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Friday, 31 October 2014

銀のスプーンと縁がない

先日、TwitterのTimeLineに「最近歌舞伎を観劇する客の和装の質がよろしくない」といふやうな内容のつぶやきがまはつてきた。

歌右衛門のころは、初日楽日ともなると気合ひの入つた和服で見に来る客が多かつたのださう。
そして、こどものころからいいものを見ていいものを聞いていいものを食べていいものを着て(そして、当然いいところに住んで)きたやうな客が減つてゐる、といふやうな趣旨であつたと思ふ。

和装については、芝居見物の折に見かける範囲でいふと、圧倒的にお年を召した方の装ひの方がステキである。
着こなしにしてもさうだし、立ち姿、歩く姿、いちいちさまになつてゐる。
ちかごろはお若い方にも着慣れたやうすの方が増えてゐるやうに思ふけれども、経験の差は如何ともしがたい。

でも、それは、仕方ないんぢやないかなあ。
慣れてないんだからさ。
いまの若い方々がお年を召すころには、やはり「お年を召した方の装ひの方がダンゼンステキね」などと云はれるやうになるのではあるまいか。

いや、わかつてゐる。
もともとの発言主の意図はそこにはない。

ここにも以前書いたやうに思ふが、芝居を見てゐると、ときに「やつがれ風情が見てもいいのか」といふ気になる。
残念ながらやつがれは「こどものころからいいものを見ていいものを聞いていいものを食べていいものを着て(そして、当然いいところに住んで)きた」わけではない。
忘れもしない小学三年生のある日、突然歌舞伎を見たくなつて、親に頼んだところ、「自分で稼げるやうになつたら行きなさい」と突き放された、そんな家庭で育つた人間である。
親に理解がなかつた。そもそも伝統芸能に対する興味もなかつた。
もつといへば先立つものがなかつたね。

親もそのまた親も、芸術的なことに関する素養はまつたくない。
家族の中で、芝居を見たり演奏会に行つたり(最近は行かないけれど)、年に一度行くか行かないかではあるものの展覧会に行つたりするのはやつがれ一人だ。

それつて、「いいものに触れてきたわけではない」といふことが劣等感になつてゐるんだよね。
認めたくないけれども。

もちろん、文化的にちよつとどうかなといふ境遇に育つても、芝居や演奏からさまざまなことを享受できる人といふのはゐる。
たぶんたくさんゐることだらう。
これまた残念ながら、やつがれはさうではない。
見るには見て、聞くには聞いてきたけれど、あまり役に立つてゐない。
まつたく、もつたいないことこの上ないのである。

ゆゑに、ときどき思ふのだ。
もしかして、「こどものころからいいものに触れる」ことのできる環境に育つたら、いま見聞きしてゐることどもも、もつとよく理解できてゐたのかな、とか。
もつといふと、さういふ環境で育つてゐたら、自分が見聞きすることで見せてくれたり聞かせてくれたりする側になにかしら貢献できたりしたのかな、とか。

最近では演奏会にも行かなくなつてしまつたし、芝居はといふといつも一番安い席で一度だけ見るやうになつてしまつた。劇場での買ひものはほぼ皆無。舞台写真も筋書や番付さへ買はなくなつてしまつた。

まあね、単に「楽しかつた」「きれいだつた」でいいんぢやない、といふ気もしてはゐる。
むづかしいことは評論家にでもまかせておいて、「よかつたねー」でいいぢやん、とかね。
自分がものごとの深いところをつかむことができず理解することもできないのは、育ちのせゐもあるけれど、持つて生まれた資質のせゐでもあり、わかつてゐながら磨いてこなかつた自分のせゐでもある。
いちいちそんなことを嘆いてゐてもどうにもならない。

冒頭のつぶやきにある「いいお召し物のお客」とは住む世界が違ふのだよ。
それでいいぢやあないか。
な。

Thursday, 30 October 2014

使ひ終はつた手帳の処遇

使ひ終はつた手帳をどうしやう。

Moleskineに代表される手帳を使ひはじめて4年、使ひ終へたノートが10冊はある。
実は数へたことはない。
だいたい4ヶ月に1冊ペースなのではないかと思ふので、12冊くらゐだらうと思つてゐる。

手帳の種類はさまざまなので、いまのところ順番には並んでゐない。
大きさは預金通帳サイズか文庫本サイズのどちらかだ。

ほかにスケジュールと日記を書いてゐるほぼ日手帳がある。これが10冊。

これ、どうしたものかねえ。

なぜ使ひ終へた手帳を取つておくのか。
捨てるにしのびないから、といふのが一番大きな理由である。捨てるのがめんどうくさい、といふのも本心だ。
しかし、取つておくならば、なにかしら役割があるのではあるまいか。
まあ、本棚を占領するといふのも役割のひとつかもしれないけれども。

取つておくといふことは、見返すつもりである、といふことであらう。
実際、職場においてゐる使ひ終へた手帳については、時折見返すこともある。
以前、似たやうな仕事をしたときのことが書いてあつたりするからだ。
書いておいてよかつたといふ話を、三年手帳のところでもしたやうに思ふ。

見返す、といふことでいへば、三年手帳はいい。
二年分のことが記されてゐたりするからだ。
使ひはじめたときは普通の手帳と変はりないがな。
でもその三年手帳も三年たつて日々の欄をすべて埋めたら持ち歩くことはなくなる。

取つておいて、頻繁に見返すか、といふと、さうでもないんだよなあ。
おもな理由は、「見返してゐる時間がとれない」といふことだ。
おそらく、毎日の予定に「過去の手帳を見返す時間」といふのを組み込めばいいのだ、と、それはわかつてゐながら、できてゐない。
だいたいどうやつて見返すといふのか。
1年前のことを見返すか。それとも1冊前の分を見返すか。
毎日、その日のことを何年前はどうだつたか、とか見返すのか。
実はやつがれはこの「何年前の今日、なにをしてゐたか」を見返すのが意味もなく好きだ。
だから三年手帳を使つてゐても楽しい。
でも、好きなのにできてゐない。
手帳にわかりやすい見出しがあるわけではないからだ。
見出しをつければいいのか。
うーん、これはちよつとやつてみやう。

しかし、それでも毎日見返すとはかぎらないなあ。
以前もすこし書いたやうに、現在使つてゐる手帳では、前日の記録、一週間前の記録、一ヶ月前の記録を見返すやうにはしてゐる。
ここのところ見返すことがなくなつてゐたけれど、また復活した。
そんなことをしてなにか効用があるのか、といふと、うーん、やつがれとしてはなにもないな。
たぶん、なにもないからやらなくなつてしまつてゐたのだらう。
ただ、日々書き込んでゐることどもを、できるだけリンクさせたい、といふ思ひはあつて、またはじめてみた。
たとへば、本を読んでゐる最中にもあれこれ書いたりするので、読み終へたあとの感想部分に「読んでゐる最中に書いたメモ」のページ数を書き込んだりとか、或はここのところ源平関連の本を読むことが多いので、芝居を見た感想に本の感想のページ数を書き込んでみたり、その逆もしたりなどしてゐる。

ただ、かういふことも、またその後見返すことがないと、なんのためにやつてゐるのかわからないなあ、と思ふのだつた。
意味がないぢやん。

……まあ、意味がなくてもいいのか。

しかし、この先も手帳が増えつづけることを考へると、おいそれと手帳を増やすわけにはいかないな、とも思ふ。
「1冊のノートにすべて書け」とは、さうしておけばどこになにを書いたか探さなくてすむからだ。
でも、もしかすると、ノートの使ひわけをしてゐると、どんどんノートが増えて収拾がつかなくなるぞ、といふこともあるのかもしれない。

それに、ひとつ前くらゐの手帳の内容は即確認したいこととかあるんだよね。普段持ち歩いてゐないからできないけどさ。
それつて使ひわけをしてゐたら、その分持ち歩かないといけないつてことだよね。
それを考へたら、やはり「1冊のノートにすべて書く」になつてしまふのではないかなあ。
1冊のノートにすべて集約してゐても、前の手帳を持ち歩かうと思つたら、手帳はできるかぎり薄くて持ち歩きやすいものであつてほしい。
Smythsonか……。
などと、心は千々に乱れるのである。
大袈裟だけど。

それにしても、使ひ終へた手帳をとつておく必要があるのか、といふのは考へるべき課題だな。
あまりとつておくべき理由を思ひつかないしね。
だいたい、やつがれの死んだ暁には、いづれにしてもすべて捨てられてしまふのだ。
だつたら自分の手で、と思はなくもない。

そして、もちろん、捨てるつもりはまつたくない。
いまのところはね。

Wednesday, 29 October 2014

Comment te dire Adieu

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの展示替へのお知らせが発表された。
現在の展示は11月4日(火)まで。
翌日11月5日(水)から11月13日(木)までは展示替へのため休館。
11月14日(金)から新たな展示でのお目見えとなる。

前回の展示替への前だつたか、パネルの追加の話とかもあつたやうに思ふのだが、今度の展示替へで追加されたりするのかな。
現在は平家物語については年表のパネルがある。三国志はない。三国志の年表パネルが追加になるんぢやないかと期待してゐるのだが、いまのところその兆しはない。

展示替への日程はだいたい予想どほりだ。
予想どほりではあつて、しかし、実際に知ると衝撃は大きい。
ここにもくどいほど書いてゐるやうに、今回の展示はゆつくり見る機会があまりなかつた。
それまでは、芝居を見るといつてはその前後いづれかにヒカリエに寄つたり、渋谷以西に行くといつては途中下車して立ち寄つたりしてゐた。
その元気が、この展示の会期中にはなかつた。
いま思へば、芝居の前後に行く気力がなかつた、といふことがをかしいのだが、当時はそれに気づいてなかつたんだよなあ。

そんなわけで、のこり一週間、できるだけ通ひたいと思つてゐる。
いまゐる面々とはまたしばらく会へないわけだしね。

しばらく会へないといつても、三国志の人形には、前回と今回とで再会できた者は結構多い。
初回の展示のときにゐて、その後見かけてゐないのは董卓、李儒、王允、赤兎くらゐかな。
平家物語は、人数が多いだけあつて、初回の展示にゐた者をその後見かけたことはないやうに思ふ。
この展示替へで帰つてくる人もゐるかなあ。

帰つて来ても、以前に見たときとはまた違ふやうになつてゐるんだらうな、とも思ふ。
だからこそ、しよつ中見に行つてしまふ、とは、これまたここにくどく書いてゐるとほりである。

もしかしたら、しよつ中見に行つてしまふのがいけないのではないか。
展示替へ直後に一回、展示替へ直前に一回、あともう一回くらゐ行けばいいのでは。
そんな気もする。
だいたい、飯田市川本喜八郎美術館には、展示替へ後に一度、あとはどこかでもう一度くらゐしか行つてないし。
行けないからといふこともあるけれど。

たとへば、ゴキブリである。
苦手な人も多からう。
かく云ふやつがれも苦手で、ここにかうして名前を打つのも厭はれるほどである。
その苦手を克服するには、しよつ中見ることである、といふ。
いや、それができないから苦手なんでせう、とも思ふが、どうも世の中さういふものなのらしい。
学校や職場で毎日見てゐる人のことは、次第に憎からず思ふやうになる。
それとおなじで、ゴキブリ(Ugh!)も、日々見てゐればそのうち慣れる、といふのだ。
TVでさういふ実験をしてゐたやうにも思ふ。
云はれてみれば、ゴキブリなんて毎日見るものでもないものなあ。たまにあらはれるからたちが悪い。

しよつ中見てゐるもののことを人は好きになつてしまふのらしい。
日々見ることで、それはもうあたりまへのことだと思ひ込んでしまふのかもしれない。
だとしたら、行けるかぎり行くいまの戦法(つてをい)は間違ひなのでは。

などと云ひつつ、やはり行つてしまふのだよ。わかつてゐるよ。
闞沢の帯の鶏を見たり、孫権の衣装の蝶を見たり、ケースの切れ目の線が邪魔だなあと思ひつつ周瑜の肩越しにうち微笑む小喬に見とれたりしに行くのだ。

やつぱり今回の衣装大賞は小松殿だなあと思ふたり、ロマンスグレー一歩手前くらゐの経盛に見入つたり、きりりと凛々しい忠度に気を取られつつ頼盛の紫地に銀の刺繍の衣装も気になつたりする。
ああ、でも今回はやつぱり時忠と後白河院だらうかなあ。今度会ふときは今回ほど素敵ではないかもしれないと思ふにつけ、見てしまふんだらうなあ。
頼光の直系のわりにここでは冴えない多田蔵人とか、俊寛二態とか。

といふ話を、また展示替へ前に見に行つたあとに書くやうな気がしてならない。

Tuesday, 28 October 2014

4枚つないだ

Masquerade in Progress

Masqueradeを四つつないだ。
中心部分に円形の模様があるのがわかるだらうか。
四角いモチーフの四隅をつなぐとあらはれる模様である。
ここだけ見るとちよつと中華な感じかな。

かういふ、「つなぐとあらはれる模様」が好きだ。
このモチーフが掲載されてゐる Mary Konior の _Tatting with Visual Patterns_ には、もう一つ、四隅をつなぐとあらはれる模様のあるモチーフが載つてゐる。
そちらのモチーフは、タティングシャトルをふたつ使ふか、途中で shoe-lace trick といふ糸と糸とを交差させる技を使はないと作れないやうになつてゐる。
隅をつなぐと別の模様があらはれるモチーフといふのは、大抵の場合、ブリッジ(またはアーチ)の途中にリングを作るものが多いからだ。
そのリング同士をつなぐと、モチーフ単体では見えなかつた模様があらはれる、といふ具合である。

