メモ魔考
やつがれはメモ魔ではない。
たぶん、一般の人よりはメモを取るが、取る人ほどは取らない。
もしかすると一般の人よりも取らないかもしれない。
ただ、取るときというか取る条件が違うだけで。
たとへば、板書されたものをノートに書き写す、といふことはあまりしない。
学校に通つてゐた時分にはしたけれど、しなくなつてからずいぶんとたつ。
本を読んでゐるときも、作者の云ひたいだらうことや、その本や章の主旨についてはあまり書き出したりしない。
書くとしたら、自分が気になつたところだ。
本題とはあまり関係なかつたりすることが多い。
まれに本題と一致することもある。
そんな感じだ。
飯田市川本喜八郎人形美術館やヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに行くときは、メモは一切取らない。
見るだけ見る。
そして、帰り着いて、覚えてゐることだけを書き記す。
このblogに書いてゐることもすべてさうだ。
だから間違ひがあることもあるし、まつたく覚えてゐないこともある。
ある人形の衣装については記憶してゐるけれども、さてその隣の人形はどうだつたか、といふと、覚えてゐないことも多い。
それは、このblogに書いてあることを見ればすぐわかることである。
では展覧会に行つたときはメモを取らないのか、といふと、さうでもない。
この前「栄西と建仁寺」展に行つたときは、展示室内の椅子に座つてそのとき思ひついたことを書きつけた。
なんとなくそんな気分だつたからである。
ヒカリエや飯田でメモを取らないのは、印象に残つたことだけを書き記したいからだ。
見るはしからメモを取つてゐたら、その量は膨大になつてしまふ。
そこから取捨選択するのはまた大変だ。
とにかく見る。見て見て見る。
さうして印象に残つたことだけを書き記す。
それでいいぢやあないか。
さう思つてゐる。
以前は、芝居を見てゐる最中にメモを取らうとしてゐたことがある。
幕の開く前からノートを開いて用意しておき、書いても音のしない筆記具を手にメモを取つてゐたこともあつた。
やめたのは、やつがれのメモを取る様を見て音をたててメモを取る輩が増えると困ると思つたからである。
こちらは音のしないやう最大限の努力をしてゐる。
それを理解せずに形だけ真似する人が増えたら、やつがれが困る。
それに、やつがれ以外にも芝居を見てゐる途中でメモを取る人がゐるのだが、例外なく書きながら音を立てるんだよね。
ボールペンを押す音をさせたり、紙をめくる音をたてたり、ボールペンが紙についたりはなれたりする時の音に無頓着だつたり、鉛筆のたてる摩擦音がうるさかつたり。
ああいふ人は、自分がメモさへとれればいいのだらう。
まはりのことなど、どうでもいいのだ。
さういふ人間と仲間だと思はれるのは心外だ。
ゆゑに、芝居を見てゐる最中にメモを取るのはやめたのだつた。
かはりに、幕間に取ることはある。
そんなわけで、やつがれはメモ魔ではない。
メモを取るのはかなり好きな方だとは思ふけれど、「はしたない」と思ふこともある。
なんでもかんでもメモを取つてゐる姿を見ると、さう思つてしまふのである。
イメージとしては、がつがつ食べるのとおなじ感じかな。
たぶん、メモを取つてゐるときのやつがれも、端からはさう見えるのだらう。
さうも思ふ。
世の中には、メモを取りまくつても、「はしたない」と感じさせない人もゐるにちがひない。
それは、見るものを不快にさせない食べ方のできる人がゐるのとおなじことだらう。
どうすればさうなれるのか。
興味があるなあ。
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