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Friday, 10 October 2014

どちらでもない

「女子力」とはなんだらう。
なんだかよくわからない。
流行語に選ばれてから五年はたつといふのに、いまだに使はれてゐる。
そして、五年たつても、なんだかよくわからない。
わかりたくないともいへる。

「女子力」といふのなら「男子力」といふのもあるのだらう。
こちらはあまり耳にしない。
「「女子力」を高める」といふことばはよく聞くのに、「「男子力」を高める」といふ話は聞いたことがない。
「女子力」は高められるけれど、「男子力」は高められないのか。
「女子力」は高めるといいことがあるけれど、「男子力」は高めてもいいことがないのか。

橋本治が「美男へのレッスン」で書いてゐた。
女の人といふものは、自分に似たものが好きなのださうだ。
だから世の中の女の人に人気があるといふ美男は例外なくどこか女の人つぽいところがある、といふ。
本では宝塚の男役と石原裕次郎が例にあがつてゐた。
裕次郎は、やつがれにとつては「太陽にほえろ!」のボスであり、それ以外のなにものでもなかつたのだが、デヴュー当時はなにしろやうすがよかつたのださうな。

この説が正しいとするならば、異性からもてはやされたいと思つたら、男の人は「男子力」を(さういふものがあるとして)あげてはならないのだらう。
たぶん。
あまり男であることを前面に出さない方がいい。
さういふことになる。

女の人の場合はどうか、といふと、これだけ「女子力」といふものが取り沙汰されるといふことは、男の人から見ても「女子力」(といふものがあるとして)の高い女の人の方が一般的には魅力的にうつるのだらうから、あげるべきなのだと思ふ。

かういふ風に書くと、「「女子力」に興味がない」、もつといふと「「女子力」といふものを嫌つてゐる」と思はれるだらう。
あまり意識したことはなかつたが、どうやらさうなのらしい。

なんといふか、「おそらくこれが「女子力」といふものなのだらう」といふ力の高い人は苦手である。
なんだらうね。
では「男子力」(これはもつとわからない。ないのかもしれない)の高い人はどうかといふと、これまたあまりお近づきになりたくはない。
先日、「「男子力」を高めるにはどうしたらいいか」といふ話になつて、「高倉健に範を求めればよいのでは」とかいふやうな流れになつて、内心、「それはどーもなあ」と思つてゐた。
まあ、さういふほど高倉健のことなど知りはしないのだけれども。

「女子力」といひ、「男子力」といふ、さうしたものは、もしかするともつと昔には、厳然とあつたのかもしれない。
「女らしさ」「男らしさ」といはれてゐたものがそれだらう。

どうもやつがれは、「女らしさ」だとか「男らしさ」だとか、あまりない人間の方が好きなやうだ。
もつと云ふと、どちらも持たないやうな人が理想である。

両方持つてゐる、といふのは、それなりにあつたりするのだ。
両性具有といふことばが示すとほりである。
男でもあり、女でもある。
さういふ存在は想像もしやすいのだと思ふ。

だが、どちらでもない、といふことばはない。
多分ない。
もしかしたらあるのかもしれないけれど、寡聞にして聞いたことがない。
虫や魚などに「どちらでもない」といふのがゐるけれど、いざとなるとどちらかになつたりするものが多い。
すなはち、どちらかになる可能性を秘めてゐる、といふことだ。
それはやつがれにとつては「どちらでもない」ではない。
「どちらでもない」とは、どちらになることもない、といふことを指す。
さう思つてゐる。

そんなだからだらう、芝居は時代物が好きだ。
世話物、それも心中物なんかはどこがいいのかさつぱりわからなかつたりする。
心中物は道行をたつぷり描くのがいいのだ、と云はれて、そのよさがさつぱりわからない。
「曽根崎心中」や「心中天網島」の道行の文句がいいのはわかつてゐる。ことばだけ抜き出してもすばらしい。
だが、道行の場面はそんなに好きではない。
大抵いつでも「早く終はればいいのに」と思つてゐる。
そもそも「曽根崎心中」はお浄瑠璃からして好きではない。
「心中天網島」は好きなんだけれどもね。
「心中天網島」は、とくに悪役がゐないのがいい。ちよつと悪い奴は出てくるけれど、九平次ほどには悪くはない。
小春と治兵衛は、まはりの人がいい人だから死なねばならない。
そこがお初と徳兵衛とは違ふところである。
ここのところは、江戸時代の人とは趣味のあはないところであらう。
いづれにしても、ふたりの戀物語なんてどーでもいいのだ。やつがれにとつては。

「人形歴史スペクタクル 平家物語」(以下、「人形劇平家物語」)を見たときもさうだつた。
この夏、第二部が渋谷区防災センター会議室で上映されたけれども、義仲とその妻妾とのゴタゴタの段になると、とたんにつまらなく感じてしまふ。
「めんどくさい」つて思つてしまふんだよなあ。
義仲には巴といふ正妻がゐて、ふたりのあひだには駒王丸といふ息子もゐる。
一方、義仲には葵といふ妾といふか第二夫人もゐる。葵はなにかにつけ義仲を独占したがり、巴や駒王丸にも会はせまいと画策したりする。

あー、はいはい。
そんなのはどうでもいいから物語を進めてくんな。

「人形劇平家物語」のこのくだりを見るにつけ、ついついさう思つてしまふ。
実際はこの義仲と妻妾とのゴタゴタもちやんと物語の中の一エピソードなんだけれどもね。
そんなのどうでもいいぢやんよ。
それよりも、都はどうなつてゐるのー?
鎌倉は?
義経はどうしてゐるんだよ?
さういふ方が気になる。

なんでかうなつてしまつたのか。
「少女まんが育ちなら、惚れたのはれたのは物語に不可欠と思つてゐるはず」といふ意見もある。
やつがれはまがふことなく少女まんが育ちである。
それでゐて、戀愛を主にとりあつかつた物語を好まないといふのはなぜか。

もつて生まれた嗜好なのかもしれないけれど、なんとなく生まれてはじめて毎号買ふやうになつたまんが雑誌が「花とゆめ」であつた、といふところが大きいやうに思つてゐる。
まだ「ガラスの仮面」も「スケバン刑事」もはじまつてはゐなかつたころ、「アラベスク」第二部の最終話付近だつたやうに思ふ。
「アラベスク」も、なー、ミロノフ先生とか出てくるけど、あれつてあんまし「ラヴストーリー」つて感じぢやないんだよね。
いま読みなほしたらまた違ふのかもしれないけれども。
ほかにも、ちやんと少女まんがらしい戀愛ものも掲載されてゐたらうと思ふ。でもまつたく記憶がないんだよね。
当時好きだつたのが「はみだしっ子」シリーズの「だから旗ふるの」だつたりするから、まあ、さうしたものなんだらうなあ。
あと「別冊マーガレット」だと思ふけれど、和田慎二の「わが友フランケンシュタイン」ものも好きだつたな。ヒルダといふ少女の出てくる話。

ここのところ読んだ本を見返してみても、色戀を中心にすゑたものはほとんどない気がする。
いや、ものごとの根本は実は色戀で、A Study in Scarletだつて、犯人がある女の人を愛してゐなかつたら起きなかつた事件だと云はれればそれまでなのだが。
読みながら、「そんなのどうでもいいぢやん」と思つてしまふ自分がゐる。

見続けてゐればこんなやつがれにも道行のよさがわかる日が来るのだらうか。
来ないやうな気もするが。

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