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Thursday, 30 April 2015

川本喜八郎人形ギャラリー 平家都落ち

四月二十四日(土)、展示替へに合はせて渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーに行つてきた。
今回はそのうちの「平家都落ち」のケースについて書く。

「平家都落ち」は、入口から入つて左側にある。
このケースでは都落ちによる三種類の別れが描かれてゐる。
左側から惟盛と妻子との別れ、経正と琵琶「青山」との別れ、忠度と歌集、俊成との別れだ。
人形は左から惟盛の妻、惟盛の娘、六代、惟盛、経正、守覚法親王、忠度、俊成の順に並んでゐる。

惟盛の妻は、惟盛の北の方とはちよつと思へないやうな質素な衣装で佇んでゐる。
憂ひ顔で、惟盛をぢつと見てゐる。
なにか云ひたい。でも云へない。
こどもたちの手前、不安をあふるやうなことは云へないし。
そんなやうすである。
衣装はくすんだ白が基調になつてゐるので質素に見えるだけで、よくよく見たらいいものなのかもしれない。これは今後よく見ることにしたい。
一門のものが都落ちしていく中で、豪奢なものを身につけてゐるわけにもいかないといふこともあらう。

惟盛の娘(だらう)は緑色の衣装を着て、父を見上げて立つてゐる。
わかつてゐるのかゐないのか、その表情からはよくわからない。
周囲のやうすから、なんとなく重大なことが起こつてゐるのはわかつてゐるのかもしれない。
でもこれが父との最後の別れとは思つてゐないんぢやあるまいか。
そんな気がする。

そんな妹の肩を抱くやうにして、六代が立つてゐる。
白地に白く紗綾模様の衣装を着てゐる。
幼くはあつても六代にはこの場の状況がわかつてゐるのだらう。
だから妹を支へるやうにしてゐるし、表情もどこか凛々しい。
それでもやはり、これが最後の別れとは思つてゐないんぢやないかなあ。
ここで「これが最後の別れ」と理解してゐるのは、ふたりの親ばかりだ。

惟盛は、展示の説明には倶利伽羅峠で破れたことが feature されてゐる。
個人的には富士川の合戦が思ひ出深い。
水鳥の羽音に驚いて敗走した群の総大勝といふ印象が抜きがたい。
惟盛は、鎧姿で立つてこどもの顔を見つめてゐる。
鎧は teal といふには青のかつた色で、兜はうすい teal のやうな色だ。
この色の取り合はせが、麗しくも雅やかな人といふ印象を与へる。
横を向いてうつむいてゐるので、しやがんでもその表情をしかと見るのはむづかしい。
ただその憂愁の色の濃い横顔が、なんとも魅力的である。
自分が二度も大敗したせゐで、といふ自責の念もあるのかな。
惟盛をこんなにいいと思つたのははじめてだ。

経正は、ひざまづいて琵琶「青山」を掲げ、頭を下げてゐる。
とても神妙さうだ。
青山をかかげる先には守覚法親王がゐる。
守覚法親王は、展示の説明にもあるとほり後白河院の皇子であつた。
高貴の方である。
ゆゑに高い位置にゐる。
経正はその御顔を直視することはない。
いいねえ。
惟盛とその妻子とはおなじ高さのところに立つてゐる。
忠度と俊成ともおなじ高さのところに座つてゐる。
経正と守覚法親王だけ、ゐる場所の高さが違ふ。
身分の違ひと相手との距離感が高低差で示されてゐて、とてもおもしろい。
経正もほぼ横顔しか見ることはできない。横顔からは謹厳なやうすがよく見てとれる。
鎧兜は赤みのある紫の濃淡だ。

守覚法親王は、高いところに座して青山を差し出す経正を見つめてゐる。
やや細面で面長で、経正の行為に感じ入つた、といふやうすだ。
去年のいまごろ、東京国立博物館の「建仁寺と栄西展」に行つた。
栄西のころの九条袈裟が二点ほど展示されてゐた。
一点はなにも書かれてゐなかつたので、国内で作られたものだらう。
もう一点には中国から渡つてきたものといふ説明書きがついてゐた。当時だから宋のものだ。
宋からきたといふ九条袈裟はターコイズブルーの色も鮮やかなものだつた。いまでも鮮明に色が残つてゐることにまづ目を引かれた。
非常に細い糸でできてゐるにも関はらず、織りで模様を出してゐる部分があつて、「これだけ細い糸を紡いで織り、さらには模様までつける。人間の手でここまでできるとは」と内心うなつたものだつた。
この国内のものと宋からきたものと、ふたつの九条袈裟から考へるに、守覚法親王の身につけてゐる九条袈裟は、国内産の中でもとくに上等なもの、といつた感じがする。

その右側に、忠度が座して俊成に巻物を差し出してゐる。
鎧兜は深い緑と紫、あとは白が少々といつた色合ひだ。
きりりとした表情で、まつすぐ俊成を見つめてゐる。
肩にまで力が入つてゐるやうすだ。
一旦は落ち延びて行かうとしたけれど、命を賭して戻つてきた。
俊成と、相見えることはもうないだらう。
せめて自分の作つた歌を勅撰和歌集に採つてもらへたら。
いろんな覚悟がないまぜになつたやうな表情だ。
人形劇の忠度は、このきりっとしたやうすがいいな。

相対する俊成は、どこか困り顔のやうにも見える。
歌の道の弟子である忠度の行く末を案じてゐる、そんな顔なのかもしれない。
案じてもどうしやうもないのだけれども。
どこかくつろいだ感じの衣装を身につけてゐる。自宅で夜を過ごしてゐた、といつたところかな。
このとき俊成は69歳。今回の展示からはそれほど老けてゐるやうには見えない。この先まだ20年以上生きるからかな。

以下、つづく。

義仲上洛についてはこちら

Wednesday, 29 April 2015

川本喜八郎人形ギャラリー 義仲上洛

四月二十四日(土)、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに行つてきた。展示替へ後初である。

今回の展示は曹操と周瑜でせう、といふ話は追ひ追ひするとして、まづは順番にいかう。

入口を入つて左側のケースは「義仲上洛」といふ主題の展示である。
入口に近い方、左から実盛、名も無き公家、資時、義仲、冬姫、基房の順に並んでゐる。

実盛は、右を向いて座し、いままさに髪を染めやうとしてゐるところだ。
手には鏡を持つてゐて、角度によつてはこの鏡に実盛の顔が映つてゐるのが見える。
鏡を覗き込むやうにしてゐるので、やや俯きがちであり、ゆゑにかそこはかとなく哀愁が漂つてゐる。
傍らに鎧兜が飾られてゐる。これが目にも鮮やかな赤い鎧だ。
実盛は身につけてゐる衣装も朱色で、若やいだ色だ。
白髪頭の皺の深い老人が若作りをしてゐるから哀愁を感じるのかといふと、さうとも言ひ切れないところがある。
実盛は、前回の展示のときにはまだ髪も黒々とした若い姿で、駒王丸を背負ふて立つてゐた。このときのちよつと困つたやうな表情を見て「いい人なんだらうなぁ」と思つたものだつた。
いい人、といふか、気持ちのいい人、心持ちのいい人、といふかね。
さういふ人が齢を重ねると、かうなるんだらうなあ、といつた表情をしてゐるやうに思ふ。
「年寄りだからと見下されたくない」といふ負けん気よりも、身嗜みのために染めてゐるといふ品の良さがある、といふかね。
「いい年してみつともないけど、自分は武士なのだから」といふか。
そこに哀愁を感じるんだと思ふてゐる。
いままでの展示で鎧姿で兜も身に付けてゐたのは清盛だけだつた。
今回は実盛の飾つてある鎧兜をはじめ、鎧姿の人は兜を背負つてゐる。

その隣には、名も無き公家と資時とが、なにかよからぬことをひそひそ話してゐるやうな感じで立つてゐる。
名も無き公家のカシラは、いかにも「その他大勢」のカシラで、そのまま髪型と衣装を変へて「人形劇三国志」に出てきてもおそらくそれほど違和感はない。
これが資時だとダメなところがおもしろい。
資時の衣装は緑色で、サテンのやうな光沢がある。これ、なんていふ模様なのかなあ。
都から平家がゐなくなつてやれやれ、といつたところに義仲がやつてきた。
平家よりひどい。
さて、どうやつて陥れてやらうか。
資時と公家とはそんなことを話してゐるんだらうなあ。
あるいは単に「義仲が如何にひどいか」について愚痴をこぼしあつてゐるのかも。
そんな資時の視線の先には義仲がゐる。

義仲は衣冠束帯の出で立ちだ。
去年のいまごろの展示で重盛が身に付けてゐたものと似てゐる。
重盛の衣装は黒地に黒い龍の模様だつたけれど、義仲の衣装はもつと抽象的な模様だ。
そして、義仲の衣装は模様部分だけ別珍のやうな感じがする。
重盛もさうだつたか知らん。
下襲の裾は白地に白く唐草模様、かな。
義仲の躰はかなり右の方を向いてゐて、その顔は、右上方にゐる冬姫を見てゐる。
目が真正面ではなくて右に寄つてゐるところに卑屈さを、下から見上げてゐるといふところに冬姫との距離を感じる。
これまた今回の平家物語は「高低差の距離感」がとても感じられる展示になつてゐる。
この件についてはまた次回書きたい。

冬姫は高いところに座して義仲に背を向けるやうな感じで文に目を落としてゐる。
俯いてゐるのでその表情はよくわからないけれど、ちよつと冷たい感じがする。なぜといつて、とても理知的だからだ。
この展開からいつて、手にしてゐるのは義仲からの文なんだらうけれども、手跡はやはらかく流麗に見える。
賢さうなのは、世間を知らないゆゑにみづからの考へで判断を下せるからなのかな。
藤原北家のお姫さまだしね。

冬姫の隣にはやや俯きがちに父・基房が立つてゐる。
憂ひ顔の所以は娘と義仲との仲のことを悩んでゐるからなのか。
世間的には基房から義仲に娘を差し出したことになつてゐるから、違ふかな。
義仲やその配下のものたちの素行の悪さを嘆いてゐるのかも。
基房は衣装が素敵だ。上品な餡子を淡くしたやうな色に銀色の梅の花丸を散らした模様がいい。
父・忠通と似たところはないやうに思ふ。
名も無き公家や資時よりずつと品があるやうす。

以下、つづく。

Tuesday, 28 April 2015

大人可愛いもの作り

Tatted Motif

連休中、遠出をするとして、タティングレースはなにを持つて行かう。
遠出する予定もまだ立つてはゐないのに、そんなことを考へてゐる。

遠出するか近場に行くかで悩むなんて、贅沢なことだ。
遠出するなら乗り物に乗つてゐる時間も長い。
そのあひだ手持ち無沙汰になるからなにかしたい。
The Twirly をつなぐプロジェクトか。
去年の夏、飯田から岡谷に向かふ飯田線の中で結んでみた。
この話は以前ここにも書いた。
移動中だとやはり手の加減が変はる。
それも味、とも思ふ。
でも、The Twirly をつなぐプロジェクトはすこし大きくなりすぎてしまつた。
持ち歩くのはちよつと考へてしまふ。

そこで栞かなにかを作るかなあ、などと考へたりもしてゐる。
それとも大きいことを覚悟で The Twirly をつなぐプロジェクトを持つて行くか。
ちよつとでもすすめたいといふ気持ちはあるんだよね、このプロジェクトは。
悩む。

かういふ、本質とはまつたくかけはなれたところで悩んでしまふのがいかんところだなあ。

近場は近場でやはりなにか持つて行きたいところである。
お目当ての場所が大混雑でちよつと待つ、なんてなときに必要だからだ。
本でも持つて行けばいいとも思へども、手仕事ものもちよつと持つてゐたい。
さうすると、これもやはり栞とかかな、といふことになるんだよなあ。
ぬう。

結ぶといへば、マクラメもやりたい。
先日、DMC のマイフレンドシップブレスレットメーカー トラベラーを買つたばかりだし。
手元にヘマタイトといふ名前のしぶーい色の糸とガンメタルのビーズとがあるので、組み合はせてファンシーなところの欠片もないやうなブレスレットを作つてみたいと思つてゐる。
これも以前も書いたけれど、自分なりの「大人可愛い」を作つてみたい、といふ野望がある。

世に云ふ「大人可愛い」とはいい年をして若い子の持つやうなものを持つたりすることをさす。
「大人つぽくてしかも可愛い」といふ形容詞ではない。
「大人なのに可愛いものを身につけたりすること」をさすことば、それが「大人可愛い」なのである。
形容詞だと思つてゐたのになあ。
シックなんだけど、どこかに甘さのあるやうな、そんなものを「大人可愛い」といふんだと思つてゐたよ。
ヘマタイト色の糸にガンメタルのビーズを合はせても、「甘さ」は出ないとは思ふ。
でも、やつてみないとわからないからな。