Masqueradeは違ふ。
Masqueradeはシャトルと糸玉からの糸とで普通に表裏にひつくり返して作つていくだけでいい。
ほかにはちよつと見たことのないモチーフである。
世の中には星の数ほどタティングレースのモチーフがあるのだから、その中にはあるとは思ふ。単にやつがれが知らないといふだけで。

そんなわけで、Masqueradeはいままで何度も作つてゐる。
何度も作つてこの程度かよ、とは思ふが、世にこれを「下手の横好き」といふのだらう。

一番最初に作つたときは、9枚くらゐつないでみた。
その後は4枚つないで模様ができたところでやめてゐる場合が多い。
今回は糸のつづく限りつなげてみるつもりでゐる。
横に3枚はつなげたいかなあ。
かなり糸を消費するモチーフではあると思ふので、そんなに大きなものは作れないかな。

しかし、このMasqueradeもしばし中断する予定である。
The Twirlyに戻るわけではない。
ちよつとモチーフ作成月間に入るのでな。
いい加減はじめてゐないといけないのだが、なぜかいま心惹かれるモチーフがないのだ。
なにかいいモチーフはないものか。
と、タティングレースの本をあさりはじめると、またぞろ大作ばかりに目がいくのでいけないんだよなあ。

しかし、そろそろはじめなければ。

Monday, 27 October 2014

ポンチョ編めた

「michiyoの編みものワークショップ」に掲載されてゐる、ポケットつきのポンチョを編み終へた。

着手したのが10/5で編み終へたのが10/26。ほぼ三週間で編めたことになる。
整形がまだなのでできあがつたとは云へないがな。
しかし、室内で着用することになると思ふので、整形はしなくてもいいかなー、とも思つてゐる。

毛糸は本に指定されてゐるとほり、ハマナカのアメリーを使つた。
色は本では青といふか紺といふかだが、やつがれのは臙脂色。
本とおなじにしておいた方がよかつたかなあ、とは、以前も書いたとほりである。

アメリーはメリノの化繊混の糸である。
化繊がまぢつてゐるといふことで、あたたかさの面ではチト不安があつた。
だいたいの形ができた日が寒かつたので、かぶつてみたところ、それなりにあたたかい。
編み地が毛がもふもふしたやうな感じだからかな。

やつがれが着るととくに「どこがポンチョ?」といふ感じになる。
余裕のある五分袖セーターといつたところか。
さうなるだらうことは本に載つてゐる写真からもわかるので、問題はない。

ポケットはつけなくてもいいかなと思つたが、つけてみた。
ないと前と後ろがわからなくなるからである。
実はポケットがなければどちらを前にしてもいい形なのだ。
つけなくてもよかつたかなー。
これは今後着用してみないとわからない点である。

編んでゐる最中は、とにかくひたすらメリヤス編みと裏メリヤス編みといふのが、時につらいことがあつた。
ここのところ、ひたすらメリヤス編みと裏メリヤス編みといふものばかり編んでゐる気がする。
たとへば、先日編んだ透かし編みのショールだ。
透かし編みだから減らし目と増やし目があるし、ショールだから増減がある。
あるんだけど、大半は表はメリヤス編み、裏は裏メリヤス編みだ。

この春先に編んでゐたメビウス編みのケープもそんな感じだつた。
ひたすらメリヤス編みと裏メリヤス編み。
それで、裏メリヤス編みもだいぶ編めるやうになつた、とは、以前も書いたとほりである。
これまでは裏メリヤス編みはとにかく苦手、といふ感じだつた。
できれば編みたくない、とまで思つてゐた。

それがここ最近そんなものばかり編んでゐるので、だいぶ苦手意識を克服できたものと思はれる。

一時は、ゴム編みやかのこ編みをしてゐれば裏メリヤス編みも編めるやうになるかなと思つてゐた。
それだと不足なやうだ。
とにかくひたすら裏メリヤス編み、といふものを編んだ方がいい。
少なくともやつがれはさうだつた。

編んでゐるときは気になつた輪で編んだ部分と往復に編んだ部分との編み目の不揃ひなところも、編み終へてみると気にならない。整形すればもつと気にならなくなるだらう。
綿の糸とかだとかうはいかないかもしれないなあ。
毛糸なので、編んでしばらくするとちよつと目が締まるんだらうと思ふ。

今回、最後は敢て伏せ止めをしてみた。
ゴム編みの編み終はりは、一目ゴム編みまたは二目ゴム編みの場合はゴム編みの止め方をしてきた。
その方がきれいに仕上がる。
きれいといふか、ゴム編みがそのままそこで終はりましたよ、といふ形に仕上がる。
そんなわけで、本に「伏せ止めする」と書いてあつても、ゴム編み止めをすることが多かつた。
今回、伏せ止めで止めてみて、これもまあそんなに悪いものでもないな、と思つた。
うまい具合に余裕をもたせて止めることができたからかもしれない。
昔は、伏せ止めをするとどうしてもきつく止め勝ちで、襟元や袖口、履き口などの伸縮性が失はれることが多かつた。
今回は、気をつけながら止めたといふのもあるけれど、伸縮性を損なはずに止めることができた。
かういふのも、たまにはやつてみるといいのかもしれない。

本の編み方と違ふ編み方をしたのは、編み始めの部分である。
本では襟を編んでそのまま本体につなげるやうになつてゐる。
やつがれは、別糸を鎖編みをして、そこから目を拾つて本体を編み始めた。
すなはち、襟はあとで編んだ。
さうしたのは、毛糸があまつたらロールカラーにしやうかな、と考へてゐたからである。
結局さうしなかつたのは、試着してみたときに、襟元が思つたより狭かつたからだ。
もうちよつと広かつたら、おなじ本の表紙に載つてゐる作品のやうにロールカラーにしやうかなあと思つてゐた。
毛糸のあまり具合から見て、毛糸も不足しさうだつたし、結局本に書いてあるとほりの段数ゴム編みをした。
最後は伏せ止めにしたし、意味なかつたなー。

反省点はそんな感じかな。
アメリーは、モヘアほどではないけれどももふもふした編み地になる毛糸だと思ふ。
もふもふ具合は色によつてももしかすると違ふかもしれない。
「michiyoの編みものワークショップ」にはアメリーを使つた作品も多く掲載されてゐるが、もふもふした印象の写真はなかつたやうに思ふからだ。
おなじ本からやはりアメリーを使つたスカートとかカーディガンとかレギンスとか、編んでみたいんだけれども、この秋冬にはチト無理かな。

次はストックホルムで買つてきた毛糸でその名も Stockholm Scarf を編む予定である。
予定、といふか、もう作り目はしてしまつた。
このScarfについては、またの機会に。

Friday, 24 October 2014

最近少し書くやうになつた

日々のあれこれを書くノートがMoleskineに代はつて十日。
以前より書きつけるやうになつた気がする。

よくよく考へると、書く量は変はつてゐないんだけどね。
以前は5mm方眼で、罫線にあはせるやうに書いてゐたので字が小さかつた。
いまは罫線ありのMoleskineを使つてゐて、書き込む字も前のノートを使つてゐたときよりは必然的に大きくなる。
ゆゑに一度に書き込む量はそんなに増減してゐない。
でも、以前よりノートを開いて書き込む回数が増えた気がする。

「気がする」といふ書き方でわかるとほり、実際さうなのかどうかはよくわからない。
ノートを開いて書き込む回数だとか書き込むのにかける時間だとかをはかつてゐるわけではないからだ。
かう書いてゐて、「実はさういふ時間つてはかつてみるとおもしろいのかも」と思ふにいたつた、といつたところである。

さう思ふ所以は、さうだなあ、たとへば、先週の土曜日に新橋演舞場に行つたときのことである。
ここ一年ほど、幕間にその前の幕で見た芝居についてあれこれ書きとめるやうにしてゐる。
さうしないと忘れてしまふことが多いからだ。
歌舞伎座のさよなら公演のときに、「菅原伝授手習鑑」は「筆法伝授」がかかつて、このとき中村吉之丞の演じた役のせりふがことのほかうつくしかつた。
菅丞相からなんとか筆法を伝授されたい、と頑張る希世といふイヤな奴がゐる。日々自分が書いた書を菅丞相に提出するのだが、拙しといふことで伝授はされない。
「菅丞相に提出する」と書いたが、直接提出するわけではない。取次は吉之丞演じる老女がおこなつてゐる。
希世から云はれのない怒りをぶつけられても、「私の至らないばかりに菅丞相からよいお返事が得られなくて申し訳ない」といふやうな内容のことを、それは華麗に云つてのける、そのせりふがとてもよかつた。
とてもよかつたのだが、具体的にどういふせりふだつたのかはすつかり忘れてしまつた。
もつたいない。
その後「筆法伝授」はかかつてゐないし、どうやらかかりさうな気配もない。
惜しいことをしたなあ。

それでも、上演中にメモを取るやうなことはしたくない。
以前は試みてみたこともあつた。
しかし、隣の席にメモを取る人が座つたことが何度かあつて、それを見てやめてしまつた。
上演中にメモを取る人は、例外なく隣近所の人のことを考へてゐない。
平気でボールポンの尻を押して音を立てるし、ボールペンが紙についたりはなれたりするときの音にも無頓着だ。
鉛筆ならいいかといふとさにあらず。どうもメモを取る人といふのは筆圧が高いのか、書きつけるときにざらざらと耳障りな音を立てる。
ちやんと紙と筆記用具との相性をみて選べば、そんなことにはならないのに。
かくいふやつがれは、先達の研究結果などをもとに、できるだけ音のしない組み合はせの紙と筆記用具を選び、書いてみたりしたこともあつたのだが……
あつたのだが、しかし、上記のやうな人々と同族と思はれるのは業腹なので、やめてしまつた。

そんなわけで、幕間に必死に思ひ出せるかぎりを書きとめることになる。
いままで使つてきたなかでは、Moleskineが一番書きやすい。
表紙がかたいからである。
SmythsonのPanamaでも不都合を感じたことがないのは、かばんを台にして書けるやうにしてゐるからだ。
でもMoleskineならそんなことをしなくても書ける。

今回新橋演舞場では幕間にお手洗ひの列に並ぶことがあつた。
この感じだと、席に戻つてなにか書きつけてゐる暇はないかもしれない。
さう思つて、列に並びつつ立つたまま、Moleskineを開いて書いてみた。
筆記用具はプラチナ万年筆のポケット。
立つたまま書いても問題のない表紙のかたさ。
ちよつと矢立てになにごとか書きつける俳諧の宗匠のやうな気分さへしてくるではないか。
サイズもとくに横はこれ以上長いとチト書きつけにくい。
完璧だね。

立つたまま書くのだから、字は当然がたがたになるけどね。
もともとひどい字を書いてゐるところに立つて書くのだから、どうなるかは推して知るべし、だ。
かういふときに思ひ出すのが、「恐怖の谷」である。
シャーロック・ホームズがモリアーティ教授との対決の前に、ワトソンにメモを残す。
そのメモをワトソンが見て、「机に向かつて書いた字のやうに整然としてゐる」といふ場面があるんだね。
立つたまま書いただらうに、机に向かうつて書いた字のやうであるつて、どうやつたらそんなことができるのだらう。
こどものころ、心底不思議に思つた。
いまでも不思議である。

ところで、ロバート・ダウニー・Jr.版の映画ではモリアーティ教授はSmythsonの赤い表紙の手帳を使つてゐる。
当時はまだ出たばかりだつたのではあるまいか。
表紙は黒の方がらしい気がするが、まあ、そこはそれ、赤の方が目立つしね。
モリアーティ教授がSmythsonなら、ホームズはなにを使つてゐたのだらうか。
ちよつと気になる。

Thursday, 23 October 2014

予想はしない

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーは、予想では来月のいまごろ展示替へをしてゐるのではないかと思ふ。もしかすると、もう終はつてゐるかな。

今回、「次の展示の予想」を書かないのは、八月のイヴェントのときにそれとなく聞いてしまつたからだ。
八月の時点での話で、実際にどうなるかはわからないけれどもね。
でもまあ、義経とか弁慶とかが出てくるのだらう。
今回お休み中の頼朝・政子も出てくるかもしれない。
義仲とその周辺の人々もゐるかな。
そんな感じだ。

先日、人形アニメーションの講座を受講できた身としては、渋谷でも人形アニメーションの人形を見てみたいなあ、と思ふ。
うーん、でも現在のケースの状態だとむづかしいかなあ。
飯田市川本喜八郎人形美術館では、人形アニメーションの人形はちよつと小ぶりなケースにゐて、人形劇の人形に比べて間近に見ることができる。
リカちやん人形より小さいからね。身長はおなじくらゐかもと思はないでもないが。あ、「鬼」の兄弟なんかはリカちやんよりも背は高いんぢやないかな。
でも顔が圧倒的に小さい。リカちやんはかなりデフォルメされてゐるので、実際の人間に比べて頭部の比率が大きいんだよね。人形アニメーションの人形の頭身の率は、実際の人間とほぼ変はらないのではないかと思ふ。これは人形劇の人形もさうだとどこかで聞いた気がする。

