四天王に踏みつけられし我が生涯
weblogやSNSには、否定的なことは書かない。
鉄則なのださうである。
一時は「さうしたものか」と思ふて苦労してゐたこともある。
でもやめた。
性格にあはないからである。
あはないのなら、weblogやSNSをやめればいい。
さうなのかもしれない。
でも、やめてゐない。
「否定的なことは書かない」といふ考へ方に賛同できないからだ。
そんなわけで、拙blogには、日々否定的なことばが書き連ねられていく。
Twitterなんかでも「眠い」とか「だるい」とかつぶやいてばかりだ。
まあ、Twitterでつぶやくわけはひとつあつて、あとで見返したときに「ああ、このときはだるかつたんだな」とわかるやうにしてゐるからだ。
たとへば、先月の半ばはとくにだるかつたのらしい、なぜだらう、手帳などを見返して、「ああ、なるほど、こんなイヴェントがあつたからか」などと確認する。
または、単にバイオリズムとかいふアレでだるいだけなのかもしれない。
さうすると、次に似たイヴェントやバイオリズムとやらの波がきたときに、まただるくなるな、と予測がきくやうになる。
さうすればだるくならないやうに予防したり、だるくなつても大丈夫なやうに身辺を整理しておく、といふこともできるといふ寸法である。
なにもTwitterでやらなくても、といふ話もあるが、一番見返しやすいのがTwitterなのでな。
否定的なことを書かないやうにするにはどうすればいいか。
好きなことを書けばいいだらうか。
さう思つたこともある。
だが、すぐにそれではダメなことに気がついた。
こどものころから自分の好きなことやものについて手放しで賞賛するといふことができない。
なにかを好きになると、それのダメなところや苦手なところ、欠点を探してしまふのだ。
それで安心したりする。
「あばたもえくぼ」とか「亭主の好きな赤烏帽子」とかいふことばが嫌ひなんだよね。
どんなにすぐれたもの、どんなに気に入つたものでもダメなものはダメだらう。
あばたはあくまでもあばた。
さう思ひたいのである。
かくして、どんなに好きなことについて書くとしても、「否定的なことは書かない」といふのは無理難題以外のなにものでもないのだつた。
好きなものの欠点をあげつらつて、「それでも好きだ」とか「それだから好きだ」とやらかすのもあまり好きではない。
それでゐて、好きなものごとを好きな理由の根幹を否定されると、たちまち弱つてしまふ。
ダメだねー。
そこで好きなものごとを好きな理由の根幹も否定の対象になるのだ、と、立ち向かへるやうならディベイトでも無敵なのにね。
つて、まあ、ディベイトとかやつたことはないけれども。
でも、ディベイトといふのはさうしたものだらう。
とあるものごとについて長所短所をあげていつて、みづからの主張の根拠をととのへていく。
たとへば自分がそのものごとを「是」とする立場にたつたとしたら、「非」とする立場の相手はかう攻めてくるだらう、はたまたかうも云つてくるかもしれない、と、手を尽くす。
ディベイトといふのはさうしたものだらうと思つてゐる。
本来はディベイトをするしないに関はらず、ものごとといふのはさういふ風に見るものなのだらうと思ふ。
その一端をなんとかかんとかやつてゐる。
とくに自分が好きなものごとに関しては、ね。
と、さう思つてゐる。
できてないけど。
「否定的なことは書かない」といふ考へ方に賛同できない理由は、残念ながら「言論の自由」云々といふところにはない。
有り体に云ふと、天の邪鬼だから、だな。
どうしてこんな性格に生まれついてしまつたのか、と嘆くこともないわけぢやない。
でも生まれもつた性分だから仕方がないやね。
性格は変へられる、と世の人は云ふけれど、遺伝子に刻まれてゐるものはなかなか変へることはできないんぢやあるまいか。
さう思つてゐる。
天の邪鬼でいいことなどない。
強いて云へば、天の邪鬼ゆゑに自分の好まぬ方を選んで、それで得するといふこともあるかもしれない。
しかし、それは運でしかない。
天の邪鬼でなくてもありうることだ。
世の中はすなほで自分に正直な人間の住みやすいやうにできてゐる。
わかつちやゐるんだがなあ。
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