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Wednesday, 23 July 2014

いづくんぞ訓読せざらんや

思考訓練の場としての漢文解析」を読んだ。
読んだら漢文を漢文として理解できるやうになるかなあと思つて読み始めた。

「思考訓練の場としての」には英文解釈や現代国語、化学があるのらしいが、まつたく知らなかつた。
漢文解析ではじめて知つた。
受験とか、とくに大学受験とか、縁がなくなつて久しいからな。

「漢文が読みたくなつたら、学習参考書を探せ」とは、以前から書いてゐることである。
白文とまではいかなくても、句読点や返り点や一二点のついた漢文ならば、学習参考書売場に行けば見つかることがある。しかも手頃な価格で手に入る。
いふことなし。

さう思つてはゐるけれど、それで漢文の学習を、ましてや受験対策の勉強をしやうなどとは、つゆ思つたことはなかつた。
当然、この本も受験対策に読み始めたわけではない。
漢文を外国語として読むことができたらな、とチト思つて手にとつてみた。

「思考訓練の場としての漢文解析」を読んでまづ思つたことは、「これ、今の受験生はほんとに読むのかなあ」といふことだ。
A5サイズ上下二段組の三百ページほどの本である。
「国公立理系」や「東大医学部」を目指すやうな優秀な人は、読むのかなあ。
これを読んで漢文問題を解くことができるやうになれば、たいしたことぢやないか。
それはさうかもしれない。

読み進むうちに思つたことは、「これ、英文法のわからない人には理解できないよね」だつた。
この本では、漢文の文法を英語の五文型で説明してゐる。関係代名詞や名詞句、副詞句なんてのも出てくる。漢文を学ぶうへでは滅多にお目にかからないやうなことばばかりだ。
英文法も、「国公立理系」や「東大医学部」を目指すやうな人ならば、完璧に近いくらゐ理解してゐるもの、といふことなのだらう。
残念ながらやつがれの英文法はかなりさびついてゐて思ひ出し思ひ返しながら読むことと相成つた。

この本は「手引き」だ。
この本を読んだからといつて即漢文がわかるやうにはならない。
まづこの本を読んで、それから実践にあたる必要がある。
受験生にそんな時間つてあるのだらうか。
高校三年生を「受験生」ととらへるからいけないのか。
高校二年生、いや、高校一年生くらゐから大学受験対策をしてゐるものといふ想定なのかな。

語学に近道はない、とはよく云はれることである。
ないけれど、従来の方法では漢文を理解できない、或は理解し難かつたといふ人向けにはいいのかなあ。

と、なんとなく歯切れが悪いのは、「だつてやつぱり訓読できないとダメでせう?」といふ思ひがあるのと、もつと云へば「だつてやつぱり訓読文が好きなんだもん」といふのがある。

訓読文が好き、といふ話は以前もした。
「漢詩紀行」には中村吉右衛門による日本語の朗読と中国人による中国語の朗読とがある。
これまた以前書いたことだが、高校生のときにひよんなことから教師が李白の漢詩を中国語で朗読してくれたことがあつた。
これがなんともうつくしい音の詩で、そのときは、漢詩を中国語で読むことができたらなあ、と思つたものだつた。
自分で読むことができなくても、せめて人の朗読したものを聞きたい。

さういふ思ひもあつて「漢詩紀行」のDVDを入手した。
そのはずだつた。

そのはずだつたが、吉右衛門の朗読ばかりを聞いてゐる、といふ話をここにも書いた。
中国語の朗読が悪いわけではない。
いや、まあ、強いて云へば、悲しい詩もつらい詩も、すべてなんとなく楽しげなやうすで読まれるのがチト苦手、といへば苦手かもしれない。

しかし、吉右衛門の朗読ばかりを聞いてしまふのは、ひとつには播磨屋の朗読がすばらしいといふこともあるけれど、「つまるところ、自分は漢文を訓読した文が好きでたまらないのだ」といふ、それに尽きる。

訓読文が好きなのは、柴錬とか中島敦の影響だらうなあ。

そして、本邦の古典の多くはこの訓読文の流れを汲んでゐる。
もちろん、やまとことばで連綿と書かれた作品もあるし、古文の授業はさうした作品をおもに取り上げてゐるやうには思ふ。
でも、それを書いた人は漢文を訓読したものに慣れ親しんでゐただらうし、授業でとりあげられない多くの作品は、訓読文やそこから派生したやうな文章で書かれてゐる。

こんなかな遣ひをする理由について、「過去と断絶されるのがイヤだつたから」と書いたことがある。
訓読文を捨てるといふこともまた、過去と断絶されることだ。
やつがれにとつてはさうなのである。

まあ、かういふかな遣ひをしたり、訓読文を読んだりするからといつて、過去と親しいわけでもないんだけどね。残念なことだけれども。

とはいへ、漢文を漢文として、すなはち、外国語として読むことができたらなあ、とも思ふんだよね、冒頭にも書いたやうに。
それではといふので、この本を読んだ後、手持ちの本のうち句読点だけが打たれてゐる漢文の本など読んでみたが……
長年の習慣といふのは恐ろしいね。
覚えたとほりに読まうとしても、なんとなく「アニハカランヤ」とか「マサニ……セントス」とか「イマダ……ズ」とか読んぢやうんだよねー。

さうか、英語を訓読文にしてみるといふのはどうだらう。
そんなことは幕末や明治初期の人々がすでにやつてゐることだとは思ふが、なんとなく楽しさう。

……役に立たないからか。

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