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Tuesday, 31 March 2015

タティングレースらしくない

タティングレースでほかの人はどのやうなものを作つてゐるのだらうか。

やつがれはといふと、相変はらず The Twirly をつなぐプロジェクト続行中である。
いつもの説明をしておく。
The Twirly は Jon Yusoff のデザインした六角形のモチーフである。風車に似た形をしてゐる。
これをたくさんつないで、最終的にはちよつと壊れた大きな六角形にするつもりでゐる。

で、毎日昼休みの空いた時間にせつせと結んでゐるわけだが。
つながつていくモチーフを見てゐても、なにかが違ふ気がするのである。
なにかとはなにか。
自分でもよくわからない。

つらつら考へてみるに、普通の人はタティングレースでこんなものは作らないのぢやあるまいか、といふ結論に至つた。

もちろん、世の中にはタティングレースのモチーフをつないで大きなものを作る人はたくさんゐる。
ストールとかね、ショールとかね。
本などにはテーブルカヴァやベッドカヴァが載つてゐたりもする。
載つてゐるといふことは作つた人がゐるといふことだらう。

しかし、他人の作つた巨大なものを見て、自分が現在作りつつある巨大(になる予定)なものを見ると、なんとなく違ふのである。

たぶん、The Twirly は、つなぐことを前提に作られてゐないのだ。
そんな気がする。

レースにはレースらしい外見といふものがある。
また、個々のレースにはそれぞれの「らしい」外見といふものがある。
「タティングレース」でWeb検索をかけると、タティングの作品の画像がたくさん出てくると思ふ。
これのいづれもとてもタティングレースらしい。

しかるに、やつがれの The Twirly をつなぐプロジェクトでできあがりつつあるものは、自分の中で「これがタティング作品だ!」と思ふものとはそこはかとなく違ふのである。
それで、「The Twirly はつなぐことを前提に作られたモチーフではないのかもしれない」と思ふに至つたわけだ。

つなぐことが前提になつてゐやうがゐまいが、つなげられることは確かである。
つないではいけない、といふ法もない。

いづれにせよ、できあがつてみないとどうなるかはよくわからない。
まづは予定どほり、つなげるだけつなげてみるつもりでゐる。
その結果、タティングレースらしくないものができあがつても、まあそこはそれ、かな。

Monday, 30 March 2015

編み図を読む

あひかはらずくつ下を編んでゐる。
やつがれとしたことが、まだ片方編み終へてゐない。
もうつま先の減らし目には入つたので、今日明日中にはもう片方のくつ下に入れるのではあるまいか。

現在、A Knitted Sock Society といふ本の表紙にもなつてゐる Reginald といふくつ下を編んでゐる。
ねぢり一目ゴム編みと増やし目と減らし目とで作る縄編み模様のくつ下だ。

前回、模様部分の編み方を覚えてゐないので本を見ながら編んでゐる、と書いたが、覚えられたね、どーも。
先週の時点では「もうこれ、覚えられないよ」と思つてゐたんだけどな。

覚えられないよ、と思つた所以は、規則が覚えられなかつたからである。
あみものの模様編みにはほぼなにかしら規則性がある。
ここで減らしてここで増やすからかういふ模様になるつていふかね。
いや、かういふ模様にしたいから、ここで減らしてここで増やす、といふ方が正しいだらうか。

今回は、模様部分を二回くり返した時点では模様と編み方とのつながりを理解できてゐなかつたんだな。
情けない話である。

それが、三回目のくり返しに入るくらゐのときに「さうだつたのか」といふひらめきがあつた。
それ以降は編み方を見なくても編めるやうになつた。

感覚としては、「編み図を覚えた」といふよりは、「編み方を理解した」といふ方が正しい。
理解したので、覚えられた。
そんな感じかな。

ふしぎなもので、編み図を覚えると、といふよりは、編み方を理解すると、きれいに模様を編めるやうになる。
単に手が慣れただけといふ気もするけれど、編み方を理解したあとの方が編み目は断然きれいになる。
本のとほりに編んでゐるだけぢやだめなんだな。

編みはじめる前に編み図や編み方にはひととほり目を通せ、といふ話はもちろんある。
それをやらずに編みはじめて、あとで「at the same time」とかにやられた、と思ふこと一度ならず。
でもまあ、かうしてやつて自分で納得しないとなかなかできないものなんだよなあ。

それにしてもこの Reginald といふくつ下は編んでゐて楽しい。
いいくつ下を選んだと思つてゐる。

Friday, 27 March 2015

ことばの誤用の記憶

ことばを覚えるときは使用例とともに覚えるものだと思ふ。
なのになぜ誤用が発生するのだらう。

こどもの頃、「わざと」といふことばの意味を反対に覚えてゐた。
幼稚園の年長くらゐのことだと思ふ。
近所の同い年の子と遊んでゐて、「わざとやつたか否か」で口論になつた。
やつがれは当然意図してやつたわけではなかつたので、「わざとやつた」と云つた。
近所の子は「わざとやつたんぢやん」と、これまた当然こちらを責める。
結局、けんか別れすることになつて、家に帰り着くと、母がこのやりとりを聞いてゐた。
おそらく夏のことで窓を開けてゐたのだらう。
母はやつがれに「わざと」のことばの意味を教へたのだつた。

もうひとつ、これは「わざと」よりもさらに前のことである。
やつがれは「うらめしや」のことを「うらしめや」と云つてゐた。
祖父母の家で会ふ四つとか八つとか上の従兄弟から、「きみの幽霊は全然怖くない」と笑はれて納得がいかなかつた。
だつて「裏飯屋」つて、をかしいぢやんよ。

「わざと」の語用の理由はわからないが、「うらしめや」はわかる。
ことばを覚える順番が違つたのだ。
「恨めしい」といふことばを先に知つてゐたら、ちやんと「うらめしや」と云へただらう。
「恨めしい」といふことばを知らずに、「裏」「飯屋」といふものを知つてゐる状態で「うらめしや」といふことばを知つてしまつた。
ゆゑに、幽霊といふ存在が「裏飯屋」などと口にするわけがない、と考へるに至つた、といふわけだ。

「わざと」は、これは推測だが、おそらく本から覚えた用法だつたのだらう。
母の口から覚えたのなら、意味を取り違へることはなかつたはずだ。
母は少なくともやつがれの勘違ひを指摘できたのだから。
本で「わざと」といふことばを覚えて、そこに出てゐた用例がやつがれの考へる「意図的に」行ふやうなことではなかつたのではあるまいか。
本でなければニュースとかなんとか、就学前のこどもには理解し難いものから覚えたのではあるまいか。

おほざつぱにまとめると、「わざと」も「うらしめや」も、不十分な知識しかない状態で覚えた結果、誤用に至つた、といへる。
世の中のすべてのことばの誤用がさうやつて生じるとは思へない。
でも、たとへば漢籍由来の誤用などはこの例に入るのぢやあるまいか。
漢籍にあまり親しんでゐない人が「すべからく」を正しく使へるとは思へないからだ。

Thursday, 26 March 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館 あらためてギャラリー中央

三月六日、七日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つて来た。
今回の展示再訪である。
今日は、ギャラリー中央について書く。

今回の展示ではギャラリー中央に孔明と龐統とがゐる。
それぞれ一人~二人用の小さなケースの中に立つてゐる。
ギャラリーの入り口から向かふと、手前に孔明、奥に龐統がゐる。
展示替へ後に行つたときも書いてゐる。
孔明は龐統に背を向けて立つてゐて、龐統は孔明の方を向いて立つてはゐるもののわづかにうつむいてゐる、と。
さう書きながらも、孔明のケース越しに見ると、龐統はこちらを見てゐるやうにも見える、と。

今回見て、やはり龐統は孔明を見てゐるな、と思つた。
そして、孔明の背中、とくに肩のあたりに走る緊張感は、背後から龐統が見てゐることをわかつてゐるつてことだな、とも思つた。
三月八日に講演「芝居の中の三国志」を聞きに行つた時に、いらしてゐた船塚洋子さんにも確認してしまつた。

孔明はともかく、龐統が孔明を見てゐるとはあんまり思ひたくなかつた。
孔明のことなんか意識しなくていいのに。
鳳雛先生は鳳雛先生でいいのになあ。
さう思つたからだ。
とはいへ、展示替へ直後にはこのふたりの「ケースのあひだに流れる緊張感が、実に楽し」い、などと書いてゐたりはするわけだけれども。

三国志演義から派生した物語(とここでは文字で書かれたものも静止画も動画もなにもかもひとつにくくつて呼ぶことにする)は数多ある。
中には孔明と龐統とは玄徳の下に集ふ前から仲がよかつた、とするものや、まつたく正反対のもの、そもそもふたりの関係など描いたりしないもの、などさまざまある。

やつがれはといふと、「別段これといつて仲がよかつたわけぢやないんぢやないかな」と思つてゐる。
陳寿が「諸葛亮伝」に崔州平と徐庶元直との名を記しながら、龐統の名前を書いてゐないのにはそれなりに理由があるんぢやあるまいか。
とはいへ、史書といふのは普通の交友関係についてはほとんど記さぬものである、といつてしまへばそれまでなのだが。

それに、「なあなあ」な関係つてあんまり好きぢやないんだよね。
あと、三国志に関してはなにしろ「まつさん版三国志英雄伝生まれ人形劇三国志育ち」だから、ふたりがもともと仲がいいとか、あんまり考へたことがなかつた、といふこともある。

人形劇三国志には、それでもひとつ、ちよつとした因縁話つぽい入れごとがあつたりはする。
赤壁の戦ひ前夜、曹操に連環の計を授けて立ち去る龐統に許攸(演義では徐庶)が追ひすがつて、今後の自分の身の振り方を問ふ場面がある。
ここで龐統は夜空の星を見上げながら告白する。
この歴史に残るだらう大戦さで、孔明だけに名を残さしめるのはちよつとヤだな、と。
自分もちよこつと関はつてゐたいな、と。

自分の名をあげたいはいいとして、「ああ、龐統は孔明を意識してゐるんだなあ」となんとなくさみしくさう思つた。
鳳雛先生にはさー、もつと飄々としてゐてほしかつたんだよねえ。
他人なんかどうでもいいぢやん。
云ふても詮無いことではあるが。

孔明と龐統との関係は、極淡泊なものであるといい。
さう思つてゐる、といふことを今回の展示で思ひ知つた。

淡泊であるといいとは思ひつつ、今回のギャラリー中央の展示を見ると、「やつぱり人間、いろいろあるよね」としみじみしてしまふ。

前回の展示では、このケースには朱鼻伴卜と金売り吉次とがゐた。
どちらもどつかと座し、互ひに相手のやうすをうかがつてゐるやうに見えた。
これがまたよかつたんだよね。
伴卜は清盛に吉次は秀衡について商ひで儲けやうとした商人だ。
平家でも源氏でもなければ武士でもない人々の対立の構図にとても惹かれた。
このふたりのケース間に流れる緊張感もまた、よかつた。
わざとあひだに立つたりして、伴卜を見ては吉次にふり向き、吉次を見てはまた伴卜をふり返るといふのを幾度もくり返した。

