生きた証拠
手帳やノートを使つてなにをしてゐるのかといふと、巷でいふ「ライフログ」とか「ユビキタス・キャプチャー」とかだ。
やつがれなりの解釈では、ライフログといふのは生活の記録である。
何時に起きて何時に寝て実質何時間眠つた、とか、朝食にはなにを食べたか、とか、映画館に行つてこんな映画を見た、とか、さうしたことはライフログだと思つてゐる。
ではユビキタス・キャプチャーとはなにかといふと、朝いつもより爽やかに目覚めた、とか、今日見た映画はこれこれこんなわけで全然おもしろくなかつた、とか、かな。
ライフログは iPhone に記録してゐる。
起きた時間と寝た時間とかね。
食事の記録とか、小遣ひ帳、いつどこに行つたとか、あの劇場のあの演目の配役はどうで座席はどこに座つてチラシはどんなだつたか、とか、さうしたことは iPhone にある。
使つてゐるアプリケーションはさまざまだが、ほぼ Evernote に集約されてゐる。
Evernote は無料のプランで使ひつづけてゐて、いまのところ無料であるゆゑの不自由は感じてゐない。
Smythson の SCHOTT'S MISCELLANY DIARY にもライフログをつけてゐる。
職場で iPhone を出すのがはばかられるやうなときにはこれだ。
そもそもスマートフォンつていつでもどこでも手にできるものではない。
たとへば芝居などを見に行くと上演中はスマートフォンの電源は切る。
職場でも、個人持ちのスマートフォンは持ち込めないなんてなところもある。
さういふときのため、といふ名目で使つてゐる。
実際は使ひたいだけである。
ライフログとユビキタス・キャプチャーとどつちつかずなのがほぼ日手帳だ。
SCHOTT'S MISCELLANY DIARY が単語だけの世界もしくは体言止めの世界なら、ほぼ日手帳は文章の世界である。
でもあまり感想めいたことは書かない。
書いても最小限にとどめる。
ほぼ日手帳、いらないぢやん、と思はれるかもしれないが、これはこれで貴重な存在なのだ。
一日一ページの威力がある。
ただのノートに書き付けてゐると、毎日毎日おなじことを書いてゐるやうな気がしてくるがほぼ日手帳なら毎日おなじでもあまり気にならない。
昨日と今日とは別のページ、すなはち別の日だからだ。
だから毎朝のやうに「今朝もだるい」とか「起き難きを起き」とか書いても、あまり気にならない。
「この日もいつもの一日だつんだなあ」と思ふくらゐである。
感想や思ひついたことなどは、現在は Moleskine のポケットブック無地に書き付けてゐる。
その前はトラベラーズノートの方眼罫であることは昨日も書いたとほりだ。
書き付けるときはある程度の長さがほしいと、これまた昨日書いた。
なので、もうユビキタス・キャプチャーの域は越えてゐるのかな、と思はないでもない。
電車の中などでとつさに筆記用具を取り出せないときには iPhone を使ふ。
概ねそんな感じかな。
なんでそんなに記録を残すのか、といふと、残してないと生きてゐたかどうか確信が持てないから、だな。
実はつけた記録をあとで見返すのが楽しいから、といふのも理由のひとつになんだけれどもね。
「去年のいまごろはあんなところに行つたんだなあ」「二年前はかうだつたのか」と見返すだけでなんとなくおもしろい。
自分 Entertainment、とは、これまた以前から何度か書いてゐることだ。
しかし、記録しないと生きてゐた気がしないといふのはまた因果なことではある。
なんかもつと楽に暮らせるといいんだがね。
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