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Friday, 29 August 2014

Walden を読む

ぼんやりと生きていきたい。

あらためてさう云はなくても、日々ぼんやり生きてゐるぢやあないか。
さうも思ふ。
しかし、世の中なかなか人をぼんやりとした状態においておいてはくれないものだ。

なぜかなあ。
そんなに干渉してこなくてもいいのに。

世にもてはやされるのは、人生如何に有意義に生きるかの法である。
とくに仕事ではさう。
トヨタ方式だのリーンだのといふことばを聞かない日はない。
どうすれば効率よく、無駄を省いていけるか。
多分、そんなことばかり考へてゐる。

無駄、ねえ。
それはほんとに「無駄」なのか。
なにをもつて無駄といふのか。
もつといふと、無駄でもいいぢやんねえ。

先日、Waldenを読んだ。
ヘンリー・ディヴィッド・ソローが、二年と二ヶ月と二日を森の中で暮らした記である。
ソローは、生活に必要な経費を見積もつてゐる。
そして、それを購へるだけの金を稼いだら、あとは好きなことをして過ごす。
好きなことといつて、本を読むとか思索に耽るとかだ。
これといつて生産的なことはしてゐない。
そして、Waldenを読んだことのある人ならわかるやうに、ソローはたいしたことは書いてゐない。
読んだ本に関する考察もさうなら、思索にしても、これといつたことは書いてゐないのだ。

これをして、「せつかく森に籠もつて考へてこのていどか」といふ人がゐる。
もちろん、さういふ見方もあらうし、さういふ見方が大半なのかもしれない。
でも、それつてソローにしてみたら大きなお世話だよね。
ソローは、自分のやりたいことをしたいだけなのだ。
だから必要最低限の生活費を得たら、あとは好きなやうに暮らす。
好きな本を読んで、世の中のあれこれに思ひをめぐらし、ときにさうしたことどもについて書き記す。
その内容が他人に感銘を与へるものであらうがなからうが、ソローにはどうでもいいことだつたらう。
いや、まあ、人間だから、すこしは「人々に受け入れられるといいな」といふ色気はあつたかもしれない。
だがそれは二の次三の次で、まづは自分がしたいことをする、それが肝要なのである。
さういふことだと思ふ。
そこんとこがわからない人には、Waldenは退屈きはまりない本なんだらう。

Waldenを読むと、「自分のやりたいことなんて、たいしたことでなくてもいいんだな」といふことに気づく。
世の中のためになるとか、大きな成果をあげるとか、そんなことでなくてもいい。
だいたい、さういふ成果主義的なところから離れたくて森に籠もつたりするのぢやあるまいか。

やつがれはどちらかといふとソローよりはエマソン派なのだけれども、Waldenを読み返して、「かういふ暮らしもありだよな」とたのもしく思ふたのだつた。

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Thursday, 28 August 2014

怪談よりもおそろしい

この夏、怪談話を二つほど見た。

七月に大阪松竹座で「豊志賀の死」、八月に歌舞伎座で「怪談乳房榎」を見た。

「怪談乳房榎」は怪談といふほどの怪談でもないのだが、「豊志賀の死」は怖かつたねえ。
中村時蔵演じる豊志賀の怖さといつたらなかつたね。なんですか、あれは。放送できないよね。
萬屋の豊志賀はきつと怖いだらうと思つて、三階の上の方の席を取つて正解だつたかもしれない。そばで見てゐたら、夢に出てきたに相違ない。
歌舞伎で怪談といふと、それほど怖くないことも多いのだが、菊之助の四谷怪談といひ、今回の時蔵の真景累ヶ淵といひ、ここのところほんたうに怖い怪談を見てゐるな。

ところで、これまで見てきた中で一等怖い芝居は、怪談ではない。
いままで見た芝居の中で一等おそろしかつたもの、それは、中村歌右衛門の「摂州合邦辻」である。

芝居がはじまつてしばらくすると、死んだことになつてゐるはずのお辻こと玉手御前が実家に帰つてくる。
戸の前で「かかさん、かかさん、ここ開けて」といふそのセリフに、背筋がゾッとした。
うわ、こいつ、ほんとに黄泉の国から戻つてきたよ。
さう思つた。

あの場の玉手御前は、幽霊なのだ。
戸が開いて、中に入つたそのときにはじめて玉手御前はその肉体を得る。
さういふことなのだらう。
こちらも、「摂州合邦辻」を見るのはこのときがはじめてで、それでよけいに玉手御前に幽的めいたものを感じたのかもしれない。

その後「摂州合邦辻」は何度か見てゐるが、絶えて「怖い」と思ふたことはない。

その次に怖かつたのは、やつぱり中村歌右衛門で「伊勢音頭戀寝刃」の万野。
その次が中村芝翫の玉蟲で「平家蟹」。これも歌右衛門で見てゐたらもつと怖かつたかもしれない。

世に「一番おそろしいのは人間」などといふことばがある。
この三つは、「さうですよ、この世で一番おそろしいのは人間なのです」と云ふてゐる。
そんな気がする。

しかも、玉手御前も万野も玉蟲も、その考へてゐることがまつたくわからないといふわけではないところが、また念入りにおそろしいのだ。
とくに玉蟲は、自分もああなりかねないところがあるので、よけいにおそろしい。

でもやつぱり怪談も苦手なのだよなあ。むー。
時蔵の豊志賀は間近で見ておくべきだつたらうか。

いや、やはりやめておいて正解だ。
怖いのダメなんだよ。

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Wednesday, 27 August 2014

只有常山趙子龍

8/22(金)、飯田に行く前に渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに立ち寄つた。

……あきれるよな。
やつがれ自身もどうしたものかな、と思ふてはゐる。

飯田で一泊するのなら、午後出発のバスの方が楽である。
これまで乗つた経験からいくと、午後の中央道下りはそれほど混んでゐるといふ印象はない。朝行くよりもいいんぢやあるまいか。

などと云ひ訳しつつ、まあ、つまりは、行きたいだけなんだな。

朝一番のヒカリエには、たいていの場合やつがれしかゐない。
渋谷区の職員さんだらう、鍵を開けて照明をつけて、職場の方へと去つてゆく。誰もゐないところでぼんやりと展示を眺めてまはる。

この日は違つた。
先客がゐたのである。

祖父母につれられた小学校低学年くらゐの女の子が来てゐた。
お祖父さんはよくわからないが、お祖母さんは歌舞伎とかも見る人のやうであつた。俊寛の話を孫にしてゐたからだ。

孫は蒋幹から順番に三国志の人形を見てゐて、ある人形の前で止まつた。
趙雲だつた。
「趙雲だ!」
と、知り合ひででもあるかのやうに叫んでゐた。
どうもお祖母さんと孫との会話を漏れ聞くに、孫は三国志を読んだことがあるのらしい。字がいつぱいつまつた本、といつてゐた。
お祖母さんが、
「ぢやあ、孔明も知つてゐるでせう」
と訊いてゐたが、孫は特別乗り気でもないやうな感じで、
「うん」
とうなづいて、
「趙雲、強いんだよ」
と、あくまで趙雲にしか興味のないやうすで付け足すのも忘れなかつた。

いや、そらまあ趙雲は強いかもしれないが。
いつたいどんな三国志を読んだのだらう。
気になるなあ。

三国志で強いつて云つたら、呂布とか関羽とかぢやないのか。
それは考へのこりかたまつた大人の考へることで、なにも知らないところに三国志を読んだら、さう思ふばかりでもないのだらうか。

確かに長坂坡の趙雲の強さはちよつと神憑つてゐるけどな。
神といふか死者の加護もあつたくらゐだし。

だが待てよ。
彼女は別に長坂坡の趙雲のくだりを読んで「趙雲つて強い」と思つたのではないのかもしれない。
なにかもつと違ふ場面を読んで、さう思つた可能性もある。

違ふ場面といつて……さうだなあ。たとへば江東にゐる孔明を迎へに行つたとき、とか?
或は孫夫人との婚礼の件で玄徳のお供をしたとき、だらうか。
はたまた、江東に帰らうとする孫夫人の手から阿斗を助け出したとき?

うーぬー。
なんだかどれも違ふ気がする。
訊いてみればよかつたか知らん。

ところで、渋谷の趙雲は、飯田の趙雲よりもすつきりした顔立ちをしてゐる。
渋谷の趙雲の方が若干色白なのかな。眉も飯田のcounter partよりもすつきりしてゐる。

飯田の趙雲、といふよりは、人形劇に出てゐた趙雲は、真正面から見ると困つたやうな怒つたやうな顔をしてゐる。眉根がぐつと寄つてゐて、不機嫌さうに見えるからだらう。
しかし、人形劇を見てゐて趙雲に「不機嫌さう」といふ印象を持つたことはない。
ここでも何度か書いたやうに、「人形劇三国志」の趙雲といへば、「いつもさはやか好青年」だ。「人形劇三国志」中、一等「凛々しい」といふことばの似合ふ男、それが常山の趙子龍である。

これまた前回も書いたと思ふが、いま飯田にゐる趙雲には困つてゐるやうなやうすや不機嫌なやうすは見られない。
ちよつとうつむいてゐて、至極神妙なやうすに見受けられる。
そして、なんとなく、喋つてゐるやうすが脳裡に浮かぶんだなあ。
あの聲が聞こえてくるやうな気がする。
渋谷の趙雲には絶えてないことだ。

凛々しい、とか、すつきりしてゐる、といふ意味では、渋谷の趙雲の方がよつぽど凛々しくてすつきりしてゐる。
趙雲は、渋谷で見たことのある三国志の人形の中では、人形劇のときとほとんど変はつたやうすの見えない人形だ。
目に見える違ひといつて、衣装のほかは、とにかく「よりすつきりした」といふ点に尽きる。
それは、おそらく、「人形劇三国志」の収録をするうちに、「趙雲とはかうした人物である」といふ印象が、川本喜八郎の中で強くなつていつたからなのではないかなあ。

といふやうなことを、ほかの人形にも感じることもある。
だからまだお目見えしてゐない残りの四人(みんな人間であるとして)がとても気になるのだつた。

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Tuesday, 26 August 2014

あきらめない人

8/23に飯田市川本喜八郎人形美術館で「死者の書」を見てきた話は昨日も書いた。

作中、大伴家持に「あきらめない人間が世界を作つていく」といふやうなセリフがある。
家持自身はいろいろあきらめちやつたけど、みたやうな流れで、そんなセリフをつぶやく。

なるほど、それはさうかもしれないなあ。
あともうひとつ、「思ひ込みの激しい人間が世界を作つていく」といふことはあるやうに思ふ。
狂信的な人が世の中を変へていく。
そんな気がする。

思ひ込みの激しい人間は苦手である。
先日、お芝居を見始めたばかり、といふ初心者の方でさういふ人に出会つた。
見始めたばかりなので、昔の話などはすべて本を読んだり映像を見たりして得た知識である。
それを得々と語る。
こちらが「その芝居は見た」といふ話をしても、あまり聞いてゐる風ではない。
「でもかうなんでせう。誰某はさう書いてゐました」
などとおつしやる。
「初心者」といふのは誰でもとほる道だ。この段階にある人間があまり物を知らなくても、それはさういふものだ。とやかく云ふ問題ではない。
多分、世に「ニワカ」と呼ばれるやうな人は、先日会つたこの人のやうに、知識のないのを埋めやうとして、あれこれ漁つてまはり、それを披露せずにはゐられない、そのくせ人の話を聞かうとはしない、さういふ状況にある人のことをさすのだ。
人情として、さうしたい気持ちはわからぬでもないけれど。

まあ、無論、ものを見る目のないやつがれの話を聞いても無駄、といふ話はある。
先日会つた人についても、さういふことだつたのかもしれない。

さて、The Twirlyをつなぐプロジェクト(毎回名前が変はるね、どーも)、は、4つめの大きなモチーフをつなぐところまでできた。
7枚1モチーフだから、全部で28枚のThe Twirlyをつないだことになる。
現在29枚めをつなげたところだ。
土曜日は「死者の書」を見た後、飯田線に乗つた。飯田から辰野まで、そこから先は中央線で小淵沢まで出た。
はじめて乗る路線である。
飯田から辰野まで二時間くらゐかかる。
そのあひだに、ちよこちよこ結んでみたりした。