今回の展示では、このふたりのケースのあひだに立つてはいけない。
そんな気分になつてくる。
とはいへ、近くで見ると沈思黙考の態の龐統を見つめたり、普段はほぼ見ることのない孔明の背中なんぞを眺めたりしてしまふんだがね。
なんだかちよつと申し訳ない。

Wednesday, 25 March 2015

シャーロック・ホームズ 再読と再見

先月の最終回の後、「パペットエンターテインメント シャーロックホームズ(以下、「人形劇の「シャーロックホームズ」」)の再放送がはじまつた。放送時間帯は本放送のときとおなじである。
録画予約を解除してゐないので、録画機はあひかはらず勝手に録画しつづけてゐる。
録画を見たりときにはTVで放映されてゐるのを見たりする。
すると、なぜだか切ない。

「切ない」を辞書で引くと「胸がしめつけられるやうな気持ち」とある。
まさにそんな感じだ。

人形劇の「シャーロックホームズ」を見るやうになつて、原作を読み返しはじめた。
順番はバラバラながら、「緋色の研究」「シャーロック・ホームズの冒険(以下、「冒険」)」「四つの署名」「バスカーヴィル家の犬」「シャーロックホームズの思ひ出」「恐怖の谷」「シャーロック・ホームズの帰還」と読んで来た。
そのうち「最後の挨拶」と「シャーロック・ホームズの事件簿」も読むつもりでゐる。

ホームズものを読むのは何年ぶりだらう。
最後に読んだのはたぶん「冒険」で、ハヤカワ文庫だつたやうに思ふ。
それもずいぶんと昔の話だ。
「緋色の研究」や「四つの署名」なんかは一度読んだきりで、「バスカーヴィル家の犬」は映画だかTV番組だかの記憶が入りまじつてゐる。
その他の作品についても「……こんなだつたつけかー」といふものもある。

しかし、いづれにしてもおもしろい。
あー、まー、「バスカーヴィル家の犬」以外の長篇については、「なぜ犯罪に至つたのか」の部分が長すぎて退屈、と思つたりもしたが、そこはそれ、やつがれの性格に起因するところなので仕方がない。
でも、話の内容を忘れてゐればもちろんのこと、覚えてゐれば覚えてゐるなりに楽しく読める。

「踊る人形」は、これを読んで「暗号ものは原書で読まねば!」と思ふやうになつたんだよなあ。
そんなわけで苦労して「ダ・ヴィンチ・コード」とかも読んだよなあ。
そんなことを思ひ出したりもする。

はじめてホームズものを読んだのは小学生のときだつた。
親に買つてもらつた「まだらの紐」といふ題名の本や、学級文庫で読んだ本を、その本に載つてゐた作品を読みながら懐かしく思ひ出す。
あのころは同級生で競ふやうに読んでゐたりしたよねえ。
いまはなにもかも懐かしい。

そんな風に sentimental な気分になりながらも、なぜか「切ない」といふ思ひはない。

人形劇の「シャーロックホームズ」はあんなに見てゐて切ないのになあ。

やつがれはシャーロキアンではない。
そこが原作を読んでゐてもとくに心揺さぶられない理由かな。
つまり、「好き」の度合ひが人形劇と原作とで違ふ、といふことだ。

人形劇の「シャーロックホームズ」については、文句もないわけぢやない。
とくに、最後、教育論をぶちかましたりとか、モリアーティ教頭を「ちいさい存在」に「貶めた」あたりに納得いかない。

だつて、「シャーロック・ホームズで教育論?」つて思ふでせう。
そんな大上段に構へた無粋な話を持ち込まないでほしいよ。

モリアーティ教頭に関しては、秩序だつた学校の実現、まではいい。
でもそれを実現するにあたつて、現在の校長を追ひ落として自分が校長にならうといふ腹が気にくはない。
モリアーティ教頭だつたら、自分が校長になつて表に立たなくても、みづからの目指すところを実現させるに違ひない。
それでこその「巨悪」だらうに。
人形劇のモリアーティ教頭は別段「悪」ではないから、「巨悪」は変か。
みづからは表に出ずに暗躍する、さういふ方が得体がしれなくて大きいのになあ。
さう思つてしまふ。

さうは思ひつつも、なんだかんだいつて、人形劇の「シャーロックホームズ」は好きなんだな。
以前も何度か書いたやうに、人形に罪はない。
脚本がどんなにをかしからうが、演出に問題があらうが、それは人形のせゐではないのだ。
そして、人形劇はそんな人形の魅力に助けられてゐる。
そんな気がする。

原作を読み返してゐて、はからずも人形劇の「シャーロックホームズ」に対する思ひに気づくはめになつてしまつた。
続篇? もちろん待ち望んでをりますとも。

Tuesday, 24 March 2015

小さい達成感の積み重ね

The Twirly をつなぐプロジェクトも、昨日で42枚目がつながつてゐるはずだつた。

気がついたら、41枚目のモチーフをつなぐ位置がまちがつてゐる。
といふわけで、現在40枚のモチーフがつながつた状態である。

いつもの説明である。
The Twirly といふのは Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフである。六角形で、風車のやうな形をしてゐる。
これをたくさんつないでちよつと壊れた大きな六角形にしやうとしてゐる。

42枚つながると、モチーフを7枚つないだ六角形が6枚つながつたことになる。
その状態で一度写真を撮るつもりだつたんだけどなあ。
7枚つなぎのモチーフの枚数は数へない、などと書いてはゐたが、やはりそこは気になる。
以前も書いたかと思ふが、もともとはもつと大きい六角形をつなぎたかつたからだ。
しかし、大きなサイズで「これ!」と思ふやうなモチーフといふかドイリーといふかが見あたらなかつたので、The Twirly をつなぐことにした。

ほんとは大きいサイズで1枚の方が小さいサイズ7枚をつないだものよりいいんだけどね。
まづ、糸端の処理が少なくなるだらう。
大きいサイズだとタティングシャトルに何度か糸を巻く必要があるかもしれない。そのたびに糸端の始末は必要になる。
でも、7回も糸端の始末をする必要はないんぢやないかな。

この場合の「大きいサイズで1枚」は、何段かあつて、段をあがるたびに糸を切らないといけないデザインのものは想定してゐない。
一段でできるものや段の間はスプリットリングなりで埋められるものを想定してゐる。

まあしかし、あんまり大きいと達成感を得るのがむづかしくなるかもしれないな、とは思ふ。

昨日のエントリに書いたやうに、現在くつ下を編んでゐる。
くつ下を編んでゐると、ほんたうに楽しい。
きつとやつがれ向きなんだな。
なぜ楽しいのかについても何度かここに書いてゐる。
円周のそんなに長くないものをくるくる編むのが楽しい。
中細毛糸くらゐの太さの糸を0号とか1号くらゐの針で編むのが楽しい。
そして、編んだ結果がわかりやすいので編んでゐて張り合ひがある。
いま編んでゐるくつ下の模様は、増やし目と減らし目とでする縄編みで、20段で一模様、それを脚の部分は三模様半編むことになつてゐる。
一模様でもなんとなく感じは出るけれど、二模様くらゐ編まないと「模様ができてるー」といふ達成感は得づらい。
でも、くつ下だから、なんとかなるんだな。
セーターで20段一模様を二模様編むのに比べたら、くつ下はあつといふ間だ。
即編んだ結果の出るところがいいんだらう。

タティングレースのモチーフもおなじことだ。
小さいモチーフをつないでゐると、モチーフひとつ作るごとに達成感がある。
つなぐ枚数がわかつてゐれば、「残り何枚」といふのもそこでわかる。
小さな達成感の積み重ねで、大きなものもできあがる。
そんな気がする。

大きいモチーフもいいかもしれないけどなー。
The Twirly をつなぐプロジェクトが完成したあかつきには、それも考へてみるかなあ。

Monday, 23 March 2015

Viva, ねぢり目!

Weaver's Wool Mini Shawl は編み終はつた。

編み終はつたが、整形がまだである。
この週末にするつもりだつたが、気力がなくてそのままになつてゐる。
このまま仕舞ひこんで、出してくるときに整形するやうかもしれないな。

伏せ止めは、Weaver's Wool Mini Shawl の編み方に書いてあるとほりにやつた。
最初の目をねぢつて、次の目と二目一度にするといふ方法である。
以前 Weaver's Wool Mini Shawl を編んだときもこの方法で止めた。
これ、不思議とゆつたりと止められるんだよね。
最初の目をねぢることで、糸が引かれないやうになつてゐるのかな。
ねぢり目つて偉大ね。
先日編んだ Clapotis は、いまでも日々使つてゐる。これもねぢり目によつて糸が必要以上に引かれるのを防いでゐるんだらう。
Viva, ねぢり目!

といふわけで、くつ下を編み始めた。

もともとは「毛糸だま 2015年 春号 No.165」に掲載されてゐるくつ下を編むつもりだつた。
二目ゴム編みの、ごくごくふつうのくつ下である。
今回の「毛糸だま」のいいところは、編み方は二目ゴム編みでも、かかとやつま先の編み方を複数載せてゐるところだ。
好みや気分によつて、好きな編み方を選ぶことができる。
いいぢやあないか。

さう思つてゐたのだが、気が変はつた。
先日うつかり買つてしまつたくつ下編みの本の表紙のくつ下を編み始めてしまつたのである。
本は、A Knitted Sock Society。くつ下は Reginald といふ。

あみものの洋書を買ふのも久しぶりだなあ。ここ二年くらゐ買つてゐないはずである。

「毛糸だま」のくつ下をやめた理由は、毛糸にある。
二目ゴム編みなら、どんな毛糸でも合ふ。
単色はもちろんのこと、段染めもピッチが長いのから短いのまで、なんでもござれだ。

Reginald は違ふ。
ちよつと糸を選ぶ。
この本では Rowan の Fine Art といふ毛糸を使つてゐる。実物を見たことはないけれど、段染めでうまい具合にしま模様になるやうな毛糸のやうだ。
Reginald は増やし目と減らし目とで作る縄編み模様のくつ下である。
あんまりピッチが短かかつたり色が派手だつたりする段染め毛糸では合はない可能性がある。

今回選んだ毛糸は、Berocco のくつ下毛糸で、緑色の段染めだ。
Fine Art ほど subtle なところはないけれど、でも、たぶんこれなら Reginald もいける。
さう思つた。

そんなわけで編み始めてみた、といふわけである。

Sock in Progress

Reginald もねぢり目を多用してゐる。
ねぢり目の一目ゴム編み、いいよね。
単にねぢつてゐるだけなのに、なんでこんなに雰囲気が変はるのか。
それだけでもおもしろい。
模様編みのところはまだ覚えてゐないので、本を見ながらでないと編めない。ゆゑになかなか進んでゐない。

