「フィルムで見る川本アニメーション作品鑑賞会」に行く
三月二十八日(土)、国立近代フィルムセンターで開催された「フィルムで見る川本アニメーション作品鑑賞会」に行つてきた。
生誕九十年記念上映といふことで川本喜八郎の人形アニメーションのうち五作を上映するといふ催しだつた。
上映作品は以下のとほりである。
- 花折り
- 死者の書
- 火宅
- 蓮如とその母
- セルフポートレート
「死者の書」と「蓮如とその母」とのあひだにそれぞれ十分ていどの休憩があつた。
鑑賞耐久マラソンである。
とくに最初から「死者の書」といふところが重たい。
事前に上演プログラムを見た時点で、最初の作品である「花折り」と最後の作品である「死者の書」とを見せたいといふ意図は理解してゐた。
当日の説明でもそのとほりのことを云つてゐた。
一方で開演の挨拶を担当してゐた横田正夫氏の話によると、川本喜八郎自身も体調のあまり思はしくないときなどには「死者の書」を見るのはちよつとしんどい、といふやうなことを云つてゐたのらしい。
俄贔屓の身に取つて、川本喜八郎のアニメーション作品をフィルムで見るのははじめてである。
「花折り」はDVDで見るのと比べるとだいぶ画面が暗い。
照明を下からあててゐると思しき場面がいくつかあつた。
それくらゐ坊主の頭の天辺に影ができてゐるときがある。
また、画面の端つ子などにそこはかとなく暗い部分がある。
この陰影が、いいんだなあ。
最近の画面は明るすぎる。
以前もちらりと書いたやうに、「人形劇三国志」も人形に濃い影が落ちることがある。そこがいい。
影が濃くなつてしまふ理由には、当時の技術的限界もあつたのかもしれない。
さうだとしても、なにもかもくまなく明るい昨今の画面より、こちらの方がすつと好ましい。
「死者の書」以降は、「花折り」のやうな暗さは感じなかつた。
でも、陰翳のうつくしさはある。
「死者の書」はフィルムで見てもどの場面もどこもかしこもうつくしくて、なるほど、体調があまりよくないときにはちよつとつらいかもしれない。
去年八月、飯田市川本喜八郎人形美術館で「死者の書」を見る機会があつた。
大きな画面で見る「死者の書」は圧巻だつた。
このとき、美術館の人形アニメーションの展示には「死者の書」からのものもあつて、展示替へ直後や「死者の書」の前に見て堪能してゐた。
大画面で「死者の書」を見たあと、その印象はがらりと変はつてしまつた。
展示室に戻つて、郎女や語り部の嫗等を見ると違和感がある。
さつきまで、生きて動いてゐたのに、なぜ止まつたままでゐるのだらう。
あんなに生き生きと喋つてゐたのに、なぜ黙つたままなのか。
結局、そのときは人形アニメーションの展示はほとんど見ずに帰つてしまつた。
このときにも「死者の書」は見る側に集中を要求する作品である、と書いた。
今回も見たあと立ち上がるのがちよつと大変だつたほどだ。
「火宅」はナレーションが入り、当日配られた資料にあるとほりこれまでの作品にあつた左右の動きに加へて前後(画面手前と奥)の動きが取り入れられた作品だ。
それで今回選ばれたのだらう。
それまでの人形アニメーション作品には、耳から入つてくるとことばが極めて少ない。
「花折り」の般若心経も、ことばといふより効果音に近い。
そして、「火宅」のナレーションも、効果音のやうに感じられることがある。
観世銕之丞の声が、風を思はせるやうな声だからだ。
最後、「火宅」についての説明が理屈つぽいが、これは「鬼」の最後の説明文もさうだつたので、さういふものなのだらう。
「死者の書」にも、説明くさいせりふがないぢやないが、あれだけの長さがあることを考へると、ほとんどないといつてもいい。
その説明のなさが「死者の書」のよさでもあり、体力のないときに見るのはつらいところでもある。
それに比べると「蓮如とその母」はわかりやすい。
わかりやすい話の流れがあるからだ。
また、せりふが多いのもいいのかもしれない。
93分の作品だといふが、その長さを感じさせないのは、わかりやすいからだらう。
冒頭、人形やそのカシラ、小道具などが雑然とした机の上から蓮如を取り上げて映画がはじまるあたりの演出がおもしろい。
取り上げられた蓮如は紙の前に正座して、筆を持つ。この筆に硯から墨をつける所作が実に真に迫つてゐる。
紙には「蓮如とその母」と書いた、といふ風に解釈できる。
いま飯田市川本喜八郎人形美術館の人形アニメーションの展示は「蓮如とその母」である。
飯田にゐる蓮如は眉間の皺が深くて憂ひ顔だ。
眉間の皺は深いカシラとさうでもないカシラとがあるのらしい。
人形の中では法住がおもしろかつた。
堅田衆の総元締で、肝の据わつた大親分といつた人物だ。
破顔したカシラもあつて、豪快な笑ひ方がいい。
この法住、衣装持ちでもあつて、どの衣装も似合つてゐるし洒落てもゐる。
センスがいいつてかういふことなのだらう。
「蓮如とその母」には画面いつぱいに人形たちが出てくる場面が多々ある。
それぞれ動くのが圧巻だ。
僧兵のやうに元気に動くものもあれば、叡山の僧たちのやうにしづかに動くものもある。
モブの力に圧倒される。
さうさう、おてつとおきょう、ね。
黒柳徹子と岸田今日子それぞれのそつくり人形で、本人が声をあててゐると聞いてゐたが、元気なおてつにおつとりしたおきょうといふのがまたそのものな感じでよい。
蓮如の講座におてつがおきょうを誘ひにくる場面には、飯田で見て想像したとほりだと思はず微笑んでしまつた。
上映中、鼻をすするやうな音が聞こえてきてゐた。
上映後には拍手もあつた。
「死者の書」のあと拍手をするんだつたな、と、ちらつと思つた。
各休憩の前には、川本喜八郎に縁のある人々の話もあつた。
「死者の書」のあとには、「花折り」や「死者の書」でアニメーターをつとめた及川功一氏。
「蓮如とその母」のあとには、アニメーション研究家のおかだえみこ氏。
「セルフポートレート」の前にはアニメーターの内藤楊子氏。
及川氏と内藤氏とのときは、細川晋氏が聞き手となつた。
時間が短かつたのが惜しまれる。
「セルフポートレート」を大画面で見るのははじめてだつた。
瀬川瑛子の「命くれない」の流れる中、粘土細工の川本喜八郎が粘土で人形を作るうち、人形が鬼になつて川本喜八郎を鬼にしたり、どちらが主でどちらが従かわからなくなる、といつた感じの楽しい作品だ。
楽しい作品ながらも、「命は紅」と思つてゐたのかなあ、などと思ひながら見た。
実行委員会からの挨拶といふことで、山村浩二氏がこんな話をした。
先日「川本喜八郎 その人と作品」といふ講演もあつたやうに、川本喜八郎の研究はいろいろと行はれてゐる。
でも、まだ手つかずのところもある。
たとへば、なぜかういふ作品を作るやうになつたのか、といふ点だ。
えー、そこは一番知りたいところでせう。
ますます研究の栄えんことを祈るばかりである。
最後に、川本プロダクションの福迫福義社長から閉会の挨拶があつた。
人形劇に関する催しも行ひたいとのことだつた。
実現しますやうに。
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