捨てられない
正月を迎へると同時に、いろいろなものを新しくする。
我が家では、お箸がさうかな。あと歯ブラシ。
歯ブラシは、少し前に新しいものにしたばかりだつたので、今年はお箸だけ交換した。
去年まで使つてゐたお箸を捨てるときに、「いままでありがたう」などとつぶやいてゐて、この無生物に対する感謝の情といふのはどこから出てくるのだらうと、我にもなく考へてしまつた。
長く愛用してきたものと別れるときに、愛惜の情を抱く。
これは普遍的なことなのではないかと思ふ。
愛用品を惜しむ気持ちと、愛用品と過ごしてきた歳月とを懐かしむ気持ちとから、捨て難いといふ思ひが生じるのだらう。
だが、そこに感謝の情はあるのだらうか。
あるとして、いつたい誰に、或は何に対して感謝してゐるのだらう。
などと、深く考へたわけではない。
お箸に対する感謝の念を抱く自分、といふのが、妙に「いい人」のやうに思はれた。
そんなところかな。
そして、なかなかものを捨てられないのは、さういふ「いい人」の自分を捨てることになるからなんだらうな、などと思つた。
ものが捨てられないのは、まあ、面倒くさがりだからだけど、以前も少し書いたやうに、なにか自分とすこしでも一緒に過ごした時間のあるものを手放すのがつらいからでもある。
あつたはずのものがない。
さう思ふときのからつぽな気持ちといふのが耐へ難い。
こどものころ、足で漕ぐ車を持つてゐたことがあつた。
親が買つてくれたのか、はたまた誰かからの贈り物か、それは定かではない。
三度の引つ越しを経て、その車は常にやつがれのそばにあつた。
いつごろなくなつたんだらう。
どうやら知らぬうちに親がその車に乗るのにふさはしいくらゐの年齢の子にあげてしまつたのらしい。
昔の写真を見てゐると、その車に乗つた幼い日の自分がゐる。
もうこの世にはあるまいな。
さう思ふと、なぜだかひどく切ない。
水道とガスとのメータボックスには、かつては砂場遊び用の道具が入つてゐた。
ちいさなバケツにスコップとかプリンやアイスクリームを食べたあとの容器などが入つてゐた。
これも、いつしかなくなつてゐた。
もちろん、やつがれが使はなくなつたからである。
捨てたのはやつがれではない。
母だらう。
気づかぬうちに、なくなつてゐた。
車も、砂場遊びの道具も、みづからの手で捨てるべきだつたのかもしれない。
さうしたら、もうちよつとものを捨てるのが上手になつてゐたのかも。
そんな気がする。
使はなくなつたのは自業自得で、でもいつのまにかなくなつてゐて、別れを惜しむ間もなかつた。
ゆゑに思ひ出すだに慕はしく、懐かしい。なんで使はなくなつてしまつたのか、と、考へても詮無いことを綿々と考へてしまふ。
と、捨てない自分に対する弁護を延々としてしまつた、といふのがこの年末年始の休みだつた。
ところで、不思議なもので衣類に関しては捨てるときにあまりあれこれ考へないことが多い。
なんなのかね。
皮膚の一部のやうな感じなのかな。
細胞のやうなもので、時期が来たら自然と代謝するやうなイメージなのかも。
まだ着られるものを捨てざるを得ないときには、「もつたいないなあ」とは思ふけれど、着古してもうどうにもならないといふやうなものを捨てるときでも、お箸を捨てるときの「いままでありがたう」といふやうな気持ちが湧いてくることはほとんどない。
衣類の整理からはじめてみるかな。
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