さうかうする間にも、Ravelry などで「これは編みたい!」といふくつ下に出会つたりしてゐる。
この春夏はずつとくつ下でいけさうだな。

あ、編みかけのストールは仕上げるつもりだけれども。

Friday, 20 March 2015

今年使ふてゐる手帳

今年の手帳も手になじんできた。

去年と同様スケジュール帳には Smythson の SCHOTT'S MISCELLANY DIARY を使つてゐる。
去年使用してゐたものと比べると、表紙の手触りが全然違ふ。
去年使用してゐたものは、手にしたときにやはらかな感触がある。持つたときにしつくりくる感じだ。
今年の手帳は、手にしたときにさらりとした感触だ。これはこれでいいのだけれども、なんとなくよそよそしい感じがした。

それがいま手にしてみたら、なんとなくやはらかい。
去年の手帳にはまだまだかなはないけれど、ちよつといい感じになつてきたかな。
去年の手帳もこんな感じだつたらうか。
比較対象がないのでよくわからない。

日記帳にはほぼ日手帳を復活させた。
以前もちらりと書いたが、いい感じで使へてゐる。
やはり手で押さへなくても開いたまま、といふのはいいものだなあ。
MOTHER2のカヴァにカヴァ・オン・カヴァをかけてゐて、これも気に入つてゐる。なにしろいい佇まひなのだ。
職場でも取り出したりするので、ちよつと派手かなと思はないでもない。
でもそこがいいともいへる。
ほぼ日手帳には、LAMY SAFARI の極細にドクター・ヤンセンのシェイクスピアを入れたものをあはせてゐる。あとオンライン購入特典の三色ボールペンも一緒にね。
そんなわけで、バタフライストッパがストッパになつてゐないけれども、まあ、そこもそれ、だ。
さらに、カンミ堂のピコットフセンを使つて、iPhone で撮つた写真を連携させてゐる。
来年もこのカヴァでいくかな、とか、鬼が笑ひ死にしかねないやうなことを考へてもゐる。

そんなわけで、ここ二年ほど日記帳の役割をになつてゐた三年手帳とはちよつと疎遠になつてゐる。
ここまで書きためたのだから、今年使ひ切るつもりではゐる。
こちらにもピコットフセンを使つてゐる。三年も使ふとかなりにぎやかだ。

ほぼ日手帳といへば、気になるやうだつたら四月からカズンを使ふかなあと思つてゐたけれど、これは今回は見送るつもりだ。
ハリスツイードのヘイミッシュ(サイトでは「ハミッシュ」になつてゐるけれども、おそらく「ヘイミッシュ」だらう)とかも気になるけどもね。

通年で使ふ手帳はこんな感じである。
さうさう、Smythson の Oscar Wilde もあつたか。
これには NHK語学講座のその日のキーフレーズなんかを書き写して使つてゐる。
今週はサボつてゐるな。
来年度のテキストなどを買つたものだから、もう気持ちは新年度なのかもしれない。
いかんいかん。

あれこれ書き留めるために使つてゐるのは Smythson の Panama で、これがそろそろ最終ページを迎へやうとしてゐる。
次はまた Moleskine かなあ、とも思つてゐたのだが、次の候補としてここに急浮上してきたのがトラベラーズノートだ。

さう、ブルーエディションを買つてしまつたのだつた。

Traveler's Note Blue Edition

最初はカヴァだけでいいや、あ、でもペンホルダーは買ふかな、といふ感じだつた。
リフィルは買はないつもりでゐた。
そのつもりだつたのだけれども、最寄り駅のそばにある文房具屋に行つたらならんでゐたので、ノートとホルダケースを買つてしまつた。
ものすごーくパンナムな感じである。

パンナムといふと、我が家には正方形に近い形のショルダーバッグがあつた。
好きだつたんだよなあ。
おそらく機内持ち込み向きのかばんだつたんだらう。
青地に白でパンナムのマークが入つてゐて、涼しげでよかつた。
どうも伯母だか叔母だかがやつがれの親にくれたものらしかつた。
母さん、ぼくのあのかばん、どうしたんでせうね。
母さん、あれは好きなかばんでしたよ。
まあ、もう家にはないだらう。

そんなノスタルジックな思ひ出とともに買つてしまつたトラベラーズノートを、次のなんでも書き留め用手帳に使ふかなあと思つてゐる。
しかし、ここにひとつ問題がある。
ひとつぢやないか。
ふたつかな。

まづひとつはトラベラーズノートは Moleskine のポケットサイズに比べたらだいぶ大きい、といふことだ。
最近はわりと大きめのかばんを使ふことが多い。トラベラーズノートくらゐなら問題なく入るだらう。
だが、ちいさいかばんもある。
そのかばんを持つときはどうする?
たとへば、ル・ボナーのコンフェッティとか。

もうひとつの問題は、表紙がやはらかいといふことだ。
Moleskine だと、たとへば幕間に客席に座つた状態で書くのにも不便がない。
トラベラーズノートはどうだらう。
不便なんぢやないかな。
その大きさも相まつて。
まあ、Panama でも書いてはゐるので、トラベラーズノートでも書けないことはないだらうけれども。
なにか下敷きのやうなものを入れることも考へてはゐる。

いろいろ考へつつも、トラベラーズノートの実物を見ると、「はやく使ひはじめたい」と思つてしまふ。
おそらく使ふことになるだらう。

トラベラーズノート自体はすでに使つてはゐる。
これもちよつと滞つてはゐるのだが、クラフト紙のノートに芝居や映画の半券などを張り付けてゐる。
気が向いたら半券のわきにちよこつとなにか書いたりする。
世にあるファンシーなスクラップブックからはほど遠い、無愛想なスクラップブックだ。
トラベラーズノートにした所以は、大きすぎないことである。
これくらゐのサイズがちやうどいい。
さう思つて使ひはじめた。
実際は、もうちよつと大きいといいな、とか、できれば横長の方がいいかな、とか思はないでもない。
でも一ページ一半券と考へればサイズ的にはいい感じだ。
スクラップブックなので家に置きつぱなしである。

ブルーエディションは持ち歩いてあれこれ書き留める手帳になるだらう。
使つてみて、自分にはあはないと思つたら、そのときに次の手だてを考へるつもりだ。
「使ひこなす」ことは考へてゐない。
それはほかの手帳も同様である。

などと書きながら、ふたを開けてみたら全然違ふ手帳を使つてゐたりしてな。
あり得ないとはいへない。

Thursday, 19 March 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館 夫婦善哉

三月六日、七日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
といふ話は先週も書いた。

今回、九組の夫婦が展示されてゐる。
そのうち劉表と蔡夫人とは隣同士ではあるものの、一緒にゐるといふ感覚の一番薄い夫婦である。
蔡夫人は息子の劉琮と一緒だからな。
劉表もひとりで立つてゐるといつた趣だし。

そこいくと次のケースにゐる玄徳と淑玲との方がはなれてゐるけれどもよつぽど夫婦だ。
うーん、夫婦ではあるけれども、でもまだ戀人同士な感じか知らん。
それは張飛と美芳もさうか。
この展示の時点ではもうすでに結婚してゐるものと思はれるけど、美芳は勝平を見てゐる。張飛のことは見てゐない。
見てゐないけれど、劉表と蔡夫人とのやうによそよそしい感じはしない。
今回の展示の劉表と蔡夫人とのよそよそしさは、一国一城の主夫婦にありさうな感じのよそよそしさだ。儀礼のときだけ夫婦、といふかさ。

さらにその次のケースの周瑜と小喬とはあひかはらずステキだ。
展示替へ後にも書いたけれど、周瑜がこんなにやさしさうな表情をするなんてねえ、としみじみ見入つてしまふ。
二度目にこの美術館を訪れたときだつたと思ふが、美術館の方が貂蝉の前で「しやがんで見るとまた表情が違ふんですよ」と教へてくだすつた。
しやがんで見上げるやうにすると、やさしい表情になるのだ、といふ話だつた。
今回の展示でも、人形同士が見つめあつてゐるので、一方の人形の位置からもう一方の人形を見るといい、といふ教へを受けた。
いいよー、小喬の視線の高さから見た周瑜は。
周瑜はいつでもいい男だが、今回はまた格別だ。
赤い牡丹の花を手にしてゐるのもいい。
小喬が少女のやうなので、とてもロマンティックにも見える。
いいわー。

その次のケースには、北条政子と頼朝とがゐて、これがまたなんともいい感じである。
展示替へ後のときも書いたけれど、恥ぢらう政子なんてめづらしい、と今回も思つた。
周瑜と小喬とは見つめあつてゐるけれども、政子はちよつとうつむいてゐて、頼朝は政子の方を見てゐる。
このふたりはこれから夫婦になるのかな。
そんな感じもする。
夫婦の話をしてゐるけれど、ここではどうしても北条時政に触れずにはゐられない。
政子と頼朝との左後方やや高いところに時政が座つてゐて、ふたりの方を見てゐるんだけど、その表情がたまらないんだよね。
といふことは前回も書いた。
政子と頼朝との前に立つて時政を見ると、胡乱げな表情でこちらを見てゐるので、思はず笑ひ出したくなつてしまふ。

その横には葵と義仲と巴とがゐる。
ここの夫婦はチト複雑ね。
葵が左側、巴が右側にゐて、このふたりよりもやや後方に馬上の義仲がゐる。
巴は葵に話しかけやうとしてゐるんだらうといつた風情で、葵はそんな巴の方に目だけを向けて「ふふん」とでも云ひたげな表情をしてゐる。
そして義仲は、やや心配さうな表情で巴を見てゐる。
この三人はいま渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーにもゐる。
義仲はやはり馬上で、おそらくは頼朝の方を見据ゑてゐる。
渋谷の義仲にはいつ見ても視線を釘付けにさせるやうな勇ましさがある。
飯田の義仲には、状況が状況だけにそれがない。
人形が違ふといへばそれまでだけれども、見比べるとこれがまたおもしろい。

麻鳥と蓬子とは別ケースにふたりでゐる。
このふたりのことも、展示替へ後に書いた。
説明の札のある方を表としたときに、裏から見たふたりの表情がとつてもいい、と書いた。
表から見ると、これから診察に出かけやうといふ麻鳥を蓬子が見送るところに見える。
あ、麻鳥が帰つてきたところといふことも考へられるか。それは思つたことはなかつたな。麻鳥の顔に決意のやうなものが見られるからかもしれない。これから行つてくるぞ、といふやうなね。
裏から見ると、麻鳥を見つめる蓬子は微笑んでゐるし、そんな蓬子を見つめる麻鳥の表情もどこかやはらかい。
ここも、つひ立ち止まつてしまふポイントである。

最後に蓮祐と蓮如とがゐる。
この展示のふたりはまだ夫婦ではないのかなあ。夫婦ではないのかもしれない。
蓮祐はやさしげな表情で立つてゐるけれども、蓮如の顔には苦悩が深い。眉間の皺が深いせゐだらう。
「蓮如とその母」は見たことがない。あ、東京藝術大学で「川本喜八郎 その人と作品」といふ講演を聞きに行つたときに、一場面だけちよこつと見せてくれたつけか。
蓮如は前妻を失つたばかりで、大勢のこどもの面倒を寺男のやうな人とふたりで見てゐる、といふやうな場面だつた。
このときの蓮如にはそんなに苦悩してゐるやうすはなかつたと思ふ。こどもの世話でそれどころではなかつたのかもしれない。
といふことは、蓮祐とゐるときでも、もうちよつとやはらかい表情をしたりもするのだらうか。
「蓮如とその母」は、この月末に見る予定である。
楽しみにしてゐる。