渋谷には壁に沿つて大きいケースがあるだけだから、人形アニメーションの人形を見やすく展示するのはむづかしいかもしれないなあ。
でも、希望だけは述べておかう。

そんなわけで、現在渋谷にゐる面々ともあと一ヶ月弱。
時間を見つけては会ひにいくやうにしてゐる。

蒋幹の着付けが左前、といふのは以前から気になるところであつたし、八月のイヴェントのときにもちよつと訊いてみたりはした。
最近気になるのは、しごきである。
しごき、と書いたが、なにか別の呼び名があるのかもしれない。
曹操の陣営からはるばる呉に赴いたのだから、旅装だらう。
さうしたら胴に巻いてゐるあれはしごきなのではないかいな。
まあ、とにかく、蒋幹は胴に布をまいてゐる。帯といふには薄い生地だ。色はピンクがかつた淡い紫色で、とてもよい色だ。牡丹色のサテン地の衣装とあはせてゐるからドギツく見えるけど。
よくよく見ると、このしごきが切りつぱなしである。
なんだらう、スパークとかなのだらうか。

ほかの人形の衣装といつて、裾の始末は大抵縫はずにとめてある。多分、のりかなにかをつけてアイロンで押さへてゐるのだらう。
この点は、以前からとても気になつてゐる。
基本的には、人形の衣装には縫ひ目が見えない。
祟徳院の衣装だけ、透ける濃い青い地に赤い糸で点々と縫ひ目の見えてゐたけれど(そしてそれがとても素敵なんだけど)、ほかはぱつとは思ひつかないなあ。
あ、玄徳とか慮植とかが最初のころに着てゐた胴抜きのやうな衣装には縫ひ目が見えてゐたつけか。
あとは縫ひ目の見える服といふと、紳々竜々の衣装とか、菅輅の衣装とかか。どうも、木綿地の服の裾は縫ひとめるものなのらしい。多分、木綿地はのりでとめたりするとかたくなつたりしてきれいな仕上がりにならないのだらう。勝手な推測だけれども。

真夏のころは、この蒋幹を見るたびに「暑苦しー」と思つてゐたものだつた。
色味がね、暑苦しい。
牡丹色のサテン地の衣装にアップリケのやうに色とりどりの花が散らしてあつて、しごき(仮)もてりのある紫色で、とにかく派手である。
目がドングリ眼なところもいけないのかもしれない。

それが横にちよつと視線をうつすと、いきなりすつきりした印象になるのもおもしろかつた。
龐統先生ですな。
色味は朽ち葉のやうな色といふか枯れ葉のやうな色なのだけれども、なんとなく涼しげな印象がある。
上に羽織つてゐる衣装の生地が薄地だからかな。
八月のときにうかがつた話だと、龐統の胴体には綿が巻いてあつて、それで恰幅がよくなつてゐるのださうな。
さうした暑苦しさはまつたく感じないんだよねえ、見てても。

涼しげといふと、その隣にゐる諸葛瑾にもなんとなくさはやかな印象がある。
展示替へ直後に書いたやうに、衣装のところどころに緑色が配されてゐるのがさはやかさの源だらうと思つてゐる。
冠(かな)の緒もあざやかな緑だしね。
人形劇の諸葛瑾にはあまりさはやかな印象はないのだが。
顔立ちも人形劇のときとはだいぶ変はつてゐるし、人形劇のときとは別人、かもな。

ああ、ついでだから書いてしまはう。
諸葛瑾の隣は諸葛亮で、衣装からいつたら今回ゐる三国志の面々の中では一等涼しげなのではあるまいか。
そのわりにあまり「涼しげ」といふ印象を受けないのは、展示替へ直後にも書いたとほり、どこか厳しげな印象があるからだらう。
でも、今回書きたいのはそんなことではない。
今の展示の孔明で気になること、それは、指である。
一番最初の展示のとき、えらく細くて長く見えた孔明の指が、今回はそれほど細くは見えないのだ。

人形アニメーションでも人形劇でもさうなのだが、飯田や渋谷に展示されてゐる川本喜八郎の人形の多くは、手の骨の部分が針金になつてゐて、そのまはりに樹脂をかぶせて手を形作つてゐる。
だから指もまげることができて、ものを持たせるやうなこともできる。
その構造ゆゑに、手の形はそれほど繊細な感じにはならない。
今回ゐる中では小喬の手などはちいさく可憐な感じである。貂蝉の手もそんな感じだつた。
でもそんなのは女の人の手だけで、男の人の手といふと、グローブめいた大きな手の印象しかない。
人形劇のときの孔明は、別段手に特徴はなかつたんだけどなあ。
ヒカリエの最初の展示のときは、白羽扇を握る指がほつそり長く見えたんだよね。

それが今回はさうは見えない。
どうしたことだらう。
前回はかるく握つてゐたから細く見え、今回はがつしり握つてゐるから太く見えるのだらうか。
或は前回は背後から照明があたるやうになつてゐたので、影ができて指が細く見えてゐたのだらうか。
はたまた今回の手は前回の手とまた違ふ手なのだらうか。
気になるなあ。

こんな感じで、何度行つても飽きない。
今の人形に会へるのも今だけなので、可能なかぎり通ひたいと思つてゐる。

Wednesday, 22 October 2014

The Oscar Wilde Diary とほぼ日手帳

来年の手帳はいまだ揃つてはゐない。
まだほぼ日手帳が来てゐないのだ。
即完売した「MOTHER2」はオネットの地図のカヴァを頼んだので、届くのは来月になる予定である。

現在手元にある来年の手帳はまづSmythsonのSCHOTT'S MISCELLANY DIARY (以下、SCHOTT'S)。
それと現在二年目の三年手帳。
SCHOTT'Sと三年手帳とを使ふことにした、といふ話はすでに書いた

実にほかにもう一冊、手元にある手帳がある。
SmythsonのThe Oscar Wilde Diaryだ。
当初はまつたく買ふつもりはなかつた。
どうせ今年もSCHOTT'Sを使ふのだし、おなじやうな手帳が二冊もあつてもね。
そんな風に考へてゐた。
考へをかへたのは、手帳の表紙に刻印されてゐる引用句が、The Importance of Being Earnestからとられてゐるといふことを知つたからである。

The Importance of Being Earnestは、本邦だと「真面目が肝要」とか「真面目が肝心」とか訳されてゐるやうに思ふ。
学校に通つてゐたころ、英語劇でやつたんだよね。
それで、なんだか思ひ出深い作品なのだ。
「グウェンドレン」とかいふおそろしげな名前の女の人が美人だつたりする、といふのが忘れられない。だつて、愛称は「グウェン」だぜ。なんか髭面のむくつけきヲツサンが出てきさうぢやあないか。それは「エリア88」か。

などと書いてゐたら、来年宝塚歌劇団がやるのか。ほほう。過去にもやつたことがあるのか。さすが宝塚。

さて、買つたはいいが、手元に届いた直後はちよいと後悔した。
なにに使つたものか、決まらない。
SCHOTT'Sと一緒に来たものだからよけいに困つた。
SCHOTT'Sは今年とおなじやうに予定を書き入れつつ実績も書き入れる用途に使ふとして、だ。
The Oscar Wilde Diaryにはなにを書かう。

かういふときどうしたらいいのか。
数多の文房具に関するムックに解消法が書かれてゐたりする。
だが、生憎と最近はさうしたムックは購入してゐない。
物欲に火がつくのが怖いからだ。
見なければ存在しないことになる。
ムックも、その中にちりばめられたすばらしい文房具の数々も。

そんなわけで、web検索をかけてはあーでもないこーでもないと悩むことしばし。

最近、やつと使ひ方を思ひついた。

The Oscar Wilde DiaryNHKのラジオ講座のキーセンテンスを書き込むことにする。
これでどうだらう。

ラジオ講座は月曜日から金曜日の五日間放送される。
金曜日は復習の日なのでないこともあるが、まあ、五日間、毎日何かしらキーセンテンスがある。
それをその日の欄に書き込んだらどうかな。
最初のうちはあまりおもろくないかもしれないが、一ヶ月もつづければちよつと見返してみたくなるやうな手帳になるかもしれない。

土日の欄と、場合によつては金曜日の欄が空白になるかもしれない。
そこはなにか思ひついたことや、覚えられない単語や言ひまはしを書いておけばいい。
どうだらうか。

キーセンテンスを書き込むには、テキストから丸写しはしない。
覚えておいて、当日の夜か翌日の朝、テキストは見ずに手帳に書き込む。

実はこれとおなじやうなことを一時ほぼ日手帳でやつてゐた。
ほぼ日手帳の一番上の欄、ToDoを書くあたりに前日覚えたキーセンテンスをその日のページに書き込んでゐた。

やめてしまつたのは、なんとなく周囲の書き込みに埋もれてしまふからだつた。

専用にすれば、周囲の書き込みに埋もれることはないだらう。
あとは読み返しやすい字で書くやう注意すればいい。
いいんぢやないかな。

そんなわけで、The Oscar Wilde Diary は11月最終週から運用をはじめる予定である。

ほぼ日手帳は去年までとおなじ使ひ方にする予定。
すなはち、愚痴手帳、だな。
毎日のやうに朝から「起きられない」だの「眠い」だの「だるい」だのと書き込む。
そんなこと書いてどうする、と、やつがれも思つた。
それで今年はやめてみたのだが、やめたらやめたで日々使つてゐるノートや三年手帳に書くやうになつてしまつた。
愚痴を書くのはやめられないのらしい。
そこで、ほぼ日手帳には愚痴を受けとめてもらふことに決めた。
なんか、さういふのを受けとめてくれる許容量があるんだよな、ほぼ日手帳は。

Tuesday, 21 October 2014

Masquerade on Progress

結局、Masqueradeをつなぎつづけてゐる。

Masquerade

なかなか切り替へのタイミングがつかめなくて、な。

作つてゐるときは、「自分にしては上出来」と思つてゐたけれど、かうして写真で見るとひどい出来だね、どーも。
もともと不器用な人間の作るものだから、このあたりが限界なのかもしれない。

あみものをしてゐると、人から「器用だね」などと云はれたりする。
といふ話をここでも何度か書いてゐる。
やつがれほど不器用な人間はゐないのになー。
手作り系のイヴェントなどでそれまでやつたことのない手藝をやつたりすると、あからさまにそれがわかる。
あー、ハンダ付けとかも苦手だなー。
何年前だつたか、生まれて初めてハンダ付けをしてみて、まつたくできなかつたんだよね。最後は講師の人に手伝つてもらつたのだが、無言の背中に「なんでかうなつてしまつたのか」といふぼやきが読み取れて、泣きたくなつたのを覚えてゐる。

そんなわけで、あみものをしてゐてもタティングレースをしてゐても、「もともと器用な人ならもつとうまくできるんだらうなあ」といふ点ばかりである。

それでもやつてゐるうちに、まあまあましにはなつてくるんだよな。
どうもやつがれのすることといつてまあまあ他人様と遜色なくできるものは、「時間をかければ誰でもできるやうなもの」「時間をかければまがりなりにも「できます」といへるやうになるもの」ばかりなんだよなあ。

たとへば、数学とか理科系のことつて、時間をかけても他人様に誇れるやうなものができるとは限らないと思ふのだ。
或は、あみもので云ふとオリジナルデザインを作る、といふのは、できる人はすぐできるやうになるものの、できない人はいつまでたつてもできない。
ピアノは練習する時間をかければあるていどは弾けるやうになるし他人様の前で演奏できるかもしれないけれど、ピアノ曲の作曲は時間をかければいいといふものでもない。
そんな感じかな。

えうは、独創力に欠けるのである。

Masqueradeが好きなのは、これまた以前から書いてゐるやうに、つなぎあはせるとつないだ四隅が新たな模様になつてあらはれるところ、である。
かういふのがモチーフつなぎの醍醐味だと思ふんだよね。
さういふ、「つなぎあはせると別の模様が浮かび上がる」モチーフといふのはいくつかあつて、でも、「これ!」といふものはなかなかない。

だつたら自分で作ればいいのに。
さうなんである。
さうなんだけど、思ひ浮かばないのである。
吁嗟。

そんなわけで、せつせとMasqueradeをつなぎつづける、といふわけだ。

ところで不器用ではあつても、タティングシャトルを動かしてゐるとなんだか楽しい気分になつてくる。
だからやめられないんだなー。

Monday, 20 October 2014

冷えてきたのかも

「michiyoの編みものワークショップ」に掲載されてゐるポケットつきのポンチョは、ポケット部分を編み終はり、本体部分を編んでゐるところである。
本体部分がある長さまで編めたらポケット部分を編みながら合体させることになる。

このポンチョは、襟から編み下げてゆく形で、袖口までは輪で編み、袖部分は前後見頃にわけて平らに編み、そのあとはまた前後見頃をあはせて輪に編んで終はり、といふ形になつてゐる。
袖部分を編んだらポケット部分がはじまる寸法だ。

糸は、本に指定されてゐるハマナカのアメリーを使つてゐる。色は臙脂色。おなじ本に出てゐるレギンスを短くしたタイプに使はれてゐる色だ。
本だと青といふか紺といふかなのだが、そつちの方がよかつたかなあ。
暖色系がいいと思つたんだよね、糸を買ふ時点では。
いづれにしてもおそらく家の中で使ふことが多いやうな気がするので、まあ、いいか。