見渡すかぎり山ばかり、といふほどでもないが、いつでも必ず視界のどこかに山があつて、そんな中手元でちよこちよこ結びながらの道中といふのは悪いものではない。
もつといふと、楽しい。
うつかり糸を引きすぎてしまつたりもするけれど、それもまた一興だ。
あとで見て、「ああ、これは飯田線の中で結んだところだなあ」とかわかる(かもしれない)ぢやあないか。

我ながら、よくぞつなぎつづけてゐる、と思ふこともある。
が、結んでゐるときは、あまりさういふことは考へない。
何度も失敗して糸を切つたりもしてゐるが、それでくぢけるといふことはない。
さういふものだと思つてゐるからだ。
時々失敗してこれまで結んできたものが無駄になるのは当然のこととして、折り込み済みなのだ。
おそらくさういふことなのだと思ふ。

だから、そこに「あきらめる」だの「あきらめない」だのといふ発想は出てこない。
失敗しても「あーあ、やつちやつた」で、始末してまたやりなほすことができる。

そんなわけで、家持のセリフは実は違ふのかもしれない。
世の中を作るのは、あきらめない人ではなくて、あきらめるだのあきらめないだの、そんなことに考への及ばない人。
さういふことなのかもしれないなあ。

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Monday, 25 August 2014

暮らしに必要ない紡ぎ

アナンダ本店の荷開き祭に行つてきた。

先週は金曜日に飯田行つて、翌日8/23の川本喜八郎の命日に上映される「死者の書」を見て、その後飯田線と中央線を乗り継いで山梨県は北杜市で一宿一飯の恩義を受けることになつた。
翌日の早朝、萌木の村の入り口のところでセグウェイに乗り、それからアナンダに向かつたといふ寸法。

「死者の書」は折口信夫の原作をもとにした川本喜八郎の人形アニメーションである。
現在飯田市川本喜八郎人形美術館で、その人形の一部が展示されてゐる。
圧巻なのは、郎女と語り部の媼とともに展示されてゐる織り機である。
織り機には、細い糸がかけられてゐて、すでに織り地ができあがりつつある
原作では、蓮の糸といふことになつてゐるけれど、あの光沢は絹だらう。或はレーヨンか。
織り機に糸がはられてゐて、すでに織り地ができあがりつつある、といふことは、そこまでは誰かが織つたといふことだ。
撮影用に人形サイズの織り機を作り、糸を張つて、撮影するに足る部分まで織つたのだ。
人間が。

「死者の書」の話は後日にゆづるとして、原作でも映画でも、中で蓮糸の扱ひに難儀する、といふ話が出てくる。
麻とおなじやうに績んで、繊細な糸にはなつた、でもなんだか強くない、まちつとどうにかしないと、といふやうな話になる。

蓮の糸といふのは、Web検索をかけるとわかるけれど、扱ひが大変なものなのらしい。
蓮の茎を折つて引けば出てくるものなのらしいが、引き加減で糸が途中で切れてしまふのだといふ。かなり気を遣ふ作業のやうだ。

そして、藤原南家のお姫さまである郎女は、さうした作業を一切したことがない。
織りはともかく、裁縫さへしたことがない。
なにしろ、写経してゐればいいやうなご身分なので、さうもあらう、といつたところだ。

そして、蓮の糸で曼荼羅を作ることにしても、織りと縫ひと彩色は郎女が手がけたことになつてゐるが、蓮を沼から取つてきて、糸を引き出し紡ぐところまでは、下女たちの仕事といふことになつてゐる。

さういや、今回の展示には「ねむり姫あるいはいばら姫」のねむり姫もゐる。ここでは姫の視界に紡ぎ機を入れるな、といふ展開になる。
お姫さまは紡がないのだらう。
お城で働く人が紡ぐくらゐで。

お姫さまは紡がない。
でも、その他の下々のものたちにとつては、糸が紡げるか紡げないかは死活問題だつたらう。
リトアニアでは、ひととほり糸を紡げるやうにならないとお嫁にいけない、といふやうな話があつたやうだ。おなじやうな話は世界各地にあることだらう。
なにしろ、糸が紡げなかつたら、縫ひ糸ひとつ手には入らないのだ。

これは想像だが、各村々には紡ぎや織りの名手がゐて、たとへば船の帆を作るなら糸は誰に頼んで織りは誰に頼む、とか、特別なときに着る服地を作るなら糸はまた別の誰かに頼んで織りも違ふ人に頼む、とか、さういふことがあつたんではあるまいか。

そんなことを考へてゐたせゐか、今回はアナンダではなにも買ふまい、と、心に誓つて行つたはずなのに、うつかり毛を買つてきてしまつた。
ポロワスのトップを100gとスコットランドの毛の細いののトップを200g、買ふてしまつたのだ。
どちらも、ふれたとたん、ふんはりとやはらかくすべすべとなめらかで、たまらなかつた。
とくに、スコットランドはその毛で紡いだのだらう糸もおいてあつて、これがやはらかくて大変によかつた。
それで、来月にはまた買物の予定が控へてゐるといふのに、思はず両方とも買つてしまつたわけだ。

昼はともかく、夜の飯田はとても涼しかつたし、山梨県に入つてからもさうだつた。
アナンダについた時点では、まだそれほど暑いといふこともなかつた。
それでこの暑い時期に毛なんぞ買つてしまつたのだらう。

自分でもさう思つてゐた。
実際、昨日帰宅したら家の中の蒸し暑さといつたら。
しかし、なんとなく紡ぎはじめてしまつたのが、これである。

Polowarth on Greensleeves Spindles' Trifle

スピンドルは、Greensleeves SpindleのTrifle。だいたい35gくらゐだ。それなりに重たいが細い糸が紡げるのは、重心が真ん中にあつまつてゐるからだらうと推測してゐる。違ふかな。
最後に紡いだのはおそらく去年の12月なので、だいぶ時間があいてゐる。
やりたいと思ふたときにやつておかないと、次がいつになるかわからない。

スピンドルは、腿の上をすべらせるやうにして回す。
以前指で回してゐたところ、指が痛くなつてしまつたことがあつた。
は! 前回手藝をしてゐて手とか痛めたことがあまりない、とか書いてゐたが、これがあつたぢやん。
さう、スピンドルの回し過ぎで指が痛くなつてしまつたことがあつたんだね。
それで、スピンドルの芯の部分を腿でこするやうにして回すやうになつたのであつた。
この方法だと、スピンドルの回転速度がめちやくちや速くなることがある。
速くなり過ぎて糸を引くのが間に合はなくなることもある。
そんなわけで、早くなりすぎないやう、また勢ひがつきすぎてスピンドルが上下左右にブレたりしないやう、うまく回さないといけない。
上に書いたやうに、すべらせるやうに、といふか、腿をなでるやうにするとうまくいくやうだ。

Trifleはおもり部分の直径が短い。
さうすると回転速度は速くなるが回転時間は短くなる。
フィギュアスケートのスピンでも、両腕を広げて回るとスピードはゆつくりだが長く回つてゐられる。両腕を閉じて回るとスピードがあがつて回つてゐられる時間も短くなる。

だが、そこはスピンドルを作る人もいろいろと工夫してゐるやうだ。
このTriflesもスピンドルに衝撃をあたへるやうなことをしなければ、いつまでもいつまでも回つてゐる。そんなスピンドルである。

紡いでゐて思ふことは、紡いでできた糸の善し悪しであれこれ判断される時代に生まれなくてよかつたなあ、といふことだ。
そんな時代だつたら間違ひなく最低レヴェルの人間だものな。
楽しいから紡ぐ。
そんな時代でよかつたよかつた。

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Friday, 22 August 2014

討入りプラスONE

郭嘉・曹操・夏侯淵・李儒・王允・董卓・貂蝉・陳宮・呂布・赤兎馬・関羽・張飛・玄徳・趙雲・龐統・孔明・孫権・周瑜・魯粛・趙忠・蹇碩・段珪・何后・弘農王・陳留王・袁紹・許攸・張梁・張角・張宝・許褚・荀彧・夏侯惇・典韋・程昱・蒋幹・諸葛瑾・徐盛・闞沢・黄蓋・小喬・蔡中・蔡瑁・関平。

以上が渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーにこれまで展示されてきた人形劇三国志の面々である。
赤兎馬も含めて43人と1頭。
まだお目見得してゐない人形があと4人ゐるのらしい。

黄忠と馬超とはゐるのではないかと思ふし、小喬がゐて大喬がゐないといふのも考へにくい。
残るはあと1人。
だが待てよ。
前回の曹操や今回の趙雲は馬に乗つてゐる。
勘定に入れたら、もう全部埋まつてしまふではないか。

えー……それはないよー。

まあ、黄忠も馬超も大喬も、ゐるとはかぎらないんだけども。

以前もちよつと書いたけれど、川本喜八郎は張遼を作りなほしたい、と云ふてゐた、といふ話を聞いたことがある。
張遼は人形劇には出て来なかつたものの、飯田市川本喜八郎人形美術館で見たことがある。
作りなほしたら、どうなるのかなあ。
とても気になる。

それに、仲達はゐないのかなあ。
やはりゐてほしいなあ。

などと数へあげてゐるとほんたうに切りがない。

いづれにしても、のこる4名が判明するのは来年の4月だらう。
それまであれこれ思ひを馳せるのも、これまたいとをかし。

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Thursday, 21 August 2014

KING JIMのLINK NOTEイヴェント参加の記録

8/20(水)、文房具カフェで開催された「最新デジアナ文具 LINK NOTEと過ごす2週間」といふイヴェントに参加してきた。
モニタとして二週間ほどLINK NOTEを使用してきた人々およそ20人があつまつた。

イヴェント前に参加者がTwitterやFacebook、blogなどで公開した使ひこなし方や意見などのうち、キングジムの方がいいと思つたものに豪華景品が与へられる、といふ話だつた。

といふわけで、いただいたのがこちらである。

Untitled

テプラ!
過去に何度か買はうとして、「いや、しかし、整理整頓のできない人間には過分な商品」と思ふてあきらめてきた、あのテプラである。
なんとうれしやありがたや。

と、思ふ一方で、実際に参加者の方々の使ひこなしを見るにつけ、「自分がもらつてもいいものなんだらうか」と罪悪感にかられることしきりであつた。

だつて、みなさんすばらしかつたんだもの。

おそらく、ほかの参加者の方々もTwitterなりFacebookなりblogなりで公開なさるんぢやあるまいかと思ふが、かき氷を商ふ店の記録をつけてゐる方とかね、文房具カフェで試食会があつたときのやうすを記録してゐたりレゴで作成した作品について人の意見を手書きで残し写真をリンクさせたりとかね。
かき氷を商ふ店の記録、とひとことに云ふが、その数とお気に入りの店々に通ふた回数などをあはせて考へると膨大なことになるし、レゴはまづその作品の完成度にため息を禁じ得ない。さう、実際に作品を持参されてゐたのである。

ほかにもお稽古ごとの記録にしてゐるとか、ダイヴィングの記録をつけてゐたりとか、作曲の一助にしてゐたりとか、大学のゼミの記録をつけてゐたりとか、さまざまな話が出てきて「それは考へてもみなかつたわー」としみじみ感じ入つた。

しかも、みなさん、プレゼンテーションがうまい。
やつがれはなー、どうまかりまちがつても「三寸不爛の舌を振るふ」タイプではないし、どうあつても「璧を完うして趙に帰」れるやうな人間ではない。
かといつて筆が立つかといふとそんなこともなくて、といふのはこのエントリをここまでお読みならおわかりのことと思ふ。

でもまあ、舌よりは筆の方がすこしはましなのだらうか。
事前にblogに書いておいてよかつた、と思ふことにしたい。

あとは、Ravelryのおかげかだらう。
世の中には「あみものSNS」といふものがあつて、グローバルに展開してゐるといふことは、まだあまり知られてゐないのだ。多分。