テーマをしぼると書けないことも当然出てくる。
そんなわけで、まだつづく、かもしれない。

Wednesday, 18 March 2015

来年度のNHK語学講座テキストを買ふ

昨日、NHK語学講座テキストの来月号を買つた。
来月号、すなはち、来年度初回のテキストである。

まだ英語のテキストしか出そろつてゐない。
他の外国語のテキストは明日見に行く予定である。

買つたのはいづれもラジオ講座のテキストだ。
「ラジオ英会話」と「入門ビジネス英語」、「実践ビジネス英語」の三冊である。
いづれも今年度も聞いてはゐるが、「入門ビジネス英語」はテキストは購入してゐなかつた。
来年度から講師が変はり、講座の進行もすこし変はるやうだつたので、様子を見るために買つてみた。
今後買はなくなるかもしれないし、そもそも聞かなくなるかもしれない。
それは来月聞いてみてから決めるつもりだ。

ラジオやTVの語学講座が役にたつのか。
個人的にTVの語学講座はなんか違ふなー、と思つてゐる。
なんといふか、たるいのだ。
ラジオだともつとみつしりつまつた感じがするのに、TVだとなんとなく空気がたるんでゐる。
空気、といふか、進行がたるいのかなあ。
間が長すぎる。
さうも言へるかもしれない。

ラジオは、ちよつと音声がとぎれると放送事故につながるからそれでつまつた感じがするのだらう。
そこは、もう、個人の好みとしかいへないなあ。

あと、最近のTVの語学講座はやたらとCGが多いのも好きになれない。
これはNHK教育テレビ(といまは云はないのか? Eテレ?)全体にいへることではある。
こども向けの教育番組にも、CGばかりのものがあつたりするしね。
それで出来がよければいいのだけれども、どうもさうとはいへないものばかりだ。
語学講座も同様である。
背景なんかも、普通にスタジオの背景そのままでいいのに、おそらくは青か緑のスクリーンの前で収録してあとから別の背景にさしかへてゐる。
なぜそんなことをする必要があるのか?
まつたく理解に苦しむ。

そんなわけで、TVはほとんど見てゐない。
去年度とその前とは、高橋克実や勝村政信、北村一輝を見るために見てゐた。
今年度は見たいと思へる人が出ないので見てゐなかつた。

見てゐたときの感覚から云ふと、通年で見てゐるといいこともある、といふところかな。
英語以外の外国語の講座は、TVもラジオも半年ごとに切り替はる(例外もないわけぢやないけれど)。
四月と十月とにそれぞれ開講するのだ。
四月から九月まで、なんだかわかんないけどとりあへず見続けると、十月からまた初歩の初歩に戻る。
さうすると、「ああ、あれはかういふことだつたのか」と思ふこともある。
それを何年かつづけてゐれば、そのうちもうちよつとわかるやうになつたりするのではあるまいか。
甘いかな。
なにしろ、そんなことを云ひつつやつがれ自身はTVの語学講座はつづいてゐないしね。

来年度は、TVの中国語講座に壇蜜が出るといふ。
それは見てみたいかなー。四月は見てみるか。

ではラジオ講座はどうなのか。
役に立つのか。

うーん、なんといふか、すでに「役に立つ」とか「立たない」とかで聞いてゐないから、よくわからないな。
といふのが、本音である。

ラジオ講座は、実にやつがれに向いてゐる。
まづ、出かける必要がない。
他人と会ふ必要がない。
聞くだけでいいといふ受け身一方の講座だ。
まさにやつがれのためにあるやうな番組ではないか。
よくさう思ふ。

とにかく外に出るのがイヤだ。
ヴェランダに出るのさへ億劫なほどである。
出勤するのがイヤなのも、大半はこの「出かけたくない」といふ気持ちに起因する。

他人に会ひたくない、といふのもあるな。
ここでいふ他人とは、不特定多数の「知らない人」である。また、知つてはゐてもそんなに仲がいいとはいへない人のことである。
語学講座などに通つて顔を合はせる講師や生徒がまさにこの「他人」にあたる。

また、さういふ「他人」の中であれこれ発言しなければならないといふのが心底イヤだ。

ラジオの語学講座はかうしたやつがれの「イヤ」と思ふ点をすべてクリアしてゐる。
しかも音声だけ、といふのがいい。
あんまりヴィジュアル的なものに興味がないんだよね。
落語もDVDよりはCDの方が好きだし、文楽も歌舞伎もCDは持つてゐるけれどDVDは持つてゐない。

まあね、よくぞこの世にあつてくれた、と思ふよ、ラジオの語学講座については。

役に立つか立たないかとか語学が身につくかつかないかは度外視してゐるので、語学講座の聴取者としてはお世辞にもよい聴取者とはいへない。
だいたいもう長いこと聞いてゐるのに毎月テキストと一緒に発売されるカセットテープやCDを一度も買つたことはないしね。
まあなんてお客だらう、と我ながら思ふ。

語学つて、必要だと思へば身につくものだと思ふのだ。
必要ぢやないから身につかない。
NHK語学講座は自分にあつてゐるから聞いてゐる。
そんな感じかな。

全然参考にならないか。
でも、なにかしら語学を身につけたいと思ふのなら、自分にあつた形式の講座を見つけるのが一番、といふことはいへるかもしれない。
講師と一対一が向いてゐる人もゐれば、グループ講義の方が向いてゐる人もゐるだらう。
Skypeかなにかを使つて現地の人と話すのが向いてゐる人もゐれば、ひたすら外国語の放送を聞くのがいいといふ人もゐる。
それを見つけるのが案外ホネなんだけれどもね。

Tuesday, 17 March 2015

糸巻き巻き

Lisbeth #40 Periwinkel

タティングシャトルを使つてタティングする場合、糸を巻く必要がある。

なにをいまさら、といふ話で恐縮である。
実はこの糸を巻くのが時に億劫なのである。

ニードルタティングならそこんとこ不要なんだけどねえ。

億劫、といふのは違ふかな。
時間のムダのやうに思へるのだ。
糸を巻くこの時間、ほかのことに使へるのに、と思つてしまふ。
できれば糸を巻くのはなにかの片手間にやりたい。
TVを見ながらでもいいし、移動の最中車内ででもいい。
でも、ほかにできることのある状態でやるのはイヤ。
ほかにできることのある状態つて……まあ大抵の場合はさうなんだが。

本来は、シャトルに糸を巻くところからタティングレースははじまつてゐる。
シャトルに糸を巻くのは重要な作業である。
糸のよりをかけることなくほどくことなく中庸にうまく巻くのは、結構むづかしい。
結局タティングしながら糸のよりを戻すことになりがちなやつがれである。
近頃面目次第もございません。

Burda のタティングレースの本には、シャトルを回しながら糸を巻くといいとあつた。
さうすると糸のよりがきつくならないのらしい。
また、レース糸を取るときに、糸玉の上に引くやうにするといいといふ話もある。
糸玉の横から糸玉を回すやうに取るとよりがかかりすぎたりほどけてしまつたりするのださうだ。

む、むづかしいな。

いろいろ試してみたけれど、結局タティングしてゐる最中に気になつたら糸のよりを調整するといふ方式に落ち着いてゐる。
巻きつけてゐる最中によりがどうなつてゐるかなんて、わからないことも多いんだもの。

さて、今日の写真は The Twirly をつなぐプロジェクトに使つてゐるレース糸である。
Lisbeth #40 の Periwinkle といふ色の糸だ。Periwinkle は本邦だと蔓日日草といふのらしい。
極々淡い紫色で、ぱつと見ると水色にも見える。
そんな色だ。
そんな色のはずなんだけれども、Lisbeth のこの糸は紫色にしか見えないな。
ま、いいか。

糸を使ひ切つてしまつたと思つて新たな糸を持つてきたのだが、前の糸はまだ半分以上残つてゐた。
まだ手つかずの糸が2玉ある。
予定してゐる「ちよつと壊れた大きな六角形」を作るのに十分だな。

といふわけで、今日は糸を巻くところからはじめる予定だ。

Monday, 16 March 2015

仕上げてみないことには

Weaver's Wool Mini Shawl は、最後のガーター編みに入つた。

Weaver's Wool Mini Shawl は、もともとガーター編みのみのショールである。
それを、作り目と増やし目だけ編み方どほりに、模様編みは Textured Shawl Recipe にしたがつて編んでゐる。
Ravelry にはなんと登録したものだらうか。

Weaver's Wool Mini Shawl か Textured Shawl Recipe かどちらかを Pattern にするとして、ではどちらだらうか。
うーん、ぱつと見た感じは Weaver's Wool Mini Shawl かなあ。
それとも、変更しまくりといふことで登録するか。
登録しない、といふのもありか。

Weaver's Wool Mini Shawl とほりに作り目と増やし目をしたのは、普通の三角ショールより肩にのせたときのおさまり具合がいいからである。
襟ぐりがあるんだよね、Weaver's Wool Mini Shawl には。

このショールを編む前は、「いままで編んだことのないやうな巨大な三角ショールを編む」つもりでゐた。
それが「デンマーク風の三角ショールを編みたい」に変はり、結局 Weaver's Wool Mini Shawl と Textured Shawl Recipe の折衷案みたやうなショールになつた。
デンマーク風のショールにすると、三角形といふよりは馬蹄型になつて、これはこれでおさまりがよささうである。
でも、いま編んでゐるこれはどうかなあ。
ショールは伏せ止めしてみないとどうなつてゐるかわからないことが多くて、な。
いまも編みながら、「これくらゐの大きさでいいんだらうか」とか「整形したらもつと大きくなるか知らん」などと思ひながら編んでゐる。
ガーター編みもあと二段も編んだら伏せ止めするつもりでゐる。

かぎ針編みだと、途中どうなつてゐるかわからない、といふことが少ないんぢやないかな。
巨大なショールだつて、できあがるやうすを見ながら編める。
一番顕著なのはあみぐるみだらう。
かぎ針編みだといま自分がどんなところを編んでゐるのかわかる。頭か、胴体か、手か足か、頭でも頭頂部か真ん中か首回りか、編んでゐてだいたいわかる。

これが棒針編みになるとまつたくわからない。
棒針編みのあみぐるみを編んでゐると、「この減らし目はなんのためだらうか」「ここ、ほんとにこんな編み方でいいんだらうか」と自問しながら編みすすめることになる。
できあがつてみると、確かに立体になつてちやんと想像したとほりのものになるのだが、そこまでがほんと、暗中模索といふ感じだ。
かぎ針編みの場合は輪にしてぐるぐる編むからわかりやすいのかもしれない。
棒針編みのあみぐるみの場合、頭でもなんでも大抵は平たく編んで最後にはいで輪にすることが多い。
そのせゐかな。

