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Friday, 28 November 2014

集合知と物語

集合知といふことばがある。
いろいろと定義はあるやうだが、やつがれは「大勢からの大量の情報からなる知識」のやうなものだと思つてゐる。

たとへば物語だ。

物語といふのは、長い時を経て、大勢が語るやうになつたものをまとめたものである。
「長い時を経て」といふのが「集合知」にはない概念ではあるが、最終的に出てくるものはおなじなのではあるまいか。

ここのところ話題にしてゐるティム・ブラウンの Change by Design には、大勢の意見の方が個人の意見よりも正しい場合がある、と書いてある。
「クイズ・ミリオネア」の本家本元版では、知人に電話して得た答へよりも、会場の総意の方が正しい場合が多い、といふのだ。
さうなる理由もこの本には書いてある。

これつて、物語にもいへるんぢやないかな。

「平家物語」がいまある形になつたもとは、数多の琵琶法師が語り語つてあるていど洗練されたものなのではあるまいか、とか。
「三国志演義」は羅貫中が書いたことになつてゐるけれども、これも巷間に伝はる物語のおもしろいところを抽出した結果ああなつたのではあるまいか、とか。

文楽や歌舞伎だつてさうで、これまたたとへば「仮名手本忠臣蔵」は「碁盤太平記」を元にした作品で、しかも三人がかりで書かれたものである。弟子の手も入つてゐるだらうから、実際にはもつと大勢で書いてゐる可能性もある。
さらに、これまた長い年月を経て数多の役者が工夫をこらし変更を加へていまある「仮名手本忠臣蔵」になつてゐる。
おもしろいのは道理なのだ。
だつて「集合知」なんだもの。

さう考へると、まんがもまたさうなのではないかなあ。
まんがの筋には担当編集の意見もかなり関与してゐると聞く。
すなはち、まんがの筋を考へてゐるのは作者ひとりではないといふことだ。
ひとりよりはふたり。
さういふことなのではあるまいか。

さういへば、今年 Powers of Two といふ本が出版された。まだ出だししか読んでゐないけれど、世の中の多くのことはふたりの人間が関与してなされたこと、といふやうな内容である。
冒頭部分に出てくるのは、"With a Little Help from My Friends" を作成してゐる途中のジョン・レノンとポール・マッカートニーの話だ。この話はよく知られてゐると思ふ。どちらが作曲、どちらが作詞、といふことなく、お互ひに案を出しあつて、いつのまにか曲ができあがつてゐる、そんな感じの逸話だ。

ひとりぢやダメなのかなぁ。
大勢でないとダメなのだらうか。

まあ、「ひとりの知識の方が大勢のそれに勝る」といふ意見の人もゐないことはない。
でも、さう云つてゐるのは、かなり能力の高さうな人だ。つまり、凡百の徒とは一緒になにかする気にはならないつて感じの人ね。
さういふ人はさうなのだらうなあ、とは思ふ。

かく云ふやつがれは、ひとりが好きで、団体行動ができないタイプである。
すなはち、ダメつてことか。

すこし勝機があるとすれば、それは、「大勢から集めてきた大量の情報を「編集」する部分」、かな。
これはひとりでもできさうな気がするのだが如何。
著作権法つて、結局さういふことでせう?

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