イヴェントでは、テーブルに三~五人づつ座り、どう使つてきたかや、「LINK NOTEのここがいい、ここは改善した方がいい」といふ点を語り合つた。
テーブルは全部で五つあつた。
たまたまおなじテーブルに座つた方々が適切に話を進めてくださつて、これまたとてもありがたかつた。

ものごとの長所と短所とをあげる場合、長所つて意外とあがりづらいな、と思ふことがある。
職場だとわりとさうなんだよね。
まあ、職場の場合は周囲にものごとのダメなところばかり目に付く人が多いからかもしれない。かう書くとイヤな人のやうだが、見方を変へれば「現状に甘んじない」「改革意識にあふれた」人々である。

でも、かういふときに大事なのは、長所もきちんとあげることだと思ふのだ。
ブレインストーミングの極意も、さういふところにあるんぢやないかな。
世にKPT法などといふ手法がある。
KEEP、PROBLEM、TRYの頭文字を取つたもので、動詞と名詞とがごちやまぜになつてゐるのが念入りに気持ち悪い略語だが、そこはおく。
KEEPはよい点で今後もつづけた方がいいこと。
PROBLEMは悪い点で今後はやめること。
TRYは今後試してみたいこと。
ブレインストーミングしながらこの三点をあげていくんだけれど、案外KEEPに意見が集まらないことが多い。
意識してKEEPについて考へるのが、ものごとをよくしていくんぢやあるまいか。
と、これは半ば自分に常に云ひ聞かせてゐることである。
さうでないと、ものごとの短所ばかり見てしまふのでな。

この、よい点改善点をテーブルごとに発表して、一番よかつたテーブルに授与された商品は、キングジムのマウス型スキャナだつた。お隣のテーブルが選ばれてゐた。
これもいいよねえ。
キングジム、いいもの出してるよなあ。
といふ、この文章もポメラDM100で打つてゐるのは通常運行である。

また、参加者全員にOLETTAが配られた。

Untitled

うわ、これ、ほしかつたんだよね。
OLETTAは、A4サイズの資料を三つ折りにして持ち歩くことのできる書類ホルダーである。
A4の資料については、いつもどう持ち歩いたものやら悩んでゐる。
現在愛用のかばんにはA4サイズの書類をそのまま持ち歩けるものがないからだ。
過去には「超」整理手帳を使つたりして折りたたんで持ち歩いてゐたこともあつた。
「超」整理手帳は自分にはあはなくて、いまでは使つてゐない。カヴァだけ使つてもいいけどねー、と思つてゐたところ、OLETTAに出会つた。
出会つた、といつてもWeb上でのことで、実物にはいまだお目にかかつたことがなかつたのである。

Untitled

うわー、これ、いいわ。
先日も、A4サイズの書類の入るかばんとさうでないかばんとの間で迷つてゐたのだが、OLETTAがあれば悩まなくてすむな。

これまた、ありがたい頂戴ものである。
早速使つてみやうつと。

ありがたいやら申し訳ないやらのうちに文房具カフェでのイヴェントは終了した。
LINK NOTEは、前回書いた「るつぼノート」を目指して今後も使つていくつもりだ。
文房具カフェでいただいたお食事もおいしかつたので、今度のんびり飲みに行つてみるかな、と思ふてゐる。

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Wednesday, 20 August 2014

川本喜八郎人形ギャラリーガイドに行つて来た

8月16日の土曜日、渋谷ヒカリエ8F「川本喜八郎人形ギャラリーガイド」と、「人形歴史スペクタクル 平家物語(以下、人形劇平家物語)」の上映会とに行つてきた。

去年もおなじイヴェントに2回も行つた。
我ながらどうかしてゐるんぢやないかと思ふ。

「人形劇平家物語」の上映会は日曜日で終はつてしまつたが、ギャラリーガイドは今日の17時までである。
リンク先にもあるとほり、川本プロダクションの方々や人形遣ひの方がいらして、来館者に人形を操演を見せてくれたりさせてくれたりする。
楽しい。
これが実に楽しい。

人形の操演は、まづカシラの動かし方から習ふ。
「人形劇三国志」「人形劇平家物語」とも、カシラの作りは人形浄瑠璃の人形とおなじである。
胴串といつて、人形の頭があり、首から棒が出てゐて、木製の握り部分にさしてある。テグスもはられてゐて、それで顔の各部分が動くやうになつてゐる。

人形浄瑠璃の人形のカシラとの大きな違ひは、まづはその大きさであらう。
人形浄瑠璃は舞台で演じるし三人で遣ふこともあつて、かなり大きくできてゐる。はかつたことないけど、団七とか知盛とかだと縦の長さが20cmくらゐはあるんぢやあるまいか。そんなに大きくはないかな。
一方TVの人形劇の場合はそんなに大きくする必要がない。一人で遣ふしね。さうだなあ、大人の拳サイズくらゐなんぢやあるまいか。まちつと大きいか。

もうひとつ、目立つ違ひは、「人形劇三国志」と「人形劇平家物語」の人形のカシラには革が貼られてゐるといふことだらう。
人形浄瑠璃のカシラは、革を貼らずに砥の粉を塗つてゐる。そのはずである。
TVだと照明がきついのでそれでは顔が光を反射してしまふことがあるのださうだ。
それで革が貼られてゐる。
#紫虚上人は縮緬だけど。

革を貼る利点のひとつに、革の伸縮で口を動かすことができる、といふのがある。
人形浄瑠璃のカシラの場合、通常は口は動かない。口の動くカシラは下顎の部分が別パーツになつてゐる。ちやうど腹話術の人形のやうな感じだ。
「人形劇三国志」と「人形劇平家物語」の人形のカシラには、目立つ細工のあとはない。でも口が動くやうにできてゐる。三国志ではそれほどでもなかつたけれど、平家物語ではかなり口を動かす演技をしてゐる。
革だからできることだ。

蘊蓄はこれくらゐにして、この胴串を持つのがまづつらい。
結構手の大きい人でないとつらいんぢやないかなあ。
やつがれはかなり小さい部類なので、手のひらの中心に胴串をのせた状態で首の上げ下げをしたり目を動かしたりするのがかなりつらい。
さう、人形のカシラといふのは、これは人形浄瑠璃でもさうだれとも、なにもしない状態ではがつくりとうなだれてゐるものである。
正面を向くには、首をあげるやう遣ひ手が保持しなければならない。
これが結構つらい。
ずつと支へてゐると、指がつらくなつてくる。
こんな状態で舞台だのTV番組の収録だのをしてゐるのか。

と、感じ入つたところで、今度は衣装をつけた状態で遣はせてもらふと、これがまた大変だ。
今回は、「人形劇平家物語」から鎧フル装備の人形を遣はせてもらつたのだが、これが大変に重たい。
去年も2.5kgはある、と書いたが、3kgくらゐはあるんぢやあるまいか。弁慶に至っては5kgくらゐあつたといふ話も聞く。
その重たい人形を、自分たちの姿は見えないやうに頭の上に高く掲げて操るといふが、想像を絶するよな。
しかも膝は折つたままだし。

これも人形浄瑠璃もさうなのだけれども、人形遣ひには自分の遣つてゐるさまを自分で見ることはできない。
どうやつてちやんと遣へてゐると判断するのか。
謎である。
慣れてくるとわかるのかなあ。
どうも話を聞いてゐる感じだと、人形浄瑠璃にしてもTVの人形劇にしても、鏡を見て練習してゐるといふ印象はない。
ちやんと遣へるやうになるには相当時間がかかるといふことなのかな。

去年は名前のわかる人形としては、「人形劇平家物語」から実盛が来てゐた。やうすからして、おそらくちやんと髪も髭も黒いころの実盛であらう、とは去年も書いた。

今年は、義経が来てゐた。
義経はまだ川本喜八郎人形ギャラリーには展示されたことがない。次回、といふ話である。
この義経がすばらしくてねえ。
川本喜八郎自身は義仲のことが好きだつたやうに見受けられるけれど、どうしてどうして、義経はすばらしい人形だと思ふ。
まづカシラがいい。
すつきりとした甘さのある二枚目の顔立ちだ。
衣装も当然ステキである。
今回は鎧姿だつたのだが、白・赤紫・淡めの黄色といふはなやかな色合ひで、どこかやさしくもある。優美、とでもいふのかな。
現在飯田市川本喜八郎人形美術館にゐる義経の鎧はまちつと赤と白寄りな感じだつたと思ふんだよね。
今回会つた義経の鎧の方がいいなあ。

上映会でも義経は活躍してゐて、元服したての初々しい感じとか、母戀ひ子の切なさとか、御曹司の凛々しさとか、そのすべてが渾然一体となつてゐて、すばらしい。
人形がすばらしいのはもちろん、演技もね。イヤミがないんだよねえ。ああいふ二枚目は得てしてちよつとイヤミな感じになつたりする。主役級でもあるから主役のイヤラシさが出ることもある。
さういふのがまつたくないんだよねえ。
なんていふんだらう、上善如水?

そして、そんな義経と一緒に写真を撮つてもらつたりするつて、一体どんな僥倖だらう。それも義経を実際に遣つていらした船塚洋子さんが義経を遣つてくだすつて。
そんなに善行を積んでもゐないのにな、やつがれ。
これから積むか。

来てゐたといへば、「人形劇三国志」からは孔明が来てゐた。
人形劇に出てゐた孔明は飯田にゐて、ヒカリエの孔明は現在展示中である。
ではこの孔明は何者、と、川本プロダクションの人に問ふたところ、驚愕の事実が判明する。
この孔明は、幻の「横目の孔明」だつたのである。

横目の孔明については以前ちよこつと書いてゐる
赤壁の戦ひ前夜、周瑜と孔明とが「火攻しかない」といふ結論に至る会談の場面で使ふやう、川本喜八郎が用意してゐたカシラなのださうである。
孔明を遣つてゐた方が「孔明は横目なんか使はない」と主張して実際に使はれることはなかつたといふことだ。
見てみたかつたねえ、横目の孔明。
現在のヒカリエの展示でもさうだけれども、川本喜八郎の人形には横目になつたときにいい表情になる人がたくさんゐる。今でいふと時忠とか後白河法皇とかだな。三国志だと仲達なんか実にいいと思ふ。
策謀家は、やはり横目がきかないとねー。

といふわけで、これまた船塚洋子さんにお願ひして、横目になつてゐる孔明の写真を撮らせてもらつた。
なかなか陰険さうでいい表情だつたのだが、落ち着いて見直してみたらばこはいかに。
なんだか可愛い表情になつてゐる。
をかしい。
横目なのに。
ちよつとカメラの位置が上過ぎたか知らん。
陰険さうな表情は、心の中にとつておくことにするか。

今回も川本プロダクションの方からいろいろお話を聞くことができた。
ほかにもお客さんがゐるところ、長時間独占して申し訳ない気分だつた。
もうひとり一緒に話を聞いてゐる人がゐるからいいかなー、とか、内心で云ひ訳してゐた。
でも、喋つてゐたのはやつがれ一人かも。
申し訳ない。
ここで謝つても仕方がないけど。

そんなわけで、今年もとても楽しいイヴェントであつた。
来年もあるのかなあ。
といふか、そんなに毎年行つてどうする。
楽しいからいいか。

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Tuesday, 19 August 2014

練習練習

昨日書いたとほり、先週は編み針を手にしなかつた。
代はりといつてはなんだが、その分タティングシャトルを手にしてゐた。

なぜか。
シャトルに糸が巻かれてゐたからである。

といふのも、まあ、理由のひとつではある。
主な理由は、「糸の引き加減の練習をしなければ」と思つたからだ。

先週、80番手の糸でタティングしてみた話を書いた。
その結果できたものを見てしみじみ思つた。

リングとチェインとで目のつまり方が違ふ……

リングの方は糸を引きすぎたせゐだらう、目がぎつちりつまつてゐる。
チェインの方はといふと、そんなに糸を引いてゐないせゐで、普通のつまり方をしてゐる。
「普通」と書いてしまつたけれど、これはやつがれにとつての「普通」である。
人によつてはやつがれのリングの目のつまり方の方が「普通」といふ人もあるであらうし、チェインを見て、「こんなのまだまだつまり過ぎてゐるよ」といふ人もあるであらう。

