丈原」で、孔明は白い衣装を身につけてメインのケースの奥やや左よりの位置で空を見上げて佇んでゐた。
そのときははかない印象しかなくて、白い衣装で「死に態」だからかな、などと思うたものだつた。
この白い衣装が、間近で見るととてもいい。
白といふよりは上品なクリーム色の地で、龍丸が散らしてある。龍は桃色の勝つた淡い紫色で、指は三本。龍丸の周りには地模様の凹凸で雲が表現されてゐる。
人形劇を見てゐるときは、画面もそんなに大きくないし、どんな柄の衣装を着てゐるのかはあまり気にしてゐなかつた。
からうじて陳宮の袖の内側の縞模様はステキだなあ、などと思つてゐたくらゐだ。
白は喪の色といふことで、これまで「出師の表」以降の孔明はあまり好きではなかつたが、すつかり認識を改めた。
今回も孔明は360度ぐるりと見ることができる。
展示室の電気が消へてゐるときに中に入ると、戸が開いた直後は真つ暗闇だ。躊躇してゐると、そのうちふつと明かりがつく。その瞬間、ぱつと視界に入るのが白い孔明、といふのもいい。

その孔明の左側のケースは「特異なキャラクター」といふテーマで、入り口に近い方から紫虚上人、龐統、管輅、左慈の順で並んでゐる。

紫虚上人が立つてるよ!
といふのが、まづ驚きだ。
紫虚上人が立つてゐたことなどあつたらうか。
あつたのかもしれないが、記憶にない。
帯などにところどころほつれてゐる部分があるが、これはもともとさうなんだらうな。
人形劇を見返してはゐないけれど。
だつて人形劇の紫虚上人の出てくるくだりつてちよつと悲しいでせう。
縮緬の皮膚はもちろん、光線の具合で光る爪も魅力的である。

龐統を「特異なキャラクター」に置くのはどうなのよ。
さうも思ふが、紫虚上人との並びなんだらう。
二年前の五月に見に行つたときは、メインのケースの右寄りの位置にゐた。左側にゐる孔明と呼応する位置だつた。
前回の展示のときは、うつむいてゐるやうに見えて実は孔明を見据ゑてゐた龐統だが、今回もうつむいてゐる。沈思黙考の態だ。
くどいほど確認してしまつたけれど、今回はおそらく孔明を見てはゐない。
龐統も孔明も、半分彼岸に行つてしまつた人、といふ感じなのかもなあ。
管輅や左慈の前あたりから見ると、龐統は実に凛々しく見える。

管輅と左慈とはおとなしく立つてゐる。
といふのも、管輅は以前見たときは片腕をさしのべて「悔い改めよ!」と迫るルネサンスの宗教家(もちろんキリスト教系)のやうに見えたし、左慈は髯や衣装が風に舞つてジェダイ・マスター(もちろんダーク・フォース)のやうに見えたからだ。
人形劇の管輅は左慈をやつつける人、といふ趣だつた。
かうして見ると、管輅の方がアヤシい人に見える。
なぜといつて髪を結つてゐないし頭巾もかぶつてゐないからだ。
さういふ意味では左慈の方がよほどちやんとしてゐる……ともいへないか。
もとい。
管輅のなにがおもしろいかといふと、衣装だ。
上に羽織つてゐるものの裾にミシンがかけてある。
帯地を使つてゐるとおぼしき衣装は大抵のりで裾が押さへてあるし、綿地の場合はまつり縫ひだから手縫ひだらう。
ミシンの縫ひ目が見える衣装はめづらしい。

左慈は右手に杖を持ち、左手は髯をつかんで立つてゐる。
おとなしげなやうすが返つてブキミかもしれない。
杖は二年前の六月の展示替へのときに持つてゐたものとおなじもののやうだ。五月に持つてゐたのがどうだつたかはチトわからない。
左慈のカシラにはちよつとしたギミックが仕掛けられてゐる。
是非行つて見てね。

以下、つづく。

Tuesday, 09 June 2015

唐草模様が好きである

アラベスク模様といつた方が聞こえはいいだらうか。
唐草模様といふと泥棒の背負つてゐる風呂敷を思ひ浮かべる向きもあるだらうからだ。
しかし、あれがいいのである。

そんなわけで、ビーズタティングをはじめてしまつた。
Nina Libin のデザインしたものである。

Beaded Tatting in Progress

これだと唐草模様には見えないかな。
もうちよつと模様をつづけてくねくねさせると唐草模様のやうになる。
はじめて芯糸にもビーズを入れるデザインを知つたのは、Nina Libin の作品でだつた。
多分最初は Web Page で見かけたのだと思ふ。
その後、Tatted Lace of Beads The Techniques of BEANILE Lace を手に入れて、いまに至る。写真の作品もこの本に掲載されてゐる。