ほんの二ヶ月前くらゐまでは家の中に熱気がこもつてしまつて暑くて暑くて仕方がなかつたのだが。
いつのまにか、室内の熱気はほぼ解消されたやうだ。
もう二ヶ月もすると、家の中に冷気がこもつて寒くて寒くて仕方なくなるのだらう。
かういふ熱気とか冷気とか、うまいことためておいて必要なときに使へるやうになるといいんだがねえ。
世の中、なかなかうまくいかない。
仕方がないので、「ぢやあなんか編むか」といふことになる。

去年の呟きからいくと、昨日もう膝掛けを出したといふことだ。
膝掛けは、パピーのプリンセスアニーで編んだもので、デザインは林ことみ。
編むまでは「膝掛けなんて使はないよなあ、使ひづらいし」と思つてゐたのだ。
編むんならロングスカートかな、とも思つてゐた。それなら立つたり座つたりしてもずり落ちたりしないしね。
そんな膝掛けも編んでみたら手放せなくなつてゐる。
プリンセスアニーをガーター編みにしたもので、薄いし丈は短いのだけれども、これが案外あたたかい。
といふことは、すでにここでも何度か書いたか。
そんなわけで、もう一枚くらゐ膝掛けを編んでみたいと思つてゐる。
今度はまちつと分厚いものがいいかなあ。
それとも余つたくつ下毛糸を有効活用してパッチワークのやうなのを作るか。
ヂヤンテイ織りにしてもいいか。
と、妄想だけはたくましい。

「michiyoの編みものワークショップ」に出てゐるレギンスもいいよね、といふ話も以前書いてゐるか。
編みもので作るものといふと、上半身をあたためるものが多い。
帽子、マフラー、手袋、セーター。
いづれも上半身に身につけるものである。
下半身に身につけるものといつたら、くつ下くらゐだらうか。
スカートとかタイツとか、あるんだけどね。毛糸のパンツとか。
あまり編んだといふ話や編んだ例を見ない。
手編みのスカートもいいかもしれないなあ。膝下まで編めばだいぶあたたかからう。
毛糸のパンツもいいが、腹巻もよささうだよなあ。

編み気がたかまつてゐる、といふことは、冷えてきたといふことだよな。
小学生のころ、食中毒が一番発生する月は九月、と教はつた。
涼しくなつてきて気がゆるむからだ、とのことだつた。
先月は例年に比べて涼しかつたのかな。それとも月の三分の一くらゐは旅先にゐたから、あまり記憶がないだけか。
それにしても、ここ最近、九月は異様に暑い。
食中毒に気をつけるのは十月かな。
その十月ももう下旬に入つてしまつた。
十月は長いつもりでゐたのになあ。

ポンチョは今月中には編み上がるだらうか。
裾は一目ゴム編みで目にあはせて伏せ止めすることになつてゐるが、なんとなく一目ゴム編み止めをしてしまひさうな予感がしてゐる。その方がきれいに仕上がるからね。

その次は、ストックホルムで買つてきた毛糸でStockholm Scarfを編むつもり。
ゴットランドを手紡ぎしたといふ糸で、チトちくちくするかもしれないから別のものになるかもしれないけど、名前がぴつたりなので、な。

Friday, 17 October 2014

再訪もまた楽しからずや

先日、公開句会東京マッハが岐阜県高山市で開催された。よつて「飛騨マッハ」といふ。
高山には、高校生のときに修学旅行で訪れたことがある。
高山自体にはあまり記憶がなくて、白川郷に行つたことと、高山では市内の一流ホテルに泊まつて、テーブルマナーを学ぶといふ名目でかなり高級な感じの夕食を食べてことしか覚えてゐない。

そんな高山なので、あちこち歩き回れたらいいなあと思ふたが、残念ながらできなかつた。
前日、名古屋で一泊したからである。

理由になつてゐない?
名古屋から高山まで、特急に乗つても二時間半かかる。
飛騨マッハは十二時半開場だ。開演までは一時間あるけれど、開演までの時間で選句をする必要がある。できれば開場直後に入りたい。
開場前に食事はすませたい。すると、十一時には高山についてゐたい。それには名古屋を八時半には出なければならない。
一時間前なら七時半、それより前は特急がないので、終電で行つて始発を待つことになる。
ムリ。
最近とみに早起きができなくなつてゐて、とくに前日は三時間台睡眠だつたりしたものだから、八時半出発でもかなりつらかつた。

こんなことなら高山に泊まるんだつたなあ。
しかし、さうすると高山着が十二時を過ぎてしまふ。
なぜといつて、前日は名古屋で歌舞伎の顔見世興行を見ることになつてゐたからだ。
歌舞伎の興行としてはかなり早めに終演するけれど、そこから名古屋駅に出て乗り換へて、といふことになると、万が一のことも考へるとどんなに早くても九時名古屋発がいいところだ。
九時に名古屋発だと、もう特急はないので、三時間半くらゐかけてのんびり行くことになる。

そんなわけで、十一時高山着といふのは、やつがれの中ではそれしかない選択ではあつた。

ではあつたんだが、むーん、もつたいなかつたかなあ。
十一時について、混み始める前にと思ひ、即食事どころを探した。
おほよその目星はつけてゐた。
駅からそんなに遠くなくて、その通りを行けばほかにも食事どころのありさうなところ。
そんな道を歩いてみるつもりでゐた。

駅を出てものの十分もしないうちに、目星をつけてゐた店のうち最初の一軒にたどりついた。
迷ふこともなかつた。
すぐに食べられさうだつたので、その店に入ることにした。
いやはや、なんだらう、このスムースさ。
食事のあと、まだちよつと時間があるといふので店のあたりをぶらぶらしてみたけれど、これまた道に迷ふことがない。

やつがれは方角についてはひどく極端なたちで、ほぼ間違へない町と絶対間違へてしまふ町とがある。
間違へてしまふ町については以前も書いたな。
お堀の周りに弱い。
国立劇場にはじめて行くときもえらく迷つたし、四谷では必ず逆の方向に行つてしまふ。
この前は行き慣れてゐるはずなのに、お茶の水駅に出るつもりで気がついたら水道橋駅についてゐた。
なんなのだらうか。水道橋駅はさすがにショックだつたよ。とほほ。

間違へない町といふと、飯田がさうかな。
先日も、鼎駅からICにつながる道の方まで歩いて、ついたらお目当てのお店がまだ開店前で、仕方なくすごすごとそこから飯田市川本喜八郎人形美術館まで歩いたのだが、途中迷ふことはなかつた。
はじめて飯田市川本喜八郎人形美術館に行つたときも、なかなかつかないなーとは思ふたけれども、迷はずについたし。
「ここで食べやう」と決めた食事どころにもいつもちやんと行けてゐる。
京都は、まあ、間違ふ人の方が少なからうと思ふのでおいといて、さうだなあ、日野でも目的地には迷はずつけたし、さういへばお堀のそばだけれども、ある人のお宅を訪ねて行つたときもちやんとついたんだつた。さういふこともある。

そんな感じで、その時々や場所場所によつて、迷ふたり迷はなかつたりする。
高山は、「ここに行く」と決めてゐたところにはすべて迷はずにたどりついた。
しかも、とくに行き先を決めずにぶらぶらしてゐても、「駅にたどりつけないかも」とか「飛騨マッハの会場はどこ?」といつたやうな不安を覚えることはなかつた。
いい町ぢやあないか。

道のところどころにある案内表示もわかりやすいんだよね。
海外からの観光客も多かつたし、万事わかりやすく作つてゐるんだらう。
すばらしい。

そんなわけで、行く前は「もう高山には行かないかもしれないし」と思つてゐたが、うーん、もう一度くらゐはどうにかして行きたいなあ。
東京からだと時間がかかるか知らん。

さういへば去年の五月に奈良に行つた。
中学校の修学旅行以来だつた。
そのときは興福寺のそばの宿に泊まつたのだが、興福寺に行くことはなかつた。予定に入つてゐなかつたのである。
阿修羅、見たかつたのになー。
阿修羅については、東京国立博物館で開催された阿修羅展で360度ぐるりと見ることはできたのだが。
でもやつぱり、お寺にも行きたいよねー。
といふわけで、行つてみたのである。

晴れた日だつた。
周囲に高層ビルのないせゐか、ひどく開放された気分になつた。
あたりは観光客や修学旅行生でいつぱいなのだが、しかし、国宝館などをのぞくと、込み合つてゐる、といふ感じはしない。
いいなあ。
中学生のときに来たときもこんな感じだつたらうか。
それとも、あの時はそんなこと感じる余裕もなくあちこちに連れまわされてゐたかな。

この日も泊まりは大阪で、あまり時間はなかつたのだが、それでもなんだかのんびりした心持ちになつた。
修学旅行で行つた法隆寺とか薬師寺にも行つてみたい。
そんな気がする。

こどものころ行つたことのある場所やよく行つた場所に行くとおもしろいよ。

そんな記事を最近webで見かけた。
詳しくは読んでゐないが、さういふこともあるな、と思ふ。
こどものころといふのは、自分の意思でどこかに行く、といふことがなかなかできない。
行きたいところには行けても、つれて行つてもらはなければならない。
修学旅行に至ると、行きたいところには行けず、行きたくもないところにつれて行かれることがある。

さういふところに、自分の足で行つてみると、おもしろい発見がある、と、さういふことなんだらう。
修学旅行のときは単につれて行かれただけでなんの記憶もないところにいま行つたら、またちがつた感慨があるのではあるまいか。
そんな気がする。

高山からの帰り、新幹線で浜名湖付近を通り過ぎるときに、さういへば、こどものころ夏休みによく来たな、と思ひ出した。
今度は浜松に行つてみるか。
こどものころに一度だけ、浜松城に行つたことがある。
あのころは家族で車で移動してゐた。
いまはない。

今度行つてみやうかな。

Thursday, 16 October 2014

本屋さんからのお勧め

一昨日から、保元・平治の乱に関する本を読んでゐる
まだ半ばくらゐ。
これが滅法おもしろい。
なんでいままでかういふ本を読まなかつたのかね。
悔やまれることしきりである。

このweblogでもくどく書いてゐるやうに、こどものころの愛読書が「牛若丸と弁慶」といふ不思議な本であつた。
不思議な理由もくどく述べてゐて、最初の話こそ「牛若丸と弁慶」なのだが、次が倶利伽羅峠の話、いけづきとするすみの話、鵯越の話、熊谷と敦盛の話……などと続き、「しづやしづしづのおだまきくり返し」たと思つたら、三つの鉢の話とか日蓮のちよつとした伝記風の話が来て、最後は神風、といふ、なんかもりだくさんな本だつた。
ちよつと風変はりなオムニバス小説、だらうか。

とにかくこの本が好きだつた。

おなじころ、伯母姉妹がたまに我が家をおとづれることがあつた。
帰つたあと、伯母たちが座つてゐた椅子の下をのぞいてみると、本が二三冊、おかれてゐることがあつた。
もしかしたらあれは祖母からの贈り物だつたのかもしれないな。
こども向けの、おもに日本の民話や日本人の伝記を集めたシリーズのうちから選んでくれたらう本だつた。
なかに「源義経」といふ題名の本があつた。
この本で能登守教経のはなつた矢を受けて佐藤継信が倒れる話を知つた。挿し絵もあつた。白黒で、いまはの際の継信を、義経が抱きかかへ、その他の人々がそのまはりをとりまいてゐる、といつた絵だつた。

その後、小学三年生のときに夏期合宿に参加することになり、そのとき一冊だけ持つて行つていいと云はれて自分が選んだ本が、こども向けの「平家物語」だつた。
平忠盛はやぶにらみだつたとか、源三位頼政の鵺退治とか、鹿ヶ谷事件とか、この本で知つた。都落ちするときに忠度が和歌を託していく話とか、義仲が牛車の乗り方も知らず、礼儀の知らない態度で貴族たちにご飯を勧める話とかもだな。

やつがれの、いはゆる源平合戦に関する知識はここで途切れてゐる。
このあと、ほかの本を読んだりすることはなかつた。
さう記憶する。
それでこの年まで来てしまつた。

それでも、文楽や歌舞伎を見るのに困ることはなかつた。
歌舞伎をはじめて見たときに「逆櫓」がかかつて、「なんで樋口次郎が船に乗つてゐるのか」と驚いた。
見てゐると、重忠も出てくるし。
すつかり忘れてゐた懐かしい人々が出てくる。
歌舞伎の印象は、さういふ感じだつた。

今月もかかつてゐる「吉野山」では、佐藤忠信に化けた狐が忠信の兄・継信の最期を物語る場面がある。
懐かしい。
いまはなにもかも懐かしい。

文楽や歌舞伎は、いまもそんな気分で見てゐる。
昔なじみの活躍を見る機会。
そんな感じだ。

一昨年の大河ドラマは「平清盛」だつた。
大河ドラマ史上最低の視聴率を記録したのださうだが、最初から最後まで見た。
知らない話や知らない人が多かつた。
嗟吁、知識がまつたく足りてゐない。
つくづくさう思つた。

さう思つて、しかし、そのままになつてゐた。
別に、こどものころ覚えたことだけで困ることはないし。
そして、そのことを誇らしく思つてゐる自分に気がついた。

これではいけない。
さう思つてゐたところ、丸善のhontoから「中世の人物 京・鎌倉の時代編 第一巻」を紹介された。
これは、よい機会なのではないか。
さう思つて、読み始めてみたら、これがおもしろいんだなあ。

