「芝居の中の三国志」を聞いて来た
三月八日日曜日、「芝居の中の三国志」といふ講演を聞いて来た。
ところは渋谷ヒカリエにある渋谷区防災センター会議室。
講師は明治大学の加藤徹教授。
講演の内容は、「芝居の中の三国志」といふよりは「2.5次元の三国志」といふ感じだつた。
結論は、「三国志演義は物語としてとてもよくできてゐる」で、「ゆゑになんでもありだ」といつたところか。
「2.5次元」といふことばは、不勉強にしてはじめて知つた。
「次元」といふと、0次元は点、1次元が線、2次元が面で3次元が立体、4次元は立体に時間が加はつたもの、といつたところだ。
物語といふかエンターテインメント作品といふか、さうしたものをこの次元にあてはめると、以下のやうな感じになる。これは、講演時に配られた資料を元に、講演で得た情報を付け足したものである。
- 0次元
- 禅の悟りなど
- 1次元
- ことばのみで成り立つてゐるもの
小説、朗読劇など - 2次元
- 平面に描かれたもの
絵画、映画、まんが、動画など - 3次元
- 実際に手に触れることのできるもの
史跡、彫刻、茶道など - 4次元
- 電波系
かうわけると、この次元の区分のなかにすつきりおさまらないものもある。
たとへば、書だ。
書はことばのみで成るものだが(絵がついてゐる場合もあるけれど)、紙の上に書いたものである。
これは1.5次元なのださうだ。
そして、舞台演劇などは2.5次元だといふ。
実際に人間が演じてゐて、触れることもできるが、しかしそれは虚構の世界であるから2.5次元なのだらう。
講演中一番しつくりきたのは、「ある俳優の演じるナントカといふ役を見に行く、といふ、これが2.5次元です」といふ説明だ。
たとへば、「勧進帳」を見に行く場合、「勧進帳」といふ芝居そのものを見に行くといふ向きもあらう。でも、大半は「ナントカ屋さんの弁慶が楽しみで」見に行くのではあるまいか。
人形浄瑠璃もさうだ。
講師は、人形劇については「人形遣ひは表に出てはならないものだから」2.5次元、といふやうなことを云ふてゐた。
だつたら出遣ひとかはどうなるんだらう、と思つたが、なに、「ナントカといふ人形遣ひの八重垣姫を見に行く」と思へば2.5次元である。
2.5次元といふのは、もともとはコスプレなどを指して云ふたものだといふ。
コスプレは、その衣装を身に着けてゐるときだけのことだ。
衣装を脱ぎ化粧を落としたら終はる。
さういふのが2.5次元だらう。
なんだか、はかない。
0次元はともかくとして、三国志は、どの次元でもうまく展開できる物語であるといふ。
それは、さういふ風に作られてゐるからだ、と。
ひとつには、登場人物が多彩であることがあげられる。
これも講演の時に配られた資料に書いてあつたことだが、登場人物の分類として、性格面には知の人、情の人、意の人といふ三つの分類があり、ふるまひの面には雅の人、雅俗共賞の人、俗の人といふのがあるのださうだ。
意の人といふのは、不言実行の人みたやうな感じださうである。
雅俗共賞の人といふのは、雅でもあり俗でもある人、といつたところか。
横軸に性格面、縦軸にふるまひの面をとると九種類の枠ができる。
三国志の場合、「雅の人」かつ「知の人」が孔明、「雅俗共賞の人」かつ「知の人」が玄徳、「俗の人」かつ「情の人」が張飛、といふやうにできてゐる。
講師によると、こと物語といふことに関しては、日本は中国よりもずつと昔からすばらしい作品を生み出しのこしてきた、といふ。
でも、「源氏物語」だとか「平家物語」だとかの登場人物でこの分類を行ふと、偏りができる、のらしい。
ふたつには、魅力的な悪役がゐることがあげられる。
曹操。
曹操だよなあ。
董卓とかもさうだらうけど、やはりここは曹操だらう。
うんうん、わかるわかる。
で、「源氏物語」とか「平家物語」とかに曹操に匹敵するやうな魅力的な悪役がゐるか、といふと……
うーん、「源氏物語」はともかく「平家物語」つてどうなの? 清盛つて悪役なの?
といふわけで、多彩な登場人物を持ち、さらには魅力的な悪役もゐる三国志は、如何なる次元にもぴつたりとおさまりうる物語なのだ、といふのである。
個々の登場人物の役割分担がきちんとしてゐるから、ビジネス書などにもひつぱりだこだ、といふ話もあつた。
京劇の話ももちろんあつたのだが、本邦における吉川英治や横山光輝の作品、またアニメやゲームへと展開された作品の話まであるとは、予想外だつた。
講師の先生もお好きなんだらうと思ふ。
講演中も鉄人28号からエヴァンゲリオン、AKB48や「ミュージカルテニスの王子様」とさまざまな例をあげてゐたし。
若い大学生相手だから最新の話もご存じなのだらうといふ向きもあるかもしれないが、やはり好きでないとなかなかああはいかないだらう。
そんなわけで、ゲームの話は「恋姫夢想」にまで進んだりして、客席にはご年配の方もかなりいらしたのに、どこまで通じてゐたのかのう、と僭越乍らチト不安になつたりもした。
でもまあ、話の流れからいくと、「恋姫夢想」も当然あり、といふことになる。
これまで女体化された三国志ものについては関羽の髯をどう表現するのか、といふのが個人的にはとても気になつてゐた。
髯。
ムリでせう、女の子では。
だからといつて髪の毛が長いといふことにしてしまふと、他の子がショートカットになつてしまふ。それはないなー。
あるいは、「うれしはづかし昭和の日本語((C)月亭可朝)」にするかといふと、それも他の子たちをどうするのよ、といふ話になる。
そこで、アホ毛ですよ。
美アホ毛公。
女の子だから、美アホ毛嬢か。
「猶未及アホ毛之絶倫逸群也」とか書くわけですよ、孔明が。
どうでせうか。
てなところで、講演がどのやうな感じだつたのかおわかりいただけると幸ひである。
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