エトス考
世に、臥薪嘗胆といふ。
「復讐のために艱難辛苦を重ねること」と辞書にはある。
それはちよつと違ふんぢやないかな。
薪の上に寝たり肝を嘗めたりといつたつらいことを日々やらないと、人は復讐心を忘れてしまふ。
さういふ意味なんぢやないかな。
さう思ふと、ちよつと安心する。
どんなに相手を恨んでみても、時間がたつと恨む気持ちは薄れていく。
恨みをたもつには、なにかしら自分の身を痛めるやうなことをしなければならない。
恨みをつのらせるのも苦しいけれど、そのためにさらにつらい思ひをするのはもつと苦しい。
そんな気がする。
ところがここに、薪の上に寝たり肝を嘗めたりしなくても、復讐心を忘れなかつた人物がゐる。
伍子胥である。
伍子胥は、父と兄とを殺した相手の墓を暴いて、その屍に鞭を打つたといふ。
周囲の人の目に、その姿はどううつつたことだらう。
Too extreme。
みなさう思つたのではあるまいか。
やがて、伍子胥の主である呉王夫差は、伍子胥の提言に耳を貸さなくなる。
その理由は「史記」には書かれてゐない。
でも思ふのだ。
みづからは薪の上に寝ることで復讐心をたもつた夫差は、そんなことをしなくても復讐に燃え続けた伍子胥を、気味の悪い人物と思つてゐたのではないか、と。
まあ、もしかしたら伍子胥もなにかしら復讐心を忘れないやうな荒行をしてゐたのかもしれないけどね。
ところで、これまた世にプレゼンテーションの極意といふものがある。
説得力の要素として、アリストテレスは「ロゴス・パトス・エトス」がある、と云つた。この三柱が、プレゼンテーションに不可欠だ、といふのだ。
ロゴスとは論理、パトスとは情熱または感情移入、そしてエトスとは人格とか人としての信頼性などと訳される。
プレゼンテーションに関する本や研修などでは、ロゴスについてはいろいろ教へてくれるし、「かうしたらいい」といふ方法も多彩だ。
人が人に教へられるのは、この三つのうちロゴスくらゐしかないからだ。
とくにエトスは、教へやうがないのではないかと常々思つてゐる。
職場に、さして専門知識のあるわけでもなければ、仕事に対する姿勢に疑問を覚えるやうな社員がゐたりする。
ところが、この社員が「仕事ができる」とみなされてゐることがある。
顧客からの覚えがめでたいからだ。
多少実務に問題があつても、「客に好かれてゐる」といふだけで、周囲は「仕事のできる人間」とみなしたりする。
「この人の方がよほど仕事ができるのに」と思はれるやうな人でも、顧客に受け入れてもらへないことがある。
これつて、エトスの問題だよね。
エトスにすぐれてゐるから、パトスのあることを客にわかつてもらへ、その結果好かれる。
そこにはロゴスはあまりなくても問題にはならない。
プレゼンテーションならいざ知らず、客との一対一に近い関係にはロゴスはあまり重要視されないこともある。
とはいへ、世の中にはロゴスを重視する人間もたくさんゐるから、さういふ客にはこの社員は使へない。
エトスのむづかしいのは、単に「いい人」であればいいといふことではない、といふことだ。
プレゼンテーションの達人と呼ばれる人々を見てみるといい。
スティーブ・ジョブズは「いい人」だつたらうか。
巷間知られてゐる逸話などから推量するに、お世辞にも「いい人」だつたとは思ひ難い。
それでゐてそのプレゼンテーションには定評がある。
一方では受け入れられるが他方では受け入れられない、さういふところがエトスにはあるやうに思ふ。
もちろん、全方向的に好かれる人もゐるかもしれないけどね。
エトスは一朝一夕に磨けるものではない。
こどものころから積み重ねてきたものがにぢみ出るものだ。
そして、ある人やある客に好かれなくても落胆することはない。
ほかの人やほかの客には受け入れられることもあるからだ。
伍子胥は、ロゴスを用ゐパトスをもつて夫差を説き、受け入れられなかつた。
伍子胥の持つエトスがさうさせたのではあるまいか。
そんな気がしてならない。
そして、夫差には受け入れられなかつたかもしれないが、受け入れてくれる君主もゐたらうになあ、と、つひ思つてしまふ。
伍子胥はそれをのぞまなかつたのかもしれないがな。
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