タティングレースでも「大人可愛い」を目指してゐるな、と思ふことがある。
もしかするとあみものでもさうかもしれない。
くどいやうだが、ここでいふ「大人可愛い」は、「大人なのに(身の程も弁へず)若い子のやうな格好をすること」ではない。
secco でありながら、そこはかとなく dolce を漂はせてゐる。
そんなものを作れたらいいのになあ。

The Twirly をつなぐプロジェクトでは、「大人可愛い」を目指してはゐないけれどもね。
このプロジェクトは、「とにかくつないで大きいものをつくりたい!」といふ欲求のもと、すすめてゐるプロジェクトだからね。
連休中はすすまない気もしてはゐるけれども。

Monday, 27 April 2015

かかとはきつめに

あひかはらずくつ下を編んでゐる。
現在二本めのかかとができたくらゐだ。

かかとは Wrap & Turn にした、とは前回書いたとほりである。

Sock in Progress

ウェンディさんのつま先から編む靴下」にある編み方、といへばご同好の士には通じるだらうか。
ウェンディさんのくつ下つて、もう十年近く前の話なのか。
ちよつと気が遠くなるな。

当時は表目側で Wrap & Turn をうまく解消できないとか、そもそも穴が大きすぎるよ、といふことで悩んだものだつた。
表目側でうまくできなかつたのは、Wrap した糸に針を差し込む方向が間違つてゐたからだつた。
穴は、ねえ。これはあくんだらうと思ふ。
岡本株式会社の手編み靴下コンテストを見に行つて、さう思つた。
本邦で一般的な引き返し編みの方法で編んだものでもかなり穴が大きかつた。
これも2006年の話か。

今回のくつ下は、つま先から Figure 8 の作り目で編み始めた。したがつてつま先部分はふつうに編んでゐる。
あ、一本めを編むときに五本針で Figure 8 の作り目で編み始めたらものすごく苦労したので、今回はなるべくゆるめに目を作つてみた。針と針とのあひだに指をはさんで、はなれるやうにしたのだつた。
ゆるく作つても、編んでゐるうちに目がしまつてくるやうだ。
今後は四本針や五本針でこの方法を使ふときにはかうしやう。

Sock in Progress

Wrap & Turn なのはかかとだけ。
ゆゑに、かかとはかなりきつめに編んでゐる。
今回のくつ下編みの目標のひとつは、「きつく編まない」だ。
くつ下毛糸を0号針で編むと、自然と手がきつくなつてくる。
やつがれはそれでもかなり手のゆるい方だと思ふのだが、それでも編んでゐて段々手がきつくなつてゐるなあ、と感じる。
きつくてもいいんだけどね。
編み地は伸縮性が高いから、多少きつく編んだところで問題はない。
むしろ、きつく編んだ方がいいのかもしれない。
きつく編めば、とりあへず目はそろふしね。

でもそれぢやあ楽しくないんだよね。
といふ話はここで何度もしてゐる。
この話を書くたびに Elizabeth Zimmermann の話を引き合ひに出してもゐる。
きつく編んで目をそろへても、つまんないぢやん、とね。

せつかく手編みなのだし、ここはできるだけ手に力を入れないやうにして編んでみやう。
さう思つて編み始めて、まあまあうまくいつてゐるんぢやないかな。
0号針を使ふことで自然と目が小さくなつてゐるはずだし。
さうやつてできるだけ力を入れずに編んだくつ下は、ふんはりとやはらかい履き心地がする。
気のせゐかもしれないが。

しかし、かかとだけは、なあ。
かかとだけは、どうしても手がきつくなつてしまふ。
しつかり編みたいといふ気持ちと、Wrap & Turn の場合はとくに引き返し編みを解消するときに穴をできるだけ小さくしたいといふ気持ちとがあるからだ。
かかとをしつかり編んでおくと、脱げにくいくつ下になるしね。
履き口をきつめに編むよりもかかとをきつく編む方がおすすめである。
かかとがフィットするので、ずれて脱げたりしなくなるからだ。
履き口をきつく編むと、糖尿病とかで血行の悪くなつてゐる人には履かせられないしね。
以前よく海外の Knitters が「糖尿病の親類のためにくつ下を編みたいが、ゆるい履き口ででもずり落ちないやうな編み方ないかな」と質問してゐるのを見かけた。
最近はかういふ話題は Ravelry でするのかな。
レース模様でかけ目の穴を強調したい場合は、まあ仕方がない、履き口をきつちり編むけどね。
それ以外はかかとをきつめに編むやうにしてゐる。

そんなわけで、二本めのくつ下もかかとは終はつて、脚部分に入る。
二目ゴム編みの変はり編みで、これといつてなんの変哲もない模様なので、使ひやすいくつ下になる予定だ。
編むときはいろいろと模様が入つてゐる方が楽しいけれど、実際に履くときはただのメリヤス編みとかゴム編みとかのくつ下を手に取つちやふんだよね。
毛糸はキリン模様のはずだけれども、どこがキリンなのかよくわからない。
でもこの色合ひも履きやすいものになると思ふなあ。
連休中にはできあがるかな。

Friday, 24 April 2015

着信音を気にする心をミュートする

上演中の携帯電話やスマートフォンの着信音は、無視するしかない。
あきらめ気味にさう思つてゐる。

芝居でも落語でもさうなのだが、いいところで客席から着信音が鳴る。
マナーモードの振動ならまだしも(それだつて周囲の人には大迷惑だが)、ほんたうに音がする。

いまのところ一番最悪だつたのは、新橋演舞場で見た「盛綱陣屋」だ。
仁左衛門の盛綱がいままさに首実検せん、といふところで、鳴つた。
あり得ないだらう?
まあ、あつたんだけどさ。

先日聞いた話だと、柳家三三の高座で、あともう少しでオチがくる、といふところで鳴つたのだといふ。
三三は「電話に出てる場合ぢやありませんよ」とかなんとかその場はしのいだらしいが、内心煮えくり返つてゐただらうことは想像に難くない。

クラシックの演奏会ではさういふ話はあまり聞かないなあ。単に聞かないだけな気もするが。

演奏会にしろ芝居にしろ落語にしろ、わざわざ出向いて行くわけだ。
チケットはもしかしたら無料でもらつたものかもしれない。
しかし、時間と場合によつては運賃とをかけてホールや寄席まで行く。
そして、これまた時間をかけて演者の芸を見たり聞いたりする。
しかるになぜ携帯電話やスマートフォンの電源を切ることができないのか。
不思議でならない。

老人の場合は、電源の切り方を知らない人がゐるのだといふ。
実際、やつがれも隣の席の老婦人に頼まれて携帯電話を切つてさしあげたことがある。
かういふ人は切り方を知つてゐれば切るのだらう。
係員は開幕直前に「ここを長押しすると切れます」といふやうな看板を掲げて客席内を歩いてみてはどうだらうか。
松竹系の劇場に行くと、幕開き前に係員が客席内を歩きながら「携帯電話、スマートフォンの電源はお切りください」だとか「上演中のお喋りやご飲食、ビニール袋の音はご遠慮ください」だとか云つて回つてゐる。
それに看板をつければいいやうな気がするがなあ。
スマートフォンの場合は機種によつて切り方が違つたりするだらうか。
だとしたら無理かな。

また、これも老人に顕著なのださうだが、電話といふのはいつでもつながるものといふ認識でゐるのだといふ。
さらには、電話とは音が鳴るものなのだといふ。
ゆゑに、マナーモードの存在など知る由もないし、そもそも電話が鳴らないやうにできるなどとは考へてもみないのださうだ。
それもあり得さうだなあ。

理解できないのはあるていど若い客だ。
携帯電話やスマートフォンの電源の切り方も心得てゐるだらうし、劇場や寄席に来るくらゐだから世間の常識はひととほりわきまへてゐるだらうと思はれる人々である。
これが、上演中にずーつと携帯電話やスマートフォンを見てゐたりするんだよね。
歌舞伎の場合は客電を落とさない演目もあるのでさう気にならないこともある。
でもその他の演劇の場合は気になるよ。暗い客席にそこだけ明かりがぼーつと灯つてゐるわけだから。
これも新橋演舞場だが、初春興業で隣の席の人が一幕中ずーつとスマートフォンを見てゐたことがある。
電波は抑制されてゐるはずだから、更新はされないはずだし、電池の減りもバカにならないと思ふのだが、ずーつと画面を見てゐて、時折くすくす笑つてゐた。
なんだつたんだらう、あの人は。
それくらゐだつたらロビーでのんびり見てればいいのに。

携帯電話やスマートフォンのなかつた昔にはもう戻れない。
そして、使用マナーの確立にはまだ少し時間がかかりさうだ。
マナーなんてできないかもしれない。
さうも思ふ。

自衛の策としては、「鳴つても気にしない」、それしかないのかな。
上演中のお喋りも気にしない。
ビニール袋ががさがさ云つてゐる? 気のせゐ気のせゐ。
さういふ「スルー力(ちから)」を養つていくしかないのだらう。
納得いかないけれども。

それでも、「盛綱陣屋」のおなじ場面で着信音が鳴つたら。
気にせずにゐられる自信はない。

Thursday, 23 April 2015

その後の JET8 または正しくペンを持つことについて

S.T.Dupont Jet 8

S.T.Dupont の Jet8の芯を替へた。
インキが切れたからである。
去年の二月の終はりに買つたので、一年とすこしといつたところか。

一時は使ひづらくて苦労した。苦労したことについてはこのblogでも書いた
それが、現在ではとても楽しく使へてゐる。
使ひづらかつたのは、ペンが暴れまくるからだつた。
思ひどほりの線が引けない。
罫線にしたがつて字を書かうとすると、字がはみでてしまふ。
このじやじや馬め。
それが、あるときから非常に使ひやすくなつた。

いつからか。
正しいペンの持ち方をするやうになつてからだ。

いや、「ペン」といふと違ふかな。
正しい鉛筆の持ち方をするやうにしてみた。
すると、おもしろいほど思ひどほりに書けるやうになつた。
びつくりだね。

ペンの軸に人差し指を沿はせて書くと書きやすい。
正しい持ち方をバカにしちやあいかんね。

ボールペンは苦手である。
書いてゐると、どんどんペンが紙に対して垂直になつてしまふからだ。
これはもちろんやつがれのせゐであつて、ボールペンが悪いわけではない。
もうひとつ、とくに水性ボールペンの場合、不意にインキがとぎれることがあるからだ。
インキはまだまだたくさん残つてゐるのに、なぜか途中で線がとぎれる。
なぜなのかのう。

そんなやつがれがデュポンのジェット8を買つた理由は、店頭で書いてみたらおどろくほど書きやすかつたからである。
ボールペンとは思へない書き味だつたんだよね。
万年筆で書いてゐるのとそんなに変はらない。
パーカーのインジェニュイティ(持つてゐません)より万年筆のやうな書き味なのではあるまいか。

正しい持ち方をする以前も、無地や方眼用紙に心のおもむくままに書き散らすやうなときは実に気持ちよく書けるペンだと思つてゐた。
それが、上にも書いたやうに罫線にしたがつて文字を書かうとするとダメだつた。
正しい持ち方をするやうになつた現在では Kein Problem ですよ。
JET 8。いいペンだ。

三菱鉛筆のジェットストリームもいいボールペンだ。
これも店頭で試し書きしたらとてもよかつたので、家で仕事をしてゐた家族に買つて帰つたところ、これまた大好評だつた。仕事をしてゐるあひだはこればかり使つてゐて、たいして文房具にこだはる質でもないのに細字と太字とそろへてゐたほどである。
自分用にも買つて、しかし、やはりあまり使ふことはなかつた。
上にも書いたとほり、書きづらかつたからである。
どんどん垂直になつていつちやふんだよね。
ジェットストリームも正しいペンの持ち方で書いてみたらまた印象が変はるのかもしれないなあ。
今度試してみやう。

JET 8は、正しいペンの持ち方をしやすい形状をしてゐる。
角柱をちよつとつぶして流線型にしてみましたといつた形だ。
面の広い部分は丸みをおびてゐて、細い部分はほぼ平らである。この細くて平らな部分に人差し指をおくと、自然な感じでペンと指とが沿う。

また、以前も書いたやうにペン自体の自重で筆圧をかけなくても字が書ける。

いい。
いいぢやあないか。
これだよ、あの日 K.ITOYA 1904 の店頭で一目惚れしたボールペンは。

といふわけで、写真のとほり、二本使つてゐる。
青い軸は二月に買つもので、銀色の軸は翌月悩みに悩んで買つたものだ。
もともと、銀色の方がほしかつた。
でも銀色はより指紋のあととかが目立ちさうだ。
それで青い軸にした。
しかし、銀色にも未練がある。
それに、黒字だけでなく青字のペンもほしかつた。
そんなわけで、去年日本橋丸善の世界の万年筆展で、消費税率のあがる前だからと理由をつけて買つてしまつたのだつた。

買つてしまつて、でも使ふやうになつたのはつひ最近のことである。
正しいペンの持ち方をすれば使ひやすい、といふことに気がついてからのことだ。
案の定、使ふたびに指紋がついて気になつてしまふ。
そこはこまめに拭いて対応してゐる。