もとい。

前回作つたのは、リング部分の目の数が多い作品だつた。
どうもリングの目の数が少なすぎるのと多すぎるのとが苦手である。
2P2P2P2とかだと、うまく糸が引けない。
かといつて、先週作つたやうな3P12P3P12P3P(だつたかな)とかいふのも苦手。
さういふことなのだと思ふ。

気になつて、40番手の糸で作つてゐる The Twirly を確認してみたところ、こちらは特にリングとチェインとで目のつまり具合が違ふといふことはなかつた。
時々、糸をうまく引けなくてリングの目がつまつてゐるところもあるが、まあ、おほむねそろつてゐると思ふ。
The Twirly は一番大きいリングでも3P2P2P2P2P3だ。糸を引くのに十分な大きさがあつて、大きすぎない。
小さいリングといつても5P3P5だ。一目しか違はない。
それと、40番手といふこともあつて、なんとはなし問題なくできてゐるのだらう。

そこで、ぢやあひとまづ、リングで糸を引く練習をしてみるかな、と思つて先週はこんなことをしてゐた。

Untitled


Tatting Lace with Visual Patterns に掲載されてゐる Curds and Whey である。
Curds and Whey といへば、Little Miss Muffet だよな。
Nursery Rhymes といふか、Mother Goose といふかのひとつである。
マフェットちやんが丘に座つて Curds and Whey を食べてゐると、巨大なクモがやつてきて、マフェットちやんは怖くて逃げてしまふのだ。
curds and whey といふのは、ヨーグルトのごとき乳製品なのださうである。
すなはち白い。
といふか、おそらく白いのだらう。
本でも白い糸で作られてゐる。
このパターンはかなり気に入つてゐて、これまでも幾度も作つたものだ。ビーズを入れてみたこともしばしばある。
白い糸に青いビーズを入れて、「Moldy Curds and Whey」なんて名前をつけたこともある。

今回は、なんだらうね、これは。色からいつたらまつたく Curd and Whey ではない。
ま、いいか。

このパターンはシャトルひとつで作る。
ゆゑにリングだらけだし、中央のリングはデカいし、糸を引く練習になるかな、と思つたわけだ。

いくつかくり返して、やはり中央の大きいリングの糸を引くときに苦戦してゐるなあ。
それでも80番手で作つたときよりはだいぶマシな気はするけれど。
大きいリングの糸を引くときは、引き込む糸がねぢれて玉になつたりして、それでうまく引けないことがしばしばある。
ねぢれないやうに工夫はするんだけれども、それでもうまくいかないときもある。
あと、引いても引いても中に入つてきてくれないことがあるんだよな。あれは不思議だ。糸の太さが均一ではないのだらうか。

あと、リングが大きいときは、リングを作つてゐる最中に目を寄せがちで、そのまま糸を引くので目がつまつてしまふといふこともあるやうな気がする。

これはまちつと精進を積まなければいかんかな。
今週も編み棒は握れさうにないし。

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Monday, 18 August 2014

ほんとに好きなの?

先週は、一度も編み棒を手にしなかつた。
指が痛いからである。
編みすぎが原因ではない。
最近職場でマウスをやたらとクリックする仕事をしてゐるからだ。

先々週くらゐまでは、それでもあみものをするのに支障はなかつた。
あみものをするときとは指の動きが違ふからだらう。
たまーに「あ、いま、ちよつと痛かつた」と思ふときはあつても、気を付けてその動きを避けるやうにすればなんとかなつてゐた。

先週は、指のまげのばしをするのがつらいことがあつて、仕方なく編むのをあきらめた。
そのかはりといつてはなんだが、家でもタティングシャトルを手にしてゐた。
この話はまたの機会に。

さて。
あみものに限らず手藝をする人にとつて、手や肩の痛みといふのは避けてとほれないものであるのらしい。
腱鞘炎になつたりとかね。
肩こりに悩まされたりとかね。
そんな話をよく聞く。

かく云ふやつがれも、裏メリヤス編みばかりしてゐたときに左手の人差し指が痛くなつたことがあつた。
このときは「ノルウェー風裏メリヤス編み」といふ方法でなんとか乗り切つた。
この方法だと左手の動きはメリヤス編みのときとほぼおなじになる。すなはち、ほとんど動かない。
このときはROWANのDENIMを使つてゐた。糸の伸縮性に乏しく、この方法で編むのはちよつと苦しかつたやうに記憶してゐる。
あと慣れないから裏と表とで目をそろへるのがむづかしかつたやうにも思ふ。

これを編み終へてから、たた&たた夫さんのところであらためて裏メリヤス編みの手の動きについて学び、以降はそれでとほしてゐる。
でもやつぱり左手の人差し指は動いちやふんだよなあ。むー。

ただ、あみものをしてゐてどこか痛めたとか、痛くなつた、といふのはこれくらゐだ。
あとくつ下をさんざん編んでゐたころに、右手の薬指のつけ根あたりに編み針たこのやうなものができたことがあつたが、せいぜいそんなところかな。
編んでゐて、或はタティングレースをしてゐて肩がこつて仕方がない、とか、腱鞘炎になりかけた、などといふことは、つひぞ、ない。

ほんたうにあみものやタティングレースが趣味なのだらうか。

さう思ふこともある。

思ふに、やつがれは手がゆるいのだらう。
それで、手や肩に力をあまり入れてゐない。だから痛くならないのだ。
そんな気がする。
つまり、本来はまちつと手をきつくする必要がある、といふことなのだらう。
でもそんなことをしても楽しくないことは判明してゐる。三國万里子の作品を編んで、証明済みである。

あと、目をあまり使はない、といふこともあるかもしれない。
肩こりは目の疲れからくる、といふ。
あまり目を使はずに編んだり結んだりするので、それで肩こりにならないのかも。

あともうひとつ考へられるのは、根気がないこと、だ。
根気がないので、編みつつもちよこちよこ小休止を入れてゐる。
お茶を飲んだりとかね。
ちよつとメモをとつたりとか。
根気もないけれど、編むのにまとまつた時間が取れない、といふこともあるか。
休みの日でも二時間まるまる取れたら御の字だ。
それで腱鞘炎になつたり肩こりになつたりしてゐる暇がないのかもしれない。

そもそも、やつがれの手には「ペンだこ」といふものがない。
できたこともない。
勉強しないこどもだつたからだ。
それもあるけど、筆圧も低いんだよね。
筆圧の低い話については、過去に書いてゐる
なんといふか、気持ちのこもらない、ふにやふにやした字を書くといふことだらうな、ほかの人に比べて。
あみものもおなじで、力のないふにやふにやした編み地になつてしまふのだらう。

でもそれはそれでいいんだと思ふ。
えうは編んでゐて楽しいかどうかだ。

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Friday, 15 August 2014

渋谷と飯田とイヴェント情報

今年の夏も、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーではイヴェントが開催されてゐる。

渋谷ヒカリエ8F「川本喜八郎人形ギャラリーガイド」と銘打つて、8/11(月)~20(水)まで13:00~17:00、川本プロダクションの人やおそらく人形遣ひの人がゐて、いろいろ説明してくれるのらしい。人形の操作などは14:00~15:00のあひだやるのださうである。

去年もおなじイヴェントに行つて、実盛を操作させてもらつた。顔つきからいつて、実際に髪の毛も髭も黒いころの実盛なんぢやないかと思ふ。
今年は誰かなあ。

8/13(水)~17(日)の13:00~17:00には、おなじヒカリエ8Fの「防災センター会議室」で人形劇の「平家物語」の上映会も行はれる。
といふか、いままさに行はれてゐるのか。
今年は瓶子が倒れたり、五条大橋があつたり、義仲が出てきたり、いろいろ楽しいぞ、きつと。

といふわけで、今年も行く気満々なのだが、まだ行けてゐない。
上映会の方はほとんど見られないかもしれないなあ。

三年前の上映会は「人形劇三国志」からより抜き上映だつた。
この話は、ここでくどいほど書いてゐる。
PARCO劇場に「其礼成心中」を見に行つた帰りにヒカリエに立ち寄つて、途中から「赤壁の戦い」を見て、なんかすつかり「其礼成心中」のことなど忘れ去つてしまつたのだつた。あれは暑い日のことだつた。
多分、あの日「赤壁の戦い」を見なかつたら、いま自分はかうしてゐないし、ヒカリエにも足繁く通ふことはなかつたらう。
あそこから人生狂つてしまつたのだ。

一方、飯田市川本喜八郎人形美術館では、8/19(火)まで、「人形活劇 新・三銃士」の人形が展示されてゐる。
川本喜八郎の人形ではないけれども、三銃士の人形たちはこの美術館に寄贈されたのだといふ。
ちやうどいま再放送中なんだよね。
あの人形も間近で見たい、とつねづね思ひつつ、19日までに飯田に行く算段ができなかつた。ショックである。
ここ二年ほどは同美術館では8/23の川本喜八郎の命日に「死者の書」を上映するのだが、今年はまだそのお知らせが出てゐない。
「八月のアニメーション」のお知らせには、「8/23は別の作品を上映する」とだけ書いてある。
おそらく「死者の書」を上映するのではないかなあと期待してゐるのだが。
そんなの、DVDを買つて自宅で見ればいいぢやん、といふ話もあらう。
やつがれもさう思ふ。
その方が安上がりだし、ひとりで何度も楽しめる。
でも、大きい画面で見てみたいんだよね。

去年一昨年と8/23は平日だつたのであきらめてゐたのだが、今年は土曜日。
なんとか行けないものかと思ふ。
8/23といへば忠武侯の命日でもある。こちらは旧暦だけれども。だから「秋風」なわけだな。
夏の飯田は日中はとても暑いと聞いてゐる。
でも夜は気温が下がるのださうな。滅多なことでは熱帯夜にならないといふ。
暦の上ではDecember……つてそれは去年のネタだよ……もとい、暦の上では秋になつて久しい。
秋の気配を感じつつ、「死者の書」を見て、夜はしんみり一杯、といふのがやつてみたいんだが、どうなることやら。

いづれ、渋谷には行くつもりでゐる。
行つたらまたここでしつこく書くつもりである。
今年は誰に会へるのかなあ。

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Thursday, 14 August 2014

Kindle Paperwhiteがやつてきた

先週の月曜日、Kindle Paperwhite (以下、Paperwhite)を手に入れた。
「いまさらKindle?」といふ向きもあらう。
以前から酒見賢一の「陋巷に在り」のKindle版が出たら買はう、と心に決めてゐた。
この夏、「陋巷に在り」のKindle版が発売された。
買ふしかなかつた。

それまでは、iPhoneやiPad、iPad miniでKindleアプリケーションを使つてKindle版の書籍を読んでゐた。
これはこれで快適、とはいひかねる部分もあるけれど、iPhoneなら常に持ち歩いてゐるし、iPad miniは重たいけれどRetinaなのでとても読みやすい。
これでいいかな、と思つてゐた。

だから「陋巷に在り」のKindle版がやつと発売になると聞いても「うーん、別にPaperwhiteは買はなくてもいいかな」と思つたりもした。

買つた理由はひとつ、「iPadは職場に持つていけないから」である。
iPhoneでも読めないことはないけれど、あまり効率がいいとはいへない。しよつ中ページをめくらねばならないといふのは案外ストレスのたまるものである。
iPadもしくはiPad miniを持ち歩けたら、問題ないんだけどなあ。
そもそも、最近とみに「自分に必要なのはiPhoneではなくてiPad miniなのではあるまいか」と思ふやうになつたやつがれである。
その理由の詳細については後日にゆづるとして、かんたんに云ふと、やつがれは通話機能を必要としてゐないのである。
通話しないのなら、iPhoneでなくてもいいぢやん。
しかも、iPadならたとへminiでもbrowsingは快適だ。
だが、職場には持ち込めない。
すなはち、通勤途中iPadを使ふことはできないのである。