それとも棒針編みであみぐるみを編んでも、いま自分がどこをどのやうに編んでゐるのか理解しながら編んでゐる人もゐるのだらうか。
何度か編んでゐればわかるやうにはなるかもしれない。
でも最初からいきなりは無理なんぢやないかなあ。
それは単にやつがれが立体的といふか空間的把握能力が低いからだらうか。
それはあるかもしれん。
どうも立体といふか3Dのものを理解するのが苦手なんだよなあ。
たぶん、立体的なもので編みながらなにをしてゐるのか理解できるのは手袋くらゐだと思ふ。
くつ下は、日本式の編み方ならいいんだけど、アメリカとかでよくある heel flap つきのかかとは、いまだに編み方を見ながらでないと編めない。
どこでひつくり返すかとかどれくらゐ編んだら引き返すのかがいまひとつつかめないのだ。
一度つかめたと思つたことがあつたけれど、その後編まないうちにまたわからなくなつてしまつた。
それに、heel flap のないかかとの方が自分の足にはぴつたりくる。
とはいへ、heel flap をつけたときの三角形のまちが好きなのて、やはり heel flap つきのかかとも編みたくなつてしまふんだがね。

Weaver's Wool Mini Shawl を編み終へたらつぎはくつ下、と思ふてゐたが。
ここ最近あたたかくて、さうなると、去年の夏編みかけのままはふつてあつたリネンのストールを先に仕上げた方がよからうか、と考へたりもしてゐる。
ストールは編んでゐる最中ひざの上に乗るからあんまり暑くならないうちに編んだ方がいいやうに思ふからだ。

まづはいま編んでゐるショールを編み上げないとね。
使ふのは次に寒くなつたらだけどね。

Friday, 13 March 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館で特別展示を見る

三月六日、七日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。

「また?」といふ向きもあらう。
それは云はない約束よ。

十二月の展示替へから三ヶ月がたつた。次の展示替へもほぼ三ヶ月後だらう。
再訪するにはちやうどよい時期である。
すくなくともやつがれはさう思つてゐる。

展示替へ直後に行つたとき、いつもはもうちよつといろんな人形が展示されてゐるホワイエががらんとしてゐた。
ケースがいつもより少なかつた。
これは、こののちいろいろ催しものや展示があるのだらう。
そのときのblogエントリにそんなことを書いてゐる。

予想はあたつてゐた。
いま行くと、ホワイエのつきあたりにチェコの人形劇の舞台がしつらへてあるし、その手前には川本喜八郎の生誕90年を祝して故人の持つてゐた三国志関連の「お宝」や訪中時の写真、この美術館での写真などが数多飾られてゐる。
これがひとつひとつ楽しい。

チェコの人形劇の舞台は、この美術館で「ブラティスラヴァ絵本原画展」を開催した際に寄贈されたものなのださうである。
美術館の方がとても親切に説明してくだすつた。
リンク先を見ていただくとわかるやうに、家庭用だといふ。
舞台は、おとながひざをついて人形を操作するのにいいくらゐの高さ、かな。幅は全体で1mちよいくらゐなのではあるまいか。
背景は紙芝居の要領で差し替へられるやうになつてゐて、両端にある縦長の背景は、裏返すと別の絵が描いてある。

人形は、おとななら片手で遣へるやうになつてゐる。
ハンガーのやうな三角形の木製の取つ手に手と足とにつながつた糸が四本つながつてゐる。
手につながつた糸は左右別々に動かすことができる。
足につながつた糸はハンガー状の取つ手をシーソーのやうに傾けると歩いてゐるやうに見えるといふ寸法。
とてもよくできてゐる。

人形は木で作られてゐて、その上に髪の毛や服をつけてゐる。
やつがれが行つたときは、赤ずきんちやんのセットがくまれてゐた。
ほかにも魔法使ひや狼、老若男女さまざまな人形がそろつてゐる。
ここだけは人形に触つてもいいし、みづから操演してみてもいい。舞台の写真も撮つてよいのださうである。
楽しい。
これはちよつと楽しいぞ。
実際に手に取つて遣へるといふのが、こんなに楽しいとは思はなかつたな。

川本喜八郎所蔵の三国志関連の「お宝」展示のうち、話題になつてゐるのは定軍山で求めたといふ陶器の孔明像だ。
展示では、この孔明像を中心にして左右にまた別のところで求めた陶器の孔明像が並んでゐる。
ひとつひとつ趣が違ふが、でもやつぱり孔明なんだよねえ。

個人的にはしんこ細工の人形が気になつた。
精巧なのである。
展示の説明にも、「日本のフィギュアの先駆けか」と書かれてゐたりした。
また、「目の前であつといふ間に作り上げていく」とも書いてあつた。
いまではこんな細工ものを作れる職人はゐない、といふやうなことも書かれてゐたやうに思ふ。これは記憶間違ひかもしれない。間違ひであつてくれることを祈る。

また、いくつか並んだ泥人形のうち、三国志の主な登場人物を全部作つてみました、といふやうな全長2cmていどの平たい人形に目を奪われた。
ちやんとサテン調の布を張つた箱に麗々しく入つてゐて、名札とともに人形が並べられてゐる。50体はくだらないんぢやあるまいか。
ああ、ちやんと数を数へてくるんだつたなあ。
どれが誰か判じるのも楽しいかもしれない。

写真展示は、実はこの三つの中では一番興味深い展示かもしれない。
訪中時の写真で在りし日の故人を忍びつつ、この美術館での展示替へのときの川本喜八郎のやうすを見ることもできるからだ。
とくに、孟公威の前に正座して相対してゐる写真と、その孟公威を手に真剣な表情をしてゐる写真とがよかつた。
あと、ユーリ・ノルシュテインが李白のポージングをしてゐるやうすをのぞき込んでゐる一枚と、李白を前にふたりでほほえんでゐる一枚。
いいなあ。
こんな風に人形と向かひあつてゐたんだなあ。
行つてよかつた。

あらためて見たギャラリー内の展示については、また機会があれば書くつもりでゐる。
紳々は剣の鞘も中古品のやうだつた、とかね。

Thursday, 12 March 2015

講演「川本喜八郎 その人と作品」を聞く

三月十日火曜日、「川本喜八郎 その人と作品」といふ公演を聞きに東京藝術大学馬車道校舎に行つてきた。
正式な名称は「文部科学省スーパーグローバル大学創成支援事業東京藝術大学 川本喜八郎生誕90年記念講演「川本喜八郎 その人と作品」」、かな。

まづ、東京藝術大学教授でありアニメーション作家でもある山村浩二から、この講演が文科省の「スーパーグローバル大学創成支援事業」の一環であり、作品はとても日本的である川本喜八郎を取り上げる理由はこの講演を通じてわかるといふやうな説明があつた。

うーん、日本的な作品だからグローバルに通用するんぢやないの?
とも思ふたが、そこはおく。
説明にも、「「スーパー」グローバルといふことは、日本的といふことでもあつて」といふやうなことばもあつたことだし。

講演者はフランス人のセルジュ=エリック・セグラ。
とくに研究機関に属することなく個人的にアニメーションなどの研究をしてゐるとのことだ。
川本喜八郎へのロング・インタヴューを行つたこともあり、川本喜八郎から数多の資料を受け取つて研究をつづけてゐる。

途中、アニメーション監督コ・ホードマン自身による談話もあつた。

通訳は、東京藝術大学グローバルサポートセンター特認准教授のイラン・グェン。
セグラ氏と一緒にパリで川本喜八郎関連の講演を開催したことがあるとのことだ。

講演は途中十五分の休憩をはさんで午後四時から午後八時半といふ長丁場で、しかし、それでも最後ははしより気味になつてゐた。
セグラ氏の持つ川本喜八郎の資料が膨大だつたからである。
川本喜八郎がそれだけの資料を送つたといふことだ。

川本喜八郎の誕生直後から没するまでの資料がほぼ時系列に沿つてスライド形式で表示され、セグレ氏が説明してグェン准教授が通訳するといふ形式で、ときにグェン准教授の意見なども交へられることもあつた。
写真は、飯田市川本喜八郎人形美術館の年表に見られるものも多かつた。
母親と写つてゐる写真や、祖母の写真などがそれだらう。
さらに、時折川本喜八郎作品の抜粋が上映された。
ほろにが君とかね。個人的にはミツワガールズが見たかつたなあ。もうないのか知らん。
「鬼」や「道成寺」「火宅」などは「そこで切るか!」といふやうなところで切られてゐて、なんともむづがゆい感じがした。そこがいいんだけどね。

そんな大量の資料をここでくくつてしまふのはどうかとは思ふが、敢ていふと、川本喜八郎の生涯は実にグローバルであつた。

と書いて、実は納得できないところがある。
「グローバル」つてなんだよ、といふことだ。
デジタル大辞泉をひいてみたところ、「世界的な規模であるさま」だとか「全体を覆うさま」「包括的」とか書いてある。
だつたらさういへばいいのに。
川本喜八郎は世界的な作家である。
それでいいではないか。
ダメなのかな。

「チェコ手紙&チェコ日記」を読んでゐてもわかる。
川本喜八郎の視線は世界に向けられてゐる。
本人は意識してさうしてゐたのだらうか。
この本からはさうは思へない。
自然にさうなつてゐたのではないか。
そんな気がする。
うまく説明できないのがもどかしい。

川本喜八郎は別段世界に出ることを求めてチェコスロヴァキアに行つたわけではないのだと思つてゐる。
チェコスロヴァキアに空前にして絶後といふ巨匠がゐて、その人のもとで学びたい、といふので出て行つたのだらう。
その巨匠が日本にゐたら、日本で学んでゐただらう。

世界をまつたく意識してゐなかつたわけではないとは思ふ。
「チェコ手紙&チェコ日記」には、チェコスロヴァキアでの滞在が自分の想定してゐたものと違ふことになるのであれば英語やフランス語など世界的にひろく通用する言語を学びつつシナリオを書きたいといふやうなことも書かれてゐるし、手紙の相手が行く末について悩んでゐると知ると「英語を学ぶといい」といふ助言を与へてもゐる。

それはさうなのだけれども、川本喜八郎の中には、最初から「世界」があつたのだといふ気がする。
「日本」に対する諸外国としての「世界」ではなく、日本も含めた「世界」をみづからの活躍の場ととらへてゐたのではあるまいか。

そこが、現在云ふところの「グローバル」と川本喜八郎にとつての「世界」との違ひであり、ゆゑに「スーパーグローバル」といふことばに違和感を覚える所以である。
世に云ふ「グローバル」は「ローカル」や「ドメスティック」の対局にあるものだと思はれる。
国内経済に対するグローバル経済。
国内産業に対するグローバル産業。
国内戦略に対するグローバル戦略。
いづれも「国内」と「グローバル」とは対立するものとして使はれてゐる。

川本喜八郎は世界的な作家である、といふときの「世界」と「日本」とは対局にはない。
この場合の「世界」と「日本」との間に垣根は存在しない。

講演この方考へてゐたが、うまくまとめられない。
不徳の致すところである。

話を戻すと、川本喜八郎の生涯は実にグローバルであつた。
そのことは、セグラ氏の講演から、またコ・ホードマン監督の話からよく理解することができた。
「その人」はそのとほりだ。
では「作品」は?
最初に「とても日本的な」と紹介された川本喜八郎作品のどのあたりがグローバルなのだらうか。
この点については、残念ながらやつがれの力及ばず理解しきれずに終はつてしまつた。