例によつて、出てくる人の名字は藤原か平か源で、しかもみんな名前が似通つてゐる。
誰が誰だかわかんないよ!
とは思へども、「えうは似た名前同士が血縁関係にあるつてことね」と、必ずしもさうではないのだが当たらずしも遠からずといつたところで読んでいくと、まあまあ話は通じる。
それに、お子さま向けとはいへ、前提知識がまつたくないわけでもないから、「あ、それはあれのことね」みたやうなこともわかる。
おもしろい。
なんだかおもしろいなあ。

今のところ「へえ」と思つたのは、藤原頼長は「春秋左氏伝」が好きだつた、といふところか。
「韓非子」ぢやないんだー、みたやうなね。
あー、だからああだつたのねー、みたやうな。

もつと早くにかういふ本を読んでゐればよかつたのに。
つくづくさう思ふ。
まあ、この本自体はつい最近発売になつたものだけれども。

そんなわけで、楽しく読んでゐる。
この本は全三巻なのださうで、つづきも楽しみだ。

それにしても、honto、すごいな。Amazonは全然見当違ひの本やものを勧めてくるのに。
丸善で源平ものとかそれに近いやうな本を買つたことはないぞ。
どうやつて分析したのか。
恐るべし、honto。

Wednesday, 15 October 2014

次の手帳はMoleskine

次のノートはMoleskineに決めた。

新旧ノート

The Simpsons 25周年記念のポケットサイズ罫線ありである。
以前はかういふ特別なノートが出ると罫線ありとなしと一冊づつ買ふてゐたこともある。まあ、好きな柄に限るけど。買つてゐないのもある。多分。

好みとしては罫線なしだ。もしくは方眼罫が好きである。
ただ、罫線なしだと果てしなく書き込む文字が小さくなつてしまふのだよなあ。
かまはないぢやん、とも思ふけど、あとで見直したときに見やすくない。自分で書いた字であつても、だ。むしろ、自分で書いた字だから、かもしれない。

見直したとき、と書いたが、今回のノートではあんまり見直しとかしなかつたなあ、と、これは反省点である。
前回のノートの話題のときだつたかな、以前は左側のページはなにも書かずにおいて、あとで見直したときに書き込むやうにしてゐた、と書いた。

記録したことは定期的に見直す。
これは、なにに書いてあつたんだらう。「モレスキン「伝説のノート」活用術」だつたかなあ。それとも「たった一度の人生を記録しなさい」だつたらうか。
まづ、前の日に書いたことを見直す。
それから一週間に一度先週書いたことを見直す。
さらに一ヶ月に一度先月書いたことを見直す。
さうするといい、といふやうなことが、どこかに書かれてゐた。
それで、4年前にはじめてMoleskineを使ひはじめたときに、律儀にそれを守るやうにしたのだつた。

もともと、やつがれは自分の書いたものを見直すといふことをしなかつた。
書いたら書きつぱなし。
だから拙blogにもおなじことが何度も書かれてゐたりする。
でもまあ、ここまで書いてしまふと、もう以前に何を書いたかとか、忘れちやふんだよね。
だから見直せ、といふことか。うむ。

SmythsonのPanamaを使ふやうになつて、左側のページもびつしり埋めるやうになつたけれど、見直しだけはときどきやつてゐた。
先週の、とか、先月の、とかいふのはだんだん曖昧になつていつたが、前日の、は結構まめにやつてゐたやうに思ふ。
Panamaはそれなりに罫線が広いので、びつしり書いても書き込む余裕がある。だから見直したときに、似たやうなことを書いてゐるページ数を書き込んだりとかちよつとしたことを書いたりできる。
また、Panamaつて、なんだか見返したくなる手帳なんだよね。
といふ話も何度か書いてゐる。今年SCHOTT'S MISCELLANY DIARYを使つてみて、なんとなくぱらぱらめくるのが楽しくて、つい見返してしまふ。
これといつたことは書いてないんだけどね。

今回、アサヒヤ紙文具店のクイール・ノートを半年ほど使つてゐた。
あまり見直しした形跡がない。
また、あまり見直した記憶もない。
せつかく書いてゐるのに、もつたいない。
まあ、見直さないせゐでおなじことを何度も何度も書いてゐたりはするんだけどね。

やつがれの手帳は、ライフログともちよつと違ふし、アイディアノートでもない。
思ひついたことを書き付ける、といふ意味ではアイディアノートなのかもしれないけれど、なんかちよつと違ふ。
ライフログだつたらもつと文章を短く書くだらう。やつがれの文章は、ライフログには長すぎる。
ぢやあいつたいなんなんでせうねえ。
我ながら謎ではある。
最初はライフログをつけるつもりでゐたと思ふんだけどなあ。ライフログについてはTwitterの方がよほどそれらしくなつてゐる気がする。

今年はほぼ日手帳をいつもの使ひ方にしなかつたせゐか、ノートの方に「眠い」とか「だるい」とか書いてしまつたりして失敗したな、とも思つてゐる。来年はほぼ日手帳をこれまでの使ひ方に戻すつもりなので、「眠い」とか「だるい」とかいふ愚痴はほぼ日手帳が受け止めてくれることと思ふ。

Moleskineの問題点は使ふペンを選ぶこと、と、これも毎回書いてゐる。
Moleskineを使つてゐるあひだに、Moleskineに使へない萬年筆をどうするか、考へないとなあ。

これまたいつも、「清書するノートを作ればいいぢやない」と思ふ。
清書用のノートにはなるべくペンを選ばないやうなものを用ゐる。
さうすれば、ペンの処遇に困ることはない。
問題は、「清書してゐる時間がないよ」といふことか。
だいたい清書してゐるやうな余裕があれば、書いたことの見直しだつてもつとちやんとするだらう。

さうか、見直しをしなかつた、といふことは、余裕がなかつた、といふことか。
なるほどね。

といふわけで、クイール・ノートの残りもあと3ページ。
おそらく今日明日中にはMoleskineに戻る予定である。

Tuesday, 14 October 2014

リングの糸がまだ引けない

The Twirlyをつなぐプロジェクトは、先月の半ばから止まつたままである。
先週は、Masqueradeをつないでゐた。二つつながつて、現在三つめを作つてゐる最中である。
そして、今日、Masquerade用の糸を持つてくるのを忘れてしまつた。
吁嗟。

The Twirly用の糸は持つてゐるので、The Twirlyを作つてもいいんだがね。あとでつなぐことを考へて作ればいい気がする。

The TwirlyにしてもMasqueradeにしても、リングが作りやすい大きさなのがいいとつねづね思つてゐる。
リングの目数が少なすぎても多すぎても、うまく糸を引けない。
2P2P2P2のリングとか、いつもうまく作れない。
逆に多すぎてもいい感じに糸を引くことができない。

何年やつてるんだよ、と思ふが、まあ12年超えていることは確かだ。
前世紀にはじめたことは確かで、でも20年は超えてないな。

とはいへ、それで未だにリングの糸がうまく引けないつてどういふことなのよ。
我ながらさう思ふ。

あみものにしてもタティングレースにしても、お教室に通つたことがない。
以前も書いたやうに思ふが、恵比寿にローワンのあつたとき、店でほかのお客さんと話す機会があつた。
その人は携帯電話に自分の編んだものの写真をたくさん保存してゐて、いろいろと見せてくれた。
話もあれこれ聞かせてくれて、あみもの教室に通つてゐるのだと云つてゐた。
アフガン編みは時間がかかつてねえ、などとこぼすと、「アフガン編みはサクサク編めるよ」と云つて、自分で編んだものの写真を見せてくれたりした。

その人が云ふには、「あみもの教室に通ふといいよ」とのことだつた。
ものすごく熱く勧められた。
理由についてはなにか云つてゐたかと思ふが忘れてしまつた。
本人が通つてゐてとつてもいいと思つてゐたからだらう、とは思ふ。

その後、あみもの教室には通つてゐない。
通はない理由はさまざまあるが、まあ有り体に云つて、通へさうな日時に通へさうな場所で開催されてゐないからだ。
たとへば会社帰りに寄れるとか、土日のこちらの都合のいい時間帯にやつてゐるといふやうなところがほとんどない。
いい日時だな、と思ふと場所が遠かつたりする。
それに、土日のどちらかをあみもの教室に使つてしまつたら、芝居見物はどうするんだ。
さういふ悩みもある。

そんなわけで、せつかく忠告を受けながらそのままにしてゐる。

でもなあ、タティングレースは一度は教室に行つてみたほうがいいかもなあ。
さう思はないでもない。
といふのは、タティングレースに関しては完全に独学だからだ。

あみものは母に教はつた。
さういふ人は多からう。
母または祖母、或は近所の人。
身近な人に教はつて、とくにお教室には通つたことはない、といふ人が多いのではあるまいか。

タティングレースはさうではなかつた。
母はタティングレースなんて知らなかつた。当時は「タッチングレース」か。
本とシャトルとを買つてきて、自分で試行錯誤して覚えた。
このときの「シャトルから出てゐる糸が芯糸になる」といふのがなかなかわからなくて苦労した話も何度かしてゐる。多分、理解するまでに一週間くらゐかかつたと思ふ。
その後の「シャトルと糸玉とを使ふ方法」がわからない時期も含めると、まがりなりにも「タティングレースができる」といへるやうになるまで、一ヶ月はかかつた。

それを乗り越えてここまで来た。
乗り越えられたので、「自分はタティングレースができる」と云つてもいい、と、勝手に思つてゐる。

でもなあ、そもそも「リングの糸を引く」といふ基本的なところがきちんとできてゐないのに、「タティングレースができる」と云つていいものだらうか。

それを云つたら、あみものだつてさうなんだけどね。

そんなわけで、リングの糸を引くときに、いちいちいろいろ気にしながら引いてはゐるのだけれども。
なーんかうまくいかないんだよね。
いや、うまくいくときもある。
でも、うまくいかないときもあるのだ。
そして、その違ひがなにによつて生じるのかがよくわからない。

お教室に行つたら教へてもらへるんぢやあるまいか。
基本的なことだし。
さうは思ひつつ、「そこはもう慣れ」とか云はれてしまふやうな気もする。
日本的な教へ方つてそんな感じだもんね。「見て覚える」「体で覚える」みたやうな。

さうすると、通ふ必要はないんぢやないか。
そんな気もしてくる。

とりあへず、この昼休みはなにもすることがない。
使つてゐるシャトルが POP-A-BOBBIN Tatting Shuttleなのだが、ボビンを抜く棒を持つてきてゐないといふことに気がついたからだ。
あーあ。

Monday, 13 October 2014

ふんだんに? いいえ、無駄に

michiyoの編みものワークショップ」からハマナカのアメリーで編むポンチョを編んでゐる。
ほんたうは中細糸を引き揃へて編んでゐるポンチョも編みたい。

ポンチョ、好きなんだよね。
作品自体はどうでもいいが、アニメーション「母をたずねて三千里」でマルコが着てゐるやうなポンチョが。
或はマカロニウェスタンものでクリント・イーストウッドが身につけてゐるやうなポンチョが。
ちよいとメヒカン。
はたまたラテンアメリカン。
そんなやうなのが好きである。

さう思ふてゐたのだが。
どうも柄だけでなくて、ああいふちよつと「てろん」とした感じの服が好きなんだな。
以前から何度か書いてゐるやうに、「着つつ慣れにし」といふ感じで「てろん」とした服が好きだ。
たとへば綿のカットソーみたやうなの。えうするにTシャツ。
おろしたてではなくて、着て洗つて、てろてろつとした感じのがいい。

八月の終りごろ、タンスの整理をしてゐたら、「こんなの、買つたつけか」と首を傾げるやうな服が出てきた。
黒くて襟ぐりが大きいだぼつとしたブラウス(だらう、多分。あるいは「チュニック」とでもいはうか)で、肘から袖口にかけてやたらとふんだんに布が使はれてゐる。
何かをするたびに袖口が邪魔になるやうな服を、このやつがれが買ふだらうか。
まあ、ドルマンスリーヴのブラウスは買ふたりするけれど、この服は袖口にむかつてひろがつてゐる。
明らかに邪魔だ。
うーん、どうしてこんなことに。

しかし、真っ黒でとくに飾りがあるわけでもないからといふので、夏の法事に着てみた。
さうしてみたらこは如何に。
これがね、案外いいんである。
袖口が無駄にひらひらするあたりがいい。
思つたより邪魔にならないしね。
襟ぐりも袖口も広いから涼しいし。
いいもん買つたぢやん、昔のやつがれ。

そこで思つた。
えうするに、やつがれは、無駄に生地を使ふた服が好きなのである。
身体上の都合もあるものの、躰にぴつたり沿ふた幅よりは、ふんはり広がつてゐる服がいい。
考へてみたらタイトな服は好かんなー。
男の人のスーツ姿はいいと思ふ。あれは案外余裕があるものなのだ。さうでなければ内ポケットがあんなに充実してゐるわけがない。
女の人のスーツ姿はダメだ。余裕がなさすぎる。
着物も一見タイトなやうで、懐とか袖とかに余裕がある。そこがいい。
まあ、和服の場合はさうやつていい感じに余裕を持たせて着られるやうになるのには時間がかかりさうな気もするけど。

考へてみたら、マントも好きだなあ。インバネスとかもいいよね。とんび? 二重回しとんび。いい。
ポンチョもこの仲間に入る。
編んだポンチョといふと、長方形を編んで短い辺と長い辺をつなぎあはせる形のものがあるが、これはあまり好きではない。
襟から増し目をしながら編み下げる形がいい。まあ、裾から減らし目をしながら編み上げるでもいいけど。