このタティングレース作品のことはずつと気になつてゐた。
おそらく、はじめてみたときから唐草模様つぽかつたからだらう。
その時点ではまだ自分自身唐草模様が好きだといふことに気づいてはゐなかつた。

「もしかしたら好きなのかも」と思つたのは、手ぬぐひを持つやうになつたときだつた。
数多ある手ぬぐひの柄の中に、唐草模様がある。
最初は、「泥棒のやうだ」と思つた。
でもやつぱり気になつて買つてしまつた。
残念ながら深緑色の手ぬぐひはなかつたので、紺色地を選んだ。
紺色はどこか深緑色に似たところもあつて、気に入つた。

確実に自分は唐草模様が好きだ、と思ふやうになつたのは、つひ最近のことである。
飯田市川本喜八郎人形美術館や渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーに行くやうになつて、人形の衣装を見るにつけ、「いいなあ」と思ふものには唐草模様があしらはれてゐることが多いことに気がついた。
ほかの展覧会に行つても、たとへば先日東京国立博物館に「鳥獣戯画 京都高山寺の至宝」展に行つたときも、掛軸の天地や中縁、柱などを見て「いいなあ」と思ふものの多くには、そこはかとなく唐草模様が使はれてゐた。

さうかー、唐草模様が好きなのかー。
さう思ふにつけ、なんとなく頭の隅にひつかかるものがある。
それが Nina Libin のこの作品だつた。

茎の部分の1スティッチごとに上下にビーズが1つづつ入るあたりがことに好きだ。
しつかりした作りになるんだよね。
気をつけないと重たくなつてしまふが、このちよつとずつしりとした感じがいい。

タティングレースの場合、結び目が芯糸の上にくるので、長いチェインを作ると自然と曲線ができる。
途中で裏返してシャトルを持ち替へることで、曲線のふくらむ向きが変はる。
曲線の向きを変へる時や弧の中央なんかに適度にリングを散らすと、唐草模様のやうな模様ができる。
このくねくねとした感じがいいんだよねえ。

問題は、これを作つたところで使ひ道がないことだ。
布地に貼りつけて袋物かなにかを仕立てるくらゐしか思ひつかない。
そして、縫ひものは苦手なのだつた。

そのまま放置でもいいかな。

Monday, 08 June 2015

くつ下編むかね

毛糸を買つてしまつた。

Yarns I Bought

かぎ針編みのプルオーバーは進んではゐないがな。

買つたのは、Opal の Uni の臙脂色、Regia Design Line のケイフ・ファセットもの、おなじく Regia Design Line のアルネ&カルロスもの二色。
アルネ&カルロスものは、この価格なら一足分だらうと思つて一玉づつしか頼まなかつた。
多分、なにか細い円筒状のものを編むとは思ふけど、くつ下ではないだらうな。
夏用にくるぶしまでのくつ下なら編めるかなあ。
あ、ヨガソックスなら編めるかも。それいつてみるか。

今年はなんとなくくつ下編みの気分なのだな。
などといひつつ、すでに六月なわけだが。

今年はこれまでにくつ下を三足編んでゐる。
去年は一足くらゐしか編んでゐない。

だいぶ以前に、「ヲレは SockKnitter になる!」と決めて、当時はずいぶんくつ下ばかり編んだ。
編む以上にくつ下用毛糸を買ひためてしまつた。
くつ下に関して云へば向かふ数年なにも買はずに編み続けられるはずだ。
なのに買つてしまつた。
いかんなあ。

単色の毛糸がほしかつた、といふのはある。
買ふときはつひ段染め毛糸を選びがちで、なあ。
でもレース模様だとか縄模様だとかを編むなら、単色の方がいい気がする。
イェーガーのマッチメイカーが廃番になるときに、買ひためたのがあるんだけどね。
でも廃番になつてしまつたからどうも使ひづらいのだ。
だつてもう手に入らないんだよ。
さう思ふと使へない、といふ話は以前も何度かした。Yarn Harlotにもおなじことが書いてある。

