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Thursday, 31 July 2014

もつと書きたい

昨日も書いたやうに、現在使用してゐるノートや手帳の類は三種類。
スケジュール帳(といふ名の記録帳)のSCHOTT'S MISCELLANY DIARYに、日記帳の三年手帳、そしてその他いろいろを書くノート(いまはアサヒ屋紙文具店のクイール・ノート)だ。
電車の中とか町中などとつさに紙とペンを取り出せないときにはEvernote。
5×3カードを使ひはじめた話は先日も書いた。読んだ本などからの引用や自分の中で整理のついてゐないこと、引き続き考へたいことなどを記してゐる。

書くといふことでいへばblog、か。

これくらゐの量は普通に書くだらう。
さう思つてゐる。
世の中にはもつと書く人がたくさんゐる。
ほぼ日手帳やMoleskineの使ひ方の本を見ると、とにかく世の中「かく人(書く人も描く人も)」がたくさんゐるのだなあ、としみじみしてしまふ。

そして、やつがれはもつと書く時間があつたらなあと思つてゐる。
先日、もともと日記帳には三年手帳を使つてゐて、それがほぼ日手帳を使ふやうになつてまた三年手帳に戻つてきた、と書いた。
それはおそらく、日記を書くのにかけられる時間と連動してゐるのだと思ふ。

三年手帳のやうな連年手帳は、昔から使ひはじめては挫折してゐた。
はじめて続けられるやうになつたのは、12年ほど前のことだつたと思ふ。
池袋に芝居を見に行つて、なんだかものすごくものを書きたくなつた。
その足で西武のLibroに向かつたところ、ちやうど手帳フェアの真つ最中で、そこで集文館の掌中版三年手帳に出会つた。
以後、六年間二冊の三年手帳を使つた。

久しぶりの日記帳だつたから、最初のうちは三年手帳の一日分の量でなんとかなつてゐた。
根気のない人間のこととて、それまで日記帳はつけてはやめつけてはやめのくり返しだつた。小学校の高学年から高校生くらゐまでの間、毎日ものすごく日記を書いてゐたことがあつたけれど、それ以降さういふことはない。当時は庄司薫の話を真似して「本音の日記」と「建前の日記」のやうなものもつけてゐたこともある。
なんて、そんなこと、いまのいままですつかり忘れてゐたよ。
このころの日記は、おそらくもうない。

さういへば同時期には文通なんてなものもしてゐたし、毎週テレビドラマの感想文を書いてゐたこともあつたなあ。

もとい。

三年手帳を使ひはじめて五年を迎へたあたりでほぼ日手帳に出会ひ、当初は並行して使つてゐたが、そのうちほぼ日手帳にだけになつた。
ほぼ日手帳にだつたら書きたいだけ書ける。
さう思つてゐたのは最初の一年くらゐで、そのうちすぐに「これでは足りない」といふことになつた。
それでこれまた当時話題になつてゐたMoleskineを使つてみたりとか、ほぼ日手帳のカヴァにはさめるやうにA6サイズのメモ帳を補助として使つてみたりして、いまに至る。

たぶん、ほぼ日手帳を使ひはじめて移行したくらゐのころは、手帳に、といふか、日記帳に向かつてゐる余裕があつんだな。
当時は睡眠時間を削つてあれやこれやをやつてゐたしな。そのときのツケがいま回つてきてゐるのだらう。それで日記を書く時間もなくなつてきたといふ気もする。

ユビキタス・キャプチュアといつて、思ひついたことをいつでもどこでも書きとめる、といふ動きがある。
これについても何度か書いてきた。
最初はうまくいかなかつた。
なぜといつて、やつがれの書きたいのは「メモ」ではないからだ。
あるていどまとまつた文章を書きたい。
MoleskineのPocket Size Ruledを使ふと一ページにだいたい400字くらゐ書く。
一度にそれくらゐは書きたい。
けれどもあるていどまとまつた文章を書くには時間が必要だ。
それでうまくいかなかつたのである。