まさか自分がボールペンを好んで使ふ日が来やうとはね。
お釈迦さまでも気がつくめぇ。

Wednesday, 22 April 2015

マクラメ用のおもちやを試してみる

DMC My Friendship Bracelet Maker Traveler を買つてしまつた。

DMC My Friendship Bracelet Maker

マクラメは、しばらく前からやりたいなー、と思つてはゐた。
マクラメといつて、作るものは細くて短いものばかりだ。
具体的にいふと、ミサンガみたやうなものだ。

以前、DMC からミサンガを作る器具が出てゐると聞いてはゐた。
実物を見たことはなかつた。
先日思ひ出して、たまたま検索をかけてみたら、Amazon でも売られてゐたので買つた次第である。
Amazon で買つた理由は、郵送代がかからないからだ。

やつてきたマイフレンドシップ ブレスレットメーカートラベラー(以下、「ブレスレットメーカー」)は思つてゐたより大きかつた。
「トラベラー」といふくらゐだから持ち歩きしやすいのではないかと思つてゐたんだよね。
マクラメをする場合はコルクボードを使ふことが多い。
コルクボードは、膝の上に置いて机にたてかけて使ふことができる。
ゆゑに机の上はあいてゐなくてもいい。
ブレスレットメーカーは、膝において机にたてかけるには小さい。でも机の上に置くにはちよつと大きい。
そんな感じである。

「トラベラー」といふ名前は、脇にあるこの引き出しゆゑなのかもしれない。

DMC My Friendship Bracelet Maker

引き出しには、刺繍糸 Prism が10色2かせづつ入つてゐる。
1かせは2本の糸でできてゐて、この糸がちやうどミサンガ一本分の長さくらゐなんぢやないかと思ふ。

断言できない理由は、ミサンガを作りあげることができなかつたからだ。
Prism はすべりのあまりよろしくない糸だ。
それで結んでゐてイライラがつのり、途中でやめてしまつた。
みんな、この糸でちやんとミサンガを作つてゐるのかなあ……。えらいなあ。やつがれにはとても無理。

イライラしてゐたせゐか、手がきつくなりすぎて、できたものは反り返つて平らではない。
ブレスレットメーカーのよいところは、作つてゐる最中糸がゆるまないところだ。
ブレスレットメーカーの下部は10本の糸をはさめるやうになつてゐる。これが案外いい感じである。
ただ、あまり糸を引つ張り過ぎると、できる紐が反り返つてしまふのだね。
ここは加減が必要なところだ。

といふわけで、手持ちの刺繍糸を探したが、なぜか全然出てこない。
出てきたのは DMC Cotton Pearl の #12 で、これではちよつと細すぎる。
あとはレース糸とか絹穴糸ばかりだ。
レース糸や絹穴糸でマクラメもいいけどね。

そこで、以前 Micro Macrame をやらうと思つて買つてあつたナイロンの糸があることを思ひ出した。
買つたまましまひこんでゐた糸が何巻かある。
取り出してきて結んでみたら、結構いい感じだ。結びやすい。

DMC My Friendship Bracelet Maker

いい感じではあつたのだが、この糸2本を丸大ビーズに通さうとすると無理があるので、これもとりやめる予定である。
たまたま一番最初に選んだビーズは穴が大きかつたやうだ。
ほかのビーズには糸を通せないので、なにか別のものを作るつもりである。

Micro Macrame といふのは、レース糸でいふと20番とか40番くらゐの細い化繊の糸を使つて、ビーズをあしらつたマクラメをさすやうだ。
手元の本を見るとそんな感じである。
マクラメとビーズとは相性がよい。
せつかくナイロンの糸もあるし、ビーズは一生かかつても使ひ切れないほどあるし、ここはひとつブレスレットメーカーを使つて Micro Macrame をやつてみるかな。

といふわけで、以下つづく、かもしれない。

Tuesday, 21 April 2015

タティングレースはこれでいいのか

The Twirly をつなぐプロジェクトを粛々と遂行中である。

いつもの説明をしておく。
The Twirly とは Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフである。
六角形で風車のやうな形をしてゐる。
このモチーフをつなぎまくつて、最終的にはちよつと壊れた大きな六角形にするのが「The Twirly をつなぐプロジェクト」だ。

それにしても、「粛々と」、なあ。
「上から目線」のことばですか?
違ふと思ふなあ。
「粛々と」といふことばが悪いんぢやない。
使ふ側の問題だ。
だいたい「粛々」といつたらあれでせう、頼山陽。

鞭聲粛粛夜過河 暁見千兵擁大牙

これのどこが「上から目線」なのだらうか。
あー、なるほど、敵は河にゐるから、山の上から見てゐるつてアレですか。
ちがーふ!

古いネタで恐縮です。

前回、モチーフの作りはじめや糸端の始末の仕方などについてちよこつと書いた。
The Twirly ではシャトルをふたつ使ふ。
糸を巻いた直後はふたつのシャトルの糸はつながつた状態なので、糸端は最後にできるものだけを始末すればいい。
では、シャトル同士の糸がつながつてゐない場合はどうするか。
これも前回ちよこつと書いた。

まづ、シャトルはひとつだけで、リングとチェインとを作る。
このときに、Magic Thread 用の糸をリングとチェインとに仕込む。最後の糸端の始末用にね。
こんな感じだ。

Adding New Thread

チェイン用の糸はすこし長めに取つておく。糸始末用だ。

チェインの上にリングを作るところでふたつめのシャトルを追加する。
このときに、ひとつめのシャトルでチェインを作るときに使つた糸の端とふたつめのシャトルの糸端とを始末する。

Adding New Thread

この部分は、芯糸もあはせて糸が三本入るのでちよつとスティッチが大きめになる。
写真では大きくなり過ぎてしまつた。普段はもうちよつと小さくなる。

これでモチーフを作つて、最後の糸端はマジックスレッドで引き込む。

この方法は、本ではあまり見かけない。
前回も書いたとほり、作りはじめや糸を足すときに糸始末をしながらスティッチを作る方法は、The Book of Tatting で見てやりはじめた。
でも、シャトルと糸玉の場合やシャトルをふたつ使ふ場合に、まづはシャトルひとつで作れるところまで作るといふ方法は、おそらく本で得た知識ではない。
もう覚えてはゐないけれど、誰かがさうしてゐる、といふのをその人の blog かなにかで読んだんぢやないかなあ。

なので、世の中のタティングレースをする人はみなかうしてゐると信じてゐる。
だつてその方がきれいにできるし糸端の始末も少なくて済むぢやん。
糸端同士を結ぶ方法とか糸端を縫ひ込む方法とかもやつてるかもしれないけどさ。
本に書いてあるし、NHK教育TV(とはいまは云はないのか? Eテレか?)の番組でもさう教へてゐるやうだし。

タティングレースも習ひに行つたら、糸始末の方法もいろいろと教へてもらへたりするのか知らん。
それとも、みんなWeb検索をかけて情報を集めて自分で咀嚼してなんとかするのか知らん。

タティングレースに関しては、「やつがれはなにか途方もない勘違ひをしてゐるんぢやないか」と思ふことがある。
情報が入つてこないからね。
糸端の始末の方法にしても、知つてゐる範囲ではこの方法が一番失敗が少なくてきれいにできるからやつてゐる。
結べば速いのかもしれないが、きれいにできない。

ここに書いた方法が「途方もない勘違ひ」でないことを祈る。

Monday, 20 April 2015

次のくつ下

あひかはらずくつ下を編んでゐる。

先週書いてゐた毛糸の足りないくつ下は、その日の夜に仕上がつた。
結局、つま先がこんなことになつてゐる。

Socks

まあ、いいんぢやないかな。片方だけだけど。
さういや完成写真を撮つてゐないのだつた。
昨日一昨日で撮るつもりだつたのをすつかり忘れてゐた。
ま、いいか。

これまた先週「かせの状態の毛糸が多い」といふやうなことを書いた。
それでくつ下編みはしばし停滞するだらう、と。
先週の火曜日に毛糸の入つてゐるタンスを見てみたら、玉の状態のくつ下毛糸が五足分見つかつた。
まだしばらくは大丈夫なやうだ。

そんなわけで、火曜日にこの糸で編み始めた。

Socks

Opal の キリン柄だ。
どのあたりがキリンなのかよくわからないが、キリンの写真がついてゐるのでキリンなのだらう。

二足つづけて履き口から編み始めたので、つま先から編み始めてみた。
こんな感じである。

Socks

「毛糸だま 春号」でいふところの「Figure 8」の作り目で編み始めた。
針は0号針を選んだ。
編み始めて、即後悔することになる。
この編み始め方は、四本針や五本針には向いてゐないことを思ひ出したからだ。
輪針で編むならかんたんなのになー。
棒針だと作つた目がきつくなり過ぎて、一段目を編むのに難儀をすることになる。
それで、以前も四本針とか五本針で編むにしても、作り目とそのあとの一、二段は輪針で編んでゐた。
それを編み始めてから思ひ出した。
遅いよ。

輪針を出してくればいいのに、結局五本針で編みすすめた。
なんとかなるものだ。
今回は、甲側は二目ゴム編みの変はり模様のやうな模様にして、裏側はメリヤス編みにしてみた。
二目ゴム編みの変はり模様といふのは、二段二目ゴム編みを編んだら次の二段は全部メリヤス編み、といふ模様である。二目ゴム編みのヴァリエーションといつたところか。
なんで二目ゴム編みにしなかつたのかといふと、途中で飽きさうな気がしたからだ。
また、いま編んでゐる模様の方が段数を数へやすい。
そんな感じで、先週のうちにかかとを編み終へて、脚部分に入つたところである。脚は一周ぐるりと二目ゴム編みの変はり模様で編んでゐる。

かかとは、Wrap & Turn を採用した。
最初は、ラウンドヒールにするつもりだつた。
そのつもりで「毛糸だま」の編み方を読んで、しかし、いま編んでゐるくつ下の目数にあはせるのがめんどくさくてやめてしまつた。
「毛糸だま 春号」のくつ下特集はとてもありがたいのだが、いくつか困つた点がある。
これまでも書いてきたやうに、一周の目数が多すぎる。
そして、かかとやつま先の編み方が、その目数通りに編まないと応用がきかない書き方になつてゐる。
もつといふと、かかとやつま先に入るときには、米国のあみものの本だつたら「残り2.5 inchになつたらかかとを編み始める」とかなんとか、具体的な長さで指定してゐるものが多い。
「毛糸だま」は違ふ。何段編んだらかかと/つま先を編み始める、といふやうになつてゐる。
せつかく足のサイズの表を載せてゐるのになあ。

先週編んだくつ下は、かかとはうまいこと数値を調整することができた。
いま編んでゐるくつ下ではそれができなかつた。
「なんかさー、そこまでしてやらなくても」と思つてしまつたんだよね。
そんなわけで、なにも見なくても編める Wrap & Turn のかかとを採用したといふ寸法だ。

Wrap & Turn は、引き返し編みのかかとだ。
本邦でよく見る引き返し編みのかかとと違ふ点は、編み残す目の根本に糸をかける点だ。
本邦では、編み残す目のそばにかけ目をするのが一般的な引き返し編みだと思ふ。
どちらがいいかは、まあ、好きずき、かな。
編みなれてゐるので、Wrap & Turn を採用することが多い。

いはゆる Heel flap のあるかかとよりも、Wrap & Turn のかかとの方が自分の足にはフィットする。
かかとを好きなやうに細くすることで、フィット感がたかまるからだ。

Heel flap のあるかかとの場合、一周の半分をさらに三分の一にわけて、あまりを真ん中部分に寄せることになる。
かかとの細さを自在に変へるのはむづかしい。
まあ、三つにわけるときにきつちり三等分しなければいいのかもしれないが、いづれにしてもかかとのできあがる前にどれくらゐの比率で分けるか決めておかなければならない。
すなはち、編みながら調整できないといふことである。

その点、Wrap & Turn のかかとの場合は編みながら様子を見つつ細くできる。
そこがいい。

ただ、編んでゐて楽しいのは Heel flap のあるかかとなんだよねえ。
あの三角形のまちができあがつていくのを見るのが楽しいし、できあがつたまちを見るのもいい。
「毛糸だま」にはこの Heel flap の部分にいろんな模様を配してゐたりして、それも楽しい。

世の中、なかなかうまくいかないね。

Wrap & Turn のかかとを編むのは、何年ぶりかわからないくらゐ久しぶりだ。
でもまあ、まあまあ、かな。
0号針で、なるべく力を入れないやうにして編んでゐるのだが、かかとの部分だけはやはりちよつと力が入つて手がきつくなつてしまつた。
かかとだからそれくらゐしてもいいだらう。

