ことばの誤用の記憶
ことばを覚えるときは使用例とともに覚えるものだと思ふ。
なのになぜ誤用が発生するのだらう。
こどもの頃、「わざと」といふことばの意味を反対に覚えてゐた。
幼稚園の年長くらゐのことだと思ふ。
近所の同い年の子と遊んでゐて、「わざとやつたか否か」で口論になつた。
やつがれは当然意図してやつたわけではなかつたので、「わざとやつた」と云つた。
近所の子は「わざとやつたんぢやん」と、これまた当然こちらを責める。
結局、けんか別れすることになつて、家に帰り着くと、母がこのやりとりを聞いてゐた。
おそらく夏のことで窓を開けてゐたのだらう。
母はやつがれに「わざと」のことばの意味を教へたのだつた。
もうひとつ、これは「わざと」よりもさらに前のことである。
やつがれは「うらめしや」のことを「うらしめや」と云つてゐた。
祖父母の家で会ふ四つとか八つとか上の従兄弟から、「きみの幽霊は全然怖くない」と笑はれて納得がいかなかつた。
だつて「裏飯屋」つて、をかしいぢやんよ。
「わざと」の語用の理由はわからないが、「うらしめや」はわかる。
ことばを覚える順番が違つたのだ。
「恨めしい」といふことばを先に知つてゐたら、ちやんと「うらめしや」と云へただらう。
「恨めしい」といふことばを知らずに、「裏」「飯屋」といふものを知つてゐる状態で「うらめしや」といふことばを知つてしまつた。
ゆゑに、幽霊といふ存在が「裏飯屋」などと口にするわけがない、と考へるに至つた、といふわけだ。
「わざと」は、これは推測だが、おそらく本から覚えた用法だつたのだらう。
母の口から覚えたのなら、意味を取り違へることはなかつたはずだ。
母は少なくともやつがれの勘違ひを指摘できたのだから。
本で「わざと」といふことばを覚えて、そこに出てゐた用例がやつがれの考へる「意図的に」行ふやうなことではなかつたのではあるまいか。
本でなければニュースとかなんとか、就学前のこどもには理解し難いものから覚えたのではあるまいか。
おほざつぱにまとめると、「わざと」も「うらしめや」も、不十分な知識しかない状態で覚えた結果、誤用に至つた、といへる。
世の中のすべてのことばの誤用がさうやつて生じるとは思へない。
でも、たとへば漢籍由来の誤用などはこの例に入るのぢやあるまいか。
漢籍にあまり親しんでゐない人が「すべからく」を正しく使へるとは思へないからだ。
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