メモではなぜダメなのか。
「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」という本で、森博嗣はかう書いてゐる。

メモをとろうと思った瞬間に、つまり言葉にしようとすることで失われるものが多すぎる。どうせ最後は言葉にするのだ。メモよりは、本文を書く方が言葉の数が多いので、失われるものは最小限になる。

たぶん、飯田市川本喜八郎人形美術館や渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに行つて、メモを取らないのもそれとおなじことのやうに思ふ。
メモではダメなのだ。
たとへばいまヒカリエにゐる諸葛瑾の衣装の、黄色といふか黄土色といふかしぶい金といふかの衣装に緑色が配されてゐるのが、布地の薄くてぱりつとした感じも相まつて、人形劇のときに比べて見た目にとてもさはやかなのだけれども、そこで「黄色」とか「緑」とかメモしただけではダメなのである。
ほんたうは見たままを再現できればいいのだらう。写真なり絵なりで表現できれば一番いい。
しかし、写真撮影は禁止されてゐるし、やつがれには絵は描けない。
それでとにかくひたすら見て、時間のあるときにそれを脳内で再生しつつまとまつた文章を書くしかない。

……なんかそれも無駄だなあ。

あとは、まあ、忘れてしまつたらそれはそれよ、といふ気もしてゐる。

それが変はつてきたのは、年を経て、またおそらくは睡眠不足の結果として、記憶力が減退してきたからだらう。

情報カードを、それも5×3カードを使ふやうになつてきたのも、そこに理由があるのだらうと思つてゐる。本来、5×3カードはやつがれには狭すぎる。名刺サイズはなほさらだ。それでも使ふやうになつた、といふのは、まあ、書きとめておかないと、忘れ去つてしまふから、だらうな。

問題は、メモを書きとめるには記憶を思ひだすよすがになるやうなことを書かないといけない、といふことだ。単に単語だけをつらねても、あとでそれを見て思ひ出せないやうだといけない。それつて案外むづかしいことなんぢやあるまいかな。

と、結局いつもいつもおなじことをくり返しくり返し書くばかりだが、ほんたうはもつと書きたい。なんとかして書く時間を作りたい。
いまは書き出すことすらあきらめてゐるやうなことも書きたい。

この思ひはいつたいどこからやつてくるのだらう。

と、いふやうなことを「書きたがる脳 言語と創造性の科学」を読みながら考へてゐた。
この本については、また書く予定。

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Wednesday, 30 July 2014

来年の手帳には早過ぎる

そろそろ来年の手帳について考へる時期がやつてきた。

さう思つてほぼ日手帳のWebページを見に行つたら、まだ来年の手帳のことについてはなにも出てゐなかつた。
でもまあ、近日中に出てくるんぢやないかな。

先日も書いたやうに、今年はSmythsonのSCHOTT'S MISCELLANY DIARY (以下、SCHOTT'S)をスケジュール帳に、三年手帳を日記帳に使つてゐる。その他いろいろを現在はアサヒ屋紙文具店のクイール・ノートに書いてゐる。今年はこれまでにMoleskineのPocket SizeとSmythsonのPanamaをその他いろいろノートとして使つてきた。
最近5×3カードを使ひはじめてもゐるな。

この組み合はせからわかることは、「結局、自分は記録することにしか興味がない」といふことだ。
もつといふと、過去のこと、過ぎ去つたことにしか興味がない。
SCHOTT'Sを見てゐてもよくわかる。
予定よりも記録の方が充実してゐる。
そして、記録は見返してゐて楽しい。
なにを記録してゐるかは、これまた以前もかいたとほりだが、その日使つたかばんやインキを補充した萬年筆、つれて行つてもらつた居酒屋の名前、読んだ本の題名にヒカリエに行つた日、見た芝居や映画、行つた展覧会、仕事関連の交通費、山の見えた日……かうして書き出してみるとてんこもりだな。
もちろん、予定も書き込んである。芝居を見に行く日の管理は重要だ。休日はダブルブッキングが発生しやすいので気をつけねばならない。
その日までにしなければいけないことやしたかどうかも書いてある。