脚部分の長さはどれくらゐにしやうかな。
次なる難関は輪の二目ゴム編み止めだ。
いつごろになるかのう。

Friday, 17 April 2015

老いも若きも

六月歌舞伎座で「新薄雪物語」がかかるといふ。
「新薄雪物語」が好き、といふ話は以前書いた

前回の「新薄雪物語」は花形だけだつたらうか。
残念ながらこの月は見にいけなかつた。存外「合腹」がよかつたとの噂なので、よけいに残念である。

六月の「新薄雪物語」の問題は、昼夜にわけての通しといふことだ。
昼の部の一幕めから大幹部を出すわけにはいかない、といふ配慮なのかなあ。
だつたら「花見」は若手でまとめてもよかつたのに。

「新薄雪物語」がなかなかかからない理由として、外題に「薄」といふ文字が入つてゐるからといはれることがある。
客の入りが薄くなるのを心配してのことだといふのだ。
それともうひとつ、役者がそろはないと上演できないから、といふのも理由のひとつだといふ。
こつちの方が納得いくな。
うまいこと配役できないこともある、といふことでせう。
登場人物も多いし、世代の切れ目なんかでは役者が足りないといふこともあるだらう。

登場人物が多くて配役がむづかしいといふことは、劇団や世代の枠を越えた顔合はせが必要といふことだ。
それつて、見る側には楽しみも多いといふことだよね。
普段はあまり見ることのない顔合はせを見ることができる。
しかも、大幹部と若手との共演(競演も、かな)も見られる。
いいぢやあないか。

さう思ふのだが、前回は花形でかためてしまつたし、今回はいまのところ判明してゐる配役は大幹部ばかりだ。
大幹部で「新薄雪物語」をいまのうちに、といふ気持ちはわかるし、それはこちらも望むところだが、うーん、まちつと若手が混ぢつてもいいんぢやないかなあ。
まあ、全体的な配役を知つてゐるわけではないのでそこのところはまだ期待してゐるのだが。

歌舞伎座のさよなら公演からこちら、大幹部の大顔合はせはやはりいい、といふことをいたく実感してゐる。
あたりまへぢやん、と思はれるかもしれないが、実際に見ると「やつぱりいいねえ」と思つてしまふ。
とくに今の幹部は花形のころから見てゐるので、感動もひとしほ、といふこともあるのかもしれない。
最近おなじ芝居ばかりがかかるやうになつてゐるから、つひ見比べてしまつてさう思ふといふこともあらう。

でも、若手も混ぢつた方がいいと思ふのだ。
これまたここのところ、大幹部のみか花形のみかといつた公演が増えてゐるやうに思ふ。
大幹部と花形とのあひだの世代の層が薄くなつてゐるから、といふ原因もある。
だが、松竹がさういふ売り方をしたいといふか、役者自体がさうしたいといふか、そんな理由があるんぢやないかといふ気がしてしまふんだよねえ。
去年の秀山祭の「絵本太功記」とか、先月歌舞伎座の「筆法伝授」とかのやうに、若手に活躍の場を与へつつ、大幹部も本領を発揮する、といふやうな、さういふ風にはできないのかなあ。
むづかしいのかなあ。
さういふのが見たいんだけどなあ。

それとも、さういふのが見たい、と思ふのはやつがれくらゐなのだらうか。
ほかのお客さんは、「きれいな花形だけ見てゐたい」とか「うまい役者しか見たくない」とか思つてゐるのだらうか。

うーん、それはあるのかもしれない。

いづれにしても、六月の「新薄雪物語」のまだ役者の公開されてゐない役には若手が配されるといいなあ、と思つてゐる。
「新薄雪物語」は、さういふ演目だと信じてゐる。

Thursday, 16 April 2015

実写版映画も悪かない

この土曜日に「ドラゴンボールZ 復活のF(以下「復活のF」)」が公開される。
Fが復活するのなら、そのうちCも、と思ふのは、至極当然のことだらう。
さういふ展開が透けて見えるので、「映画? あーそー」的にかまへてゐる。
見には行くと思ふけれどもね。

映画の前作「ドラゴンボールZ 神と神(以下「神と神」)」のときもさうだつた。
「ドラゴンボールの新作? 見には行かないなー」と思つてゐた。
見に行つた人から、「すつごくいいから」と云はれて、見に行つたらそのとほりだつた。
なにしろ都合三回は見に行つたからね。

なにがよかつたのか、といふと、素の状態に戻つた孫悟空と破壊神ビルスとの戦闘場面だ。クライマックスである。
それまで控へ気味だつたスローモーションからはじまつて、これまたそれまで地上や上空が舞台だつたところを地下といふ閉息した状況にもつてきて、息をもつかせぬ大バトル、といふ、ほんの数分のシーンに毎度見入つてしまつた。
「これは大画面で見たい!」と最初に見たときに思つたので、その後二度も通ふことになつた。

あと細かいところでいふと、ピラフ一味がよかつたな。
きみら、ずーつと一緒でずーつとあーんなことやこーんなことをやつてきたんだね。
ピラフ、シュウ、マイの三人の息がぴつたりで、見てゐるこちらは一瞬「ドラゴンボール」がはじまつたばかりのころに戻つたやうな気分になる。
すこし遅れて、そのころから流れた時間と、その時間をともに過ごしてきたであらうピラフ一味を思ふ。
ピラフ一味、イカすわー。

「神と神」のパンフレットに寄せられた文章などを読むと、この映画が作られることになつたきつかけは、ハリウッドの実写版「ドラゴンボール」であるらしいことが、ぼんやりと見えてくる。

実写版「ドラゴンボール」は飛行機の中で見た。
機内のちいさなモニタで見たくらゐでものを語るな、といふ向きもあるので、絵については語らない。

実写版「ドラゴンボール」は、よくある話である。
いぢめられつ子だつたり極々平凡だつたりする主人公はひよんなことから特殊能力を得る。仲間とともに秘宝を探す旅に出て、邪悪な強敵と戦ふことになる。
ハリー・ポッター?
スターウォーズ?
ホビットの冒険?
こんな内容の話はいくらでもある。
「ドラゴンボール」だつて、多少アレンジはあるものの、大筋はこんなところだ。
そこに「学校ではいぢめられつ子」といふ詳細を付け足す必要はない。
少なくとも「ドラゴンボール」でそれをやる必要はない。
かうした細かい付け足しがことごとくうまくないんだよなあ。

実写版「ドラゴンボール」は、「ドラゴンボール」でなかつたとしてもおもしろいとは思へない。
「ドラゴンボール」といふ名前を冠してゐなかつたら公開されなかつたのではあるまいか。
なんだかよくわからないけれども世界的に人気のあるまんが/アニメーションの実写化だからこれでいいだらう。
そんな映画なのである。
そんな映画なのに、続篇を作る気満々といつたやうなエンディングが用意されてゐる。
見てゐる方はもうこれ以上シラケやうもない状態なのに、さらにシラケることを強要される。
実写版「ドラゴンボール」はそんな映画であつた。

ところが世の中わからないものだ。
この実写版「ドラゴンボール」が引き金となつて、「神と神」が世に出ることになつたといふのだから。
一昨年、「神と神」をはじめて見たときに、心の中で実写版「ドラゴンボール」にちよつとばかり感謝してゐた。
実写版「ドラゴンボール」があつたから、「神と神」が生まれた。
なんとありがたいことではないか。
まんがやアニメーションの実写版つて、悪いばかりでもないんだな、どんな出来であつたとしても。

さて、「復活のF」である。
Fことフリーザさまがすばらしいことは十二分に理解してゐるので、あとはなんか妙ちきりんなことをやらされたりしてゐないことを祈るばかりである。
なにを云つても、ともちやんだしね、フリーザさま。
見終はつて、「復活することなかつたのに」といふ感想を抱くことのないやうな出来でありますやうに。

Wednesday, 15 April 2015

この春もまたこの時期が来た

4月13日(月)、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーに行つて来た。
14日から展示替へで休館するからである。

渋谷区のサイトには早いうちから4月14日(火)から4月23日(木)まで展示替へで休館するといふ情報が出てゐた。
ギャラリーにはいつも張り出される休館のお知らせがなかつたので、うつかりしてゐた。
去年も一昨年もいまごろだつたよな、と、思ひ出したりする。
思ひ出したりはして、「しかし、待てよ、ギャラリーに休館のお知らせが出てゐないといふことは、もしかしたらまだ展示替へはしないのかも?」などと思つたりもした。
月曜日に見たら、川本喜八郎オフィシャルWebサイトでも展示替へのお知らせがあつた。
月曜日にギャラリーに行つたのは正解だつたやうだ。

そんなこともあつてか、今回は「さよなら」といふ気がしない。
また行けばおなじ面子に会へるのではあるまいか。
そんな気がしてならない。

半年も見てゐると(といつて毎日見てゐるわけではないが)、どの人形とも親しい間柄のやうな気がしてくる。
「また来ちやつた。てへ」みたやうな感じ、といふかね。
髻を切られて驚愕狂乱状態の親雅の前でもそんな気分になつてしまふ。
ただ、兼綱と仲綱とだけはちよつと距離をおいてしまつたなあ。
このふたりは死に一番近いところにゐるからだらう。
射かけられた矢でハリネズミのやうになつてうづくまる仲綱と「しつかりしろ」とかなんとか声をかけ手をさしのべる兼綱とを、まぢまぢと見つめるのはチト気が引けた。
気が引けつつもしやがんでふたりの顔を見ると、なんだかとつても凛々しいんだなあ。それでさらにゐたたまれない気分になつてしまつたりもした。
このふたりの前に立つと、つひつひ視線はその背後の以仁王と頼政とに行つてしまふ。
以仁王も頼政も、兼綱と仲綱とを見てゐる心なのだと思ふ。
以仁王は、以前もちらりと書いたやうに、ひどく心を痛めたやうな表情で馬上からふたりを見下ろしてゐる。それでゐて、どこかに高貴の人の冷たいやうすもある。これがたまらなくいい。
頼政は、達観したやうす、なのかなあ。まもなく自分もおなじ道をたどるから、といふ感じなのかなあ。

死に近いといへば、今回の展示では清盛もそのはずだ。
そのはずなのだが、なぜか清盛からはあふれる精力を感じてゐた。
その手前にゐる孫の資盛なんかより、ずつと生きる力を感じる。
死を前にして「生きたい」といふ強い思ひがさうさせるのか、とも思つたが、多分違ふな。
清盛は、強い生命力を持つ個体なんだらう。
次回の「平家物語」の展示は「平家都落ち」と「義仲上洛」だといふ話だ。
おそらく清盛はゐないだらう。
でも、なんとなくゐるんぢやないかな、といふ気がしてならないのだ。
まあ、ゐてもをかしかない気もするけど。
さういや飯田の今回の展示の清盛にはそれほど生命力を感じなかつたな。
目、かな。
渋谷の清盛はこちらを見てゐるけれど、飯田の清盛はうつむいてゐる。
その違ひかもしれない。

「義仲上洛」といふことは、義仲一門は次回の展示にもゐるのだらう。
連続登場か。どうなるのかなあ。
今回の展示の義仲は野心に燃える態で、実によかつた。
竿立ちになりかけた馬を制御しつつ、頼朝のゐる方向を見据ゑてゐる。
惚れるで、しかし。
両脇に巴と葵とを従へたところなど、まるで脇侍を従へたご本尊のやうですらあつた。
次回はどうなるのかなあ。
上洛して、チト慢心しちやつた感じになるのか。
それとも意気揚々とした旭将軍の姿を見られるのか。
あと、一門の中ではほかに誰がゐるのか。
楽しみでならない。

次回の展示のもうひとつ、「平家都落ち」もどうなるのかなあ。
都落ちといふと、忠度を思ひ出す。
こどものころ読んだお子さま向けの「平家物語」に出てゐたからだ。
忠度はわづかな手勢のみで都に戻り、藤原俊成にみづからの和歌を記した巻物を託す。俊成は後に詠み人知らずとしてそのうちの一首を勅撰和歌集に採る。
だからどうした、といふ話でもあるのだが、なんとなく忘れられない。
忘れられないのは、忠度を「薩摩守」として先に知つてゐたからといふのもある。
いまではほとんど聞かれなくなつたが、以前は無賃乗車を「薩摩守」といつた。「忠度」と「ただ乗り」とをかけてゐる。
忠度といへば薩摩守で、そんな和歌の名手だつたなんて全然知らずに読んだものだから、印象に強く残つたのだらう。

忠度は、前回の展示のときにゐて、正面を切つて鼓を打つてゐた。
きりりとしたいい表情でね。
きつと鼓もよく打つのだらう、と、当時見に行つて書いた記憶がある。
次回の展示では、忠度はゐるか知らん。
ゐるとしたら、どんなやうすなのか知らん。
その他の人物もあはせて、気になるところである。

はっ、「平家物語」のことばかり書いてしまつたが、次回は「三国志」もあるのだつた。
赤壁の戦ひの予定ださうなので、前回の展示のときにもゐた人々がまた出てくるのかな。加へて玄徳・関羽・張飛とか曹操とか。
あと、まだ見たことのない人形がゐると思つてゐるので、その人が出てくるか否かも気になる。
初回の展示のときにゐた董卓・王允・李儒に再会できるのはいつの日か、などと思ひつつ、もしかしたら赤兎馬にはまた巡り会へたりするか知らん、とかね。

