あきらめない人
8/23に飯田市川本喜八郎人形美術館で「死者の書」を見てきた話は昨日も書いた。
作中、大伴家持に「あきらめない人間が世界を作つていく」といふやうなセリフがある。
家持自身はいろいろあきらめちやつたけど、みたやうな流れで、そんなセリフをつぶやく。
なるほど、それはさうかもしれないなあ。
あともうひとつ、「思ひ込みの激しい人間が世界を作つていく」といふことはあるやうに思ふ。
狂信的な人が世の中を変へていく。
そんな気がする。
思ひ込みの激しい人間は苦手である。
先日、お芝居を見始めたばかり、といふ初心者の方でさういふ人に出会つた。
見始めたばかりなので、昔の話などはすべて本を読んだり映像を見たりして得た知識である。
それを得々と語る。
こちらが「その芝居は見た」といふ話をしても、あまり聞いてゐる風ではない。
「でもかうなんでせう。誰某はさう書いてゐました」
などとおつしやる。
「初心者」といふのは誰でもとほる道だ。この段階にある人間があまり物を知らなくても、それはさういふものだ。とやかく云ふ問題ではない。
多分、世に「ニワカ」と呼ばれるやうな人は、先日会つたこの人のやうに、知識のないのを埋めやうとして、あれこれ漁つてまはり、それを披露せずにはゐられない、そのくせ人の話を聞かうとはしない、さういふ状況にある人のことをさすのだ。
人情として、さうしたい気持ちはわからぬでもないけれど。
まあ、無論、ものを見る目のないやつがれの話を聞いても無駄、といふ話はある。
先日会つた人についても、さういふことだつたのかもしれない。
さて、The Twirlyをつなぐプロジェクト(毎回名前が変はるね、どーも)、は、4つめの大きなモチーフをつなぐところまでできた。
7枚1モチーフだから、全部で28枚のThe Twirlyをつないだことになる。
現在29枚めをつなげたところだ。
土曜日は「死者の書」を見た後、飯田線に乗つた。飯田から辰野まで、そこから先は中央線で小淵沢まで出た。
はじめて乗る路線である。
飯田から辰野まで二時間くらゐかかる。
そのあひだに、ちよこちよこ結んでみたりした。
見渡すかぎり山ばかり、といふほどでもないが、いつでも必ず視界のどこかに山があつて、そんな中手元でちよこちよこ結びながらの道中といふのは悪いものではない。
もつといふと、楽しい。
うつかり糸を引きすぎてしまつたりもするけれど、それもまた一興だ。
あとで見て、「ああ、これは飯田線の中で結んだところだなあ」とかわかる(かもしれない)ぢやあないか。
我ながら、よくぞつなぎつづけてゐる、と思ふこともある。
が、結んでゐるときは、あまりさういふことは考へない。
何度も失敗して糸を切つたりもしてゐるが、それでくぢけるといふことはない。
さういふものだと思つてゐるからだ。
時々失敗してこれまで結んできたものが無駄になるのは当然のこととして、折り込み済みなのだ。
おそらくさういふことなのだと思ふ。
だから、そこに「あきらめる」だの「あきらめない」だのといふ発想は出てこない。
失敗しても「あーあ、やつちやつた」で、始末してまたやりなほすことができる。
そんなわけで、家持のセリフは実は違ふのかもしれない。
世の中を作るのは、あきらめない人ではなくて、あきらめるだのあきらめないだの、そんなことに考への及ばない人。
さういふことなのかもしれないなあ。
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