飯田市川本喜八郎人形美術館 平家一門
12月6日に飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回は、「平家一門」のケースについて書く。
ギャラリーの最奥向かつて左側のケースには、その名のとほり平家一門の人々がゐる。
向かつて左手から時忠、頼盛、宗盛、経盛、清盛、徳子、忠度、知盛の順で並んでゐる。
中央に清盛と徳子がゐて、左側に文官姿の人々、右側に鎧姿の人々が配されてゐる。
清盛急病を発す、といつた趣のケースだ。
時忠は、一番左側の奥にゐる。少し高いところに立つてゐる。
来るべき時が来た、とでも云ふのだらうか、このケースの中では至極落ち着いたやうすである。
時忠は、ちやうどいま渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーにもゐる。
人形劇の時忠には若いころとすこし年を取つてからとカシラが二種類あるのらしくて、飯田にゐるのも渋谷にゐるのも年を取つてからの時忠である。
前回の飯田の展示で時忠を見たときは、人形劇のときとあまり変はらないな、と思つた。
実際に見比べて見ると、飯田の時忠の方が若干謹厳さうな感じかな。現在の展示内容からさう感じるといふのもあるが、前回の飯田の展示でも時忠からはどこかまぢめに厳しさうな印象を受けた。
その時忠の右にゐる宗盛はこれ以上はないといふくらゐに取り乱してゐる。
なにしろびつくりして尻餅をついたといつた様相だからね。
清盛になにかあつたら、平家の頭領は宗盛だらうに。
それがこのうろたへぶりである。
なんかもう、それだけで一門の未来に暗雲たちこめてゐるのを感じる。
その状態は醜悪そのもの、でも宗盛を責める気にはならない。
宗盛にとつては、父・清盛は絶対の存在だらう。
その父がにはかに倒れたりしたら、腰を抜かすだらう。
いや、まあ、普通だつたらそこまでひどい反応は見せないのかもしれないが。
正直に見せてしまふのが宗盛のいいところ……といひたいところだが、ここはやはり悪いところ、か。
悪いところかもしれないが、この反応は宗盛らしい。
時忠の前の下の段にゐる頼盛にも、取り乱したやうすは見えない。
頼盛は、どちらかといふと、自分は蚊帳の外にゐる、といふ、そんな落ち着きだらう。
頼盛は、ヒカリエの前回の展示のときにゐた。飯田の頼盛の方がしつかりした人物に見える。
自分と自分に連なるものだけは、ほかの平家一門とは袂をわかつて逃げのびる、そんなしたたかさと強さを感じる。
今回、時忠には「来るべきときが来たか」といふ落ち着きを感じるのに対し、頼盛には「自分とはあまり関はりのないことだ」といふ落ち着きを感じるのは、さういふところから感じるものなのかもしれない。
頼盛の右隣にゐる経盛は、心配さうに清盛の方に手をさしのべてゐる。
前回の展示のとき、経盛からは「やさしげなをぢさま」といつた印象を受けた。
一門からの視線を浴びて笛を吹く我が子・敦盛を気遣ふやうな視線がどこかやさしさうで、な。
ヒカリエにも前回の展示のときにゐた。
その経盛が身を乗り出すやうにして清盛に手をさしのべてゐる。
これまた、経盛らしいんだなあ。
この場の注目を集める清盛は、不意の目眩に襲はれたとでもいつたやうすで座してゐる。
その目衰へたやうすはないものの、思はぬ不調にみづから驚いてゐるやうにも見える。
目には力のあるものの、躰には力が入らない。
前回の展示ではこの世の春を謳歌する態を見せてゐたのになあ。
今回は一転して暗雲たちこめるやうすが見える。
衣装は前回とおなじだと思ふんだけれどもね。赤地に金の錦の衣装をまとつた出家後の姿である。
その横に、徳子が不安さうに座つてゐる。
突然倒れかかる父を心配して支へやうとするかのやうに見える。
すでに入内してゐるだらう徳子がこの場にゐるのはをかしいのだが、といふ話もあつて、しかし、この徳子が実にいい。
