「三国志談義」を読む
先日、「三国志談義」を読んだ。
安野光雅と半藤一利との「三国志(演義)」を題材にした対談集である。
帯の惹句に「三国志キャリア六十余年」とあつて、「六十有余年」の方が三国志つぽいのに、と思つた。
「三国志」でも普通に「何十余年」とはあるけれど、さだまさしの「まっさん版三国志英雄伝」で、関羽が「二十有余年」つていふ場面があるんだよね。そのせゐだと思ふ。
内容については、「目新しい情報はなにもない」であるとか、「正しくない点が多い」などとくさしてゐる向きもある。
「三国志(演義)」についてはさほどの知識はないやつがれでも、「長阪橋の戦ひは八月だから夏」とある数ページ後に「孔明が死んだのは八月で秋」といふてゐるのを見ると、「この人たち、俳句も川柳もやるといふのに……」と思つてしまふ。
一月から三月は春、四月から六月が夏、七月から九月が秋、十月から十二月が冬、だよね。すくなくとも当時は。「史記」なんかでもさうなつてゐるし、蘇軾の「赤壁賦」も出だしは「壬戌之秋七月既望」だ。
それでもなほ、この本は読んでゐて楽しい。
好きなことについて、おなじものを愛好する相手と楽しく語らふ。
さうすると、こんな風になるんだらうなあ。
さう思ふ。
多少は与太話になつてもいいのである。
だつて楽しいんだもの。
世の中、好きなものについては詳しくないといけない、といふ風潮がある。
詳しいといつても少々のことではダメで、ものすごーく詳しくないと許されない。
そんな気がする。
そんな気がするといふことは、やつがれ自身が「好きなことについては詳しくなくてはいけない」と思ひこんでゐるのだらう。
でも、別に、好きなことに詳しくある必要はないのだ。
云ふことが必ず正確である必要もない。
楽しければそれでいいぢやんよ。
そんなわけで、今後はさういふスタンスで行きたい。
……いまでもさういふスタンスか。
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