手帳へのあこがれ
普段持ち歩く手帳をMoleskineにしてから、やはり書き込む量が増えた気がする。
以前書いたときは、「クイールノートは方眼罫で、書き込む字もおのづと小さくなるから量自体はそんなに変はつてゐない」と書いた。
なんか、そんなことはないやうな気がする。
数へたわけではないからはつきりとしたことはわからない。
もしかすると書き込む量はやはりおなじくらゐなのかもしれない。
しかし、手にしてぱらぱらとめくる回数は増えた。
これは間違ひない。
Moleskineが書き込みやすい訳については、やつがれの場合は罫線の幅がちやうどいいからといふのが一番の理由だつたりする。
あと、一ページ一内容にするとだいたい書きたいことを書けるといふのも大きい。
しかし、めくつてしまふ訳はなんだらう。
Smythson の Panama もつひつひぺらぺらめくつてしまふから、やつぱりサイズなのかなあ。
あと、表紙と中の用紙との厚みとが絶妙、といふのはあるかもしれない。
Rhodia の WebNotebookを使つてゐたころは、そんなにぺらぺらめくつたりはしなかつた。
こどものころ、手帳にあこがれてゐた。
小説の挿し絵やまんが、テレビドラマなどで、探偵などがなにやら書き込んでゐるあの手帳にである。
親に云ふと、確かにおなじやうなサイズの手帳が出てきた。
中身を開くと、一ページまたは見開きが七分割されてゐて、去年とか一昨年とかの日付が印刷されてゐた。
いや、違ふ。
これぢやない。
求めてゐるのは、予定表ではない。
単に罫線が引いてあるだけの、日付かまはず書き込めるやうな、そんな手帳だ。
しかし、どうやら世間では「手帳」イコール「スケジュール帳」なのらしかつた。
ええ?
では、あの小説やドラマにでてきた探偵たちは、その日の日付の欄にあれこれ細かく書き込んでゐたといふことなのか?
違ふだらう?
試しに辞書を引くと、手帳とは心覚えなどを書き留めておく小さな帳面である、といふやうなことが書いてある。
予定を管理する、とか、日付が印刷してある、とはどこにも書かれてゐない。
つまり、やつがれの求める、単に罫線が印刷されてゐるだけの、あれこれ書き込むだけのものも、「手帳」と呼んでいいはずだ。
そんなわけで、当時はA6サイズの帳面(ノート、ですな)を使つたりしてゐた。一時はずいぶんと使つた。持ち歩きやすいからね。
当時はなにか書き付けるとして、机の上といふことが多かつたので、表紙が薄くても痛痒を感じることはなかつた。
その後、A6サイズの帳面をあまり使はなくなつたのは、システム手帳を使ふやうになつたからだと思ふ。
能率手帳のやうなスケジュール帳を使つてゐた時期もある。
システム手帳ではリフィルの管理ができず(情けないことである)、能率手帳にはメモを書ききれないといふ問題点があつた。
やつがれの場合、メモといつてもメモぢやないからなあ。Moleskine のポケットサイズ一ページにびつしり字を書いてひとつのメモ、といつた感じだ。
能率手帳ではあつといふ間に書く場所がなくなつてしまふ。予定表部分をつぶせばいいとは思ひながら、それはなにかが違ふ気がする。
そこに Moleskine である。
最初に使つたのは無地の手帳だつた。
このサイズ、これつて、こどものころほしかつた、あの手帳とおなじサイズなのではあるまいか。
つまりは、Panama もそれくらゐなわけだけれども。
小説やドラマの中の探偵は、なにごとか書き付けたページをぴりりと切り取り、人に渡したりする。
最近の Moleskine はさうでもないやうだが、以前は切取線のあるページがあつた。
もう、まるであのとき見たあの手帳だよ。
さう思つたのは、しかし、最初の Moleskine を使ふやうになつてからしばらくたつた後だつたが。
先日、デザイン思考に関する講演会に行つてきた。
そこで、デザイナになるには、世の中のことを知り、世の中に対して好奇心を持つことが必要である、といふ話があつた。
好奇心を持つとそこから疑問が生まれ、疑問から発見を得、その発見からまた疑問が生じ……といふやうな話だつた。
やつがれはどうも美的感覚に欠けるところがあるし、体力と気力とに欠けるからつねに好奇心旺盛でゐるといふことがなかなかできないのだが、しかし、生じた疑問を書き留め、そこから得た発見を書き留め、さらに生まれた疑問を書き留めるといつたことは、まあできるんぢやないかな。
そんなわけで、今後も結局は Moleskine と Panama とのあひだを行つたり来たりしてしまふのではないかといふ気がしてゐる。
ときどき浮気しながらね。
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