逢魔が刻と月の夜
人形劇の「シャーロックホームズ」を見てゐたら、夕景がとてもうつくしかつた。
さういへば「人形活劇 新・三銃士(以下、人形劇三銃士)」のときもさうだつたな。
そして、「人形劇三国志」もまた、夕景に見とれることしばしな番組であつた。
夕方の場面がうつくしいのは人形劇の伝統だらうか。
さうなのかもしれない。
或は黄昏時といふものは、なにもかもうつくしくしてしまふものなのかも、と思はないでもない。
なぜといつて、「人形劇三国志」で「夕方の場面」といつてぱつと思ひつくのが、呂布による董卓殺しの場だからだ。
「人形劇三国志」では、董卓は「帝に即位してほしい」とだまされて宮中にやつてくる。
とある部屋の前まで来ると、「ここからはお一人で」と云はれ、おつきの家臣はみなその場で待たされることになる。
董卓ひとりがおほきな部屋に入つていくと、そこには槍を持つた呂布が待ちかまへてゐて、くんずほぐれつの大立ち回りになるわけだ。
……と書けばなんとなくいい感じだが、実際はなんとも見苦しい殺し場である。
逃げる董卓と追ふ呂布とが、夕日の射し込む大広間でどたばたと争ふ姿は、けつしてうつくしいものではない。
呂布としたことが、董卓ひとりを殺すのにかなり手間取るしね。
それでゐて、夕焼けをうつしたやうな壁や屏風、橙色を帯びたあかりなんかがとてもいい感じなのだ。
いい。
とてもいい。
ほかに「人形劇三国志」の夕景といつて思ひつくのは、関羽が勝平を養子に迎へる場面と、いまはのきはの周瑜を乗せた呉の船団がとつぷりと日の暮れた長江を下つていく場面、だらうか。
関羽と勝平との場面では、ほかにも夕暮れに近いやうな時刻と思はれるものがいくつかあつて、どれもいい。
母を亡くした父戀ひ子の切なさが、夕刻といふことでいやましにされる。
そんな気がする。
そんな黄昏時の場面のよさが、「人形劇三銃士」にも「シャーロックホームズ」にも引き継がれてゐる。
そんな風に思ふ。
ところで、もうひとつ引き継いでほしかつたよなー、と思ふものに、夜の場面がある。
「人形劇三銃士」には夜の場面も結構多いのだが、つひぞ「うつくしい」と思ふたことがない。
「シャーロックホームズ」でもいくつか夜の場面があつたけれども、同様である。
をかしいなあ。「人形劇三国志」の夜景はすてきだつたのに。
さう思つて「人形劇三国志」を見返してみて、なんとなく違ひがわかつた。
「人形劇三国志」の夜の方が、「人形劇三銃士」や「シャーロックホームズ」に比べて暗い。敢て云ふと、闇が濃い。
「人形劇三銃士」や「シャーロックホームズ」の夜空が紺色や藍色だとしたら、「人形劇三国志」の夜空は墨のやうな黒だ。
そして、人形や大道具小道具にかかる影も、「人形劇三国志」の方が深い。
「人形劇三銃士」や「シャーロックホームズ」は演出上さうしてゐるのかもしれないし、「人形劇三国志」の場合は単にカメラの性能でさうとしかうつせなかつたのかもしれないな、と思ふたりもする。
だとしたらもうこれは如何ともし難いことではある。
月夜の演出も、「人形劇三国志」と「人形劇三銃士」・「シャーロックホームズ」とでは異なる。
「シャーロックホームズ」は話数が少ないのでこれから違ふ場面もでてくるかもしれないけれど、「人形劇三銃士」は、夜空を見上げるとそこにあるのは満月だつたりする。
「人形劇三国志」は違ふ。
その時々によつて、月は満ちたり欠けたりしてゐる。
やつがれが「人形劇三国志」中一番好きな月夜の場面は、これまた董卓の出てくる場面である。
董卓が王允を自室に呼んで、「帝を廃してみづからが帝位につくつもりである」と本心を明かす場面。
窓の外には月が浮かんでゐる。満月でも三日月でも半月でもない、中途半端に欠けた月が輝いてゐる。
そんなきれいな月の夜に、むくつけき男が猫背の老人を呼び出して、謀反の企てを語る。
そして、人形に落ちる黒い影。
いい。
とてつもなくいい。
どうもやつがれは「うつくしい夕景」や「きれいな月夜」にそぐはない人々が下世話に動きまはる場面に心を動かされるのらしい。
下世話な人々の活動だけではダメなんだな。
そして、夜は暗いもので、ゆゑに月は明るい、といふのが表現されてゐるのが好きなのだらう。
「シャーロックホームズ」を現代の話、と思ふてしまふのも、その夜の明るさゆゑな気がしてゐる。
19世紀末のロンドンはもつと暗かつたはずだ。
さう思ふてしまふからだ。
その「シャーロックホームズ」も、モリアーティ教頭が生活指導を担当するやうになり、もしかしたら今後は夜の場面が増えるのかも。
さうしたら、もしかすると深い闇の世界を見ることもできるかもね。
そんな期待をしてゐる。
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