作品について、印象に残つた話を記しておく。
セグラ氏の説明を通訳したグェン准教授が、おそらくみづからの意見を述べた点である。
「鬼」と「道成寺」と「火宅」とは、「不条理三部作」と呼ばれることがあるのだといふ。
中でも最後の「火宅」はそのすばらしさがよく語られるのだが、しかし「鬼」も「道成寺」も「火宅」に劣るわけではない。
「道成寺」にはことばが極めて少ない。
「鬼」には無声映画のやうなせりふやト書きの文字がときに表示され、「火宅」にはナレーションがついてゐる。
「道成寺」にはナレーションはないし、出てくる文字も極めて少ない。
ゆゑに、よけいに人形が生きてゐるやうに感じられる、といふのである。
「人形の息遣ひさへ聞こえてくるやうな」といふやうな表現をグェン准教授はしてゐたやうに思ふ。

「道成寺」ははじめて見たときから好きな作品だつた。
それは、女が寡婦であるからだ、と思つてゐた。
清姫ではない。娘ではないのである。
ゆゑに生じる執着がいい。
さう思つてゐた。

それはさうなのだらうけれど、なるほど、そこか、と、とても納得したのだつた。

「日本的」な方が「グローバル」といふことについては、よく語られることなので、ここには記さない。
さういふ説明を超えたものが川本喜八郎作品にはある、と思ふてはゐる。
残念ながら身菲才にしてわからなかつたけれども。

「日本的」といふことでいふと、最後の質疑応答で、セグラ氏に対して「日本の作家である川本喜八郎に惹かれるのはなぜか」といふ質問があつたのが、「スーパーグローバル」とやらを標榜する国の現実だよなあ、と思つた。
「日本の作家である」は不要だ。
「川本喜八郎に惹かれるのはなぜか」。
それでよいではないか。

それに対するセグラ氏の回答は実に熱いものだつた。
フランス語だからなにを云つてゐるのかわからなかつたけれども、その熱意と愛とは伝はつてきた。
なかでも川本喜八郎について「ことばを通じて伝へていかねばならない」といつてゐたらしいことも強く印象に残つてゐる。
アニメーションといふことばに頼むところのすくないものを、ことばにして伝へていく。
それを使命と思つてゐるのだらう。

「死者の書」で、大伴家持が「あきらめない人間がこの世界を作つていく」といふやうなせりふをつぶやく場面がある。
このせりふについては以前も書いた。
今回の講演で、この世界を作つていくのは、熱い人間なんだらうな、と思つた。
あきらめない人間は、すなはち熱い人間でもあらう。
川本喜八郎も、さういふ人であつたらう。

Wednesday, 11 March 2015

「芝居の中の三国志」を聞いて来た

三月八日日曜日、「芝居の中の三国志」といふ講演を聞いて来た。
ところは渋谷ヒカリエにある渋谷区防災センター会議室。
講師は明治大学の加藤徹教授。

講演の内容は、「芝居の中の三国志」といふよりは「2.5次元の三国志」といふ感じだつた。
結論は、「三国志演義は物語としてとてもよくできてゐる」で、「ゆゑになんでもありだ」といつたところか。

「2.5次元」といふことばは、不勉強にしてはじめて知つた。
「次元」といふと、0次元は点、1次元が線、2次元が面で3次元が立体、4次元は立体に時間が加はつたもの、といつたところだ。
物語といふかエンターテインメント作品といふか、さうしたものをこの次元にあてはめると、以下のやうな感じになる。これは、講演時に配られた資料を元に、講演で得た情報を付け足したものである。

0次元
禅の悟りなど
1次元
ことばのみで成り立つてゐるもの
小説、朗読劇など
2次元
平面に描かれたもの
絵画、映画、まんが、動画など
3次元
実際に手に触れることのできるもの
史跡、彫刻、茶道など
4次元
電波系

かうわけると、この次元の区分のなかにすつきりおさまらないものもある。
たとへば、書だ。
書はことばのみで成るものだが(絵がついてゐる場合もあるけれど)、紙の上に書いたものである。
これは1.5次元なのださうだ。

そして、舞台演劇などは2.5次元だといふ。
実際に人間が演じてゐて、触れることもできるが、しかしそれは虚構の世界であるから2.5次元なのだらう。
講演中一番しつくりきたのは、「ある俳優の演じるナントカといふ役を見に行く、といふ、これが2.5次元です」といふ説明だ。
たとへば、「勧進帳」を見に行く場合、「勧進帳」といふ芝居そのものを見に行くといふ向きもあらう。でも、大半は「ナントカ屋さんの弁慶が楽しみで」見に行くのではあるまいか。

人形浄瑠璃もさうだ。
講師は、人形劇については「人形遣ひは表に出てはならないものだから」2.5次元、といふやうなことを云ふてゐた。
だつたら出遣ひとかはどうなるんだらう、と思つたが、なに、「ナントカといふ人形遣ひの八重垣姫を見に行く」と思へば2.5次元である。

2.5次元といふのは、もともとはコスプレなどを指して云ふたものだといふ。
コスプレは、その衣装を身に着けてゐるときだけのことだ。
衣装を脱ぎ化粧を落としたら終はる。
さういふのが2.5次元だらう。
なんだか、はかない。

0次元はともかくとして、三国志は、どの次元でもうまく展開できる物語であるといふ。
それは、さういふ風に作られてゐるからだ、と。

ひとつには、登場人物が多彩であることがあげられる。
これも講演の時に配られた資料に書いてあつたことだが、登場人物の分類として、性格面には知の人、情の人、意の人といふ三つの分類があり、ふるまひの面には雅の人、雅俗共賞の人、俗の人といふのがあるのださうだ。
意の人といふのは、不言実行の人みたやうな感じださうである。
雅俗共賞の人といふのは、雅でもあり俗でもある人、といつたところか。
横軸に性格面、縦軸にふるまひの面をとると九種類の枠ができる。
三国志の場合、「雅の人」かつ「知の人」が孔明、「雅俗共賞の人」かつ「知の人」が玄徳、「俗の人」かつ「情の人」が張飛、といふやうにできてゐる。
講師によると、こと物語といふことに関しては、日本は中国よりもずつと昔からすばらしい作品を生み出しのこしてきた、といふ。
でも、「源氏物語」だとか「平家物語」だとかの登場人物でこの分類を行ふと、偏りができる、のらしい。

ふたつには、魅力的な悪役がゐることがあげられる。
曹操。
曹操だよなあ。
董卓とかもさうだらうけど、やはりここは曹操だらう。
うんうん、わかるわかる。
で、「源氏物語」とか「平家物語」とかに曹操に匹敵するやうな魅力的な悪役がゐるか、といふと……
うーん、「源氏物語」はともかく「平家物語」つてどうなの? 清盛つて悪役なの?

といふわけで、多彩な登場人物を持ち、さらには魅力的な悪役もゐる三国志は、如何なる次元にもぴつたりとおさまりうる物語なのだ、といふのである。

個々の登場人物の役割分担がきちんとしてゐるから、ビジネス書などにもひつぱりだこだ、といふ話もあつた。

京劇の話ももちろんあつたのだが、本邦における吉川英治や横山光輝の作品、またアニメやゲームへと展開された作品の話まであるとは、予想外だつた。
講師の先生もお好きなんだらうと思ふ。
講演中も鉄人28号からエヴァンゲリオン、AKB48や「ミュージカルテニスの王子様」とさまざまな例をあげてゐたし。
若い大学生相手だから最新の話もご存じなのだらうといふ向きもあるかもしれないが、やはり好きでないとなかなかああはいかないだらう。

そんなわけで、ゲームの話は「恋姫夢想」にまで進んだりして、客席にはご年配の方もかなりいらしたのに、どこまで通じてゐたのかのう、と僭越乍らチト不安になつたりもした。

でもまあ、話の流れからいくと、「恋姫夢想」も当然あり、といふことになる。
これまで女体化された三国志ものについては関羽の髯をどう表現するのか、といふのが個人的にはとても気になつてゐた。
髯。
ムリでせう、女の子では。
だからといつて髪の毛が長いといふことにしてしまふと、他の子がショートカットになつてしまふ。それはないなー。
あるいは、「うれしはづかし昭和の日本語((C)月亭可朝)」にするかといふと、それも他の子たちをどうするのよ、といふ話になる。

そこで、アホ毛ですよ。
美アホ毛公。
女の子だから、美アホ毛嬢か。
「猶未及アホ毛之絶倫逸群也」とか書くわけですよ、孔明が。
どうでせうか。

てなところで、講演がどのやうな感じだつたのかおわかりいただけると幸ひである。

Tuesday, 10 March 2015

タティング・ロボット

The Twirly をつなぐプロジェクトは、先週からあまり進んでゐない。
昼休みに時間がなかつたのが原因である。

いつもの説明だが、The Twirly は Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフである。六角形で、ちよつと風車めいた感じのモチーフだ。

家では昨日も書いた Weaver's Wool Mini Shawl を編んでゐる。
一段に四百目はあるんぢやないかな。まだ目は増殖中だ。
模様編みの段もあるので、最近一段編むのに十分以上かかるやうになつてきたやうに思ふ。
それでも編みはじめるとなかなか止まらない。
裏メリヤス編みとか、ほんと、苦行でしかなかつたのになあ。
慣れるつて、ステキなことね。

手作業などで慣れることを、「ロボットを育てる」といふのらしい。
たとへば車の運転だ。
運転をはじめたばかりのころは、なにをするにもぎこちない。
まづエンジンを始動するところからしてドキドキする。
走りはじめてからも、周囲のことが気になつてやたらと疲れる。
ウィンカーひとつ出すにも気を使ふ。

これが、慣れてくると、なんにも考へずに運転して目的地にたどりつけるやうになる。
この状態を運転のロボットのある状態、といふのらしい。

うーん、日本語として座りが悪いなあ。
いづれにしても、考へなくても自動的にできるやうになることを「ロボットがある」とか「ロボットがゐる」とかいふのらしい。

あみものやタティングレースも完全にこれである。
なにも考へなくても手が動く。
とくにあみものの往復編みでガーター編みばかりとか輪編みでメリヤス編みばかりの作品を称して「Mindless Knitting」といふが、ロボットを育てるといふことは「mindless」にできるやうになるといふことと同義なのらしい。

やつがれのあみものやタティングレースの腕前は、せいぜいそれ止まりである。
すなはち、ロボットは育てた。
なにも考へずに編んだり結んだりできる。
しかし、その先にいけない。

不器用だからである。

以前も書いたやうに、たまに手芸系のイヴェントなどでそれまでやつたことのない手芸を試してみたりすると、もう如実にそれがわかる。
不器用なのである。
まはりの人は、手芸を愛好するくらゐだから、みな手先が器用で飲み込みのいい人が多い。
やつがれはといふと、どうもこつを飲み込めずにできあがるものも「これはいつたいなんぢやろか」といふやうなものができてしまふ。

あみものやタティングレースができるのは、単にそれなりに時間をかけてゐるからに過ぎない。
みづからの中にロボットを育成し、mindless にできることを増やしてゐるからに過ぎない。
時間をかけてゐるといふことは、やりたいことなわけだけど、やりたいこと即ち得意なこととは限らない。