来週の金曜日を待つばかりである。

Tuesday, 14 April 2015

糸端の始末考

The Twirly をつなぐプロジェクトは、先週からモチーフ一枚増えたのみである。

いつもの説明である。
The Twirly とは Jon Yusoff のデザインした六角形のタティングレースのモチーフである。風車のやうな形をしてゐる。
このモチーフをたくさんつないで最終的にはちよつと壊れた六角形にするのが「The Twirly をつなぐプロジェクト」である。

だいぶ以前にも書いてゐるやうに、糸始末には Magic Thread を使つてゐる。
リングなりブリッジなりを作るときに輪にしたキルティング用の糸(これが Magic Thread なのだらう)を芯糸に沿はせて仕込んでおく。40番糸なら最低6目分くらゐは仕込んでおきたい。
糸始末をする際に糸端を輪にした糸に入れる。
輪にした糸を引き抜く。
Voila!
あとは糸端を切つて糸始末終了である。

キルティング用の糸と書いたが、細くて強くて滑りのいい糸ならなんでもいいのではないかと思ふ。
リングやブリッジを作るときに仕込んでおくと、作つてゐる最中邪魔なので、あとからクロススティッチ針で縫ひ込むのもありなのかもしれない。
やつがれは、縫ひ針を使ふのをできるだけ避けたいのでこの方法はやつたことがない。

また、マジックスレッドは長くしてシャトルに仕込んでおくといふやり方もあるが、これだと長くなりすぎてしまふ。
やつがれは適当な長さにして、ちよつと手間だがスティッチを作りながらシャトルの先などでマジックスレッドを入れるやうにしてゐる。

タティングレースの本を見ると、糸を始末するときや糸をつぐときは大抵「糸端同士を結んで始末する」と書いてある。
大変お恥づかしい話だが、この「糸端同士を結ぶ」といふのがどうにもうまくできない。
結び目がリングやブリッジからものすごーくはなれた位置にできてしまつたり、やたらと大きくなつてしまつたりするからだ。
それで「ここで糸始末しましたよ」といふのがとても目立つてしまふ。

Magic Thread を知るまでは仕方ない、最後の糸端だけはクロススティッチ針で縫ひ込んでゐた。
最初の糸端は、リングなりブリッジなりを作りはじめるときに一緒に芯糸に沿はせて始末してしまふ。
これは今もやつてゐる。
かうすると、マジックスレッドは最後の糸端用だけで済むからだ。

The Twirly の場合、シャトルをふたつ使ふ。
糸を巻いたばかりのときはふたつのシャトルに巻いた糸がつながつてゐるから最初の糸端は気にしなくていい。
ひとつモチーフを作り終えたあとは、まづシャトルひとつだけでリングとブリッジとを作る。このときにマジックスレッドを仕込んでおく。
ブリッジを作つてあまつた糸端とふたつめのシャトルの糸端とを始末しながらふたつめのシャトルでリングを作る。
かうするとリングの中に芯糸が三本になるので若干ほかのリングより大きくなつたりするが、まあ、そこはそれ、だ。

……絵がないとよくわからないか。
この方法は The Book of Tatting で知つた。
これと似た方法を Jane Eborall が「Adding New Thread」として PDF で公開してゐる。
どちらも絵がついてゐる……うーん、本の方はどうだつたかな。多分ついてゐたと思ふ。

かういふことはタティングレースを作る人ならみんなやつてゐることなのではないかと思つてゐるのだが、如何に。
それともタティングレースをやらうといふ人はほぼ器用なのだらうから、やつがれのやうに「結び目がうまく作れない」とか「縫ひ針は極力使ひたくない」といふ人は少ないのかな。

Monday, 13 April 2015

大き過ぎと小さ過ぎ

くつ下を編み上げた。

Socks

A Knitted Sock Society の表紙に載つてゐる Reginald といふくつ下である。
脚の外側にゆるやかな波の模様が出るところが特徴だ。
デザイナは Rachel Coopey。
本を見ると、かういふ脚の外側に模様の出るくつ下やねぢり目のゴム編みを使つたデザインが好きなやうである。

毛糸は Berroco Sox。
普通の中細くつ下毛糸だが、今回使つたものは結び目が二カ所あつた。くつ下毛糸にはあまり見ないんだけどな。
長いくつ下であることと、サイズよりも模様を重視して大きめに編んだことで、100gほとんど使つてしまつた。あまつたらネクタイを編むつもりだつたんだけどなー。

指定の毛糸は Rowan の Fine Art である。
ローワンの毛糸なんて、久しく店頭では見てゐない。
毛糸屋に行かなくなつたから、といふのもあるけれど、恵比寿の Rowan Shop がなくなつたのが大きい。
日本橋三越の手芸屋にはまだあるんぢやないかと思ふけれど、三越で毛糸は買はないからなあ。
この本ではすべての作品に Fine Art を使つてゐるのだけれど、洗濯に耐へる糸なのか知らん。
写真で見るかぎり、色はいいものが多いなあと思ふ。

針は1号4本針で編んだ。
このくつ下自体は、DPN で編むなら5本針の方がいいやうな気がする。模様で針にかける目を変へるんなら、その方がいいんぢやないかなあ。4本針ではちよつと編みづらかつた。とくに左側のくつ下は。

Reginald は、最初のうちは模様の編み方を覚えられなくて難儀した。
一々編み図を見ながら編んでゐた。
さうさう、A Knitted Sock Society には編み図が掲載されてゐる作品もある。編みやすいんではあるまいか。

以前も書いたやうに、もうこのまま模様は覚えられないのかもしれないなー、と思つてゐたら、あるとき突然編み方を理解した。その後はサクサク編めるやうになつた。

脚部分は編み方にあるとほりに編み、足部分は模様重視で編んだ。表紙の写真とほぼおなじだと思ふ。
これだとやつがれにはチト大きすぎるのだが、まあ、別に自分で履かなくてもいい。履いてもいいけど。
自分で履くとしたら、この先洗つたらソックブロッカを使つて干すやうだらうな。普通に干したらだらんと長くなつてしまふもの。

Reginald を編み終へた後、即次のくつ下を編み始めた。
「毛糸だま 春号」に掲載されてゐる編み方を参考に、履き口から編み始めてかかとはダッチヒール、つま先はウェッジトゥのくつ下にした。

Socks

使用した毛糸は、Louet Gem の Sports Weight だ。
だいぶ以前に買つたもので、そのときに片方のかせは50gに足りないからといふのですこし安く買つたものだつた。
足りなかつたねえ。
Sports Weight といふから50g弱あれば大丈夫かなあと思つたんだがなあ。Jaeger MatchMaker DK なら50gもあればちよつとあまるぞ。
そんなわけで、現在も「あー、きつと毛糸、足りないなあ」と思ひながら編んでゐる。
足りなかつたらどうするか。
似たやうな毛糸は手持ちにないので、なにかまつたく異なる毛糸を足すんだらうな。
つま先の部分だけだから、それはそれでいいかもしれない。

作り目は56目で、ゴム編みの作り目ではじめた。
針は3号5本針。3号くらゐだと力をかけてもたはまないから楽ちんだ。
脚の部分は40段、かかとは28段、足の部分は35段、つま先は16目まで減らした。
かかとはもつと短くしたかつたんだけどなあ。
しかし、かかとが短いと、三角のまち部分が情けなくなる。みつともない。
かかとをあるていど長くして三角のまち部分の長さを確保しないとダメなんだねえ。今回学んだよ。

さうさう、このくつ下は足の裏も二目ゴム編みにしてゐる。
足の裏がゴム編みだと踏んだときにふかふかするんだよね。これが案外気持ちいい。
今回はちよつと太めの糸を使つてゐるので、さらにふかふかするんではあるまいか、と期待してゐる。

片方編んだ時点で、足にぴつたりのサイズにできてゐて、これはいいなあと思つたのだが。
上にも書いたやうに毛糸が足りない。
上にはほかの毛糸を足すやうなことを書いたけれど、編め具合によつては多少小さくてもそのまま終はりにするかもしれない。
世の中なにかとうまくいかない。
つま先から編みはじめてゐればよかつたのかもしれないが、な。

さて、そろそろ次のくつ下毛糸を探し出さねば。
思つてゐたよりもかせのままの毛糸が多くて、ちよつと編む方は停滞しさうだな。

Friday, 10 April 2015

読み返したいけどちよつと怖い

こどものころのことである。
叔母がいとことやつがれとに「少女フレンド」と「花とゆめ」を示し、「好きな方をあげるよ」と云つた。
いとこは「少女フレンド」を取つた。
やつがれの手元には「花とゆめ」が残つた。

これがやつがれの少女マンガの趣味嗜好を決める結果となつた。

それ以前にも、「別冊マーガレット」を読んではした。
病院通ひが多かつたためか、母がたまに買つてくれたのだつた。
母は病院にある本を読むのをいやがつてゐた。
読みたかつたのは母だつたのかもしれない。
そこで和田慎二の「わが友フランケンシュタイン」シリーズを読んだりしたのだつた。
この時点で、まんがの好みはある程度決まつてゐたと思はれる。
そこに「花とゆめ」だつた。

当時の「花とゆめ」では「ガラスの仮面」の連載も「スケバン刑事」の連載もまだ開始してはゐなかつた。
連載作品として記憶にあるのは「アラベスク」第二部の終盤だ。
主人公ノンナがラ・シルフィードを踊つてゐる最中に、伴奏してゐたビアニストが突如演奏をやめてしまふ。しかし、ノンナはそれにも気づかず踊りつづける、みたやうな場面を今に至るまで覚えてゐる。
水野英子の連載もあつたやうに思ふが、定かではない。
こやのかずこの連載は終はつてゐたやうに思ふけれど、一度くらゐは巻頭カラーで見たやうな気もする。
読み切りでささやななえ(当時)が怖いまんがを描いたり、山田ミネコが不思議なまんがを描いたりしてゐた。

そんな中に「だから旗ふるの」といふまんががあつた。
「はみだしっ子」シリーズとの出会ひだつた。
やつがれがアンジー派であつてもなんの不思議もない。
中学に通ふやうになつて、友人がグレアムが好きだといふのに驚いたり、実は世の中にはグレアム派が多いのだといふことを知つたりするやうになる。
それまではひとりで三原順を読んでゐた。

そんなわけで四月四日のヤマザキマリの講演会には行きたかつたが、行けなかつた。
水戸に行つたからである。

「ひとりで三原順を読んでゐた」と書いたが、本はひとりで読むものだと思つてゐる。
まんがは少し違ふかな。
まんがは、とくにこどものころはたくさんは買へないので、ともだち同士で持ち寄つて互ひに貸し借りをしてゐた。小学校高学年くらゐのころのことだ。
読むときはひとりなのだが、読んだあとに「あの場面がどうの」「この登場人物がかうの」といふ話を仲間うちでするやうになる。
「はみだしっ子」シリーズの単行本を持つてゐるこどもは、やつがれの周りにはゐなかつた。
やつがれ自身は二巻と四巻とを持つてゐたと思ふ。
なぜか一巻とはなかなか本屋で出会ふことがなかつた。
三巻は買はうとしたら売り切れてゐた。
そんなにお小遣ひがあるわけでもなかつた。
しかも母は三原順が好きではなかつた。
好きだつたら買つてもらふこともできたかもしれない。
残念なことである。

手元に二巻と四巻としかない状況で、ともだちには貸せなかつた。
基本的には一話完結だが、一応話はつづいてゐる。
一巻で出会つた人のつてで三巻に登場する人に会ひに行き、四巻ではそのふたりが重要な役割をはたすやうになる。
やつがれはそのことがわかつてゐるからいいが、はじめて読む人間にはやさしくない。
そんなわけで、当時は「はみだしっ子」仲間が増えなかつた。

しかし、三原順は、ひとりで読む方がいいのかもしれない。
友人と一緒に読んで、「Die Energie 5.2☆11.8」を語り合つたりするだらうか。
語り合つたとして、どんなことを?
あのまんがを友人と「あーでもない」「こーでもない」と喋り倒すところがやつがれには想像できない。
せいぜい、「重たかつたね」「うん、よかつたけどね」「うん」くらゐが関の山だ。

「Die Energie 5.2☆11.8」を「あーでもないこーでもない」と語り合ふやうなこどもだつたらよかつたのになあ、とは思ふがね。

中学生になると、上に書いたグレアム派の友人以外にもまんがを読む同級生が周囲に増え、「花とゆめ」や「Lala」を読んでゐる人も多かつた。
多かつたけれど、さういふ友人たちとしてゐたのは「パタリロ!」の話だつたり「エイリアン通り」の話だつたり、「紅い牙」シリーズの話だつたりした。
掲載誌は違ふけれど、「那由他」の話なんかもあつた。
でも、「はみだしっ子」や「ルーとソロモン」の話をした記憶はほとんどない。
Untouchable。
そんな雰囲気だつた。
敬して遠ざける。
そんな雰囲気もあつた。