Paperwhiteは職場に持ち込んでもOKだ。
すなはち、通勤途中といふ一日の中で一番本を読むことの多くて長い時間帯に使ふことができる。
その点は魅力的だつた。

ほかの理由といつてはとくにない。
冒頭に書いたとほり、「陋巷に在り」が出たら買はうと思つてゐたので、出たから買つた、くらゐのものだ。

先週の月曜日に受け取つて、火曜日に試しに一日持ち歩いて、本格的に使ひはじめたのは先週の金曜日からである。
それまではほかの本を読んでゐたのでね。

結論からいふと、できるならiPad miniで読みたいなあ、である。

理由は、画面のリフレッシュ方法にある。
Paperwhiteは、ページをめくつた際やハイライトを設定した際に、画面の白黒が反転する。
これがannoyingなのだ。
目も疲れる。
ページめくりの際の白黒反転は、Webで調べたところ、前のページと次のページとで内容がおほきく違ふときに起きるのらしい。
ハイライトを設定する際には、毎回白黒反転するやうに思ふ。これもハイライト設定時の画面ともとの本の画面とで内容がおほきく異なるから起こるんだらうな。
iPhoneやiPad用のKindleアプリケーションにはこの白黒反転はない。

また、Paperwhiteは操作方法がわかりづらい。
iPhoneのKindleアプリケーションに慣れてしまつてゐるからかもしれないけれど、Paperwhiteでの操作にまだちよつと慣れてゐなかつたりする。
いまだに戸惑ふのは、自分がハイライトを設定した部分を検索する方法だ。
iPhoneのKindleアプリケーションの場合、画面下部のメモ型アイコンをタップすると、自分がブックマークをつけた部分とハイライトを設定した部分の一覧が表示される。見たい箇所をタップすると、そのページが表示されるといふ寸法だ。
Paperwhiteの場合は、画面上部をタップすると、メニューが表示されるのだが、その中にはハイライトを設定した部分を表示するメニューなりボタンなりはない。ブックマーク用のアイコンはあるけれど、それをタップしてもハイライトを設定した部分は出てこない。
一番右端のアイコンをタップするとドロップダウン形式のメニューが表示されて、その中の「メモ」をタップするとハイライトを接待した部分の一覧が表示されるやうになつてゐる。
これが最初わからなくてね。

実を云ふと、iPhoneのKindleアプリケーションの場合でも、なぜメモ型アイコンをタップするのかといふのは謎なのだ。
自分は、メモをしたつもりはないからである。
単に気になる箇所に線を引いただけ。
それを「メモ」といふ人もゐるだらうが、やつがれはさうは呼ばない。
ゆゑに、時折とまどふことになる。
これがPaperwhiteになると、タップしてタップしてタップしないと出てこない。
そして「メモ」といふ文字を見ても、それが自分の求めるものなのか否か、一瞬悩むことになる。
どちらが使ひやすいか、考へるまでもあるまい。

なぜそんなにハイライトにこだはるのか、といふと、Kindle版の書籍のよさは、線の引きやすさにあると思つてゐるからだ。
紙の本の場合、気に入つたことばや気になる箇所があつても、なんとなく線を引きづらいのである。付箋を貼ることさへ躊躇してしまふ。
世の中には「自分で買つた本なのだから」といつて、バンバン線を引きまくる人もゐるのらしい。うらやましいことである。
どうも貧乏性のせゐか、それができないんだよなあ。
でもKindle版なら平気。
線を引いたところで、不要なら消せるしね。
Kindleアプリケーションで本を読むやうになつて、本に線を引いたり付箋を貼つたりすることに対する抵抗が薄れてきたんだよね。
いまでは自分で買つた本になら付箋も貼る。線を引いたり文字を書き込んだりすることもあるくらゐだ。
ありがたう、Kindle版。
そんな気持ちである。
そして、iPhone用のKindleアプリケーションの場合、線の色は四色から選べる。あまり深く考へて色を変へてはゐないが、気に入つたから引くときと気に入らないから引くときでは色を分けたりしてゐる。

そんなわけで、「できたらiPad miniを持ち歩きたいよなー」とできもしないことを妄想したりはしてゐるのだが。

しかし、もしiPad miniを職場に持つていけるやうになつても、やはりPaperwhiteを使ふのではあるまいか。
さう思ふ理由は、Paperwhiteの方が軽いからだ。
さすがに片手でずつと持つてゐると疲れてくるけれど、しかし、持てないわけではない。
これがiPad miniだと、こちらも片手で持てないことはないけれど、さう長くは持つてゐられない。
かばんに入れてもPaperwhiteの方が重さが気にならないし苦にならない。
持ち歩くには重要な点である。

それに、Paperwhiteだと自分の好きな本や話をつねに持ち歩くことができるといふ利点がある。

かつて、PalmPilotを使つてゐたころ、やつがれのPalmには必ず「藪の中」と「悟浄歎異」と「悟浄出世」とが入つてゐた。
青空文庫のおかげである。
Palmには専用の青空文庫ヴューアがあつた。フリーウェアだつた。
iPhoneを買ふやうになつて、フリーウェアの青空文庫ヴューアがなくなり、上記三点を持ち歩くこともなくなつた。

しかし、Paperwhiteがあればこの三つを持ち歩くこともできる。
まあ、Paperwihteが高価だからね、Palmのころとおなじか、といはれるとチト悩むが、なに、Palmだつて高かつたのだ。Tungsten|Cとか、結構悩んで買つたものなあ。あれはいい端末だつた。

もとい。

そんなわけで、devotedといふにはほど遠いし、「これがなくちやあ夜も日も明けぬ」といふやうな調子ではないけれど、日々Paperwhiteを使つてゐる。
使ひつづけるツールつて案外そんなものなのかも。

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Wednesday, 13 August 2014

なぜか持ち歩くかばん

夏だといふのに、暑苦しい色のかばんを使つてゐる。
暑苦しい色といふのは、シュランケンカーフのヴァイオレットのことだ。
こんな色である。

ル・ボナー ミセス

この写真だとちよつと暗過ぎるかな。
照明の加減によつては茶色にも見える、そんなこの色のことをやつがれは「郭嘉ヴァイオレット」と呼んでゐる。
「人形劇三国志」に出てくる郭嘉の衣装の色がこんなやうな紫色だからだ。
「人形劇三国志」の郭嘉は実にいい男でねえ……。といふ話はここにも何度か書いたか。
でもなぜだか飯田市川本喜八郎人形美術館で見る郭嘉はそれほどいい男には見えない。不思議である。今の時期、飯田にゐるので機会のある人は是非、郭嘉をごらんになつていただきたい。
人形劇のときは、人形遣ひの人とカメラとのchemistryが働いてゐたのかねえ。
ヒカリエの郭嘉は実にいい男なんだけれどもねえ。今はゐないけれど。

さて、この「郭嘉ヴァイオレット」のかばんを、都合三つ持つてゐる。
写真のミセスと、コンフェティと、ネコリュックと、である。
いづれもル・ボナーのかばんだ。
ル・ボナーのかばんは、実はやつがれの好みに合はない。
やつがれが好きなのは、いろいろものが入つて、小分けできるポケットの多いかばんである。
たとへばマーガリーバッグ(現アメリバッグ)がさうだ。
ブロガーズトートもさうだといへる。
ポケットがたくさんあると、そこに細々したものがすべておさまるんだよね。おさまつて、整理できたやうな気分になる。

ポケットが少ないとさうはいかない。
たとへば今日はミセスを持ち歩いてゐるけれど、中にはみつばちトートで買つたひも付きのピタポケットを入れてゐる。まちがなくて前後にポケットのあるちいさなポーチだ。まちがないので入れられるものはさう多くはないが、便利ではある。
おほきなかばんを持ち歩くときは、さうやつてポーチなりなんなりに小分けにつめて持ち歩くやうになると思ふのだが、このポーチといふのがまたかさばるんだよね。
ポーチなんかに入れずにそのままかばんに入れた方がかさばらずにすむ、といふことも往々にしてある。
ただその場合は取り出したいものを即取り出せないといふジレンマに陥つたりする。
だからポケットのたくさんあるかばんが好きなのだ。

しかし、ミセスには、外にピタポケットがひとつに中にファスナーつきの内袋がひとつ。
コンフェティには内側にピタポケットとファスナー付のポケットがひとつ。
ネコリュックには内側にちいさなポケットがひとつあるきりである。このポケットには外のファスナーからものを出し入れできるんだけどね。

コンフェティは、縦に深いかばんではないので、そのままものを入れても見渡しやすい。よつて、別のポーチに入れてからコンフェティに入れなくてもなんとかなる。
問題はミセスとネコリュックだ。
とくにネコリュックは中が広いのでいろいろ考へてしまふ。

なのになぜ使つてゐるのか。
不思議なんだよねえ。

しかも、ル・ボナーのかばんといふのは、たくさんものが入るけれどもあまり入れない方がいいかばんなのだ。
やたらとものを持ち歩きたがるやつがれにこれほど向かないかばんはない。
そのはずなんだかなあ。

最初は気に入つて持ち歩いてゐても、しばらくすると使はなくなるかばんといふのはいくつもあつた。
でも、ミセスとコンフェティとネコリュックとは、なんとなくいつも使つてゐる。
色が暑苦しくても、夏のあひだも持ち歩いてゐる。

使ひやすい、といふのはもちろんある。
ミセスはなにをいつてもたくさん入る。入れない方が形よく見えるのはもちろんだ。でも、入れることもできる。ポメラDM100も余裕で入る。
ナス管がついてゐて、左側にかばんをかける人用ではあるものの、鍵とかなんとかをつけておくのにとても便利だ。
定期券はピタポケットに入れてゐる。
あとはなんとかなつてゐる。

コンフェティは、ちいさくて浅いけれどもたくさん入るかばんだ。
芝居見物のときはこのかばんを選びがちである。
浅いので中身を見渡しやすい。即取り出したいものはかばんの中央に入れておく。ポケットには即取り出さなくてもいいものを入れたりしてゐる。
Kindleもおさまるしね。四六版の本も入る。
ちよつとしたおでかけにはほんとにこれだけでOKだ。

ネコリュックの場合は、定期券やiPhoneを入れるちいさなかばんを別に持つことになる。Eater-sagariとかあやの小路のがま口ポシェットをあはせることが多い。
ポケット部分にお財布を入れて、上にも書いたみつばちトートのポケットポーチにこまごましたものを詰め、あとははふりこむだけ、みたやうな遣ひ方をしてゐる。
さうしたものは、普段取り出すことがあまりない。
取り出すとしたら、落ち着いた状態でのことである。
だから、これで十分なのだ。
定期券入れとiPhoneを即出せるやうにしておけば、あとはそんな必要はあまりない。
ネコリュックを使つてゐて、そのことに気がついた。

そんなわけで、「ポケットがたくさんあつて荷物がいつぱい入るかばんが好き」といふのは単なる思ひ込みだつたのかなあと思ふこともある。
でも、ブロガーズトートはさういふかばんか。

あとはやはりデザインか。
ミセスもコンフェティもネコリュックも、見た目がとてもステキなんだよね。
どれも一目惚れで買つたしね。
あまりかばんの見た目にはこだはらないやつがれではあるが、そんなやつがれをして使はしめる魅力がル・ボナーのかばんにはあるのらしい。

いまの悩みは、ミセスにもコンフェティにもネコリュックにもA4サイズのものがおさまらないといふことだ。
なんとかしたいんだがなあ。
さて、どうしたものやら。

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Tuesday, 12 August 2014

それでも80番手

The Twirlyをつなぐプロジェクトはすこしづつではあるものの進んでゐる。
現在、四つめの大きなモチーフをつないでゐる最中だ。
これまでの三つは横に(といふか縦にといふか)一列につなげてきた。
四つめからは違ふ段になる。
この先うまく進むことがあつたら、そのうち写真を載せるつもりだ。