さらにはお気に入りのかばんを買つたときの領収証が買つた日の週のページにはさんであつたり、今年はじめて飯田市川本喜八郎人形美術館に行つたときの入館券(関羽と孔明と一枚づつ)もはさんであつたりする。

Chaos。
まさにその一言に尽きる。

ここからはスケジュール帳を使ひこなしてゐる人によくあるやうな「well-organised」な印象を得ることはまづ無理だ。
そして、やつがれほど「poorly-organised」な人間をほかに知らない。

やはりなあ、手帳の使ひ方ひとつとつても人間性がにぢみでるんだよなあ。
しみじみ。

SCHOTT'Sについてふり返つたときに書いたやうに、来年もこの手帳を使ひたいと思つてゐる。
薄いから持ち運びやすいし、読んで楽しい手帳だからだ。
来年はまちつと中身の書き方に工夫をして読みやすくしたいと思つてはゐるのだが……まあどうなることだか、な。

poorly-organisedな人間としては、もうこれ以上の手帳は不要のはずである。
三年手帳は来年三年目を迎へるので、日記帳も不要だ。
そのはずなのだが。

poorly-organisedな人間はpoorlyなりに、well-organisedにあこがれる。
そんなものである。

たとへば、週末になるたびに「ビーズと戯れたい」と思ふけれど、ビーズと戯れるには、なにを作るかやなにを使ふかを考へなければならない。
それを考へ出すと、それだけで週末が終はつてしまふ。
かくしてビーズとは出会へず仕舞になることいくたびか。
ちやんと「これを作らう」とか「このビーズやこの糸を使はう」とか、「あみものにするかタティングレースにするか」とか、さういふところからきちんと考へていかないと、ビーズと戯れることはできない。

そこらへんを、なー、organiseしたいんだよなあ。できれば。

などと書きつつもやつがれは、自分の趣味について予定をたててそのとほり実行する、と考へただけで overwhelmed になりがちだつたりもする。
好きなことくらゐ、好きなやうにやらうよ。
さう思ふからだ。
それに、あみものなどは予定どほりに進むとは限らないしね。うつかり何十段も前の間違ひに気がついてそこまでほどいて編みなほす、なんてなことも発生するし、糸が絡んでほどくのに時間がかかることもある。
さうして達成できなかつたときのショックは如何ばかりか。
さう考へてしまふのである。

でもまあ、とりあへず試してみるといふのはどうかな。
最近さう思ふやうになつた。
とりあへず、週末やることを決めてみる。そしてできるかぎりそのとほりやつてみる。
未来のことなんかわからないんだから、予定どほりに進まなくても、それは当然。そんなことで四の五の云ふのは頭のどうかしてゐる会社人だけだ。
さう思ふことにしてはどうか。
そんなことを考へてゐる。

といふわけで、手帳もそれなりにwell-organisedに貢献できるやうなものを、と思ふわけだが。

以前から何度か買ひはして、結局うまく使へてゐないほぼ日手帳カズンが気になつてゐるんだよなあ。
ほぼ日手帳カズンは、好きなのである。
好きだから、手帳として使はなくなつても、なにかしら書き込んだりして使つてはゐる。
それでいいと思ふのだけれども、一度は毎日一ページ、使ふてみたいよなあ、と思ふてゐる。
それに、なんだか予定をたてるのにもよささうぢやん、ほぼ日手帳カズンつて。
カレンダー状になつたページとヴァーティカルな一週間のページ、それに一日一ページがあれば、大抵のことはなんとかなりさうな気がする。
まあ、はみでた分はその他いろいろノートに書けばいい話だし。