育てるロボットによつては、無駄なものもあるのださうである。
まあ、さうだらうな。
やつがれの育てたあみものやタティングレースのロボットは、無駄なのかもしれない。

無用の用、といふものが世の中にはある。
たぶん、それだ。
といふか、さう思ひたい。

Monday, 09 March 2015

おとぎ話な気分

あたたかくなつてきてしまつた。
編みかけの三角ショール Weaver's Wool Mini Shawl を前に、ちよつと焦りを覚えてゐる。

とはいへ、この週末は寒かつたりはしたのだが。
すくなくとも昨日は寒かつた。
あまり寒いのでストーヴをつけたほどである。
金曜土曜と長野県飯田市にゐたが、あちらはそれほどでもなかつた。
まあ、朝などはキンと冷えたりして、ちよつと寒さの質が違ふなと思つたりもしたけれども、おそれてゐたほどでもなかつた。

飯田には Clapotis を持つて行つた。
飯田市川本喜八郎人形美術館の中で寒かつたら羽織るつもりでゐた。
外ではマフラーとして、内ではショールとして、実に使ひ勝手がいい。
Clapotis は編んで正解だつた。
マフラーにするにはあともう一玉くらゐほしかつたが、とは以前も書いてゐるが、ショールとして使ふにはちやうどいい。
実際、今回も人形を見ながら羽織つたりしてゐたのだつた。
いいぞー、Clapotis。

さて、懸案の「これまで編んだことのないくらゐ巨大な三角ショール」になるはずの Weaver's Wool Mini Shawl だが、現在五玉目に入つたところである。
だいたい五玉くらゐかなあ、と思つてゐたけれど、六玉くらゐ使ふやうかもしれないなあ。
いや、いつそ十玉まるまる使つてしまふか。
いろいろ考へてしまふ。

五玉でおさまらないのは、模様のくり返しの関係だ。
たぶん、五玉だと中途半端な位置までしかたどりつけない気がするんだよね。
六玉あればなんとかなるかなあ。
そんな感じである。

最初のうちはデンマーク風のショールにしたいと思つてゐたが、それはちよつと無理かもしれない。Weaver's Wool Mini Shawlの形状からいつて、なんとなく、ね。
まあしかし、だんだん大きくしていくタイプのショールは最後伏せ止めをしてみないとなんともいへないわけだが。

これが終はつたらくつ下、とは以前も書いたとほりである。
「毛糸だま」春号に掲載されてゐるものもいいし、単にメリヤス編みのくつ下もいいやうな気がする。最近さういふシンプルなくつ下を編んでゐないしね。

だがその前にショールをなんとかしなければ。
これまでのやうに、あたたかくなつたら寒くなるまで編みかけのまま放置、といふのも考へないではない。
考へないではないのだが、いまのところ仕上げたいといふ気持ちの方が勝つてゐる。
我ながら不思議だけどなー。

ところで、Weaver's Wool Mini Shawl なのは増やし目の仕方で、模様は Textured Shawl Recipe にもとづいてゐる、とは以前も書いたとほりである。
これ、編んでるとひたすらメリヤス編みとかひたすら裏メリヤス編みがつづくことが多くて、なんだか気分は白鳥になつたお兄さんたちのために茨であみものをする人、なんだよね。
苦行、といふのでもないが、延々延々だまーつてメリヤス編みとか裏メリヤス編みをしてゐると、これつてなんかの修行なんぢやないか知らん、といふ気持ちになつてくるのだ。
実は、それもまたちよつと楽しい。

「なにかになつたふり」といふのはちよつとばかり日常からはなれた心地になるのがおもしろい。
それでなくてもやつがれは日常からはなれがちではあるのだが。

Friday, 06 March 2015

Ten Little Indians

長野県飯田市に来てゐる。
お目当てはもちろん飯田市川本喜八郎人形美術館である。

ではあるのだが……
美術館のある建物の一階にあつたそば屋兼土産物屋が去る一月に閉店してゐた。
おにひらといふそば屋で、美術館にゐておなかがすいた時や帰りがけに土産物を買ふのにいつも立ち寄つてゐた。
ここの「ちさとの焼き菓子」といふケーキが好きだつたのだよ。
本店と昼神温泉にある支店とは営業中らしいのだが、車でもないとなかなか行けさうにないやうだ。
残念……。
明日はほかの土産物屋をのぞいて見るつもりである。
あと、美術館のすぐそばに昼食の食べられさうなところができてゐる。
前回来たときに気がついた。並木横丁といふ。
今日はもう暗くてよくわからなかつたけれど、たぶん、なにかしら食べられさうな感じではある。

今回も新宿から高速バスでやつて来た。
商工会議所のそばの飯田といふバス停で降りて、即美術館に向かつた。
その後晩酌をするのにふらりと外に出てみたらこは如何に。
駅のそばのローソンが閉店してゐるではないか。
飯田駅前のバス停を利用してゐたころは、ここでちよつとした食べ物と飲み物とを調達するのが常だつた。
「たまにはINGRESSでもしてみるかー」と思つてゐた矢先だつたのに……
まあ、やつがれ風情がINGRESSしなくても、飯田駅付近一帯は我が陣営の勢力化にあるやうなので、どうでもいいといへばさうなのだが。

考へてみたら、ことは飯田だけではないのだつた。
小田急百貨店にある三省堂がなくなる、といふ話は聞いてはゐたが、今日行つてみたらもうなかつた。
楽団でファゴットを吹いてゐたころ、ダブルリードを調達しによく新宿へ行つた。
そこで立ち寄る本屋は小田急の三省堂だつた。
紀伊国屋まで行つてもいいのだけれども、ファゴットの入つたケースを提げた身にはチト遠かつたし、とにかく道が込み合ひすぎてゐた。
西口だけで済む、といふ理由と、こどものころからよく行つてゐたから、といふ理由もある。
最近では飯田の行き帰りに時間があれば立ち寄つてゐた。
飯田に行く前に唐詩選を買つたのもここである。

池袋西武のリブロも閉店すると聞いた。
池袋といふと最近はジュンク堂なのかもしれない。
やつがれはもつぱらリブロだつた。
なぜだらう。
やはり思ひ出、かな。
サンシャイン劇場でマチネを見ての帰り道、キンカ堂とリブロとに寄るのが楽しみだつた。
キンカ堂もいまはない。
三年手帳をはじめて買つたのもリブロだ。
さういへば、就職して即、池袋にあるお客さん先に通つたことがあつた。その帰りに寄つてゐたのもリブロだつたんだよなあ。

やつがれはノスタルジーに浸りやすいたちなので、よけいに慣れ親しんだところがなくなつていくことに耐性がないのかもしれない。
だから、これをして「世の中、全然いい方向に向かつてなんかゐないよな」とは云はない。
云ひたいけど、云はない。

とりあへず、新規開拓に励むことにしたい。

ちなみに飯田市川本喜八郎人形美術館は、チェコの人形劇の装置や人形たちが思ひのほか楽しかつた。
春休みも近い。
ご家族・おともだちと是非。
もちろんひとりでも Kein Problem よ。

Thursday, 05 March 2015

スチールペンとわたくし PILOT篇

久しぶりに、はじめて買つたPILOT PRERAにインキを入れてみた。

PRERA

PILOTの万年筆も、いろいろ使つてゐる。
スチールペンは以下のやうな感じだ。

NHKのラジオ講座のテキストに書き込むときには主に KAKUNO の細字を使つてゐる。インキはPILOTの色彩雫の紫陽花だ。これがにぢまないんだから、NHKの語学講座のテキストは実に優秀である。

ミルクティー色の PRERA にはドクター・ヤンセンのショパンを入れてゐる。緑色のインキで、主に Moleskine を使つてゐるときに感想を書き込むのに使つてゐる。にぢんだり裏抜けしたりもするけれど、細字だし、筆圧が低いのでそれほどものすごいことにはならない。
現在の手帳は Smythson なので、感想書きにはプライヴェート・リザーヴのアヴォカードを入れたプラチナの本栖を使つてゐる。PRERAは予備だ。

Cocoonには、Pen and message.の山野草といふ紫色のインキを入れてゐる。
Cocoon、書きやすいよね。
以前も書いたやうに、スチールペン先の万年筆は鉛筆代はりといふ感じですこしさりさりする書き味のものが好きだつたりする。愛用してゐる LAMY SAFARI の極細がちやうどそんな感じだ。
Pelicano Junior は2Bとか4Bとか、ちよつとやはらかめの鉛筆を使ふ心かな。書き心地はやはらかいわけではないけれど、描線の感じとかがやはらかい鉛筆に近い気がしてゐる。
そこいくと Cocoon はいかにも万年筆な書き味がする。
「これ、ほんとに三千円台?」と思ふほどだ。
現在は細字を一本持つてゐるきりだが、もう一本くらゐほしいなあとつねづね思つてゐる。

最近買つたばかりのカリグラフィーペン先の PRERA には、ナガサワ文具センターの神戸インク物語のゴッホコバルトを入れてゐる。
インキの出がいまひとつなのが目下の悩みだ。

キャップレスデシモは職場などでボールペン代はりに使つてゐる。
こちらには PILOT のカートリッジをさしてゐる。ブルーブラックを入れてゐて、ブルーもほしいなあとか思つてゐるところだ。

PILOT のスチールペン先のペンの使用状況はこんなところだ。

……うーん、先にかういふ棚卸しをするべきだつたかな。
でももうインキも入れてしまつたし、仕方ないか。

といふわけで、最初の PRERA である焦げ茶色のペンにインキを入れた。
Cocoon とおなじく Pen and message. の山野草である。

Pen and message 山野草

PILOT 色彩雫の紫式部をもうちよつと暗くしたやうな色合ひ、だらうか。似た色だと思つてゐる。だから紫式部を買へずにゐるんだがね。
このペンを買つたのはいつごろだらう。五年くらゐ前かなあ。
当時はまだ PRERA には透けた素材のペンはなかつた。
最寄り駅のそばにある文房具店にあるのを見かけて、気になつて買つてしまつた。
さうしたら、書きやすいぢやあありませんか。
そんなわけで、わりとすぐに二本目のミルクティー色の PRERA も買つてしまつた。
一本目は「焦げ茶色」とは書いたけれど、どちらかといふとチョコレート色かな。チョコレートとミルクティー。なんだかおいしさうな色の取り合はせである。

チョコレートとミルクティーと、どちらも細字である。
中字の PRERA も持つてゐるけれど、そちらはあまり使つてゐないなあ。
もつぱら細字ばかり使つてゐる。
それでは中字はまつたく使はないのかといふと、さうでもない。
舶来物の細字のペンがだいたい中細字とか中字くらゐだと思つてゐるし、はじめて買つた大橋堂のペンもあれは中字か中細字だらう。いまのところ最後に買つた大物である中屋万年筆の中軟も使つてゐる。