かくいふやつがれは、もう長いこと「はみだしっ子」シリーズを読み返してはゐない。
「ロングアゴー」を三年ほど前に読んだかな、くらゐである。
読み返さない理由は、読み終はつたあと「この世」に返つてこられなかつたらどうしやう、と思ふからだ。
来る連休にでも読み返して、五月病にでもかかつてみるか。

Thursday, 09 April 2015

水戸エクセル開業30周年記念企画 三国志ー川本喜八郎の世界ー展に行く

水戸駅エクセル開業三十周年記念

四月四日(土)、水戸エクセル開業30周年記念企画展を見てきた。
展示内容は「三国志-川本喜八郎の世界-」である。
三月七日から四月五日の展示だつた。
すでに終はつてゐるので少々気が引けるが、記憶のよすがに残しておく。

なぜ水戸で三国志なのかといふ話は、上記リンク先をご覧いただきたい。

展示は水戸駅ビルのエクセル本館6階の特設会場で行はれてゐた。
展示内容は、玄徳、関羽、張飛、孔明の人形と人形劇のときの人形たちの写真や人形のできるまでなどのパネル、それと「川本喜八郎作品集」の上映だつた。

会場は三方を壁で区切つたスペースで、開放感があつた。
広さを確認するのを忘れてしまつた。
渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーの人間がゐられる部分よりも広い感じがした。
ヒカリエでいふとエスカレータのそばにあるメイン会場よりちよつと狭い、かな。
レストラン階ではあるものの、食べ物の匂ひはほとんど感じなかつたと思ふ。
三々五々人がおとづれてゐて、無人といふことはほぼなかつた。

三方の壁に沿つて、パネルが飾られてゐた。
入り口から見て左側の壁に、人形の写真のパネルが並んでゐた。
上下に一枚づつ、入り口側から孫権・曹操・玄徳とそれぞれの配下のものたちが八名づつゐた。
一番入り口側の上が諸葛瑾、その下が呂蒙で、以下、魯粛、闞沢、周瑜、徐盛、孫権、黄蓋、孫権、仲達、許褚、程昱、典韋、郭嘉、夏侯惇、曹操、夏侯淵、孔明、龐統、張飛、馬超、関羽、黄忠、玄徳、趙雲だつた。
この並び、とくに玄徳と仲間たちのあたりの並びは絶妙ぢやないかな。
関羽と黄忠、張飛と馬超、孔明と龐統といふあたりに深くうなづく。

玄徳と趙雲とのパネルの奥、会場の左隅にはモニタが設置されてゐて、「川本喜八郎作品集」から9作品がエンドレスで上演されてゐた。
これを見てゐるだけでも一日楽しめさうだ。
昼から「犬儒戯画」とか「詩人の生涯」といふのも乙なものである。
最初は遠巻きに立つて見てゐたのに、いつのまにかモニタの前のいすに腰掛けて最後まで見てゐた、といふ人が多いやうに見受けられた。

正面奥の壁には、人形の作り方のパネルと、「連環の計」といふことで王允、貂蝉、董卓、呂布のパネルと、一番右側の上に貞姫のパネルが飾られてゐた。
人形の作り方は、范増だつた。このパネルははじめて見る。
カシラの型を作るところから衣装を着付けた姿まで、写真と解説でわかりやすく説明されたパネルだ。
范増かー。
項羽と劉邦、見てみたいなあ。
別冊太陽の「川本喜八郎 人形-この命あるもの」に掲載されてゐる写真でしか見たことがない。
この本の表紙が項羽と劉邦との写真で、これがまたいいんだよねえ。
見られる機会はあるだらうか。
あるといいなあ。

貞姫のパネルにつづいて、右側の壁には「三国志を彩る女性達」といふことで小喬、美芳、大喬、淑玲のパネルがあつた。上下左右の順に書いたからかうだけれども横並びで書くと小喬と大喬とが並んでゐて、美芳と淑玲とが隣同士である。
小喬は、やはり可愛いな。

その右側に三国志時代の地図や三国志や人形劇三国志の説明のパネル、川本喜八郎の年表、開会の挨拶などのパネルがあつて、一番入り口に近いところにイーゼルに乗せられた川本喜八郎の写真があつた。ベレー帽をかぶり、ちよつとおもしろい織り地のマフラーを巻いた姿の写真である。

さういやヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーにも三国志関連のパネルを増やすだか新たなものにするだかといふ話があつたんだがどうなつたのだらう。
去年のいまごろ展示替へ直前に行つたら、区役所の方とおぼしき人と業者の方とおぼしき人々がそんな話をしてゐたんだよね。
平家物語のパネルは、家系図が人形の写真入りになつたりしてゐる。
三国志のパネルも期待してゐる。今度の展示替へでなんかあるといいなあ。

さて、人形の展示である。
人形は一人一人ケースに入つてゐた。
入り口をちよつと入つたあたりの中央に、孔明の人形が立つてゐた。
会場の右手には入り口に近い方から張飛、玄徳、関羽が座して杯を掲げてゐた。ケースの外、背後には桃の花の絵が飾られてゐた。もちろん「桃園の誓ひ」をあらはしてゐる。

玄徳、関羽、張飛は、以前ヒカリエや飯田市川本喜八郎人形美術館にも飾られたことのある人形だと思ふ。
さう思ふ所以は衣装だ。
とくに玄徳の、水色の衣装が忘れられない。
甘い水色なのだ。
全然そんな色合ひはないのに、どこか桃色めいた甘さあたたかさを感じる衣装なのである。
生地のやはらかくてどこかくたつとしたやうすが、やんごとなき筋の乳幼児の寝間着かなにかのやうにも感じられる。
関羽、張飛の衣装もあのとき見たものと同じだらう。

「あのとき見た人形だ」と断言できない理由は、玄徳の表情にある。
ヒカリエや飯田で見た玄徳は、至極おとなしげな表情をしてゐた。
若くて品がよくて、関羽と張飛とに盛り立てられて旗揚げした、といふ感じだつた。
玄徳自身にも野心も野望もあるだらうが、それはつつんで見せてゐない。
そんな風に見えた。

水戸で見た玄徳は、勇ましげな表情で杯を掲げてゐた。
みづから率先して賊を討つ。
そんな風に見えた。
そんな風に見えた所以は、おそらく顎がわづかにあがつてゐたからだと思ふ。
以前、飯田で見た曹仁についてもおなじことを書いた。
はじめて見たときはおとなしげに見えた曹仁が、その次の展示のときにはとても猛々しい武将に見えた、その理由は次の展示のときの曹仁の顎があがつてゐたからだらう、と。
顎があがつてゐると、口角のさがつた口元がよく見え、また口が開いてゐて、見るこちらをあふつてゐるかのやうに見える。
さう考へると、ヒカリエや飯田で見た玄徳と、水戸で見た玄徳はおなじ玄徳なのだらう。
おそらく。

玄徳はそんな感じでめづらしく意気揚々としてゐる。
その右側にゐる張飛は景気よく杯を掲げて玄徳に同調してゐるやうに見える。
玄徳の左側の関羽は杯を掲げてはゐるものの思慮深げだ。ほんのすこしではあるけれど、うつむきがちだからかもしれない。

孔明は、最初見たときにちよつとエキゾチックな顔立ちをしてゐるな、と思つた。
目がちがふ。
人形劇の孔明の目は切れ長といふ印象がある。
この孔明の目は切れ長といふよりはちよつと大きいかなあ。
あと茶色い部分が明るいやうに感じた。これは目自体が大きいからさう感じたのかもしれない。
顔の形も顎が少し細いかなあと思つたが、それは襟が抜けてゐるせゐもあらう。
この孔明の襟はかなり抜けてゐる。
といつて、だらしないほどではない。絶妙な抜き加減である。
パネルの孔明を確認したところ、襟元はきつちりしてゐた。
やはり人形によつていろいろ違ふんだなあ。
違ふんだなあといへば、黒くて薄い道服(かな?)の柄が違ふ。
この孔明の柄は菊の花の柄、かな。いろんな形の菊の花が散らしてあるやうに見える。
人形劇のときはちよつと唐草模様の入つたやうな柄だつたやうに思ふ。
単に黒い服だけれども、間近で見るとちよつとした柄の違ひで印象が変はるものなんだなあ。

下の階にある川又書店では、人形劇三国志のグッズが売られてゐた。
三国志関連書籍のフェアも開催されてゐて、親書か文庫を買ふと人形劇三国志のブックカバーをつけてもらへるといふ話だつた。
ブックカバーは四種類といふので四冊持つてレジに行き、「人形劇三国志のカバーをお願ひします」といつたらなにも云はなくても四種類かけてくれた。
写真がそのカバーである。

水戸駅エクセル開業三十周年記念

四種類といふから張飛がゐるのかと思つたら趙雲なのでちよつとびつくりだ。
張飛もほしいねえ。
曹操もいいよねえ。
また、このとき未使用のカバーもいただいてしまつた。
さらに、三国志関連の書籍を買ふと一冊につき一枚横山光輝の「三国志」のホログラム絵はがきをもらへるといふので、二枚いただいてきた。種類はたくさんあつて迷つたが、二枚といふことだつたので曹操と関羽とをもらつてきた。

まつこと盛りだくさんの水戸行きであつた。

Wednesday, 08 April 2015

読点 打つや打たざるや

読点の打ち方にはときどき悩む。

句点は文の最後に打つ。
注釈の丸かつこを文の最後につけ足す場合はチト悩む。
かつこのはじまる前に打つか後に打つか。
大勢はかつこの後に打つ、だらう。

かぎかつこを使つたときは、PCに打ち込む場合はとじかぎかつこの前の句点は打たない。
最近は手で書くときも打たないかな。
原稿用紙を使ふときには打つ。とはいへ、原稿用紙などここ久しく使つたことはないけれど。

クェスチョンマークやエクスクラメーションマークを使つたら句点は打たない。
これくらゐかなあ、句点で気をつけてゐることといふのは。
「モーニング娘。」などはまた別の話である。

句点も読点もわりと新しいものだ。
ちよつと古い手紙の書き方を見ると、手紙には句読点は打たない、といふ指南があつたりする。もしかしたらいまでもさうなのかもしれない。
手書きしてゐると、句点と読点との違ひがわかりづらい場合がある。
でも読んでわかるからいいのだ。
句点と読点とは、その程度の存在だと思つてゐる。

そんな新しいものを取り上げて、さも「これが規則なんですよ」「こんなルールも知らないんですか」などと云はれるのは業腹だ。
せいぜい「我が社ではかうしてゐます」とか「この文書内ではかういふルールにしませう」だらう。

とはいへ、読点。
読点はむづかしいよねえ。

やつがれは読点をよく打つ方だ。
ここのところ注意して無用だと思ふものは省くやうにしてゐるものの、はふつておくとかなり多い。
この「かなり多い」といふのがなにに比べてなのか、といふと、世間一般に比べて、かな。
やつがれの「世間一般」などは狭いものだが、その中でも多い方だと思ふ。

世の中には「読点を打たずにすむのがよい文章」といふ説もある。
至極もつともかと思ふ。
わかりづらい文章を書くものだから読点を打つてごまかすことになる。
またそのごまかし方がどうにもよろしくない。
さういふことなのだらう。

やつがれが読点をよく打つ所以は、柴田錬三郎にある。
柴錬の文章には読点が多い。
それを中学生くらゐのころひたすら読んでゐた。
ゆゑにうつつたのだらうと思つてゐる。
柴錬の文章には一文が短いものも多い。
よくよく見るとページの下の余白が広いことがある。
それでもかつてライトノヴェルの走りの如き本に対して云はれたやうな悪口は聞いたことはない。
内容があるかないかはページの下の余白では決まらないといふことだらう。

最近草森紳一を読んでゐたら、こちらも読点がかなり多いことに気がづいた。
柴錬にしても草森紳一にしても、だからといつて読点がうるさいと感じることはない。
読点が多いことで文意が伝はらないこともない。
読点は少ない方がよいだらうが、多いからといつて必ずしも意味の通じない文章になるとは限らない。
読点は意味の区切りのためだけに打つものではないからだ。
間を示すためにも打つ。
その間が適切なら、打ちすぎなくらゐ打つてゐても問題ないし、むしろ打つてゐることに読んでゐる方は気がつかない。

間としての読点といふと、「なにと比べてかといふと世間一般とだらう」といふ文のどこに打つか、といふ問題がある。
全然打たなくてもいいかな、とも思ふ。
打つとしたら「なにと比べてか、といふと、世間一般と、だらう」かな。
とくに「比べてか」の後で打つか「と」の後で打つかといふのが問題で、やつがれは「比べてか」の後に打ちたい。
その方が自分の間にしつくりくるからだ。
ほんたうは「と」の後にも打ちたいところだが、それだとうるさくなるので打たない。
「世間一般と」の後に打つのは「なにと」との比較なので打つてゐる。

