Walden を読む
ぼんやりと生きていきたい。
あらためてさう云はなくても、日々ぼんやり生きてゐるぢやあないか。
さうも思ふ。
しかし、世の中なかなか人をぼんやりとした状態においておいてはくれないものだ。
なぜかなあ。
そんなに干渉してこなくてもいいのに。
世にもてはやされるのは、人生如何に有意義に生きるかの法である。
とくに仕事ではさう。
トヨタ方式だのリーンだのといふことばを聞かない日はない。
どうすれば効率よく、無駄を省いていけるか。
多分、そんなことばかり考へてゐる。
無駄、ねえ。
それはほんとに「無駄」なのか。
なにをもつて無駄といふのか。
もつといふと、無駄でもいいぢやんねえ。
先日、Waldenを読んだ。
ヘンリー・ディヴィッド・ソローが、二年と二ヶ月と二日を森の中で暮らした記である。
ソローは、生活に必要な経費を見積もつてゐる。
そして、それを購へるだけの金を稼いだら、あとは好きなことをして過ごす。
好きなことといつて、本を読むとか思索に耽るとかだ。
これといつて生産的なことはしてゐない。
そして、Waldenを読んだことのある人ならわかるやうに、ソローはたいしたことは書いてゐない。
読んだ本に関する考察もさうなら、思索にしても、これといつたことは書いてゐないのだ。
これをして、「せつかく森に籠もつて考へてこのていどか」といふ人がゐる。
もちろん、さういふ見方もあらうし、さういふ見方が大半なのかもしれない。
でも、それつてソローにしてみたら大きなお世話だよね。
ソローは、自分のやりたいことをしたいだけなのだ。
だから必要最低限の生活費を得たら、あとは好きなやうに暮らす。
好きな本を読んで、世の中のあれこれに思ひをめぐらし、ときにさうしたことどもについて書き記す。
その内容が他人に感銘を与へるものであらうがなからうが、ソローにはどうでもいいことだつたらう。
いや、まあ、人間だから、すこしは「人々に受け入れられるといいな」といふ色気はあつたかもしれない。
だがそれは二の次三の次で、まづは自分がしたいことをする、それが肝要なのである。
さういふことだと思ふ。
そこんとこがわからない人には、Waldenは退屈きはまりない本なんだらう。
Waldenを読むと、「自分のやりたいことなんて、たいしたことでなくてもいいんだな」といふことに気づく。
世の中のためになるとか、大きな成果をあげるとか、そんなことでなくてもいい。
だいたい、さういふ成果主義的なところから離れたくて森に籠もつたりするのぢやあるまいか。
やつがれはどちらかといふとソローよりはエマソン派なのだけれども、Waldenを読み返して、「かういふ暮らしもありだよな」とたのもしく思ふたのだつた。
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