「宇宙大作戦」とか、悪夢だよな、さうすると。
「宇宙戦艦ヤマト」もか。
なぜ未来の人々といふのは躰にぴたつとした服を着てゐるのだらう。
宇宙船の中で任務にあたる人々には、無駄に生地を使ふた服は邪魔でしかないのかな。
まあ、躰にぴつたりしてゐるがゆゑに、あみもので再現しやすいといふこともあるんだけどね。実際ゐるでせう、「スタートレック」の登場人物の服をセーターにしてゐる人とか。
きつと未来にもふはつとした服を着てゐる人はゐる。
さう思ひたい。

さて、ふんだんに生地を使つてゐる服が好き、はいいけれど、それつて不経済なんだよね。
普通に考へると、生地は少ない方がいいはずだ。
編むことを考へても然り。
躰にぴつたり沿つたセーターの方が余裕のあるセーターより編む量が少ない。すなはち消費する毛糸も少なくて済むし、早くできあがる。

そんなわけで、過去にもポンチョを編まうとして挫折したことがあつた。
編む量が多過ぎるんだよ。
そんなに早く編めないし、早く編まうとすると太い糸と太い針とを使ふことになる。重たくなつたりする。
まあ、重たい服は重たい服でいいんだけどね。
仮面の男」でガブリエル・バーン演じるダルタニャンが室内を歩きつつ時折踵を返す場面がある。この踵を返すときに翻るマントの裾の感じが重たげで、裾の描く目に見えない線が実にステキなのだ。
しかしまあ、そんなものを編んでゐたら肩が凝つて仕方がないわ。

最近は、そのころよりはすこし早く編めるやうになつてきたし。
アメリー、軽いし。
いいんぢやないかな。

さうさう、アメリーは、なんとなくぬめり感のある糸だと思ふ。
化繊混だからあたたかさはどうかなあと思ふが、そこはこのポンチョを仕上げて確認してみたい。

Friday, 10 October 2014

どちらでもない

「女子力」とはなんだらう。
なんだかよくわからない。
流行語に選ばれてから五年はたつといふのに、いまだに使はれてゐる。
そして、五年たつても、なんだかよくわからない。
わかりたくないともいへる。

「女子力」といふのなら「男子力」といふのもあるのだらう。
こちらはあまり耳にしない。
「「女子力」を高める」といふことばはよく聞くのに、「「男子力」を高める」といふ話は聞いたことがない。
「女子力」は高められるけれど、「男子力」は高められないのか。
「女子力」は高めるといいことがあるけれど、「男子力」は高めてもいいことがないのか。

橋本治が「美男へのレッスン」で書いてゐた。
女の人といふものは、自分に似たものが好きなのださうだ。
だから世の中の女の人に人気があるといふ美男は例外なくどこか女の人つぽいところがある、といふ。
本では宝塚の男役と石原裕次郎が例にあがつてゐた。
裕次郎は、やつがれにとつては「太陽にほえろ!」のボスであり、それ以外のなにものでもなかつたのだが、デヴュー当時はなにしろやうすがよかつたのださうな。

この説が正しいとするならば、異性からもてはやされたいと思つたら、男の人は「男子力」を(さういふものがあるとして)あげてはならないのだらう。
たぶん。
あまり男であることを前面に出さない方がいい。
さういふことになる。

女の人の場合はどうか、といふと、これだけ「女子力」といふものが取り沙汰されるといふことは、男の人から見ても「女子力」(といふものがあるとして)の高い女の人の方が一般的には魅力的にうつるのだらうから、あげるべきなのだと思ふ。

かういふ風に書くと、「「女子力」に興味がない」、もつといふと「「女子力」といふものを嫌つてゐる」と思はれるだらう。
あまり意識したことはなかつたが、どうやらさうなのらしい。

なんといふか、「おそらくこれが「女子力」といふものなのだらう」といふ力の高い人は苦手である。
なんだらうね。
では「男子力」(これはもつとわからない。ないのかもしれない)の高い人はどうかといふと、これまたあまりお近づきになりたくはない。
先日、「「男子力」を高めるにはどうしたらいいか」といふ話になつて、「高倉健に範を求めればよいのでは」とかいふやうな流れになつて、内心、「それはどーもなあ」と思つてゐた。
まあ、さういふほど高倉健のことなど知りはしないのだけれども。

「女子力」といひ、「男子力」といふ、さうしたものは、もしかするともつと昔には、厳然とあつたのかもしれない。
「女らしさ」「男らしさ」といはれてゐたものがそれだらう。

どうもやつがれは、「女らしさ」だとか「男らしさ」だとか、あまりない人間の方が好きなやうだ。
もつと云ふと、どちらも持たないやうな人が理想である。

両方持つてゐる、といふのは、それなりにあつたりするのだ。
両性具有といふことばが示すとほりである。
男でもあり、女でもある。
さういふ存在は想像もしやすいのだと思ふ。

だが、どちらでもない、といふことばはない。
多分ない。
もしかしたらあるのかもしれないけれど、寡聞にして聞いたことがない。
虫や魚などに「どちらでもない」といふのがゐるけれど、いざとなるとどちらかになつたりするものが多い。
すなはち、どちらかになる可能性を秘めてゐる、といふことだ。
それはやつがれにとつては「どちらでもない」ではない。
「どちらでもない」とは、どちらになることもない、といふことを指す。
さう思つてゐる。

そんなだからだらう、芝居は時代物が好きだ。
世話物、それも心中物なんかはどこがいいのかさつぱりわからなかつたりする。
心中物は道行をたつぷり描くのがいいのだ、と云はれて、そのよさがさつぱりわからない。
「曽根崎心中」や「心中天網島」の道行の文句がいいのはわかつてゐる。ことばだけ抜き出してもすばらしい。
だが、道行の場面はそんなに好きではない。
大抵いつでも「早く終はればいいのに」と思つてゐる。
そもそも「曽根崎心中」はお浄瑠璃からして好きではない。
「心中天網島」は好きなんだけれどもね。
「心中天網島」は、とくに悪役がゐないのがいい。ちよつと悪い奴は出てくるけれど、九平次ほどには悪くはない。
小春と治兵衛は、まはりの人がいい人だから死なねばならない。
そこがお初と徳兵衛とは違ふところである。
ここのところは、江戸時代の人とは趣味のあはないところであらう。
いづれにしても、ふたりの戀物語なんてどーでもいいのだ。やつがれにとつては。

「人形歴史スペクタクル 平家物語」(以下、「人形劇平家物語」)を見たときもさうだつた。
この夏、第二部が渋谷区防災センター会議室で上映されたけれども、義仲とその妻妾とのゴタゴタの段になると、とたんにつまらなく感じてしまふ。
「めんどくさい」つて思つてしまふんだよなあ。
義仲には巴といふ正妻がゐて、ふたりのあひだには駒王丸といふ息子もゐる。
一方、義仲には葵といふ妾といふか第二夫人もゐる。葵はなにかにつけ義仲を独占したがり、巴や駒王丸にも会はせまいと画策したりする。

あー、はいはい。
そんなのはどうでもいいから物語を進めてくんな。

「人形劇平家物語」のこのくだりを見るにつけ、ついついさう思つてしまふ。
実際はこの義仲と妻妾とのゴタゴタもちやんと物語の中の一エピソードなんだけれどもね。
そんなのどうでもいいぢやんよ。
それよりも、都はどうなつてゐるのー?
鎌倉は?
義経はどうしてゐるんだよ?
さういふ方が気になる。

なんでかうなつてしまつたのか。
「少女まんが育ちなら、惚れたのはれたのは物語に不可欠と思つてゐるはず」といふ意見もある。
やつがれはまがふことなく少女まんが育ちである。
それでゐて、戀愛を主にとりあつかつた物語を好まないといふのはなぜか。

もつて生まれた嗜好なのかもしれないけれど、なんとなく生まれてはじめて毎号買ふやうになつたまんが雑誌が「花とゆめ」であつた、といふところが大きいやうに思つてゐる。
まだ「ガラスの仮面」も「スケバン刑事」もはじまつてはゐなかつたころ、「アラベスク」第二部の最終話付近だつたやうに思ふ。
「アラベスク」も、なー、ミロノフ先生とか出てくるけど、あれつてあんまし「ラヴストーリー」つて感じぢやないんだよね。
いま読みなほしたらまた違ふのかもしれないけれども。
ほかにも、ちやんと少女まんがらしい戀愛ものも掲載されてゐたらうと思ふ。でもまつたく記憶がないんだよね。
当時好きだつたのが「はみだしっ子」シリーズの「だから旗ふるの」だつたりするから、まあ、さうしたものなんだらうなあ。
あと「別冊マーガレット」だと思ふけれど、和田慎二の「わが友フランケンシュタイン」ものも好きだつたな。ヒルダといふ少女の出てくる話。

ここのところ読んだ本を見返してみても、色戀を中心にすゑたものはほとんどない気がする。
いや、ものごとの根本は実は色戀で、A Study in Scarletだつて、犯人がある女の人を愛してゐなかつたら起きなかつた事件だと云はれればそれまでなのだが。
読みながら、「そんなのどうでもいいぢやん」と思つてしまふ自分がゐる。

見続けてゐればこんなやつがれにも道行のよさがわかる日が来るのだらうか。
来ないやうな気もするが。

Thursday, 09 October 2014

四天王に踏みつけられし我が生涯

weblogやSNSには、否定的なことは書かない。
鉄則なのださうである。

一時は「さうしたものか」と思ふて苦労してゐたこともある。
でもやめた。
性格にあはないからである。
あはないのなら、weblogやSNSをやめればいい。
さうなのかもしれない。
でも、やめてゐない。

「否定的なことは書かない」といふ考へ方に賛同できないからだ。

そんなわけで、拙blogには、日々否定的なことばが書き連ねられていく。
Twitterなんかでも「眠い」とか「だるい」とかつぶやいてばかりだ。
まあ、Twitterでつぶやくわけはひとつあつて、あとで見返したときに「ああ、このときはだるかつたんだな」とわかるやうにしてゐるからだ。
たとへば、先月の半ばはとくにだるかつたのらしい、なぜだらう、手帳などを見返して、「ああ、なるほど、こんなイヴェントがあつたからか」などと確認する。
または、単にバイオリズムとかいふアレでだるいだけなのかもしれない。
さうすると、次に似たイヴェントやバイオリズムとやらの波がきたときに、まただるくなるな、と予測がきくやうになる。
さうすればだるくならないやうに予防したり、だるくなつても大丈夫なやうに身辺を整理しておく、といふこともできるといふ寸法である。
なにもTwitterでやらなくても、といふ話もあるが、一番見返しやすいのがTwitterなのでな。

否定的なことを書かないやうにするにはどうすればいいか。
好きなことを書けばいいだらうか。
さう思つたこともある。

だが、すぐにそれではダメなことに気がついた。
こどものころから自分の好きなことやものについて手放しで賞賛するといふことができない。
なにかを好きになると、それのダメなところや苦手なところ、欠点を探してしまふのだ。
それで安心したりする。
「あばたもえくぼ」とか「亭主の好きな赤烏帽子」とかいふことばが嫌ひなんだよね。
どんなにすぐれたもの、どんなに気に入つたものでもダメなものはダメだらう。
あばたはあくまでもあばた。
さう思ひたいのである。
かくして、どんなに好きなことについて書くとしても、「否定的なことは書かない」といふのは無理難題以外のなにものでもないのだつた。

好きなものの欠点をあげつらつて、「それでも好きだ」とか「それだから好きだ」とやらかすのもあまり好きではない。

それでゐて、好きなものごとを好きな理由の根幹を否定されると、たちまち弱つてしまふ。
ダメだねー。

そこで好きなものごとを好きな理由の根幹も否定の対象になるのだ、と、立ち向かへるやうならディベイトでも無敵なのにね。

つて、まあ、ディベイトとかやつたことはないけれども。
でも、ディベイトといふのはさうしたものだらう。

とあるものごとについて長所短所をあげていつて、みづからの主張の根拠をととのへていく。
たとへば自分がそのものごとを「是」とする立場にたつたとしたら、「非」とする立場の相手はかう攻めてくるだらう、はたまたかうも云つてくるかもしれない、と、手を尽くす。
ディベイトといふのはさうしたものだらうと思つてゐる。

本来はディベイトをするしないに関はらず、ものごとといふのはさういふ風に見るものなのだらうと思ふ。
その一端をなんとかかんとかやつてゐる。
とくに自分が好きなものごとに関しては、ね。
と、さう思つてゐる。
できてないけど。

「否定的なことは書かない」といふ考へ方に賛同できない理由は、残念ながら「言論の自由」云々といふところにはない。
有り体に云ふと、天の邪鬼だから、だな。
どうしてこんな性格に生まれついてしまつたのか、と嘆くこともないわけぢやない。
でも生まれもつた性分だから仕方がないやね。
性格は変へられる、と世の人は云ふけれど、遺伝子に刻まれてゐるものはなかなか変へることはできないんぢやあるまいか。
さう思つてゐる。

天の邪鬼でいいことなどない。
強いて云へば、天の邪鬼ゆゑに自分の好まぬ方を選んで、それで得するといふこともあるかもしれない。
しかし、それは運でしかない。
天の邪鬼でなくてもありうることだ。