間としての読点もあまり打ちすぎると押しつけがましくなる。
「自分の間、自分のテンポで読ませろよ」と文句のひとつもつけたくなる。

やはり読点はできるだけ打たないに越したことはない。

Tuesday, 07 April 2015

時間のやりくり

The Twirly をつなぐプロジェクトは、42枚つなぐところまで来た。

The Twirlies

いつもの説明である。
The Twirly は、Jon Yusoff のデザインした六角形のタティングレースのモチーフである。風車のやうな形をしてゐる。
この The Twirly をつないでちよつと壊れた大きな六角形にするのが「The Twirly をつなぐプロジェクト」だ。

たたんで持ち歩いてゐるものを広げて撮影したので、よれよれしてゐるのはご愛敬だ。
きちんと整形するのは、できあがつたとき、かな。

49枚つなげば2段めは終はりである。
1段めには21枚、2段めには28枚つなぐ。3段めにも28枚つなぐ。
4段めは28枚で、このあたりからだんだん壊れはじめる予定だ。
いつになるかわからないがな。

現在、家ではくつ下を編んでゐて、職場で昼休みにタティングレースをしてゐる。
ここ三年くらゐはさうしてゐる。
これを逆にする手もあるかな。
家で編める時間は45分くらゐだ。
昼休みに使へる時間は25分あるかどうか。
The Twirly をつなぐプロジェクトも大きくなつてきて、持ち歩くのも大変になつてきた。
ここらで入れ替へてみるのはいいかもしれないなあ。

しかし、移動中にうつかり時間のできたときのためになにかしらタティングレースの道具を持ち歩きたい。

あるでせう、うつかり時間のできるとき、とか。
なんの考へも対策もなしに新線を開通したはいいがそのおかげで名前を聞いたこともないやうな駅での事故のせゐで電車が止まつたり、とかさ。

さういふときに、あみものよりはタティングレースの方が持ち歩きもしやすくて取り出すのも楽である。
あみものはねえ、本邦では電車の中でやつてはいけないことになつてゐるからねえ。
とはいへ、先日走つてゐる電車の中でカッターを使つてゐる人を見かけたときには、「カッターがOKならあみものもOKなのでは」と思つてしまつた。
単に、そのカッターを使つてゐる人が非常識つていふだけなんだけどね。

外でするならタティングレース、なんだよなあ。
持ち歩く荷物の小ささ軽さを考へると、ね。

来月号の「毛糸だま」はブリューゲルレースの特集だといふ。
さうか、かぎ針編みなら棒針編みよりは持ち歩きやすいかなあ。
一時かぎ針編みで鍋敷きを編むのにこつてゐたことがある。
このときはアンカーの50g玉を3個くらゐかばんに入れてゐたこともあつた。
ブリューゲルレースは楽しみだ。
見たところ、表紙にはブリューゲルレースのモチーフをいくつもつなげた作品が掲載されてゐるやうである。

しかし、ブリューゲルレースを編むとしたら、くつ下か The Twirly か、どちらかはやめないと編む時間がとれなくなるな。
むむむ。

睡眠時間を十分とつてさらに編んだり結んだりするのは、やはり無理がある、といふことかな。
前から考へてはゐるのだ。
あみものかタティングレースか紡ぎかいづれかにしなければ時間がなくなるのではないか、と。
あみものだつて、棒針編みかかぎ針編みか、どちらかにしなければならないのではないか、と。
かぎ針編みもねえ、アフガン編みとかあるしねえ。
やりたいことは数々あれど、やれる時間には限りがある。

とりあへず、あみものとタティングレースの時間配分を入れ替へるところからはじめてみる、かなあ。

Monday, 06 April 2015

80目では多過ぎる

A Knitted Sock Society に掲載されてゐる Reginald は、二本めのつま先の減らし目に入つた。今週中には編み終はるだらう。
といふわけで、「毛糸だま 2015年 春号」をぱらぱらと見てみたのだが。
二目ゴム編みで一周80目なんだな、これが。
それつて、多すぎないだらうか。
Reginald は、Mサイズを編んでゐて、一周71目である。
やつがれの脚は人並みはづれて太いが、これで問題はない。
Jaywalker は、バイアスの編み地で、一周76目である。
Twitter では 72目とか呟いてしまつたが、確認してみたら76目だつた。
バイアスになる分編み地が細くなるが、それでも76目だ。
80目は多過ぎるだらう?

よくよく見ると、くるぶしあたりをたるませて履いてゐる写真もある。
むかしなつかしルーズソックスつぽい仕上がりになるのかなあ。
これは編んでみるしかないか。
実際に編んでゐる人の話を探してみるか。Ravelry あたりにゐるんぢやないかな。

80目で多過ぎると思ふなら減らせばいいぢやあないか、といふ話もあらう。
ダッチヒールなら目を減らしてもなんとかなるかな。
と、いま、Heel Turn の部分を熟読して思つた。
それとも80目で編んだらどうなるか確認するためにも編んではみるか。
悩むなあ。

などと書き乍ら、Jaywalker の編み方を見てゐて久しぶりにもう一足編んでみるかなあ、などと思つたりもしてゐる。
Jaywalker はこれまでに二足編んでゐる。
段染めの毛糸で編んでも単色の毛糸で編んでもいい結果が出る。
Jaywalker、いいなあ。

いづれにしても、次に使ふ毛糸を決めてからでないと編み始められない。
それまでに考へるか。

ところで、ここのところ寒暖の差が激しくて、Clapotis が役に立つてゐる。

Clapotis

もう膝掛けはしまつてしまつたので、Clapotis を代はりに使つたりしてゐる。
また、先月、「川本喜八郎 その人と作品」「フィルムで見る川本アニメーション作品鑑賞会」に行つた時には、途中冷えたのでショールとして使用した。

あと、ずつと使つてゐなかつた三角ショールをここのところ使つてゐる。

Hålprick

スウェーデンから届いたニット 2」に掲載されてゐるものだ。
指定糸であるエステルヨートランドの毛糸で編んだもので、編んでゐる最中はそれほどでもなかつたものの、水通ししてみたら編み地がやはらかくなつていい感じだ。
三角部分を手前に持つてきてマフラーとして使つてみた。
それで暑いと思つたら、三角部分を背中に持つてきてもいい。

Clapotis はもう一枚くらゐ編むかなあ。
去年ストックホルムで買つた毛糸で編んでみやうかなあと思つてゐる。
実は途中まで別のものを編んでゐるのだが、ほどくつもりだ。

まあ、それもちよつと涼しくなつてからだけどね。
それまではくつ下を編んで過ごす予定である。

Friday, 03 April 2015

「フィルムで見る川本アニメーション作品鑑賞会」に行く

三月二十八日(土)、国立近代フィルムセンターで開催された「フィルムで見る川本アニメーション作品鑑賞会」に行つてきた。
生誕九十年記念上映といふことで川本喜八郎の人形アニメーションのうち五作を上映するといふ催しだつた。

上映作品は以下のとほりである。

  1. 花折り
  2. 死者の書
  3. 火宅
  4. 蓮如とその母
  5. セルフポートレート

「死者の書」と「蓮如とその母」とのあひだにそれぞれ十分ていどの休憩があつた。
鑑賞耐久マラソンである。
とくに最初から「死者の書」といふところが重たい。
事前に上演プログラムを見た時点で、最初の作品である「花折り」と最後の作品である「死者の書」とを見せたいといふ意図は理解してゐた。
当日の説明でもそのとほりのことを云つてゐた。
一方で開演の挨拶を担当してゐた横田正夫氏の話によると、川本喜八郎自身も体調のあまり思はしくないときなどには「死者の書」を見るのはちよつとしんどい、といふやうなことを云つてゐたのらしい。

俄贔屓の身に取つて、川本喜八郎のアニメーション作品をフィルムで見るのははじめてである。
「花折り」はDVDで見るのと比べるとだいぶ画面が暗い。
照明を下からあててゐると思しき場面がいくつかあつた。
それくらゐ坊主の頭の天辺に影ができてゐるときがある。
また、画面の端つ子などにそこはかとなく暗い部分がある。
この陰影が、いいんだなあ。
最近の画面は明るすぎる。
以前もちらりと書いたやうに、「人形劇三国志」も人形に濃い影が落ちることがある。そこがいい。
影が濃くなつてしまふ理由には、当時の技術的限界もあつたのかもしれない。
さうだとしても、なにもかもくまなく明るい昨今の画面より、こちらの方がすつと好ましい。

「死者の書」以降は、「花折り」のやうな暗さは感じなかつた。
でも、陰翳のうつくしさはある。
「死者の書」はフィルムで見てもどの場面もどこもかしこもうつくしくて、なるほど、体調があまりよくないときにはちよつとつらいかもしれない。
去年八月、飯田市川本喜八郎人形美術館で「死者の書」を見る機会があつた。
大きな画面で見る「死者の書」は圧巻だつた。
このとき、美術館の人形アニメーションの展示には「死者の書」からのものもあつて、展示替へ直後や「死者の書」の前に見て堪能してゐた。
大画面で「死者の書」を見たあと、その印象はがらりと変はつてしまつた。
展示室に戻つて、郎女や語り部の嫗等を見ると違和感がある。
さつきまで、生きて動いてゐたのに、なぜ止まつたままでゐるのだらう。
あんなに生き生きと喋つてゐたのに、なぜ黙つたままなのか。
結局、そのときは人形アニメーションの展示はほとんど見ずに帰つてしまつた。
このときにも「死者の書」は見る側に集中を要求する作品である、と書いた。
今回も見たあと立ち上がるのがちよつと大変だつたほどだ。

「火宅」はナレーションが入り、当日配られた資料にあるとほりこれまでの作品にあつた左右の動きに加へて前後(画面手前と奥)の動きが取り入れられた作品だ。
それで今回選ばれたのだらう。
それまでの人形アニメーション作品には、耳から入つてくるとことばが極めて少ない。
「花折り」の般若心経も、ことばといふより効果音に近い。
そして、「火宅」のナレーションも、効果音のやうに感じられることがある。
観世銕之丞の声が、風を思はせるやうな声だからだ。
最後、「火宅」についての説明が理屈つぽいが、これは「鬼」の最後の説明文もさうだつたので、さういふものなのだらう。
「死者の書」にも、説明くさいせりふがないぢやないが、あれだけの長さがあることを考へると、ほとんどないといつてもいい。
その説明のなさが「死者の書」のよさでもあり、体力のないときに見るのはつらいところでもある。

それに比べると「蓮如とその母」はわかりやすい。
わかりやすい話の流れがあるからだ。
また、せりふが多いのもいいのかもしれない。
93分の作品だといふが、その長さを感じさせないのは、わかりやすいからだらう。

冒頭、人形やそのカシラ、小道具などが雑然とした机の上から蓮如を取り上げて映画がはじまるあたりの演出がおもしろい。
取り上げられた蓮如は紙の前に正座して、筆を持つ。この筆に硯から墨をつける所作が実に真に迫つてゐる。
紙には「蓮如とその母」と書いた、といふ風に解釈できる。

いま飯田市川本喜八郎人形美術館の人形アニメーションの展示は「蓮如とその母」である。
飯田にゐる蓮如は眉間の皺が深くて憂ひ顔だ。
眉間の皺は深いカシラとさうでもないカシラとがあるのらしい。

人形の中では法住がおもしろかつた。
堅田衆の総元締で、肝の据わつた大親分といつた人物だ。
破顔したカシラもあつて、豪快な笑ひ方がいい。
この法住、衣装持ちでもあつて、どの衣装も似合つてゐるし洒落てもゐる。
センスがいいつてかういふことなのだらう。

「蓮如とその母」には画面いつぱいに人形たちが出てくる場面が多々ある。
それぞれ動くのが圧巻だ。
僧兵のやうに元気に動くものもあれば、叡山の僧たちのやうにしづかに動くものもある。
モブの力に圧倒される。

さうさう、おてつとおきょう、ね。
黒柳徹子と岸田今日子それぞれのそつくり人形で、本人が声をあててゐると聞いてゐたが、元気なおてつにおつとりしたおきょうといふのがまたそのものな感じでよい。
蓮如の講座におてつがおきょうを誘ひにくる場面には、飯田で見て想像したとほりだと思はず微笑んでしまつた。

上映中、鼻をすするやうな音が聞こえてきてゐた。
上映後には拍手もあつた。
「死者の書」のあと拍手をするんだつたな、と、ちらつと思つた。

各休憩の前には、川本喜八郎に縁のある人々の話もあつた。
「死者の書」のあとには、「花折り」や「死者の書」でアニメーターをつとめた及川功一氏。
「蓮如とその母」のあとには、アニメーション研究家のおかだえみこ氏。
「セルフポートレート」の前にはアニメーターの内藤楊子氏。
及川氏と内藤氏とのときは、細川晋氏が聞き手となつた。
時間が短かつたのが惜しまれる。