くつ下毛糸は大抵一足分づつしか買はないので、どれも貴重だ。
使つてしまつたらおなじものは二度と手に入らない。
毛糸の宿命だな。
普及してゐる毛糸だつて、次に買ふときはおなじ色でもロットが違ふ可能性が高い。
況や海外メーカーの毛糸においてをや。

そんなわけで、買つたはいいものの編むものが決まらずにタンスの肥やしになつてゐる毛糸がたくさんある。

編めばいいんだよな。
かぎ針編みのプルオーバーが滞つてゐるのなら、そのあひだにくつ下を編めばいい。
さうか。今日はこれからくつ下を編むかな。
アルネ&カルロスものの毛糸でヨガソックスを一足編んでみやうか。

最近は編み終はつてから次に着手してゐたのだけれども。
たまには並行して複数のものを編んでみてもいいかもしれない。
手は一対しかないがな。

Friday, 05 June 2015

予定用の手帳がほしい

自分の手帳の使ひ方は、ほぼ「記録を残すこと」に限られてゐる。

手帳といへば、普通はスケジュール帳を思ひ浮かべるだらう。
予定をたてて記す先、それが手帳だ。
世間的にはさうなんぢやないかな。

予定をたてるには、まづ普段自分がなにをどれくらゐどうやつてゐるかを記録する必要があるだらう。それがわからなかつたら予定などたてやうがない。
だから、日々の行動記録を取るのは間違つたことではない。
問題は、予定を立てるのに役立つやうな行動記録を残してゐないことだらう。

予定をたてるのに必要な情報を集めるには、たとへば朝食の支度にどれくらゐ時間をかけてゐるか、朝食を食べるのにどれくらゐ時間がかかるか、などと細かく時間をはからねばならない。
これができさうにないんだよね。
今もライフログ系のアプリケーションをiPhoneに入れて睡眠時間や通勤時間、勤務時間や食事にかける時間、芝居を見てゐる時間などを記録してはゐる。
でも取り方が粗いんだよね。
しかも、時に記録が取れないことがある。

以前もちらつと書いたやうに、やつがれは電車やバスの乗り降りのときはiPhoneをしまふやうにしてゐる。
また、人と一緒のときはできるだけiPhoneには触らないやうにしてゐる。
さうすると、iPhoneのアプリケーションで記録を取れない場面に出くはすことが多いんだな。
なにもiPhoneで取る必要はない。ノートに記してもいい。
でも「記録を取らなきや」と思ふことがすでに負担なのだ。
さういふときがある。

と、記録の取れない云ひ訳はこれくらゐにして、でも、どうにかして予定用の手帳を使ひたい。
最近そんなことを思つてゐる。

なぜ?
もつと寝る時間を確保したいからだな。
ちやんと寝るとあみものも進むし、本を読んでもよくりかいできるし、なにより世の中のことを「おもしろい」と思へる確率が増えてくる。
ものごとを「おもしろい」と感じるには、自分に余裕がないとムリだ。
寝不足だとその余裕がない。
寝足りてゐれば、なにが書いてあるかよくわからないけれどなんだかおもしろいことが書いてあるよこの本には、などと思へる。
その方が人生楽しいぢやん。

記録は記録で取るやうにして、予定用の手帳を持つやうにしたい。
予定用の手帳にはほぼ日手帳カズンかスライド手帳を考へてゐる。
24時間まるまる書ける方がいいか、二週間単位で予定を見渡せる方がいいか。
記録を残しつつ考へることにしたい。

Thursday, 04 June 2015

とてもよいのだけれども

歌舞伎座に行つて六月大歌舞伎の昼の部を見てきた。

やつぱり、「新薄雪物語」、好きだなあ。
といふ話は、以前書いてゐる

今回、「花見」の薄雪姫は梅枝、「詮議」は児太郎、あとは米吉と、その場によつて演じる役者が違ふ。

「花見」の場で、園部左衛門に手渡す色紙に「谷蔭の春の薄雪」と書き記す、梅枝の薄雪姫の幸薄さうなはかなげなことといつたら、署名そのものだ。
薄雪姫ぢやなくて薄幸姫だねえ。

「詮議」の薄雪姫もお姫さまらしさでは負けてはゐない。
ここで、その前の場で薄雪姫の手による色紙が謀反の証拠として提出されるのだが、「いや、いま書いたらまた手蹟が違ふから」と思つてしまふのは、まあ、仕方のないことであらう。
競演はおもしろいけれど、ちよつと考へてほしいなあ、と思ふ所以である。
演じる役者が悪いわけではない。

