なんとなくそんな気がする
「保元物語」や「平治物語」では、「千古稀代の名軍師」といふと張良である。
至極当然のことかと思はれる。
時代は下つて近松門左衛門の「国姓爺合戦」の甘輝のセリフに日中の名軍師を三人づつ並べたセリフがあつて、そこには張子房は出てこない。
「保元物語」や「平治物語」が書かれたのはいつだかわからない。どんなに早くても1200年といつたところか。書かれたのがさうなら巷で語られるやうになつたのはもう少し前だらう。
そこから近松までおよそ500年。
そのあひだに、本邦では張子房は「千古稀代の名軍師」の座から姿を消してしまつた。
杜甫といへば「詩聖」と呼ばれる詩人である。
しかし、死後しばらくは、それほど評価されてゐなかつたといふ。
白居易なんかは杜甫を高く評価してゐたといふけれどもね。当時はわかる人にはわかる、といふ感じだつたのかもしれない。
唐が滅亡してすつたもんだあつて後北宋になつても、杜甫のことをかはない人もゐたといふ。
まあ、そんな人はいつの時代にもゐるか。
「杜甫? 好かねぇなあ」とか。
正直なところ、やつがれも時々杜甫にはまゐつてしまふことがある。
なにしろ、暗い。
憂ひが強い。
春にうつくしく咲いた桜の花を見て「この花を見られるのもあと何年だらう」とか考へてしまふ向きには、杜甫はおすすめしない。
いや、むしろすすめるべきなのだらうか。
さういふ人の心性にこそ、杜甫はあふのかもしれない。
あひ過ぎて、ときにたまらない気分になる。
さういふ感じなのかも。
杜甫の詩人としての評価が安定するのは、明に入つてからなんではあるまいか。
元がどうなのかはわからないが、南宋あたりから徐々に「杜甫、いいぢやん」みたやうな気運(?)がたかまつていつたんぢやないかな。
研究してゐるわけでもないし、ちやんと文献にあたつて調べたわけでもないけれど、なんとなくそんな気がする。
そして、杜甫の詩人としての評価が高くなるのと、諸葛亮が「千古稀代の名軍師」と見なされるやうになるのとは、ほぼ同時期なんぢやあるまいか。
全然関係ないことだし、まつたく見当違ひなことかもしれないけれど、なんとなくそんな気がする。
なんとなくさうなんぢやないかなー、と思つてゐて、そのうちなんとなく解決するといいなあ、と思つてゐる。
「平治物語」には「死せる孔明生ける仲達を走らす」を引用した箇所がある。
この時点ではすでに「孔明」だつたわけだ。「世説新語」だと「諸葛」になつてゐたりする。
ものごとは時々刻々と変化してゐる。
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