世の中はすなほで自分に正直な人間の住みやすいやうにできてゐる。
わかつちやゐるんだがなあ。

Wednesday, 08 October 2014

くだを巻く螽蟖

「老後破産」の記事を読んだ。
TwitterのTimeLineに並んでゐたからである。
他人事ではない。
つねづねさう思ふてゐる。
また、やつがれは大層後ろ向きな性格である。
これまたつねづねさう思ふてゐるし、ここにも何度か書いてゐる。
それでもなほ、読んでうちのめされることしばしであつた。

衝撃のあまり、URLを保存することも忘れてしまつたが、ほんと、他人事ではない。
明日は我が身、である。
おかげで、それまでは「来月の「勧進帳」は久しぶりに一階で見やうか知らん」と思つてゐた気持ちがすつかりしぼんでしまつた。

来月の歌舞伎座は吉例顔見世興行である。
初世松本白鸚追善公演といふことで、孫にあたる市川染五郎が初役で「勧進帳」の弁慶を演じることになつてゐる。
富樫には白鸚の長男である松本幸四郎、そして義経に白鸚の実の次男である中村吉右衛門、といふ、なんか、もう、「それ、あり?」な配役になつてゐる。
そんな配役なので、これはもう二度とないかもしれないし(といふよりは、二度とないであらうし)、見るなら一階だな、と思ふたのである。

思へば歌舞伎座の一階席になど、去年の十月以来座つたことがないのに、である。

だが、「老後破産」を思ふにつけ、歌舞伎座の一階で芝居を見るだなんて、身の程を知らぬ所行なのではないかといふ気がしてくる。
三階の一番安い席でさへ、座つてはいけないのではないか。
そもそも、観劇などといふのはお大尽のすることで、稼がぬことには生きてゆかれぬ資産を持たぬ庶民がすることではないのでは。

ないのでは、でなく、ない、のである。
芝居見物なんぞといふのは、生活に余裕のある人のすることで、日々の暮らしに汲々とする人間のすることではない。
わかつてはゐるんだけどなあ。

もつといふと、やつがれは芝居を見るに値しない人間である。
芝居に限らず、ものを見る目といふものがないんだな。
ほかの人、とくに識者といふやうな人がほめてゐるものがいいものには見えない。
それならまだしも、ものごとの深いところを理解して受け取る能力がない。

識者のほめるものが悪く見えるのは、趣味の問題もあるだらうからいいとして、ものごとの深いところを理解できないのはどうよ。
見る価値があるのか。
ないな。
ない。

といふやうなことは、もうずいぶんと前から思つてゐた。
多分、芝居の席が取りづらくなつてきたころから思つてゐたと思ふ。
それまでは、「まあ座席もあいてゐることだし、無理しない範囲で通ふのはありだらう」くらゐに、自分を甘やかしてゐた。
それが、「歌舞伎ブーム」などといふものがあつたかなかつたかよくわからないうちに、座席が押さへづらくなつてきて、「……もしかして、やつがれ風情が見てはいけないのかも。見たいと思つてゐる、もつと感受性の強い人とか芝居への愛にあふれてゐる人が見られるやうにした方がいいのかも。自分ひとりでも見るのをあきらめたら、その分見られる人もゐるだらうし」と思ふやうになつた、と。
そんな寸法である。

かういふ考へ方をするのは、なにもやつがれ一人ではない。
たとへば、引退興行などの場合には、「長いこと引退する人のことを見てきた人に譲りたいから」といふので、わざとチケットを買はない人がゐたりする。

さういふ人とやつがれとどう違ふのか、といふと、自分のことを信用してゐるか否か、といふところだと思ふ。
やつがれは、自分のことを信用してゐない。
信用してゐない、といふか、有り体に云つて、「芝居を見せるのはもつたいない」人間だと思つてゐる。
いつたいなんのために毎月芝居見物に行つてゐるのか。
我ながら不思議である。
わかつちやゐないのにね。

見に行くのは好きだからだらう。
さうも思ふ。
だが世の中にはやつがれよりも芝居とか役者とかにずつと濃い愛情を注ぐ人があつて、さういふ人にはどうも「かなはないなー」と思つてしまふ。
好きといふのは勝ち負けの問題ではないのだが、どうもやつがれには他人より愛が薄いといふか情が薄いといふ引け目があつて、それでチト退きがちになつてしまつたりもする。
だいたい「好き」と公言してゐて居への愛情を隠さないやうな人はいつのまにか「俳優祭」に行けてゐたりするのに、やつがれはといへば未だに電話がつながつたことすらない。
これつてやつぱり愛情の過多によるんぢやあるまいか。
芝居さんはみづからを愛する人を愛する。
そんな気がする。
そして、それは芝居さんに限らないのだ。
#芝居さん、とか書いてゐるとなんとなく仲達が脳裡に浮かぶなあ。

まあ、かういふ感情をさして人は「拗ねてゐる」といふのかもしれない。
そのとほりである。

もとい。
いづれにしても、芝居見物や演奏会通ひなどといふものは、持てる者の娯楽であつて、持たない者は指をくはへてあきらめるしかない。
淀川長治は、晩年、若者に向かつて、「オペラに行け、バレエに行け、金がないなら親からくすねても行け、仕事をやめてでも行け」と云つたのださうである。これも昨日TLにリツイートがまはつてきて知つた。
おそらく、持たない者でも若者だつたら見てもいいのだ。
若くもなく、こどものたかられるばかりの持たない大人は、分別を覚えるべきなのである。

ああ、もう、「べきなのである」と書いてゐるところからして、「わかつてるよ。わかつてるけどできないんだよ」つて云つてゐるやうなものだな。

そんなわけで、来月の「勧進帳」は一階で見る。
「老後破産」まつしぐら、だ。

Tuesday, 07 October 2014

しつこくMaquerade

北欧旅行には、タティングレースを持つて行つた。
Mary KoniorのMasqueradeを作つてゐた。糸はLisbeth #40のMint。
と、ここまでは先週書いたとほりである。
ビーズタティングをしてゐたこともあつて、モチーフはひとつくらゐしかできあがらなかつた。

ところで北欧ではタティングレースはほとんど見かけなかつた。
ヴェヴメッサでは、手藝小物のたくさん入つたかごの中にPrismのタティングシャトルが混じつてゐるのを見かけた。
ヘルシンキのアカデミア書店では、米国で出版されたとおぼしきタティングレースの本のフィンランド語版が売られてゐた。これまで三回この本屋には行つてゐるけれど、タティングレースの本を見たのはこれがはじめてである。
はじめて行つたときはスウェーデンのヘムスロイドでタティングレースものを見かけたんだけどねぇ。
まあ、タティングレースを求める旅ではなかつたので、そんなものかな、とも思ふ。

帰つてきたことでもあるし、そろそろThe Twirlyをつなげるプロジェクトに戻らうかと思つてゐたのだが。
またこんなものを作つてゐる。

Untitled

糸はLisbeth #40のDenim Blue Lt. Lisbethの水色をいろいろと試したうち、これが一番気に入つてゐる。
何か月か前に3玉買つた。何か大きなものを作りたいと思つたからである。
まだThe Twirlyをつなぐプロジェクトの最中だといふのにねぇ。

大きいものを作りたい、といふだけで、何を作るかはまつたく考へてゐない、といふのが、いつもの悪いくせである。
たまに糸をとり出しては、ぼんやりと眺めてゐるばかりだつた。

今回、Masqueradeにしたのは、weblogを見てゐるうちに、このモチーフを何枚もつないだ写真に目がとまつたからである。

ときどきあるんだよね、Masqueradeをつないだすてきな作品。
webを徘徊してゐると出会ふことがある。

このモチーフはつなぐとまたいいんだよね。
四隅同士をつないだ部分にまた別の模様が浮かび上がる。
そこがいい。

などといひ乍ら、まだひとつしか作つてゐないけれど。
The Twirlyをつなげるプロジェクトもまだまだ進行中なのだけれど。

これもなんとかつづけていけたらと思つてゐる。

Monday, 06 October 2014

透かし編みのショール

スウェーデンから届いたニット 2」に掲載されてゐる透かし編みのショールを編み終はつた。

Hålprick

糸は指定糸。ヴェヴメッサで購入した。色も指定のとほりである。
この色がいいんだよねぇ。ヘドロの好きな色だ。Red and black. 赤は血の色黒は罪の色。オーレッ!
といふわけで、どことなく「カルメン」といふか、闘牛士といふか、そんな趣のショールである。
これまでのやつがれの好みにはない色合ひである。
でもいい。
ベタだがなー。

思へば、あみものをするやうになつて、好きな色合ひがだいぶ変はつたやうに思ふ。
あみものをするまでは、黄色などないも同然の色であつた。
あみものをするやうになつて、「黄色、いいぢやあないか」と思ふやうになつた。
ほかにもさういふ色はある。
また、あみものをするやうになつて、これまで好きだつた色がますます好きになつた、といふこともある。

帰国してその日のうちにかせの毛糸を玉にして編みはじめた。
さうしないとまたタンスの肥やしが増えてしまふ。
さう思つたからだ。
正解だつたやうである。

Östergötlands Ullspinneri's Visjö

これが玉にした毛糸。
赤は何故か途中で糸がわかれてゐた。
別段半分になるといふわけでもなささうだ。
結んであるよりはいいかな。
糸端同士はロシアン・ジョインでつないだ。
この糸はロシアン・ジョインをやりやすい糸のやうに思ふ。
ロシアン・ジョインとは、糸端の撚りをほどき、あはせて撚りあはせる方法である。後から糸端の始末をする必要がないのがいい。あはせた部分だけ少し糸が太くなるけれど、まぁ、気にならないといへば気にならない。

編みはじめてこのくらゐになつた時、糸が足りなくなるのではないかと不安になつてきた。

本では、赤が80g、黒が20gと書いてある。
ひとかせ100gといふことだから、赤黒反転してもう一枚編めるくらゐ残るはずだ。
赤は玉が二つだつたし、早く小さくなるので心配になつたのだつた。

またこのショールは、三角形の二辺から編みはじめるため、最初のうちは毛糸の消費量が多い。
毎段減らし目があるんだからそんなに心配する必要はないとわかつてはゐるんだけどね。

結局、糸はあまつた。
おそらく赤黒反転したショールを編めるくらゐはあると思ふ。

やつがれはどちらかといふと手のゆるい方なので、多少きつめに編んでみたつもりだ。
でも仕上がつてみると、やはりやはらかくてやはり手がゆるいなー、といつた感じだ。

いい色のいいショールだ。あたたかいし。
しかし、これ、使ふのかなあ。
確かにさし色としてはいいけど、チト派手ぢやあないか知らん。

それにしても、毛糸は進みが早いな。
実はブリオッシュスティッチのcowlも編み終はつてるんだよね。整形はまだだけど。
それに、「あみものワークショップ」に掲載されてゐるポンチョも編みはじめてしまつた。
夏に編んでゐた麻綿混の糸のストールがまだ編みかけなのだが、このまま来年に持ち越すかなあ。

Friday, 03 October 2014

次のノートが決まらない

現在使つてゐるノートは、アサヒヤ紙文具店のクイールノートだ。
四月の半ばから使ひはじめてそろそろ半年にならうとしてゐる。
一冊のノートとしてはかなり長い期間使つてゐる。

このノートがそろそろ終はりさうなのだが、次のノートが決まらない。
大抵はあと十枚とかいふことになつたら次のノートが決まつてゐるのになあ。

候補はあつて、いつもおなじでMoleskineかSmythsonのPanamaかだ。
なぜといつて、手元にあるからである。
MoleskineもPanamaもどちらも好きでどちらも使ひたいので、なかなか決まらない。
いつそ両方使へばいいぢやん、とも思ふが、ノートを増やしてどこに何が書いてあるのかわからなくなつても、ねえ。

Moleskineのポケットサイズ(銀行の通帳サイズ)から文庫本くらゐのサイズのノートを日々使ふやうになつたのが、2010年の9月だ。
いま最初の一冊を見たらさうなつてゐた。
一冊目はMoleskineの無地のポケットサイズで、右側のページだけ使ひ、左側のページは見返したときの追記用にあけてゐた。
左側のページにも書くやうになつたのは、SmythsonのPanamaを使ふやうになつてからである。なんだか、もつたいなかつたんだよね、左側のページが空いてゐるのが。

多分、今まで一番使つたのがMoleskineだ。といふよりは、ほとんどMoleskineだと思ふ。Panamaが4冊あるかないかで、あとはクイールノートが2冊といふのが複数冊使つたことのあるノートである。
ほかにGMUNDとかRHODIAのWebNotebookとかを使つたことがある。

いま目の前にあるのは、アピカのC.D.Notebookの横長タイプだ。文庫本とほぼおなじくらゐのサイズだと思ふ。
これにしやうかなあとも思ふのだが、如何せん、表紙がチト薄い。
Moleskineとかクイールノートのよさつて、書きやすさとか紙質とかももちろんあるけれど、表紙がかたいといふこともあるんだよね。
さつと取り出して机におかなくても書きやすい。
かばんに入れてゐても表紙がよれてこない。
C.D.Notebookはその点がちよつと心配だ。
ほかのサイズならカヴァをつけることもできるけれど、文庫サイズで横開きとなると、ぱつと思ひ浮かぶやうなカヴァがない。自作する? うーん。

