シャーロック・ホームズ 再読と再見
先月の最終回の後、「パペットエンターテインメント シャーロックホームズ(以下、「人形劇の「シャーロックホームズ」」)の再放送がはじまつた。放送時間帯は本放送のときとおなじである。
録画予約を解除してゐないので、録画機はあひかはらず勝手に録画しつづけてゐる。
録画を見たりときにはTVで放映されてゐるのを見たりする。
すると、なぜだか切ない。
「切ない」を辞書で引くと「胸がしめつけられるやうな気持ち」とある。
まさにそんな感じだ。
人形劇の「シャーロックホームズ」を見るやうになつて、原作を読み返しはじめた。
順番はバラバラながら、「緋色の研究」「シャーロック・ホームズの冒険(以下、「冒険」)」「四つの署名」「バスカーヴィル家の犬」「シャーロックホームズの思ひ出」「恐怖の谷」「シャーロック・ホームズの帰還」と読んで来た。
そのうち「最後の挨拶」と「シャーロック・ホームズの事件簿」も読むつもりでゐる。
ホームズものを読むのは何年ぶりだらう。
最後に読んだのはたぶん「冒険」で、ハヤカワ文庫だつたやうに思ふ。
それもずいぶんと昔の話だ。
「緋色の研究」や「四つの署名」なんかは一度読んだきりで、「バスカーヴィル家の犬」は映画だかTV番組だかの記憶が入りまじつてゐる。
その他の作品についても「……こんなだつたつけかー」といふものもある。
しかし、いづれにしてもおもしろい。
あー、まー、「バスカーヴィル家の犬」以外の長篇については、「なぜ犯罪に至つたのか」の部分が長すぎて退屈、と思つたりもしたが、そこはそれ、やつがれの性格に起因するところなので仕方がない。
でも、話の内容を忘れてゐればもちろんのこと、覚えてゐれば覚えてゐるなりに楽しく読める。
「踊る人形」は、これを読んで「暗号ものは原書で読まねば!」と思ふやうになつたんだよなあ。
そんなわけで苦労して「ダ・ヴィンチ・コード」とかも読んだよなあ。
そんなことを思ひ出したりもする。
はじめてホームズものを読んだのは小学生のときだつた。
親に買つてもらつた「まだらの紐」といふ題名の本や、学級文庫で読んだ本を、その本に載つてゐた作品を読みながら懐かしく思ひ出す。
あのころは同級生で競ふやうに読んでゐたりしたよねえ。
いまはなにもかも懐かしい。
そんな風に sentimental な気分になりながらも、なぜか「切ない」といふ思ひはない。
人形劇の「シャーロックホームズ」はあんなに見てゐて切ないのになあ。
やつがれはシャーロキアンではない。
そこが原作を読んでゐてもとくに心揺さぶられない理由かな。
つまり、「好き」の度合ひが人形劇と原作とで違ふ、といふことだ。
人形劇の「シャーロックホームズ」については、文句もないわけぢやない。
とくに、最後、教育論をぶちかましたりとか、モリアーティ教頭を「ちいさい存在」に「貶めた」あたりに納得いかない。
だつて、「シャーロック・ホームズで教育論?」つて思ふでせう。
そんな大上段に構へた無粋な話を持ち込まないでほしいよ。
モリアーティ教頭に関しては、秩序だつた学校の実現、まではいい。
でもそれを実現するにあたつて、現在の校長を追ひ落として自分が校長にならうといふ腹が気にくはない。
モリアーティ教頭だつたら、自分が校長になつて表に立たなくても、みづからの目指すところを実現させるに違ひない。
それでこその「巨悪」だらうに。
人形劇のモリアーティ教頭は別段「悪」ではないから、「巨悪」は変か。
みづからは表に出ずに暗躍する、さういふ方が得体がしれなくて大きいのになあ。
さう思つてしまふ。
さうは思ひつつも、なんだかんだいつて、人形劇の「シャーロックホームズ」は好きなんだな。
以前も何度か書いたやうに、人形に罪はない。
脚本がどんなにをかしからうが、演出に問題があらうが、それは人形のせゐではないのだ。
そして、人形劇はそんな人形の魅力に助けられてゐる。
そんな気がする。
原作を読み返してゐて、はからずも人形劇の「シャーロックホームズ」に対する思ひに気づくはめになつてしまつた。
続篇? もちろん待ち望んでをりますとも。
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