さて。
盛本知子の「優しいタティングレース」を見てゐると、やはり80番の糸を使つた作品が気になる。
とくに黒いカフェカーテン。いいよねえ。
などといひながら、「細い糸を使つたら繊細な作品になるのはあたりまへだよな」といふ思ひもないわけぢやあない。
細い糸を使つて繊細には見えない作品を作る、とか、太い糸で繊細に見える作品を作る、とか、さういふのがいいんぢやないの、手作りものとしてはさあ。
さう思つてしまふのである。
天の邪鬼だから。

しかし、気になるのだつたら作つてみればいい。
人生は短い。
やりたいことをやらんでどうする。

といふわけで、先日手に入れたLizbeth #80を使つてみた。

うーん、Lizbethは、やはり#20が一番使ひやすいのかもねえ。

Lizbethがはじめて出たときは#20だけだつた。
Handy Handsから三玉購入して、といふ話は以前書いたやうに思ふ。
やつてきたレース糸は可もなく不可もなくといつた感じだつた。わざわざ買ふに値しない。さうも思つた。
ところがそれからしばらくして、もうLizbethを買つたことも忘れたころにHandy Handsからちいさな包みが届いた。
開けてみたら、以前買つたのとおなじ色の糸が三つ入つてゐる。
なんでも、品質がよくなかつたので作り直したものなのだといふ。
実際に使つてみたらばこはいかに。
たしかに、全然違ふ。
結びやすい。
なによりも、リングの糸を引きしめるときの引きやすさ。
いいぢやあないかー。

といふわけで、それ以来Lizbethの糸はいろいろ使つてきた。
といつて、#3と#10とはまだ使つたことがないけどね。
やはり#20が一番使ひやすい気がする。
太いからといふのもあるかもしれないけど、それだけぢやないんぢやないかな。
#80は、以前一度買つて、あまりにも糸がやはらかくて結びにくかつたので、その後買つたことはなかつた。やはらかいので、スティッチをうまく作れなかつたのだ。
このとき買つた色は、Autumn Spiceとかだつたかなあ。

今回性懲りもなくまた買つてみたのは、ほかの人は問題なくタティングレースに使つてゐるやうだつたからだ。
つまり、たまたまやつがれの手元にきた#80は問題があつたけれど、ほかの糸はそんなことはないんぢやないか、と思つたわけだ。

Country Grapeといふ色のDk、Med、Ltと買つてみた。
おなじ色の濃いものから薄いものまで、といつたところか。実際におなじ染料をおなじ割合で混ぜてゐるのかどうかはわからないがね。
そのうち今回は一番薄い色を使つた。

結び具合については、まあいいんぢやあるまいか。
以前買つた糸に感じたやうなやはらかさは感じなかつたし。
ひとまづ普通に結べたし。
それを考へると、以前買つたあの糸はなんだつたのだらうかと思つてしまふ。
DMCのSpecial Dentellesの方がタティングレース向きかとは思ふけれどね。
さういへばDMCのCordonnet Specialとか久しく使つてゐないなあ。売られてゐるところも見ない。たまにはちやんと手藝店に行くかな。

タティングレースのいいところは糸の太さが変はつても道具は変はらないところだ。
シャトルに巻ける太さ(細さ、だらうか)の糸であれば、おなじシャトルを使ふことができる。
#160だらうが#3だらうが、みんな一緒。
ニードルだとかうはいかんがな。

で、作つてみて、中央のピコがデカすぎるのがなんな出来にになつてしまつた。
ぬぬぬぬぬ。

Untitled

しかし、大きなリングはいつもよりましなのでよしとするかな。
ひとつよれてゐるのは、Magic Threadで引き込んだときにうまく糸を引けなくて力まかせに引いてしまつたからである。とほほ。
#80くらゐになつてくると、針で端糸の始末をするのがつらいからな。#80までならMagic Threadを使へる気がするし。これより細くなつたらMagic Threadを使ふのもむづかしさうだけれども。

うまく作れたら、このあとMedやDkでおなじものを作つてつなぐつもりでゐたんだがなあ。
Country Grapeのグラデーション。
いいんぢやないかと思ふんだけれども。
しかし、己が技がつたな過ぎるか。
無念。

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Monday, 11 August 2014

ちよつと進んで考へる

アクセントカラーのストールは指定の段の半分を超えた。
指定では401段編むことになつてゐる。
昨日、250段を超えた。
前回「まだ半分にも達してゐない」と書いたから、先週はだいぶ編めたといふことか。

前回、一日編めるのは12段、と書いた。
これ以上は早くならないだらう、とも書いた。
先週、一番編めたときで一日に14段編めたかな。
でもやはり、もうこれ以上は早くならないだらうと思ふ。
人間には限界がある。
たとへそれ以上早く編めるやうになつたとしても、長い時間その早さを維持することはむづかしからう。
また、手や指を痛めることになるかもしれない。
無理せずのんびりと自分のペースで編むのが一番いい。
さうは思へども、「もつと編みたい。早く編みたい」といふのは人情かとは思ふ。

先週たくさん編めたのは、と、「先週」と書いておいてなんだが、日曜日にたくさん編んだからである。
日曜日、すなはち昨日のことだ。

どうも最近、金曜の夜から週末にかけてはほとんど編めてゐない。
金曜の夜は、「明日から休みだ」といふので浮かれてゐるからだらう。さつさと寝てしまふこともある。
土日は出かけることが多い。出先に編みかけを持つていけばいいのかもしれないが、さういへば最近編みかけを持ち歩くことがなくなつた。
そんなわけで、月曜から木曜のあひだしか編まない週もある。
さうすると、アクセントカラーのストールの場合、週に40段前後しか進まないといふことだ。
全部で401段と考へると、完成に10週間かかることになる。
編み始めたのが7月14日だから、9月15日の週だ。
こればつかりは編みはじめてみないとわからない。

だいたい、メリヤス編みならこれくらゐの早さで編める、とか、裏メリヤス編みならこれくらゐ、ゴム編みやかのこ編みだつたらこんなもんかな、といふのは、想像がつく。
しかし、縄編み模様だの編み込み模様だの、今回のやうなレース模様だのの場合は、編み始める前の見極めがむづかしい。
編んでみて、しばらくして手が慣れて、それでやつとこのくらゐの早さで編めるのか、とわかるといふ寸法だ。
しかも、ちよつとした模様の場合は、メリヤス編みより進みが早いことがある。
模様があると、編むにしたがつて模様があらはれてくるので楽しいからついつい編んでしまふからといふのがひとつ。
模様のきりのいいところまで編まうといふのでちよいと進むといふのがひとつ。
そんな感じで模様編みの方が早く編み上がつたりする。
この場合、早く編めるわけぢやないがね。編む時間が増えるといふ方が正しい。

今回はどちらかといふと「きりのいいところでやめないと次にどこからはじめたらいいのかわからない」といふので編んでしまつたりする。
何度か書いたやうに、今回は裏を編むときにも減らし目があるのでね。減らしたところで休む、とか決めておかないと、次にどこから編んだらいいのかわからない。
それは、編んでゐる最中にちよつとメモを取るなどして棒針から手を離すときも同様だ。
表を編んでゐるときは、模様が見えるのですぐに復帰できる。
裏を編んでゐるときは、模様が見えないので、表を見て考へたり、場合によつては端から何目編んだかを数へなほして再開しなければならないときもある。

米国のあみものの本などには、「編みかけには付箋をつけておいて、次にどこから編むかを書いておくといい」などと書かれてゐたりすることもある。
しかし、別のメモを取るために手を休めるのに、わざわざ「次はどこから」などとメモを残すだらうか。
残さないね。
自分の短期記憶に任せるしかない。

しかし、メモをつけておくといふのはいい手である。
さうすれば、ちよつと間をおいたとしてもすぐにresumeできるしね。
でもやつたことはないなあ。
いいことだとわかつてゐるんだからやればいいのに。
もともと付箋が好きではない、といふのがやらない理由のひとつではあつたりするんだがね。

あみものをする人は、みんなさういふメモをつけたり残したりしてゐるのかな。
ちよつと気になるところではある。

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Friday, 08 August 2014

ちよつとだけ贅沢

茶こし付 ティーポットボトル」を愛用してゐる。

正式名称はなんなんだらうね。
静岡茶商工業協同組合のサイトには「茶こし付 ティーポットボトル」と書いてあるから、これが正式名称なんだらう。
よそでは「tea-pot-bottle with strainer」と銘打たれてゐたりする。

いづれにせよ、茶こしのついたボトル、だ。
使ひ方は上記サイトの「作法」に詳しい。
AllAboutにも紹介記事がある。
ボトル上部に茶こしがついてゐて、とりはづしがきくやうになつてゐる、といへばよいだらうか。

もともと職場では給茶器の水を飲んでゐた。
お茶ではないのは、給茶器のお茶といふのはなぜかのどが渇くものだからだ。あれはなんなんだらうね。不思議である。

去年の暮れからたびたび客先に行くやうになつた。
客先には給茶器はない。
そしてペットボトルのお茶も、なぜかときにのどが渇く。
飲む意味ないぢやん。
さう思つて、この「茶こし付 ティーポットボトル」に茶葉を入れて持つていくやうにした。
客先には給湯室はあるから、そこでお湯をもらふ。
いい感じだ。
茶葉はそのときによつて違ふが、ここのところはずつと鹿児島茶といふのを飲んでゐた。
お茶は、八女茶とか知覧茶とか、なぜか九州のお茶が好きである。
香りが高くて色が濃く出るからだ。
京都のお茶は味の素味が強くて苦手。
以前は静岡茶を好んでゐたけれど、放射能汚染問題のときの県知事の対応がいまひとつ気に入らなかつたので、それ以降避けてゐる。

緑茶にする理由はとくにはない。
職場といふのは不自由なものである。
紅茶は沸騰したばかりのお湯を使ふといいといふ話だが、そんな贅沢は職場では許されない。
給湯室にガスレンジのある職場もあるかもしれないけれど、残念ながらそんなものはない。あつても今は安全上の問題で使はせてもらへないかもしれないなあ。
コーヒーはコーヒーで、80度くらゐのお湯がいいといふ。
どうやつて入れるんだよ。

そこいくと緑茶は、ちよいと低めの温度で入れるのがいいといひつつ、多少熱からうが冷たからうが、それなりに飲めるものができる。
以前、Web通販でお茶を買ふたとき、こんなことを教へてもらつた。
まづは氷でお茶を入れる。茶葉を入れた急須に氷だけを入れ、溶けてお茶になつたものを飲む。
次に水で入れる。
次に70度くらゐのお湯で入れる。
次にもつと高い温度のお湯で入れる。
好みによつてもう何煎か楽しんでもいい。
最後は茶葉をおひたしにして食べる。

コーヒーや紅茶ではちよつとかういふ話は聞かないよね。

そんなわけで、「茶こし付 ティーポットボトル」でも、この季節はまづ水で出して飲み、次にちよつとぬるめのお湯を入れてのみ、最後にはできるだけ熱めのお湯を入れて飲んでゐる。

お茶のなにがいいかといふと……うーん、なにがいいんだらう。
香りも好きだし味も好きだ。消臭効果もあるといふのもいい。
でもなあ、緑茶つて、ものすごく重たい風邪をひいたときなんかはやつぱり飲めないんだよなあ。
それはコーヒーもさう。紅茶も、かな。
具合が悪くなると飲めなくなる順番としては、コーヒーが最初で、紅茶と緑茶がおなじくらゐだらうか。
ではなになら飲めるのかといふと、うーん、焙じ茶とか麦茶とか、だらうか。
具合が悪いから多分に気分の問題が大きいのだらう。

さういふ刺激のあるところがいいんだらうと思つてゐる。
具合が悪くなると飲めなくなるやうな刺激。
いいぢやあないか。

お茶の香りをかいだりお茶を飲んだりすると落ち着く、といふ話もある。
それはそのとほりかと思ふ。
夏の暑いさかりに京都駅地下のおみやげ売場に行くと、強烈なお茶の香りがしてくることがある。
発生元は福寿園だ。
これが実にいいんだよなあ。。
蒸して暑くてうんざりしてゐるところに、さはやかなお茶の香りが漂つてくる。
たまらない。