夜の部の薄雪姫もとても楽しみだ。

今回昼の部だけ先に見に行つたのは、播磨屋と松嶋屋とが一緒に出るのが「花見」だけだからだ。
しかも双方ともに悪。
かたや世を拗ねた不良息子、かたや国崩しの大悪人。
異なる悪の共演。
いいわー、悪。
吉右衛門演じる団九郎と仁左衛門演じる大膳とのやりとりだけで、余は満足ぢやよ。

「新薄雪物語」のいいところは、いろんな役どころの登場人物が出てくるところだ。
ゆゑに大顔合はせに向いてゐる上、若手も活躍できる。
といふ話も以前書いてゐる

しかも「花見」は桜の花盛りの清水寺を舞台にしてゐる。
いきなりうつくしい舞台面を見ることができるわけだ。
つかみは万全。

などといひつつ、はじめて歌舞伎を見るといふ人はつれては行かないと思ふがね。
つれていくとしたら、「花見」の場を借りて来た「青砥稿花紅彩画」だらうなあ。

なぜ自分がいいと思ふ演目につれて行けないのか。
そんなことも考へてしまつた昼の部であつた。

Wednesday, 03 June 2015

結んでます

かぎ針編みが進まないのは、寝不足以外にも理由がある。

これだ。

Macrame

この期に及んでまたぞろマクラメをはじめてしまつたんだね。

プロミスリングといひミサンガといふこれをマクラメ、と云つていいものかどうか悩むけれども、技法はマクラメである。
先日うつかり DMC の My Friendship Bracelet Maker を買つてしまひ、また Micro Macrame を腐海から salvage してしまつたのが原因だ。
Micro Macrame とは、細い糸にビーズなどをあしらつたマクラメ作品を指すとのことだ。
以前も書いたやうに「Micro Macrame」でWeb検索をするといろいろ出てくるので興味のある方は是非。

Micro Macrame には合致しないかもしれないが、スウェーデンの北方民族博物館で見たマクラメは実に細い糸で精緻に作られてゐて、「マクラメもやつぱりレースだよねえ」と感じ入ることしきりだつた。
すくなくとも、40番レース糸よりは細い糸を使つてゐた。
以前、フランスの手芸雑誌でマクラメを特集してゐるものがあつて、ここに出てゐた作品もすばらしかつた。
とても繊細なカフェカーテンなどが掲載されてゐた。
「これもマクラメか!」とこれまた感じ入ることしきりだつた。

だいたいマクラメといふと、プラントカバーとかベルトとか、あるいは網状の手提げを思ひうかべるものと思はれる。
手芸店に行つてマクラメ用の資材を見ると、かなり太い紐が売られてゐる。脇にはその紐に通るくらゐ大きなビーズがあつたりもする。

ちよつと細くなつて、麻糸くらゐかなあ。ヘンプ糸。
あとは革紐で作る人もゐるね。
さらに細くなつて刺繍糸といつたところか。

レース糸は、しかし、案外結びやすいのかもしれないな。
なぜといつて、すべりがよくて撚りがしつかりしてゐるからだ。

マイフレンドシップブレスレットメーカーについてきた刺繍糸はひどく結びづらかつた。
すべりも悪い上に撚りもあまい。
そもそも25番刺繍糸は撚りのあまい糸だ。
6本の細い糸があはさつているところ、作品によつて1本だけとか必要な数だけ糸を抜き取つて使ふのだから、撚りがきつくては話にならない。
マイフレンドシップブレスレットメーカーについてきた刺繍糸はDMCのPRISMといふ刺繍糸だつた。
おなじDMCでも手芸店で売られてゐる25番刺繍糸はとても結びやすい。
すべりがいいからね。
しかし結んでゐるとだんだんと撚りがなくなつてくるのが気になる。

プロミスリング(またはミサンガ)とは、願ひをこめて身につけるもので切れたときに願ひがかなふ、といふのが最終的な目的であるのなら、撚りがあまい方がいいのかな、と思はないでもない。
撚りがあまい方が早く切れるだらうからだ。

そんな目的をもつて作るつもりはないけどね。

先日地元の手芸店に行つた。
25番刺繍糸を買ふつもりだつた。5番はないだらうと思つたのである。
ところが、行つてみたら5番があるぢやあないか。
といふわけで、5番を買つてしまつた。

