読点 打つや打たざるや
読点の打ち方にはときどき悩む。
句点は文の最後に打つ。
注釈の丸かつこを文の最後につけ足す場合はチト悩む。
かつこのはじまる前に打つか後に打つか。
大勢はかつこの後に打つ、だらう。
かぎかつこを使つたときは、PCに打ち込む場合はとじかぎかつこの前の句点は打たない。
最近は手で書くときも打たないかな。
原稿用紙を使ふときには打つ。とはいへ、原稿用紙などここ久しく使つたことはないけれど。
クェスチョンマークやエクスクラメーションマークを使つたら句点は打たない。
これくらゐかなあ、句点で気をつけてゐることといふのは。
「モーニング娘。」などはまた別の話である。
句点も読点もわりと新しいものだ。
ちよつと古い手紙の書き方を見ると、手紙には句読点は打たない、といふ指南があつたりする。もしかしたらいまでもさうなのかもしれない。
手書きしてゐると、句点と読点との違ひがわかりづらい場合がある。
でも読んでわかるからいいのだ。
句点と読点とは、その程度の存在だと思つてゐる。
そんな新しいものを取り上げて、さも「これが規則なんですよ」「こんなルールも知らないんですか」などと云はれるのは業腹だ。
せいぜい「我が社ではかうしてゐます」とか「この文書内ではかういふルールにしませう」だらう。
とはいへ、読点。
読点はむづかしいよねえ。
やつがれは読点をよく打つ方だ。
ここのところ注意して無用だと思ふものは省くやうにしてゐるものの、はふつておくとかなり多い。
この「かなり多い」といふのがなにに比べてなのか、といふと、世間一般に比べて、かな。
やつがれの「世間一般」などは狭いものだが、その中でも多い方だと思ふ。
世の中には「読点を打たずにすむのがよい文章」といふ説もある。
至極もつともかと思ふ。
わかりづらい文章を書くものだから読点を打つてごまかすことになる。
またそのごまかし方がどうにもよろしくない。
さういふことなのだらう。
やつがれが読点をよく打つ所以は、柴田錬三郎にある。
柴錬の文章には読点が多い。
それを中学生くらゐのころひたすら読んでゐた。
ゆゑにうつつたのだらうと思つてゐる。
柴錬の文章には一文が短いものも多い。
よくよく見るとページの下の余白が広いことがある。
それでもかつてライトノヴェルの走りの如き本に対して云はれたやうな悪口は聞いたことはない。
内容があるかないかはページの下の余白では決まらないといふことだらう。
最近草森紳一を読んでゐたら、こちらも読点がかなり多いことに気がづいた。
柴錬にしても草森紳一にしても、だからといつて読点がうるさいと感じることはない。
読点が多いことで文意が伝はらないこともない。
読点は少ない方がよいだらうが、多いからといつて必ずしも意味の通じない文章になるとは限らない。
読点は意味の区切りのためだけに打つものではないからだ。
間を示すためにも打つ。
その間が適切なら、打ちすぎなくらゐ打つてゐても問題ないし、むしろ打つてゐることに読んでゐる方は気がつかない。
間としての読点といふと、「なにと比べてかといふと世間一般とだらう」といふ文のどこに打つか、といふ問題がある。
全然打たなくてもいいかな、とも思ふ。
打つとしたら「なにと比べてか、といふと、世間一般と、だらう」かな。
とくに「比べてか」の後で打つか「と」の後で打つかといふのが問題で、やつがれは「比べてか」の後に打ちたい。
その方が自分の間にしつくりくるからだ。
ほんたうは「と」の後にも打ちたいところだが、それだとうるさくなるので打たない。
「世間一般と」の後に打つのは「なにと」との比較なので打つてゐる。
間としての読点もあまり打ちすぎると押しつけがましくなる。
「自分の間、自分のテンポで読ませろよ」と文句のひとつもつけたくなる。
やはり読点はできるだけ打たないに越したことはない。
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