ペットボトルぢやダメなんだよね。
茶葉があるから香るのだらう。
飲むときもさうで、茶葉から入れた方が水で入れて飲むにしろ、いい香りがする。
味も違ふ。
職場ではぜいたくはできない。
でも、工夫次第ではなんとかなる部分もある。

それを実現してくれるのが、「茶こし付 ティーポットボトル」だ。
やつがれにとつてはね。

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Thursday, 07 August 2014

物欲の栄え

萬年筆はもうこれ以上増えることはないだらう。
さう云ひながら買つてゐたりはするが、でもまあ、新作を見て「ほしい!」と思ふことはあまりなくなつた。

しかし、どうにもならないのがインキである。
インキはほしい。
新しいインキが出たときくとほしくなるし、古いものでも「これはいいんだよ」なんてなことを云つてゐるとほしくなる。

どうしたものかねえ。
自宅で使ふ分にはガラスペンで使へばいい。
でも、起きてゐる時間の大半は家にはゐない。
畢竟、コンヴァータにつめてペンを持ち歩くといふことになる。
インキを買ふたび替へるたび、ペンをきれいに洗浄するといふ手もある。
しかし、お気に入りのいいペンのインキはひとつに絞りたい。
なんかの間違ひでインキづまりを起こされたら目も当てられない。

つまり、「新作インキに惑はされるな」といふことなのだらう。
さう理解してゐる。
いま持つてゐるペンとインキとで十分ぢやあないか。
そのとほりだ。
人間、欲を云つたらきりがない。
足ることを知るが幸せの条件である。

ああ、柄にもないことを書いてしまつたねえ。

最近は使ふ萬年筆もだいぶしぼられてきて、常時持ち歩いてゐるのは5本、月曜日に職場に持つて行つて金曜日に持つて帰るのが8本、職場に置いてゐるのが4本、家で使つてゐるのが8本、合計25本か。
家ではほかに2本使つてゐたが、最近休ませたばかりである。カリグラフィーペンもあるが、まああれは萬年筆とは数へないことにしやう。

25本か。
普段数へてゐないからそんなにあるとは思つてゐなかつたよ。
持ち歩きの5本と平日は職場に置きつぱなしにしてゐる8本とで、最大13本を持ち歩くことがある、といふことは認識してゐたが、こんなにあるとは思つてもみなかつた。
そりやあ書いても書いても書き足りない気分がするわけだよね。

25本をまんべんなく使つてゐるかといふと、もちろんそんなことはない。
よく使ふもの、それなりに使ふもの、あまり使はないものとがある。
用途が決まつてゐるものもあるしね。
緑色のインキは読んだ本と見た芝居や映画に関することを書くときに使ふので、さういふときだけ登場する。
ナガサワ文具センターオリジナルのルノワール・ピンクは、追記に用ゐてゐるので、これまた出番が限られる。
ペリカンの800の太字とカリグラフィー用とは、気分がむしやくしやした時の気持ちの整理に使ふことが多い。すなはち、いたづら書き用やね。もつたいないことこのうへないが、でもまあ、心落ち着けることができるのでよからう。

一番よく使ふのは中屋万年筆の十角軸かな。ペン先は細軟。それとおなじくらゐよく使ふのが大橋堂のおそらく中字のペン。
あとは似たやうな頻度で使ふ。と思ふ。たぶん。

25本ていどなので、どのペンにどのインキを入れてゐるかも把握してゐる。特に記録などは残してゐない。インキを補充した日を手帳につけてゐるくらゐかな。補充できるインキの量は各社まちまちではあるが、インキの補充頻度でだいたいどれくらゐ使ふてゐるのかがわかると思つてゐる。

これ以上増えたら、なにかしら記録をつけないと、どれにどのインキが入つてゐるとか、わからなくなるよな。

つまり、やはり増やしてはいけないといふことだ。

ちよつと前までは物欲が低下してゐて、あまりものを増やしてゐなかつた。
ところがここにきてなぜか突然「あれもほしいこれもほしい」状態に陥つてゐる。
いかんなあ。
少し、気持ちを落ち着けていかなければ。
さう思つて、棚卸しをしてみたわけだが。

しかし、一度ついた火はなかなか消へないんだよなあ。

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Wednesday, 06 August 2014

KING JIMのLINK NOTEを使ふ

文房具カフェで開催される「最新デジアナ文具 LINK NOTEと過ごす2週間」といふイヴェントに参加できることになつた。
ついてはモニタとして、KING JIMの新商品LINK NOTEをモニタとして使用することになつた。
使用するのはA6サイズの方眼罫。持ち歩くにはこれがいいかなと思つた。

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KING JIMといへば、いまこれを打つてゐるポメラDM100もKING JIMの商品である。
ポメラは初代のDM10も使つてゐた。
職場ではKING JIMのバインダもよく使つてゐる。
普段、なにかとお世話になつてゐる会社だ。

LINK NOTEについては、リンク先を見てもらへればわかると思ふ。
ページの右下隅にQRコードが印刷されてゐる。これをスマートフォン用の専用アプリケーションで読み込んで、スマートフォン内に保存されてゐる画像や音声、動画やURLなどを記録することができる、といふ寸法である。

たとへば、美術館に行つたとしやう。
ポスターの写真をiPhoneなりAndroid端末なりで撮影する。
展覧会や美術館のURLがあれば残しておきたい。
チケットはLINK NOTEに貼る。
チケットを貼つたページのQRコードを読み込んで、ポスターの写真や展覧会のURLを登録する。
チケットを貼つてあまつた場所にはちよつとした感想を書いてもいいかもしれない。
blogでもやつてゐるのなら、展覧会の感想を書いた部分のURLを登録することもできる。

自分だつたらそんな風に使ふかなあ。
最初はそんな風に考へてゐた。

また、ちよつとカンミ堂のピコットフセンに似てゐるな、と思つた。
ピコットフセンは、QRコードが印刷されてゐる付箋である。
日記帳などに貼り付けて、QRコードをこれまたスマートフォン用の専用アプリケーションで読み込み、スマートフォンに保存されてゐる写真を登録することができるやうになつてゐる。

最初はどうやつて使はうかなあと思つてゐたが、三年手帳と一緒に使ふことにして、いまはかなり頻繁に使つてゐる。

ピコットフセンと使用法が重ならないかなあ。
LINK NOTEを手にしたときの心配はそれだつた。

普通に日記帳として使はうとしたら、ピコットフセンと使ひ方がダブつてしまふ。
それでいろいろ考へて、ぢやあひとまづはあみものプロジェクトまとめ帳にしたらどうだらう、と思ひついた。
それはすでにRavelryといふあみものSNSで実現されてはゐるのだが、まあ、ここはひとつ、アナログなものも入れてみてもいいぢやあないか。

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こんな風に、LINK NOTEには編んでゐるものの情報を書く。
編んでゐるものの名前、参照してゐる書籍、使用してゐる針、糸、編むのを開始した日と終了した日を書いてみた。終了した日はまだ空白ではある。
ちなみにこれはLAMYのターコイズのインキを入れたファーバー・カステルのペルナンブコで書いた。ペン先は細字で、にぢみはないし裏抜けもしてゐない。

で、登録したのが写真とURL。URLはこのblogでこのストールについて書いたときのエントリを入れてみた。

うーん、まるでRavelryだな。

ただ、Ravelryの場合は、SNSのメンバにも見てもらはうといふので、見てもらへるやうに登録のタイミングを見計らったりするし、そもそもWebにアクセスできないとなにもできないしなにも見られなかつたりする。

LINK NOTEはアナログ版バックアップになるんぢやあるまいか。

ちなみに、このページのタイトルなんぞもつけてみた。

あみものだからRavelryのアナログ版のやうになつてしまふけれど、最初に書いたやうに美術館や展覧会、映画や芝居を見に行つたときにも使へさうだ。URLは複数登録できるやうだから、公式サイトだけでなく、感想を書いたページへのリンクもはることができる。
読み終はつた本もおなじやうに管理できさうだ。

また、あみものとかぎるとRavelryになつてしまふけれども、タティングレースや刺繍その他の手藝にも使へると思ふ。Webで見つけたフリーパターンのURLを登録できるといふのはいいやね。フリーパターンのURLと自分で作つたものの写真をリンクすることができる、といふのはいい。

ものは試しだし、あみものに限らず、ほかのものもいろいろと登録してみやうと思つてゐる。
さういふ「るつぼノート」にしてもいいしね。

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Tuesday, 05 August 2014

アイロンかけますか?

Yシャツつて、「クールビズ」ぢやないよね。
この時期、Yシャツを着てゐる人を見るだけで暑苦しさが増してくる。
そのYシャツにアイロンをかけた人がゐることを想像するからだ。
ああ、暑い……

使ひたくないことばだからかぎかつこでくくつてゐるわけだ、「クールビズ」と。
これつて、全然環境のことは考へてゐないんだよね。
だつたら「アイロンをかけなければならないやうな服も避ける」とするべきだ。
アイロンは、小さいかもしれないが熱を発する家電である。
熱を発するといふことは、それなりに電力を消費する。
しかもアイロンをかけると暑くなるから、冷房を強めにするといふ人もゐるだらう。

さつき職場でよれよれのYシャツを着てゐる人を見かけた。
あー、アイロン、かけてないんだらうなあ。
しかし、今の時期、それでいいのである。
それが正解。
すこしでも節電しなきやね。

しかし。
世の中、手間のかかつてゐるものほどいい、手間のかかつてゐるものほど正式、といふ風潮がある。
極端な例でいくとプレタポルテよりオートクチュール、とかさ。
おそらくYシャツのどこがいいのかといふと、アイロンがかかつてゐるからなのではないかと思ふ。
のりをつけてアイロンをかけてぱりつとした姿が仕事には向くのだらう。
それはわからないでもないけれどね。
だつたら「クールビズ」とか中途半端なこと云つてんぢやないよ。
と、思ふのもまた事実なのである。

ところで、やつがれはアイロンが苦手である。
それはもうこどものころから苦手で、たぶん、熱いからだらう。
まんがなどで、アイロンのあとのくつきりとついた服などを見たことなども影響してゐるのかもしれない。
アイロンはおそろしい家電。
さうすりこまれてゐる。

だからといふわけではないが、タティングでなにか作つても、アイロンをかけることはまづない。
水とほしして、タオルで水気を吸ひとつたあとは、ピンを打つて乾かす。
それだけ。
ときどきピンを打たないこともある。
The Twirlyのチェインの長さを間違へてつないだものなどは、写真を撮るために水につけて乾かしはしたけれど、そのときにピンは打たなかつた。
失敗作だから、といふ思ひもある。

のりづけもしたことないなあ。
はじめてタティングレースのドイリーを作つたときに、一度だけしたか。
あのときはのりづけをしてアイロンもかけたのだつた。
さういふものだと思つてゐたからである。
でも、アイロンがけもさうだけど、のりづけもあんまり好きぢやないんだよね。

布地は、とくに着るものは、くつたりしたものが好きなのだ。
以前も書いたな。
「着つつ慣れにし」つてな感じで、くつたりして、手触りのよいものが好きである。
着慣れたTシャツみたやうな感じ、かな。

最近、円の中心に穴をあけて首を出し、その穴の両脇の適当なところに穴をあけて腕を出すやうな感じの服が好きらしいことに気がついた。
無駄に布を使ふ服である。
これが案外涼しいんだよね。首と腕とを出す穴を大きめにしておくと、さ。
布は完全に無駄なわけだけれども。
しかし、その服も、布地がかたかつたりのりづけしてあつたりしたらダメなのである。
あくまでもくたつとふはつとした感じでないと。

実際にさういふ服を持つてゐるわけではないのだが。
先日それに近いやうな服を着て、さう思つたのである。

そんなわけで、ドイリーなんぞもとどちらかといふとちよつとくたつとした風情のあるものが好きだ。
ぴんと張られたものよりも、くつたりと寄り添ふやうなものがいい。
のりづけするとさういふ風情が消へてしまふ。
アイロンをかけるくらゐならいけれども。