人形劇の徳子は、川本美人とでも呼びたいやうな美人だつた。
飯田の徳子はチト違ふ。なんといふか、ちよつと野暮つたいところがある。これまでの展示ではそんな風に思つてゐた。
実際の徳子に野暮つたいところがあつたかどうかは知らない。あつてもをかしかないかな、とは思ふ。
思ひはして、でも人形劇のときの徳子はよかつたのになあ、といふ思ひをどこかに抱いてゐた。
それが今回変はつた。
父のやうすを窺ふ憂ひ顔が実にいいんだなあ。
いままで見てきたカシラと変はらないだらうに、この印象の違ひといふのはなんなのだらうか。
病気の親を心配する娘といふのがしつくりきたのだらうか。
さう、ここにゐる徳子は「清盛の娘」であつて、それ以外のなにものでもない。
それがいい。
その右隣にゐる忠度は、これまたどこか落ち着いたやうすでゐる。
前回の展示のときとおなじ鎧姿である。
この忠度の考へてゐることがちよつとわからないんだよなあ。
熊野で生まれ育つたといふことだから、(異母)兄弟とはいへ清盛には、あまり親しさを感じてゐなかつたのかもしれない。
或は平穏さうにしてゐても、心の中は動揺してゐるのかもしれない。
ここは次回があつたらチト確認してみたいところである。
その忠度の右隣、ケース最奥にゐるのは知盛である。こちらも前回同様鎧姿だ。
こちらは半ば立ち上がるといつたやうすで父親の方に乗り出すやうにして手をさしのべてゐる。
落ち着いてはゐるものの、清盛を心配してゐるやうすが見てとれる。
逆かな、心配してゐるやうすはよくわかるものの、それでゐて泰然としたやうすにも見える。
宗盛はあんなに動揺してゐるのになあ。
もしかすると、兄の動揺するやうすを見て、自分はしつかりしなければ、とでも思ふてゐるのかもしれないなあ。
さて、このケースの前にこぶりなケースが二つある。
手前のケースには麻鳥と蓬子、奥のケースには朱鼻伴卜がゐる。
麻鳥と蓬子は、前回の展示のときには現在紳々竜々のゐるケースにゐた。
今回もこのときとおなじやうな姿で立つてゐる。
向かつて左側に麻鳥、右側に蓬子である。
麻鳥は、医者の持つ薬箱のやうなものを手に提げてゐて、これから往診にでも行くといつたところなのだらうか。
蓬子は、その麻鳥を見送る心なのか。
このあたりも前回の展示と一緒である。
違ふのは、説明書きのある方(以下、正面)から見たときに、二人がほぼ真横を見てゐること、かな。
前回の展示では、二人の躰はもうちよつと左右に開いてゐた。
舞台を見る人はわかるかもしれないが、舞台上で二人向かひあはせで喋る場面があつたとして、互ひに互ひの方を完全に向くことはあまりない。客席側に躰を開いて話をする。
前回の展示の麻鳥と蓬子はまさにさういふ「舞台上の二人」の位置関係にあつた。
今回の展示では、ほぼ完全に互ひに互ひを見てゐる。
ケースの裏側から見ると、実にいいんだなあ。
裏側から見ると、蓬子が微笑んでゐるやうに見えるのだ。
そのせゐか、麻鳥の表情もどこかやさしさうに見える。
正面から見るとそんな雰囲気はないのにね。
裏側からこの二人を見ると、なんとはなし、幸せな気分になる。
伴卜は、前回も一人用のケースにゐて座してゐた。座して、吉次のやうすをうかがつてゐた。
今回は「これはしたり」とでも云ひたげに扇を額に当て、片足をもたげたやうな姿で座つてゐる。
「これはしたり」と云ひながら、しかし、そんなに驚いたやうすには見えない。
驚きつつも、内心ではさまざまな計算を働かせてゐる。
そんな感じなのかもしれない。
以下、つづく。
「荊州の人々」についてはこちら。
「玄徳の周辺」についてはこちら。
「江東の群像」についてはこちら。
「曹操の王国」についてはこちら。
ギャラリー中央についてはこちら。
「義経をめぐる人々」と「木曽と鎌倉」についてはこちら。
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