その一方で、ジブン手帳もちよつと気になつてはゐるんだよなあ。
ほぼ日手帳カズンは、なにを云ふてもデカくて重い。
ジブン手帳は、必要ないときはスケジュール帳部分だけでいい、のらしい。
どちらも出そろつた時点で見比べてみる、かなあ。

あ、ほぼ日手帳カズンについては以前も書いてゐるやうに、専用カヴァにお気に入りがあるんだよね。それを使ひたい、といふのもある。

悩むなあ。

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Tuesday, 29 July 2014

ひとつ作るたびに記録更新

The Twirlyをつなぐプロジェクトは、日々未知の領域を突き進んでゐる。

と書くとなんだか壮大だが、えうはこれまでつないだことのない数のモチーフをつなぎつづけてゐる、といふことだ。
ひとつモチーフが増えれば、新記録達成だ。

といつて、まあ、以前に70枚以上のモチーフをつないだマフラーなんかも作つてはゐるのだが、そこはそれ、である。
The Twirlyといふモチーフをつなげた数といふことでいへば新記録、とでもいはうか。

モチーフつなぎが苦手なことは何度か書いてゐるし、The Twirlyは例外的に大丈夫、といふ話も書いた。
The Twirlyに飽きないのは、適度にシャトルの二つ使ひで、適度にスプリットリングなんかも出てくるところ、だと思つてゐる。

以前70枚以上のモチーフをつないだマフラーを作つたことがあるが、これはシャトル一つ使ひのモチーフだつた。
真ん中に12個のピコを持つリングを作るのだが、めんどくさいからピコは11個にしてモックピコで次の段にあがり、そこでスプリットリングを作る、といふやうなことはしてゐたけれど、そこらへんの作業はいはゆるフィンガータティングでやつてゐた。
すなはち、シャトルは一つだけで、次の段の最初のリングはシャトルと糸端とを使つてスプリットリングにしたのである。
しかもパピーのNew 2Plyといふ極細毛糸を使つてゐたので、糸始末がとても楽だつた。毛糸だから、糸からもけもけと出てゐる毛同士がからまつて、ほどけにくくなるからだ。
そんなわけで、糸端は針でちよつとくぐらせて、それでおしまひ。
モチーフの数は多かつたけれど、シャトルだけで作れるし、かんたんなものだつた。

ああ、なんかかう打つてゐたら、また極細毛糸でタティングレースをしたくなつてきてしまつたなあ。

極細毛糸でタティングするよさといふのは、まあ、すでに書いたとほりではある。
糸始末が楽。これは重要。
あとは毛糸が好きならできあがつたものの「もけもけ」とした感触を楽しむことができる、といふこともある。
また、綿の糸ほどきつちり糸を引くことはないので、スティッチがふんはりふつくらするところも好きだ。極細毛糸はきつちり糸を引かうとすると切れるからね。

きつちりと糸を引けないので、リングの大きさは不揃ひになりがちだが、そこはまあ、「味」といふことでひとつ。

ああ、ふつくらとしたスティッチといへば、ニードルタティングもさうなんだよね。
最近やつてないなあ。
仕上がりに関してはシャトルタティングの方が好きなのだが、ニードルタティングはタティングしてゐるときの手の動きが好きなんだよなあ。
ニードルタティングで極細毛糸を使つてみるといふのもありかな。

そのまへに、目の前のThe Twirlyをせつせと作れ、と思はないでもないが。

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Monday, 28 July 2014

編んだものとか編んでるものとか編みたいものとか

Crochet Scarf

「風工房のシンプル夏ニット、こもの」に掲載されてゐる玉編み模様のスカーフを使つてゐる。

結構長くなつてしまつたので、首にぐるりと一巻きしたりする。暑くなれば一重に巻く。
いいんぢやないかな。

おなじ本からアクセントカラーのストールを編んでゐる。
こちらは一日に十段くらゐしか編めない。
裏にも減らし目があるといふのがきいてゐるやうだ。
しかもこの週末はまつたく編めなかつた。
いつになつたらできあがるんだらうか。
本のとほりに編めば401段ださうだから、30日後くらゐか。
実際に使ふにはそれくらゐがいいころかもしれんな。それともまだ暑すぎるだらうか。なにしろ冷夏の予報が一転猛暑に変はつたからなあ。

