記録するから忘れてしまふ?
メモを取つても記憶は定着しないのださうである。
この記事は抄訳だといふので原文にあたらうとしたら、ロードしてゐる最中にWebブラウザがかたまりかけたので読めてゐない。
そんなわけで、「それつて事前に「取つたメモはあとで取り上げます」つて伝へてなかつたからなんぢやないの?」といふ疑問を確認することはできてゐない。
記録を紙なり電子媒体なりに残す利点は、あとで見返すことができるといふことだ。
見返すことで記憶として定着する。
さういふものだと思つてゐる。
なので、「メモを取つても記憶は定着しない(この「てにをは」の使ひ方も気になるところだが)」と云はれても、そのとほりだよな、としか云へない。
ここにも何度か書いたとほり、飯田市川本喜八郎人形美術館や川本喜八郎人形ギャラリーではメモは取らない。
その場で記憶したことをあとで書く。
理由はいろいろある。
一番の理由は、その場でメモを取るとメモを取ることばかりに注意がいつてしまつて、肝心の展示をよく見ることに集中できないからだ。
その場でメモを取らないことで忘れてしまふことも多いけれど、それは仕方がないと思つてゐる。
20年近く前だらうか、雑誌「演劇界」に役者へのインタヴュー記事の連載があつた。
その記事でイラストを描いてゐた人は、インタヴューのあひだ、まつたくメモを取らなかつたといふ。
それでゐて、記事を書いてゐる人の話だと「あとでイラストを見ると、「さういへばそんなことも云つてゐた」といふことをちやんと表現してゐる」のださうだ。
さういへば橋本治もそんなことを書いてゐたな。
コミックマーケットがまだ晴海の展示場で開催されてゐたときのこと、ある雑誌の編集者たちと取材に行つたのださうである。
橋本治はとくにメモなど取らなかつたが、あとで「あんなことがあつた」「こんなこともあつた」と編集者たちに告げると、編集者たちは「なんで橋本さんはそんなことまで覚えてゐるんですか」と驚いたのだといふ。
世の中には、文字にし難いことがある。
それをムリに言語化してメモにすると、抜け落ちる情報が多い。
言語化しなくても、単純な図にすることで落ちてしまふ情報もあるだらう。
さういふことなんぢやないかなあ。
ではメモを取ることに意味はないのか。
やつがれはあると思つてゐる。
理由は上にも書いたとほり、取つた記録は見返すためにあると思つてゐるからだ。
見返さない記録に意味はない。
さう云ひ切つてもいいんぢやないかな。
とくに個人的な記録はね。
やつがれは四歳半くらゐまでのことを執拗に覚えてゐる。
なぜ四歳半かといふと、そのころ引つ越しをしたからだ。
場所の記憶とそのころあつたこととを忘れられずにゐる。
それは忘れないやうに何度も思ひ出してゐるからだ。
ただ、頭の中だけでそれをやると、記憶はどんどん改竄されていく。
真夏の暑い日に家の前でひとつ年上の子と遊んでゐた。
めいめいバケツに水を組んで、アイスクリームの空き容器で遊ばふといふ段になつて、容器の数が奇数個であることが判明した。
最後に残つた容器はほかの容器よりもちよつと洒落た感じのものだつた。
やつがれは、自分の方が年下だし、しかも自分のうちのものなのだから、自分がひとつ多めでもいいだらうと思つた。
最後のひとつを手にすると、相手の子は怒つて帰つてしまつた。
あとで母から「お前が譲らないからだ」と云はれた。
すべてあつたことを記憶してゐるつもりだ。
でも、年月を経、改竄された部分があるはずである。
頭の中だけで覚えてゐると、なにがどう改竄されたのかはわからない。
でも、その日日記をつけてゐたとしたらどうだらう。
そこには少なくともそのときの記録が残つてゐるはずだ。
もしかすると「真夏」ではなくて「残暑厳しい折」だつたかもしれないし、今年のやうに「五月なのに異様に暑い日」とかだつたかもしれない。
いまとなつてはもうわからない。
冒頭に掲げたリンク先の記事から得る教訓としては、「記録を取つたからといつて安心しちやあいけませんよ」なんぢやないかな。「記録を取るな」ぢやなくて。
そもそも、なんで記憶とか記憶力つて大事なんだらう。
かく云ふやつがれが恐れてゐるのは、記憶と理性とを失ふことだ。
だからボケることをひどく恐れてゐる。
でも、もしかしたら記憶なんかない方が幸せなのかも?
さう思ふこともある。
単にさう思ひたいだけなのかもしれない。
記憶に執着する自分が疎ましいからね。
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