Panamaの表紙はやはらかいぢやあないか、といふ向きもあるだらう。
それはさうなんだけれども、Panamaには薄くて持ち歩きやすいといふ長所があるんだよな。
それに、やはりかばんに入れてゐても表紙はよれてこない。

C.D.Notebookを気をつけて持ち歩いてみる?
一度くらゐは試してみてもよいだらうか。
紙は96枚とある。片面だけ使ふやうにすれば、あつといふ間に使ひきるかもしれないし。

C.D.Notebookを試してみやうかと思ふ所以は、「横開き」といふところにある。
いままで使つたことのないタイプだ。
横開きのなにがいいかといふと、縦書きをしやすさうといふところにある。
手持ちのC.D.Notebookは無地なので、ますますいい。
横に書きたかつたらノートを縦にしてもいいしね。

などと書いてゐるとC.D.Notebookにするかなあ、といふ気になつてくる。
どうしやうかなあ。

ところで、このサイズのノートは使つてゐるあひだに一度は飯田市川本喜八郎人形美術館に行きたい、といふ願望がある。
一冊のうちに一度はそのとき見た展示のことを書いておきたい。
そんな気がするからだ。

次に飯田に行くのは十二月の予定だ。
そのときどんなノートを手にしてゐるだらう。

Thursday, 02 October 2014

講座「川本喜八郎氏の人形アニメーション」に行つてきた

9月28日(日)、「川本喜八郎氏の人形アニメーション」という講座を聞きに、渋谷ヒカリエにある渋谷区防災センター会議室に行つた。

講師はアニメーション評論家のおかだえみこ氏。
渋谷区民優先といふ話だつたが、ありがたいことにお話を聞くことができた。

渋谷区主催のかうした講座はこれまでにもあつた。
いづれも歴史寄りの話であり、当然のことながら渋谷区民優先といふので申込みを躊躇するうちに日が過ぎてゐた。

今回の講座に申し込んでみたのは、人形アニメーションについて語る講座といふのがめづらしい気がしたことと、川本喜八郎の人形アニメーション作品を見られることのふたつが理由である。

川本喜八郎の人形アニメーションなら、DVDにもなつてゐるし、わざわざ見に行く必要はないぢやあないか。
さういふ意見もあらう。
やつがれもさう思ふ。

しかし、見に行きたい。
なぜといつて、川本喜八郎の人形アニメーションを見ることしかできない空間で見たいからである。

このblogにも何度か書いてゐるやうに、やつがれは「ながら族」である。
TVだけを見る、といふことができない。
TVを見ながらあみものをしたり、TVを見ながらタティングレースをしたり、時にはTVを見ながら本を読んだりする。
それで両方頭に入つてゐるのか、と訊かれると甚だ返答に窮するが、どうもTVのモニタだけを見るといふのは時間のムダな気がするのである。

TVを見るだけなら、両手はあいてゐる。
だからあみものはできる。タティングレースもできるだらう。
あみものもタティングレースも時に手元を見る必要があるが、ずつと見てゐる必要はない。
#などと書くとタティングレースに真剣に取り組む人に怒られるかもしれないが。

もつといふと、TVのモニタはずつと見つめてゐなければならないものではない。
TVに流れる映像は、見る側の集中を必要としない。
だから本も読めるのである。

それと、やつがれが「ながら族」なのは、「楽しいこと」に別の「楽しいこと」を足したらもつと楽しいだらう、といふ考へもあつてのこと、といふのがある。

くどいほど書いてゐるが、北村薫の小説に、「本を読むときにはおいしいものを食べたい」だつたか「おいしいものを食べるときには本を読みたい」といふやうなことを云ふ主人公が出てくる。
いただきもののクッキーを前にして、本を読みながら食べやうと考へる場面があつたと記憶する。
これがね、よくわかるんだよねぇ。
本を読みながらなにかを食べるだなんて、行儀が悪いはしたない、と云はれるのは承知で、おもしろい本を読みながらおいしいものを食べるのは、これまた至福の時なんだよなあ。
本がおもしろくて没頭してゐたら食べものの味なんてわからないだらう、といふ意見もあらう。
それはさうなんだけれども、でも、楽しいことに楽しいことが重なつたら、1+1を超える効果があるやうな気がしないか?

ゆゑに、映画や芝居を見ながらあみものができないだらうか、といふ妄想につながつていくのだが、まあ、それも何度か書いてゐるのでここではおく。

川本喜八郎の人形アニメーションは、そんな「ながら族」な見方を許してはくれない。
見る側に集中を要求する。
といふよりは、見てゐる方が自然とさうなつてしまふのである。
よそごとを考へる余裕がない(まあまつたくないわけでもないけれど)。
全身全霊を傾けて見なければ。
さういふ気分にさせる。
それでゐて、見終へたあとに肩が凝るかといふとさうでもない。
この夏「死者の書」を見たときにはさすがにちよつと疲れた気はするけれど、一時間も集中して見ればさうなるだらう。

さういふ作品を自宅でDVDで見ると、やはりなんとなく集中がつづかなかつたりして、なんだか申し訳ない気分になつてしまふ。
根が「ながら」なもんだから仕方がない。
そんなわけで、今回も見られるのなら見たい、と思ふたわけだ。

今回は講師のお話のあと、「鬼」を見ることができた。
「鬼」は今昔物語から題材を取つた作品で、おそらく二作目にあたる。
ほぼ真つ暗な背景の中、登場人物は年老いて病んだ老母と二人の息子の三人である。
息子たちの顔は、人形浄瑠璃の人形のカシラをそのまま持つてきたやうな感じだ。

講師であるおかだえみこは、この作品を見て「すごーい」と叫んでしまつたのださうだ。
それ以前に「花折り」も見てはゐたけれど、可愛く楽しいだけの作品で、すばらしいとは思つたけれど、すごいと思ふには至らなかつた、とも話してゐた。
「花折り」にくらべて、「鬼」は内容も深くて、人間の業(とは講師の方は云はなかつたが)を表現してあますところなく、とにかく「すごい」と思ふたのださうである。

「鬼」は、脚本や演出、人形がすばらしいのはもちろんのこと、講座では話に出なかつたが、音楽がとにかくいい。
初見のときに「うわー、こんな曲を書いてこんな曲を弾くのはあの人しかゐないよ」と思ひ、クレジットを見たらそのとほり、「鶴澤清治」とあつた。
文楽にはことに詳しくないやつがれだが、見始めたころいろいろ教へてくれた人が鶴澤清治の贔屓で、自然とCDとか買つたりしてたんだよね。
「鬼」のBGMは三味線が鶴澤清治で尺八が山口五郎といふ、これ以上望むべくもないやうな豪華な布陣だ。
セリフはまつたくなく無声映画のやうにときおり文字だけの画面が出てくる作品で、人形は三味線と尺八とにあはせて動く。その躍動感をなんと表現したらいいだらう。
また、不条理とでもいひたいやうな結末を迎へるあたりの音楽の、曰く言ひ難いしづけさと不気味さ。
講師の方のセリフを奪ふやうだが、ほんたうに「すごーい」としか云ひやうがない。

惜しむらくは、最後の説明めいた文章が不要かな、といつたところか。
海外で上演することを考へての演出なんだらうとは思ふが、ない方がいいのに。

会場には、「モニタの縦横比がオリジナルと違ふのが残念」といふ意見もあつて、そのとほりだとは思ひつつも、かうして見ることができたことがとても嬉しかつた。

講座の感想などもあるのだが、それはまた機会があれば書くことにしたい。

Wednesday, 01 October 2014

英語で発信: 旅先で考へる

9/17から9/26の旅行中、一緒にゐる人々は日本人だし、一日だけではあつたけれどもガイドさんについてもらつたこともあるし、結局、あまり外の人とはコミュニケーションを取つてゐない。

旅行に行つてゐるあひだに、TwitterのTimeLineでは、「日本から海外に英語で発信することの大切さ」についてもりあがつてゐたのらしい。
残念ながら旅先ではTLはほとんど追へなかつたので、それがどんな内容であつたのかはわからない。
まとめ記事があるといふ話を聞いたが、まだ読んではゐない。

以前、成毛眞や水村美苗の本を読んで、「ほとんどの日本人には英語は必要ない」といふやうな内容のことを書いた。
「ほとんどの日本人には」といふよりは、「やつがれには」だ。

普段生活をしてゐて英語で困ることはないし、仕事でも必要がない。
英語でなければコミュニケーションできない相手がゐるわけでもなく、知りたいけど英語がわからないと知り得ない情報があるわけでもない。

書いた当時といまとではちよつと状況が変はつてきてはゐるが、概ねそんなところである。

その一方で、「英語で海外に発信することは必要なことである」といふ意見もある。
その真意はわからないけれど、なるほど、それはさうなのかもしれないなあ、と、今回旅行先で思つたことがある。

広く世に訴へたいことや知らしめたいこと、情熱を傾けて知りたいこと、特殊技能の三つのうち、ひとつでも「自分にはそれがある」と思ふ人は、英語で発信できた方がいい。

さう云ひ出すと、世の中に訴へたいことのない人はほぼゐないのではないかと思ふので、実はみんな英語で発信できた方がいい、といふことになる。

世の中に訴へて、でもまあ聞いてくれる人はゐないかもしれないけれど、興味を持つてくれる人はゐるかもしれない。

情熱を傾けて知りたいことがある場合、それがたとへ日本にしか存在しないことについてであつても、海外によく知る人がゐることがある。
或は、海外にゐる人が、こちらの調べて知り得た情報を知りたがつてゐる場合がある。これは「特殊技能」の方に入るかもしれない。

特殊技能は、たとへば習ひごとでもなんでもいい。音楽、スポーツ、その他趣味もろもろ。
さういふものがある人は、英語ができたら得られる知識の量も増えるし、こちらの話を聞きたいと思ふ人も増える。

そんな機会、自分にはないよ、といふ人もゐるかもしれない。
実はやつがれもさう思つてゐる。
でも、ちよつとだけ、自分の好きなこと、自分が大切だと思つてゐることを英語で受発信できたら、そこから世界が広がるんぢやあるまいか。
そんな気はする。

今回、織物を生業にする人々と異国を回り、現地の織物をする人々と会ふ中で、そんなことを思ふたりした。

かく云ふやつがれには、これといつた特殊技能もなければ情熱を傾ける対象もあるわけではないので、あひかはらず「やつぱり英語は不要だよねー」なことにかはりはない。

2014年9月の読書メーター

2014年9月の読書メーター
読んだ本の数:5冊
読んだページ数:1496ページ
ナイス数:7ナイス

乱視読者の帰還乱視読者の帰還感想
世の中を動かすのは、なにかに熱中できる人なんだらう。世界はどうでもいいが、熱中できるといふのはひどく羨ましい。「そして誰もいなくなった」のくだりを読むと、翻訳だけ読んでゐてはダメなのか知らん、といふ気になるが、原書を読んでもわからないものはわからないのだらうと思ふとこれまた念入りに空しい心持ちになつてくる。ナボコフとチェスプロブレムといふのはなんとなくにつかはしいものに思はれるが、それももともとは著者からの印象なのかな。
読了日:9月2日 著者:若島正
乱視読者のSF講義乱視読者のSF講義感想
「その作家にしか書けないものを評価したい(p78)」といふのがいいなあ。小説に限らず、さういふ目で見たら世の中もつと楽しいかもしれない。さう云へるやうになるには、それこそ数多の作品に触れねばならないのだらうけれど。
読了日:9月3日 著者:若島正
The Transcendental Murder (The Homer Kelly Mysteries)The Transcendental Murder (The Homer Kelly Mysteries)感想
殺人事件にヘンリー・デイヴィッド・ソローとエミリー・ディキンスンとの知られざる戀愛が絡んでどーなるのと思ふが結末はどちらも割とあつけない。ホーマー・ケリーものはかつて第五作目の「エミリー・ディキンスンは死んだ」と第十二作目の「消えたドードー鳥」とが翻訳されてゐて、この本が第一作。結末があつけなさ過ぎて翻訳されなかつたのかねえ。それとも本邦では超越主義は受け入れられないと思はれたのだらうか。どうやらKindleでなら全作読めさうなので、読破に挑戦してみるかと思つて読んでみた。読破するかどうかはチト謎だけど。
読了日:9月11日 著者:JaneLangton
倫敦巴里 (1977年)倫敦巴里 (1977年)感想
高校生の頃読んだ「兎と亀」の市川雷蔵と船越英二が忘れられず読み返してみたらスターターは中村鴈治郎(二世)だつたか。「殺しの手帖」がフォントまで「暮しの手帖」だつたり、フォントといへば「雪国」の谷川俊太郎版のフォントも「マザーグース」そのものだつたり、最後の広告まで「もじり」だつたり、どのページをめくつても楽しい。他の方の感想にもあるとほり、著名な画家風まんがの登場人物も見ただけで笑へる。ジョン・ウェイン主演の忠臣蔵とかすつかり忘れてゐたなあ。橋本治の「シネマほらセット」を好きになるはずだよ。
読了日:9月11日 著者:和田誠
陋巷に在り2―呪の巻―(新潮文庫)陋巷に在り2―呪の巻―(新潮文庫)感想
あとがきは決して好きではないのだが、でもおもしろくてつひ読んでしまふ。紙の本の感想にもあるとほり、物語が動き始めてきておもしろい。二巻で一冊くらゐだつたらいいのにな、と思ふてしまふ所以である。
読了日:9月17日 著者:酒見賢一

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