刺繍糸の5番は、撚りのしつかりした糸である。
25番のやうにほぐして使ふことはない。
これが結びやすいんだよねえ。

てなわけで、写真のプロミスリング(ミサンガ)は5番刺繍糸で作つた。
5番刺繍糸を選んだわけは、「リハビリ」用だからだ。
結びやすい糸ですこし調子を取り戻して、それから化繊の糸でビーズをあしらつたものを作らう、といふ作戦である。

しかし、なかなか調子はもとに戻らない。
マイフレンドシップブレスレットメーカーに慣れないせゐかもしれない。
マイフレンドシップブレスレットメーカーを使ふと、なぜか一番最初の結びだしがきれいに結べないのである。
これならセロハンテープで机にとめて作つた方がナンボかまし。そんな風に思ふほどだ。

これも慣れなのかな。
あとに作つた紫と緑との方が結びだしが少しだけまともになつてゐるからな。

マイフレンドシップブレスレットメーカーは、作業中糸がゆるまないといふのが最大の特徴だと思ふ。
ただ、糸の数は10本までだし、長さもブレスレットくらゐまでしか対応してゐない。
Micro Macrame 作品だつたらなんとかなるかなあ。

次は刺繍糸にビーズを追加したものを作つてみるつもりである。

Tuesday, 02 June 2015

他人の作つたものを作りたくなる

The Twirly をつなぐプロジェクトはのんびり進んでゐる。

The Twirly とは Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフである。六角形で風車のやうな形をしてゐる。
これをたくさんつなげてちよつと壊れた六角形のやうなものを作るのが「The Twirly をつなぐプロジェクト」である。

ときどき思ふのだが、この広い世界の中でこのプロジェクトを遂行してゐるのは自分だけなんぢやあるまいか。

思ふに、人間、「作りたい」と思ふものは似るのだらう。
あるいは、他人の作つてゐるものを「作りたい」と思ふものなのかもしれない。
Ravelry を見てゐると、ものすごくたくさんの人が編んでゐる作品がいくつもある。
人気があるのだ。
なぜ人気があるのか。
愚問か。
編み心をそそるんだらうね。
かつこいいからとか可愛いからとか理由はいろいろあるだらう。
煎じつめると「編み心がそそられるから」に集約されると思ふ。

タティングレースも似たやうなもので、タティングをするものならば誰しもが一度は作つたことがあるんぢやないかと思はれるやうな作品といふのもある。
それは大げさとしても、「この栞はこの前あの人が作つてゐた」「このドイリーはこの前あのblogでも見かけた」と思ふことがしばしばある。
「作りたい」と思はせるものがあるんだらうね。
魅力的なんだらう。

とくに、Internet が普及してから、みんなが作つてゐるものを作るやうになつたやうな気がする。
やつがれだけかな。
以前も書いたやうに雑誌や Knitty で見たときは大してそそられなかつた作品が、Ravelry でほかの人が編んだのを見るととてもステキに見えるといふことが往々にしてある。
それも、あるひとりの人が編んだものについてさう思ふのではなくて、ほかの人が編んだおなじものもまた、とても魅力的に見える。
結果、本で見たときは編むつもりはなかつたのに編んでゐる、といふことがある。
本ばかり見てゐると、なぜ編みたかつたのか忘れてしまふので、ときどき Ravelry を見る。
そんな感じだ。

タティングレースは、まださういふことはないかなあ。
本で見てあまりそそられなかつたものを Web で見かけて「これ、こんなにステキだつたつけか」と思つたことはいまのところない。
今後はあるのかな。
たとへば、お粗末な出来の作品の写真を掲載してゐる本から選んで作つたものとかさ。
もしかしたらいい作品なのかもしれないが、写真を見ると目やピコがふぞろひだつたりして、なんとなくそそられない。
さういふ本については、これつて「タティングレースはこれくらゐ粗く作つてもいいのよ」といふ啓蒙の書なのだらうかと思ふくらゐである。
きつと、blogなどを拝見してゐる人々が作つたら、もつとステキにできるんだらうな。

The Twirly、またはよく似たモチーフを作つてゐる人は、たまに blog などで見かける。
でも、つないでゐる人はまだ見かけたことがない。
ネットの世界なんてせまいものだから、もしかするとその外につなげてゐる人もゐるのかもしれない。
でもおそらく、やつがれのやうな形につながうとしてゐる人はゐない。
そのはずだ。
ゐてもいいけどね。
あるいは、「こんな風につないでみたんですよ」と完成形を示したら、「私も作つてたんだよね」とかいふ人が出てきたりしないだらうか。
さういふ期待もあつたりする。