「セルフポートレート」を大画面で見るのははじめてだつた。
瀬川瑛子の「命くれない」の流れる中、粘土細工の川本喜八郎が粘土で人形を作るうち、人形が鬼になつて川本喜八郎を鬼にしたり、どちらが主でどちらが従かわからなくなる、といつた感じの楽しい作品だ。
楽しい作品ながらも、「命は紅」と思つてゐたのかなあ、などと思ひながら見た。

実行委員会からの挨拶といふことで、山村浩二氏がこんな話をした。
先日「川本喜八郎 その人と作品」といふ講演もあつたやうに、川本喜八郎の研究はいろいろと行はれてゐる。
でも、まだ手つかずのところもある。
たとへば、なぜかういふ作品を作るやうになつたのか、といふ点だ。
えー、そこは一番知りたいところでせう。
ますます研究の栄えんことを祈るばかりである。

最後に、川本プロダクションの福迫福義社長から閉会の挨拶があつた。
人形劇に関する催しも行ひたいとのことだつた。
実現しますやうに。

Thursday, 02 April 2015

その後のトラベラーズノート

トラベラーズノート ブルー・エディションを使ひはじめて一週間がたつ。
ここまで使つてきていいと思ふところとさうでもないところについて書く。

ノートは、セクションパンナムウィングロゴを使つてゐる。
5mm方眼で、案外使ひやすい。
方眼ノートは、マスの中に字がおさまらないゆゑに苦手だつた。
ほぼ日手帳も、もうちよつとマス目が大きいといいんだけどなあ。あるいはもうちよつと小さくして二行で一字おさまるくらゐだといい。
5mm方眼だと、やつがれの字ならおさまるやうだ。
太字だとさすがに無理だが、中字くらゐなら問題ない。
一マスに一字を入れやうとは思つてゐない。
横書きなら縦、縦書きなら横に一字おさまればいい。
ただし、あとで読み返すときには行間がもうちよつとほしいかなあとは思ふ。
ここは工夫のしどころだ。

書き込むときは萬年筆を使つてゐる。
これもいまのところにぢんだり裏に抜けたりといふことはない。
線は細めに出るやうに思ふ。
使用したインキはこんな感じ。とくにことはりのないものはインク瓶である。

プラチナのブルーブラック インク瓶のとカートリッジと両方。
デルタのブルー。
ウォーターマンのブルーブラック。
セーラーの青墨。
セーラーのスカイハイ。
モンブランのロイヤルブルー。
パイロット色彩雫の紫陽花。
プライヴェートリザーヴのアヴォカド。
ナガサワのフェルメールブルー。
ナガサワのゴッホコバルト。

これくらゐ使へればいいんぢやないかなあ。

トラベラーズノートのいいところは、A4の紙をはさめる、といふところだらう。
先日、国立近代フィルムセンターで開催された「フィルムで見る川本アニメーション作品鑑賞会」に行つてきた。
このとき配られた資料を、このとき書いたメモのページにはりつけてみた。
これまでかうした資料はA4サイズのクリアファイルにはさんでおくか、トラベラーズノートのクラフト紙のノートにはりつけてゐた。
使つてゐる手帳が Moleskine のポケットサイズだつたり Smythson の Panama だつたりして、A4の紙をはりつけるやうな大きさがなかつたからである。
メモと一緒に資料をはりつけられるといふのはいい。
資料が散逸しない。
はりつけるのだつたら資料にそのままメモ書きしてもいい。
いままでは芝居や映画の半券もクラフト紙のノートにはりつけてゐたけれど、これも一緒にはりつけてもいい。
これまでにない使ひ方ができさうだ。

ただ、いろいろはりつけてノートがふくらんでしまふのは本意ではない。
ノートには文を書き付けたい。
それがやつがれにとつての第一義である。
あれこれはりつけてふくらんで、メモがとりづらくなつてしまつては意味がない。
これはもうちよつと使つてみてやうすを見るつもりだ。

また、大きいせゐか取り出す機会が減つてゐるやうに感じる。
大きいといふことは、書き込むときにこれまでよりも広いスペースが必要だ。
自宅でも職場でも、それほど机のスペースは広くない。
それであまり取り出さないやうになつてゐるのだらう。

歌舞伎座の幕間などに座席に座つた状態でメモを取るのもちよつと考へてしまふかなあ。
歌舞伎座ではまだ試してゐないが、国立近代フィルムセンターではとくに問題なくメモを取ることができたので、この点はそれほど心配してはゐない。今度歌舞伎座でも試してみるつもりである。

あともうひとつ困つてゐるのは、このノートがうまくおさまらないかばんがあることだ。
ル・ボナーのコンフェッティにはちよつと大きすぎる気がしてゐる。
そのほかのカバンだつたら大丈夫だと思ふんだけれどもねえ。
ここもちよつと思案のしどころだ。

総じて、トラベラーズノートはいいノートだと思つてゐる。
大きさはA4の紙をはさめるといふ利点も生む。
机のスペースは作ればいい。
ペンを選ばなくていいといふのはいいところだしね。

Wednesday, 01 April 2015

年度も改まつたことではあるし

今月から、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーには毎日、長野県は飯田市川本喜八郎人形美術館には月に二回は行くことにしたい。

ヒカリエのギャラリーは、今月十四日から二十三日まで休館する。
展示替へのためだ。
十四日になつたら、もう、いまゐる義経には会へない。
駒王丸姿の義仲にも、馬上の義仲にも会へない。
その馬上の義仲を見据ゑる心の頼朝にも、だ。
天上人の憂ひとそこはかとない冷たさを思はせる表情の以仁王も然り。
そのとなりでどこか達観してゐるやうな頼政にも。

……と書いていくと、全員書くことになつてしまふな。
来館一番にこちらを驚かせてくれる親雅とか、ダンディな妹尾とか、「あんたらそんなことしてゐる場合かよ」な資盛と右京太夫とか。
この資盛の左奥にある翡翠(だらう)の香炉がまたよくてね。

いや、だから、最初から全員書くつもりはないんだつてば。
ここには書かないけれど、おそらく自分の手帳には書くのだらう。
展示替へ直後に書いてはゐるけれどね。
手帳をぱつと開くと、「ああ、ここにはギャラリーか美術館で見てきたことが書いてある」とすぐにわかる調子で、ね。

「二人義経」とか、いいよね。
あらためて見ると、左右の時忠と新宮十郎が中央をにらんでるあたりとかが、またいい。
両者で趣が違ふあたりもね。
時忠はどこか余裕の表情を浮かべてゐるやうに見えるけれど、行家はもつと悪いこと考へてさうな表情でゐるところとかね。
時忠は、おそらくは義経を見てゐる心なのだらう。己が娘夕花が義経を助けやうとしてゐることも、なんとなく察してゐるのかもしれない。ちよつと楽しげな表情なんだよね、時忠。
行家も、たぶん見込んでゐるのは義経で、でも息子の行宗を見てゐるやうでもある。
まあでも、このケースの主役は夕花と義経でせう。
以前も書いた。
義経の、白い脚に赤い鼻緒の女物の下駄といふ取り合はせがなんともエロティックである、と。
その前に脱いだ草鞋があつて、その履きつぶされたやうすが真に迫ってゐるのもいい。
隣でしりもちをついてゐる偽・義経の行宗の草鞋との対比がまたいい。行宗の草鞋は新しい。履きつぶす必要もないのだらう。

書きはじめると書いてしまふ。
業である。

渋谷に毎日通へるのか、といふ懸念はある。
行くだけなら行けても、ギャラリーの開館時間中に行くのは無理なんぢやあるまいか。
でもそれならギャラリーの外のケースにゐる義高と大姫とに会つて帰ればいいか。
義高が凛々しくてねえ、といふ話はここでも何度か書いてゐる。
この二人を見てゐると、なんとも切ない心持ちになつてくる。
いいなあ。

飯田の美術館も、できれば毎日、と書きたいところだし、せめて週に一度と書きたいところだが、それはちよつと無理かな。
月に二回もむづかしさうだ。

飯田に行くときは、新宿から高速バスで行く。
ところが最近、高速バスで行くのと千円も変はらないくらゐの運賃で飯田に行く方法があることに気がついた。
これは試してみる価値があるのぢやあるまいか。
途中までは通勤通学時間帯なので込み合ふだらうが、途中からは通勤の流れとは反対方向に向かふことになるので、そんなに大混雑といふことにはならないと思はれる。
特急は使はないのでそれなりの時間はかかるし、場合によつては途中乗り継ぎで三十分以上待たされるやうだけれども、それもまたよし、だらう。
あとは電車に乗つてゐるだけで疲れきつてしまふのではなからうかといふ心配もあるけれど、バスで渋滞に巻きこまれていつ着くかもわからない状況よりはいいのではあるまいか。

そんなわけで、この経路は一度試してみやうと思つてゐる。

三月は、なんだかんだで「川本喜八郎月間」であつた。
六日七日と飯田に行つたのを皮切りに、八日に渋谷区防災センターの「芝居の中の三国志」に行つたところ、月末に国立近代フィルムセンターで「フィルムで見る川本アニメーション作品鑑賞会」があることを知つた。
行くでせう、さうしたら。
十日には東京藝術大学で「川本喜八郎 その人と作品」といふ講演会があつた。
鑑賞会の日には水戸に行くつもりでゐたが、これは見送つた。でもまだ水戸行きをあきらめたわけではないがな。

先月は歌舞伎座で「菅丞相月間」でもあつて、「道明寺」にあはせて体力を温存してゐたつもりだつたけれど、それもなかなかむづかしいことになつてしまつた。
それだけ充実してゐた。

この勢ひで今月は、とりあへず展示替へ期間に入るまでは渋谷に通ひ、飯田にも月に二回は行きたいと思つてゐる。

四月一日の誓ひである。

2015年3月の読書メーター

2015年3月の読書メーター
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2788ページ
ナイス数:12ナイス

泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部 (文春文庫)泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部 (文春文庫)感想
雨を降らした于吉仙人を殺した孫策も、風を吹かせた孔明を殺さうとした周瑜も早死にしてしまふ。天候を操る人間に手を出してはいけない、といふ話ではなくて、赤壁の戦ひが終るあたりから段々おふざけが減つていくのは、赤壁の戦ひまではおとぎ話で、その先は歴史、といふ話……ではないとは思ひつつ、でもその後の展開を考へてもやはりさうなのだらうかなどと考へてしまつた。
読了日:3月1日 著者:酒見賢一
孤高の守護神 ゴールキーパー進化論孤高の守護神 ゴールキーパー進化論感想
まつたく知らない選手が後から後から出てくるにも関はらずおもしろい。「こんな選手がゐたんだ」といふのを知るのもおもしろいし、最後の方のPKをめぐる攻防あたりは個々の選手にこだはらなくても大変に興味深い。原題の「The Outsider」を「孤高の守護神」と訳したあたりがもしかすると本邦のGKのとらへ方なのかもしれないなあ。ちなみにサッカーはよく知らない。
読了日:3月2日 著者:ジョナサンウィルソン
The Valley of FearThe Valley of Fear感想
やはり「なぜ」の部分は読んでゐてつらかつた。楽しくないのだ。もう途中でやめちやはうかなとも思つた。個人的な資質なので仕方がない。「なぜ」の部分がない「バスカヴィル家の犬」が楽しかつたのもうなづける。
読了日:3月10日 著者:SirArthurConanDoyle
世説新語5 (東洋文庫)世説新語5 (東洋文庫)感想
全篇通じて、出てくる人出てくる人みんな知り合ひのやうな気分になつてくる。この後はあちこち拾ひ読みしながら関連するところを読む、といふ風にするつもり。
読了日:3月13日 著者:劉義慶,井波律子
陋巷に在り4―徒の巻―(新潮文庫)陋巷に在り4―徒の巻―(新潮文庫)感想
ある人のあづかり知らぬところであることが起こつてそれがまた別のある人のあづかり知らぬところで事件を生んでいく。みたやうな。
読了日:3月14日 著者:酒見賢一
The Return of Sherlock Holmes (Illustrated)The Return of Sherlock Holmes (Illustrated)感想
ホームズ読み直しプロジェクトも順調にここまできた。なんだかんだいつて面白いからだらう。「踊る人形」は「暗号ものは原書で読まないといかん」と思ひ込むに至つた作品だ。懐かしい。
読了日:3月23日 著者:SirArthurConanDoyle
李白詩選 (岩波文庫)李白詩選 (岩波文庫)感想
久しぶりに通読した。字の選び方がいい。ぱつと見たときに漢字の並びにぐつと来る。
読了日:3月25日 著者:
そうだったのか現代思想 ニーチェからフーコーまで (講談社+α文庫)そうだったのか現代思想 ニーチェからフーコーまで (講談社+α文庫)感想
ほかの方のレヴューにある通り講義を起こしたものなので「おそらくここには板書か資料か何かがあつたのだらう」と思はれるやうな話の飛び方をすることがある。最近また映画やTVドラマなどのリメイクの話をよく聞くので、そのあたりのことは「そーだつたのか」と思つたけれど、全体的には残念乍らよくわかつたとはいへない。情けない。
読了日:3月30日 著者:小阪修平

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