ただ、よくよく見てみると、スチールペンに関しては細字ばかりだなあといふ気がする。こちらも舶来物は細字といふ名の中字を使つてはゐるけれどもね。

気軽に持ち運べて、どこででも書ける。
さうなると、普段持ち歩いてゐるのは手帳で、そこに書き込むには細字の方がいい、といふのが一点。
あともう一点は先にも書いた「スチールペンにはさりさりとした書き味を望んでゐるから」といふのもあるかもしれない。

さりとては、PRERA の細字も Cocoon の細字も「さりさり」といふよりは「するする」とした書き味なんだけれどもね。

やつがれの中では、スチールペンには二種類ある。
ひとつは先にも書いた鉛筆代はりに使ふペン。
もうひとつは万年筆として使ふペン。
LAMY SAFARI の極細なんかは鉛筆代はりの代表のやうなペンだ。
PRERA と Cocoon とは、かう、紙に触れたときにやはらかいんだな、SAFARI とかに比べて。それで「万年筆を使つてゐるー」といふ満足感を得られるのだらう。

などと御託をぬかしてゐる間にペンを使へよ、といふ話もある。
ペンに入れたインキは早めに消費するに限るといふしね。

Wednesday, 04 March 2015

劇評の型

歌舞伎の劇評は、どれも似たやうな感じがする。

よくよく読めば書いた人によつて違ふのだらうけれども、どうも「歌舞伎の劇評とはかう書くもの」といふきまりがあつて、それにしたがつてゐるやうに思へてならない。

書評にはさういふところがない。
ジャンルをしぼつてみても、「日本の純文学の書評はかう」とか「アメリカのSF小説の書評はかう」といふ型はないやうに思ふ。

書評の方が歌舞伎の劇評にくらべてはるかに大勢の人によつて書かれ、はるかに大勢の人によつて読まれるからだらうか。

そんな気もする。

歌舞伎の劇評がどんな感じかといふと、
「誰某の義経は御曹司の気品が漂つてよし。ただしせりふにはもう少し憂ひがほしい。静御前は某誰」
つてな感じかなあ。

これね、誰が書いてもこんな感じなんだよね。
なんかもう、かういふ雛形があつて、「歌舞伎の劇評とはかう書くもの」ときまつてゐるかのやうにかうなのだ。

ちなみに「静御前は某誰」といふのは、紙幅の関係かはたまた書くに値するものがなかつたのかわからないが、配役だけ書いておくときによく見かける文体である。

いや、別にこれをくさしてゐるわけではない。
かういふものと思へば読みやすい。
でもさー、せつかく書くならさー、別にこの書き方にこだはることはないのに。
さう思つてしまふ。

これもまた歌舞伎の劇評の「型」なのだらうか。
なるほど、さうなのかも。

「型」なので、不特定多数の読み手を意識するとそれにしたがつてしまふのかもしれないなあ。

でもやつぱり、もつと違つた書き方があつてもいいと思ふ。
単にやつがれが知らないだけで、実際にはあるのだらうか。

Tuesday, 03 March 2015

ほどきません

あみものやタティングレースをしてゐて、途中で間違ひを発見してしまつた。
さて、どうする?

やつがれの場合は、「そのまま」にすることが多い。
まあ、程度問題だけれどもね。

二目ゴム編みのセーターを編んでゐたときは、表目と裏目とを取り違へるとそらー悲惨なことになつたので、そこはなほしながら編んだ。
ほとんどは二十段近く下にあるのを見つけて、仕方なくそこだけ目を落としてかぎ針で拾ひなほした。

全部ほどく、といふのはあまりやつたことがない。
途中までほどくなら何度かある。
とくにかぎ針編みならやりやすい。
なぜほどかないのかといふと、ほどいた後の糸の始末に困るからである。

あのー、なんで毛糸とかつて、あんなに絡まるんですかね。
こちらは単に糸をほどいてどんどん重ねていつただけのつもりなのである。
糸が絡まるやうなことなど毛ほどもしてゐない。
しかるに、なぜか糸は絡まつてしまふ。

なるほど、これがエントロピー増大の法則か、とも思ふが、そんなこと知りたくなかつたよ。

毛糸、と書いたが、綿のレース糸などでも「エントロピー増大の法則」は発生する。
ふしぎだよなあ。

あみものは、針を抜いてびーつと糸を引つぱれば、かんたんに糸をほどくことができる。
モヘアとか毛足の長い糸だとむづかしいこともあるけれどもね。

タティングレースはさうはいかない。
単に糸を引いただけでは目がつまるばかりだ。
芯糸に結びつけた目をひとつひとつ丁寧にほどいていくしかない。

そんなわけで、タティングレースでは滅多に糸をほどいたことはない。
最近はそれでもリングの芯糸を戻すのがすこし上手になつたのでほどくこともあるけれど、基本的には放置か切つて捨てる。
糸がもつたいないとお腹立ちの向きもあるかもしれない。
しかし人生は短い。タティングレースの目をほどく余裕などない。
間違へたらきつぱりと切つて捨てる。
さうでもしないと、まつたく先に進めなくなつてしまふ。

なるほど、糸がもつたいないから間違へたらほどいてなほしませう、といふ人は「先に進まなくてもいい」といふ考へ方なのかもしれないな。
それならやつがれも賛成したい。
賛成したいところだが、しかし、糸より時間がもつたいない。
糸は最悪買ふことができるかもしれない。
でも時間は買へない。

さういふことならニードルタティングがいいのかもしれないな、と、ときどき思ふ。
ニードルタティングなら針に糸を巻き付けてゐるうちは、針さへ抜けば糸はそのままほどけてしまふ。
最近ニードルタティングしてないなあ。

しかし、やつがれには The Twirly をつなぐプロジェクトがあつたのだつた。
現在四十枚目のモチーフをつないでゐるところである。
うーん、これもなんか、もつとこー、たくさん作りたいんだけどなあ。

なにかと時間がままならぬ。

Monday, 02 March 2015

くつ下対ブリューゲルレース

「毛糸だま 春号 No.165」を買つてしまつた。

一緒に嶋田俊之の「シェットランドレース」も買ふつもりだつたが、生憎と売り切れだつた。
その後本屋で見つけたのだが、なんとなく買ひそびれた。
最初に売り切れだつたときに「これは縁がなかつたといふことだな」と思つてしまつたんだな、うつかり。

あみものの本は「michiyoの編みものワークショップ」以来だ。
「michiyoの編みものワークショップ」には編みたいものが多いのだが、結局ポケットつきのポンチョしか編めてゐない。無念。

あひかはらず Weaver's Wool Mini Shawl を編み続けてゐる。
これが終はつたら、くつ下を編むつもりだ。「毛糸だま No.165」に載つてゐるものかもしれないし、全然関係ないものかもしれない。
この春夏はくつ下を編まうと思つてゐるんだよね。
以前も書いたけれど、くつ下なら真夏でも羊毛で編めるからだ。
この冬は一足も編んでゐないし、いいんぢやないかな。

編んではゐないけれども、毎日自分で編んだくつ下を履いてはゐる。
家の中でしか履かないのでさうさうダメになつたりはしない。
家の中でしか履かない理由は、その上からくつを履くとかかとがすり切れさうだからである。
まれに、ビルケンシュトックのサンダルにあはせて履くことがあるくらゐかなあ。
つまり外では春先か秋くらゐしか履かないといふことだ。
冬だといくら手編みのくつ下を履いてゐてもサンダルだと寒いからね。

いま気に入つてゐるのは、すべり目を多用したくつ下だ。
去年編んだものである。
すべり目なので糸が二重にわたつてゐてあたたかい。
そこがいいんだよねえ。
もう一足編みたいくらゐである。

去年このくつ下を編んでゐるときに書いたやうに、すべり目はあまりきつく編まない方が編み地がきれいになる。
それもわかつたことだし、もう一足編んでみたいなあ。
前回は糸をすべつた目のうしろに回したけれど、前に渡してもいいかも。

などと書きながら、「毛糸だま」の夏号ではブリューゲルレースが取り上げられると知つて、「そ、それは編んでみたいかも」と思つてゐる。
ブリューゲルレース、好きなんだよね。
細いブレードを編んであみつなげていく、あの感じが好きだ。
もう一昨年くらゐから「かぎ針網でなにか編みたい」と思つてきたけれど、やつと「来た」かもしれない。

まあ、「編みたい」と思ふ作品が掲載されてゐるかどうかは夏号が出てみないとわからないけどね。

それに、去年の夏編み始めて編みかけになつてゐるストールもあるし。
あれは仕上げたいなあ。マスタードでいい色だから。

編み気だけはあるのだが、なにかと時間がままならぬ。

Sunday, 01 March 2015

2015年2月の読書メーター

2015年2月の読書メーター
読んだ本の数:5冊
読んだページ数:1201ページ
ナイス数:11ナイス

絶叫委員会 (ちくま文庫)絶叫委員会 (ちくま文庫)感想
読み終へた後、電車の中で男子高校生が「マルセイユしてきてさ」とか云つてゐるのが異様に気になつた。この本に書いてあるやうなことつて、普通にあるんだ。なんだらう、「マルセイユする」つて。サッカーか何かか? 男子高校生にマルセイユ・ルーレットは可能なのだらうか。或はゲームの世界の話だつたのか。謎。
読了日:2月2日 著者:穂村弘
The Memoirs of Sherlock HolmesThe Memoirs of Sherlock Holmes感想
最後の事件つてこんなに感傷的だつたつけかー、と思ひつつ読む。「机の上で書いたやうに整然とした文字」だつたと記憶してゐるんだけど、なんか違つたようだ。
読了日:2月10日 著者:ArthurConanDoyle
女占い師はなぜ死んでゆく (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)女占い師はなぜ死んでゆく (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)感想
この翻訳はなんとかならなかつたのだらうか。ミステリアスプレスの頃から早川書房の翻訳は妙なのが増えたやうな気がする。せつかくいい話なのにもつたいない。先に出版された本が入手困難になつてゐるの惜しまれる。結末は「かうのうてはかなはぬかなはぬ」といつたもの。さうだよな。さう思ふよな。
読了日:2月14日 著者:サラコードウェル
The Hound of the Baskervilles: A Sherlock Holmes Novel (Illustrated)The Hound of the Baskervilles: A Sherlock Holmes Novel (Illustrated)感想
「緋色の研究」「冒険」「四つの署名」「思ひ出」と読み返してきていまのところこれが一番おもしろかつた。「緋色の研究」や「四つの署名」は「何故」の部分がたるい感じがしたけど、これにはさういふところがない。ホラー風味なのがいいのだらうか。怖いの苦手なんだけども。
読了日:2月18日 著者:SirArthurConanDoyle
樽【新訳版】 (創元推理文庫)樽【新訳版】 (創元推理文庫)感想
職場で話題になつて懐かしくなり再読。と思ふたら新訳であつた。それにしても相変はらずおもしろい。地名に関しては、「それぞれ違ふ場所」くらゐの認識で読んだけど、それで特に問題はないと思ふ。小学生のときに「ミステリマガジン」で連載されてゐた「BAR酔虎伝」で知つて読みたくなつたことを思ひ出しつつ海道龍一朗のエッセイを読んだ。
読了日:2月23日 著者:F・W・クロフツ

読書メーター

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