いづれにしても、まだつなげる所存である。

Monday, 01 June 2015

2015年5月の読書メーター

2015年5月の読書メーター
読んだ本の数:5冊
読んだページ数:1418ページ
ナイス数:8ナイス

訓読みのはなし 漢字文化と日本語 (角川ソフィア文庫)訓読みのはなし 漢字文化と日本語 (角川ソフィア文庫)感想
誤記や送り仮名の誤りへの「おもしろいものを見た」といふ態度は参考にしたい。「それ違ふよ」といふのは簡単だ。内閣告示はあのとほりに書いてる人はまづ皆無だよね。うんうん。
読了日:5月8日 著者:笹原宏之
The Design of Everyday Things: Revised and Expanded EditionThe Design of Everyday Things: Revised and Expanded Edition感想
かなり内容が変はつてゐると聞いたので読んでみた。電話機の例がなくなつたのは残念。まだまだ使ひ方のわからない電話機なんてたくさんあるのに。途中くどくてつらいけど、云ひたいことは明快。
読了日:5月20日 著者:DonNorman
シャーロック・ホームズと見る ヴィクトリア朝英国の食卓と生活シャーロック・ホームズと見る ヴィクトリア朝英国の食卓と生活感想
ホームズものを一通り読みなほしたので読んでみた。数値や事実からあれこれ想像して楽しめる人には最適な一冊。もう一度ホームズものを読みなほしてみるかなあ。
読了日:5月27日 著者:関矢悦子
李長吉歌詩集 下 (岩波文庫 赤 6-2)李長吉歌詩集 下 (岩波文庫 赤 6-2)感想
久しぶりに通読。その一生を考へると、よくぞこれだけ作品が残つてゐたものだなあとしみじみする。この巻には「贈陳商」とか「将進酒」とかよく知られた詩があり、「古鄴城童子謠效王粲刺曹操」とか「呂将軍」とか三国志好き向きの詩も載つてゐる。
読了日:5月28日 著者:李賀,鈴木虎雄
ロセアンナ 刑事マルティン・ベック (角川文庫)ロセアンナ 刑事マルティン・ベック (角川文庫)感想
なんかこー、いつも救ひがない感じ。のつけからこれだからなあ。市電がたくさん走つてゐたころのストックホルムに行つてみたかつたな、とは思ふがね。
読了日:5月29日 著者:マイ・シューヴァル,ペール・ヴァールー,柳沢由実子

読書メーター

寝ると進む

かぎ針編みのプルオーバーは、あまり進んでゐない。
先週とおなじ書き出しである。

でも先週よりは進んだかな。
やはりよく寝た日のあとなんかはよく進む。
ちやうど二つめのパイナップル模様ができあがるあたりだつたこともあつて、さくさく進んだ。

進まない理由には疲れてゐる以外に、「なんとなくできあがりが小さくなるかも」といふ予感がするから、といふこともある。
ゲージを取つたときよりも手がきつくなつてきてしまつたんだらう。
やつがれの場合、かぎ針編みだとさうなりやすい。
棒針編みだと逆で、編みすすむうちに手がゆるくなつていくんだけどね。

かぎ針編みも、もともとはかなり手がゆるかつた。
レース編みをするやうになつて、きつくなつた。
きつちり編まないと細編みや長編みの根本がゆるんで美しくないからね。
それでレース編みをするうちだんだんきつくなつてきてしまつた。
レース糸を使つてきつちりレース編みをするのも楽しい。
でも、毛糸でふんはりと編むのも好きだ。
絹糸できつちりかつちり編んでゐると、毛糸でまちつとふくらみのある編み目のものを編んでみたい気持ちに駆られる。
この暑さで毛糸もないもんだがね。

しかし、そんな気持ちが高じてしまつたんだらうなあ。
久しぶりに毛糸を買つてしまつた。
昨日届くはずだつたので、今日のエントリの内容は毛糸で決まりだな、と思つてゐたのに、毛糸は届かなかつた。
残念である。

買はなくてもいくらでも毛糸なんかあるのにねえ。
その「いくらでもある」毛糸を消費するためにも、今週はがんがんかぎ針編みのプルオーバーを編みたい。
と、書いておけば編むかな。
それとも今週はいろいろ予定が入つてゐるからムリか知らん。

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