だいたい、かつちりしたものを作りたいのであれば、かつちり作ればいいぢやん、とも思ふわけだ。
たとへぱ栞とかね。
栞はちよつとかつちりめに作つた方がいいだらう。
それに栞にはのりづけは向いてゐない。
のりをつけるとのりが黴びることがある。
本にはさんでおいたまま忘れてしまつて、ある日あけて見たらばこはいかに、なんてなことになつてゐたら目も当てられない。
栞はきつちりかつちりに作る。
それにかぎると思ふ。

なんて、すべてはアイロンから逃げる口実なんだけれどもね。

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Monday, 04 August 2014

この暑いのに

「風工房のシンプル夏ニット、こもの」に掲載されてゐるアクセントカラーのストールは、少しづつではあるものの進んでゐる。

アクセントカラーのストール

前回毎日10段しか編めない、と書いたが、なんとなく12段くらゐは編めるやうになつてきた。でももうこれ以上は速くはならないだらう。

現在165段めくらゐで、指定では401段編むことになつてゐる。
まだ半分もきてゐない。
そして、いまの長さから考へると、指定どほり編んだとしても、好みの長さには達しないのではないかと思つてゐる。
糸のつづく限り編む、かなあ。
先の長い話である。そんなことをしてゐるうちに夏は終はつてしまふ。
まあ、夏は終はつても、きつとこのストールならしばらくは使へることだらうとは思つてゐるが。
それとも麻は冷えるかなあ。

ところで我が家には冷房機といふものがない。
ないわけぢやないが動かない。
そんなわけで、扇風機と自然の風だけでなんとかしのいでゐる。
あとは手ぬぐひを濡らしてしぼつて首にかけたりね。
「しろくま」なる濡らして首にかけて躯を冷やすといふ商品も買ひはしたのだが、どうも手ぬぐひの方が使ひやすい。
しろくまはすぐにぬるくなるんだよね。ひんやり感が持続しない。
手ぬぐひは、なにしろ長いので、ぬるくなつてきたなあと思つたらちよつと端を引いて位置をずらすとまた冷たくなる。
しかも手ぬぐひだと汗もぬぐへる。
さらに保冷剤を包むこともできる。
といふわけで、しろくまはすつかり使はなくなつてしまつた。

そんなに暑い思ひをしてゐるといふのに、「この冬はがつつりと縄編み模様のセーターを編みたいなあ」なんぞと考へてゐるのだから我ながらどうかしてゐる。
セーターと書いたけれど、カーディガンでもいいなあ。縄編みでかつちり編めばジャケット風にもなるだらう。
ヴェストでもいいか知らん。

暑い。
どうにも暑いね。

しかし、考へはじめるといろいろと思ひ浮かぶものなのである。
さういへば、RowanのMagpieを買ひためてあるはずだ。
あれを使つたらどうだらう。
Magpieで縄編み。
いいぢやあないか。
確か500gくらゐあるはずなので、セーターには足りないがヴェストならいけるはずだ。
……それともあれは使つてしまつたか知らん。
だつたらパピーのミニスポーツがゲージがおなじくらゐだから、それで編まうか。
それともゲージはチト細かくなるけれど、おなじくパピーのブリティッシュエロイカはどうだらう。

うーん、どうして涼しい方向に話が流れないかなあ。

いま編んでゐるハマナカのフラックスCは、麻にしては編みやすい。とくにこの時期、編んでゐてさらさらとしてゐていい感じの糸である。

だけどやつぱり毛糸で編みたいんだよねえ。
それで夏でもくつ下だの手袋だのを編むやうにしてゐたこともあつた。
さういふ細い糸を使つてちまちま編むのもいいけれど、なんか、こー、「縄編み!」みたやうな、インパクトのあるものを編みたいのだ。

こんなことを書いてゐるけれど、実際に毛糸の季節になつたらすつかり忘れてゐるんだらうな。
「毛糸だま」の次号は秋号で風工房の特集があるのらしいし。
その他にも新刊予定なんぞを見ると気になる本が何冊かある。
去年はあみものの本を一冊も買つてゐない。この春夏も一冊も買つてゐない。
あ、「毛糸だま」は買つたか。ラトヴィアンミトンの掲載されてゐるのを。ここからはまだなんにも編んでゐないなあ。

ここのところ、睡眠時間を削つて編むといふことをしなくなつたので、一日にあみものに割ける時間が激減してしまつた。
まあ、当時は「睡眠時間を削つてゐる」と思つてはゐなかつたんだけれどもね。編む手がとまらない、といふか、編まずにはゐられない、といふか、そんな感じだつた。
いまでも編まずにはゐられない、といふ感覚はあるけれど、寝なきやねー、といふのが先に立つ。
この暑さの中眠れれば、なんだけれども。

こんなことを打つてゐたら、なんだかごつつい縄編みのブランケットとか編みたくなつてきちやつたなあ。
膝掛けは不要と思つてゐたけれど、一枚編んだら毎年のやうに使つてゐるんだよね。あれはいいものだ。

早く涼しくならないか知らん。

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Friday, 01 August 2014

やればいいのに

人はなぜ「これをやるといいよ」と云はれたことができないのか。

やつがれができない理由はわかつてゐる。
天の邪鬼だからだ。
親から「これをやれ」「あれをしろ」と云はれたことはことごとくできなかつた。
反発してしまふのである。
親からだけではない。
教師から云はれたことでもさうだ。
小学生のときに、学校で「新聞を読むやうに」とさへ云はれなかつたら、いまごろやつがれは新聞好きだつたかもしれない。
教師にさう云はれて、「絶対読むもんか」と思つた。とくに朝日新聞だけは読まないと心に決めた。
ひとり暮らしをしてゐたときに「読まず嫌ひはいけないよな」と思ひ、ちやうどよい機会なので半年だけ朝日新聞を取ることにした。

親だとか教師だとか、目上の人間から云はれると、どうもすなほに取り組む気になれない。
困つたものだが、さういふものとして自分とつきあつてゐる。

でも、世の中の人はちがふだらう?
すなほな人たちだつてたくさんゐる。
親のことばにはしたがひ、教師から「新聞を読め。新聞といつたら朝日新聞のことだぞ」と云はれれば疑ふことなく朝日新聞を読むやうなこどもはたくさんゐると思ふ。

それでもなほ、世の中の人は他人から「かうやるといいんですよ」と云はれたことをまつたくやらずに済ませることが多いやうに思ふ。
やつたらよくなるのに。
たとへば、糖尿病や高血圧対策に歩くといい、と云はれて実際に歩きまたつづける人がどれくらゐゐるだらうか。
病気のことなら命にかかはることだからまぢめに取り組むかもしれないが、仕事上のことで「この本を読むといい」とか「かういふ手順で取り組むといい」とか云はれて、ほんたうにその本を手に取り、教へられた手順に従ふ人がどれくらゐゐるのか。

謎である。

世の中には、やつがれとは逆に同僚とか目下の人に云はれたことには従へない、といふ人もゐるだらう。
それは、自分の逆と思へばなんとなくわかる。

しかし、まぢめに他人の話を聞いてゐて、「それはいいですね」と社交辞令でなく云ひながら、取り組めない人もかなりの数ゐる。そのはずだ。
そしてやつがれもまた、話を聞いた時には「それはいいな」と思つたはずなのに、実際にやつてみて一度しかやらなかつた、とか、そもそも手をつけることさへしなかつた、といふことがたくさんある。

どうしてなんだらう。
やつてみたら、いいことだとわかるのに。
やらなくても、やつた場合の結果は予測のつくものなのに。

てなことを、「どうしたらわかりやすい文章を書くことができるのか」といふこととほぼ並行して考へてゐる。
だつて、もし万が一わかりやすい文章を書く方法を導き出せたとして、誰も話を聞いてくれなかつたりしたら、意味がないではないか。
もつといふと、わかりやすい文章を書く方がわかつたして、それを自分が実践できなかつたら、ますます意味がない。

といふわけで、冒頭の問ひになる、といふわけだ。
人はなぜ「これをやるといいよ」と云はれたことができないのか。

人のことはいいか。
自分はなぜ「これをやるといいよ」と云はれたことができないのか。

そんなわけで、みづから考へて「これをやるといい」と思つたことはできるだけ実行しやうとしてゐるのだが。
なかなかむづかしいんだよなあ、これが。

それでも自分で「やらう」と決めたことはできたり、少なくとも一度はやつてみることができるやうになつたりはしてゐるんだけどね。

ぬぬ、でも、さうしたら、なぜやつがれはさうできるやうになつたのだらうか。

謎は尽きぬなあ。

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2014年7月の読書メーター

2014年7月の読書メーター
読んだ本の数:6冊
読んだページ数:1684ページ
ナイス数:3ナイス

荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)感想
「無知の知」であるとか似たやうなことが「論語」にも出てくるけれど、「自分の知らないことがどうしてわかるのか」「自分の知ることがどうしてわかるのか」といふ方がピンとくる。
読了日:7月3日 著者:荘子
知的生産の技術 (岩波新書)知的生産の技術 (岩波新書)感想
学校に通ふてゐる時分に読んで「全文ローマ字」とか「全文ひらがな」とか本当に成り立つと思ふてゐたのかと当時は疑問だつたが、今でも疑問だ。抽象度の高い話を書かうと思つたら漢語は不可欠なのに。友人や家族宛の手紙なら可能かもしれないけれども。論文は英語で書けばいいやとでも思ふてゐたのかなあ。あと手紙の書き方は小学校の国語の教科書に出てゐたし、原稿用紙の使ひ方も小学生の時に作文の書き方で習つた。おそらく人は小学生の時に学んだことは忘れてしまふのだらう。「見て盗む」の長所短所は書かれてゐるとほりかと思ふ。
読了日:7月6日 著者:梅棹忠夫
Monty Python and Philosophy: Nudge Nudge, Think Think! (Popular Culture and Philosophy)Monty Python and Philosophy: Nudge Nudge, Think Think! (Popular Culture and Philosophy)感想
お笑ひに哲学なんて、と思ひつつも、読んでみたらおもしろかつた。20人ばかりの哲学者といふか哲学の講義をする学者たちがそれぞれ思ひ思ひにあれこれ書いてゐるのだが、「さうさう、あのスケッチはあそこがおもしろいよね」とか「うんうん、やつぱりモンティ・パイソンつていつたらそれだよね」といふ感じで読める。みんな、好きなんだなあ、モンティ・パイソンが。近代的な意味ではやつがれはidiot (or madman) なのらしい。現代的な意味でもさうなのかも。
読了日:7月16日 著者:GaryL.Hardcastle,GeorgeA.Reisch
思考訓練の場としての漢文解析―受験国語思考訓練の場としての漢文解析―受験国語感想
この本を理解するには英文法を理解してゐる必要がある。さうでないと太刀打ちできないのではないかと思ふ。とてもためにはなつたけれど、「やつぱり自分は訓読した文章が好きなんだなあ」とあらためて思つた。「アニハカランヤ」とか大好きだもの。
読了日:7月22日 著者:市川久善
書きたがる脳 言語と創造性の科学書きたがる脳 言語と創造性の科学感想
話すことと書くこととはどのくらゐ違ふのだらう。わけのわからない文章を書く人と話したらやはりわけのわからないことを云ふのだらうか。科学論文がおもしろくないのは暗喩を廃してゐるからだ、とか。なるほど。
読了日:7月28日 著者:アリス・W・フラハティ
頭の悪い日本語 (新潮新書)頭の悪い日本語 (新潮新書)感想
著者も書いてゐるとほり、他人のことばをあげつらふか否かは、結局のところ好き嫌ひ以外のなにものでもない。著者が気にならないと書いたことばやあきらめたと書いてゐることばの中には、やつがれはどうしても許せないと思ふものもあるし、その逆もある。「正しい日本語」といふものは存在するのか? でもまあ、「頭の悪さうな日本語」といふのはあるのかもしれない。
読了日:7月30日 著者:小谷野敦

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