アクセントカラーのストールは、ハマナカのフラックスCを棒針で編んでゐる、とは先週書いた。
フラックスCのCはどうやら「Crochet」のCのやうである。でも糸はS撚りなんだよね。不思議。

いづれにしても、さういふわけで棒針編みにはむかない、といふことはないやうだ。
麻の糸はなんとなく編みづらいといふ印象を持つてゐたけれど、フラックスCは編みやすい糸だと思ふ。去年編んだフラックスSも悪くない。
悪くないんだから、もつとさくさく編めてもいいはずなんだがなあ。
世の中なにかとままならぬ。

編みながら、秋冬のあみものの本などを見たりもする。
涼しくなつたらこれを編まうか知らん。
それともこつちがいいか知らん。
そんなことを考へてゐる。
去年の秋冬はあみものの新刊は一冊も買はなかつた。
なので手元にあるのは新しくても一昨年の本なのだけれども、本を買つたときに「編みたい」と思つて編めてゐないものがいくつもある。
「編みやすくて心地いいニットのふだん着」からはまちつといろいろ編みたいなあ。この本からは、一番最初に載つてゐるヴェストと三角ショールとを編んだのだが、どちらもいい感じだ。
表紙のボーダーのカーディガンなんかもいいんだよね。あと不思議な形のセーターにも挑戦してみたい感じ。

ほかに、「毛糸だま」に出てゐたラトヴィアンミトンも編んでみたいと思ふてゐる。これはまあ、涼しくなる前にも編み始められるか。

そんな感じで、編みたい気持ちばかりはもりあがるのだが、なかなか手は進まない。
夏だからなあ。

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Friday, 25 July 2014

わかりやすい文章を求めて

ここのところ、どうやつたらわかりやすい文章を書けるのかについて、考へてゐる。

結論は出てゐない。
そして、やつがれは「わかりやすいものなんて、おもしろくないぢやん」と思つてゐる。

しかし、世の人はなにかといふと「わかりやすい」ものを求めてゐる。
仕事をしてゐると、30秒で云ひたいことを相手に伝へろ、なんてなことをいふ人もあるほどだ。これを「エレヴェータトーク」などといつたりする。会社で社長や部長とエレヴェータに乗り合はせたとき、一緒にゐる短い時間の中で相手に自分の話を理解してもらへるやうに話す、みたやうな話だ。
世の中、せはしないことこのうへない。
さういふ話を聞くと、どうも反発したくなつてしまふんだよねえ。

だが、それとこれとは話が別だ。
どうやつたらわかりやすい文章が書けるのだらう。
もつと云ふと、人はなぜわけのわからない文章を書くのだらう。

さう、なぜ世の中にはわけのわからない文章が多いのだらう。
「てにをは」が間違つてゐることくらゐは、まあ、ちよつとなほせばいい問題かな、といふ気がする。
或は、もしかすると方言なのかもしれない、と思ふこともある。そんなことばの使ひ方はないよ、と思つてゐたら、その人の土地の方言だつた、といふことはままあることだ。
これもまあ、仕方がない。

困るのは、どこからどう突つ込んでいいのかわからない文章や、日本語としてはをかしいところはないのにわからない文章だ。
なほしやうがわからない。
しかもさういふ文章を上司が書いてメールで送つてきた日にやあつてな話である。
や、実際あつたんだよね、さういふことが。
何が書いてあるのか、何を云ひたいのかまつたくわからないメールを書く上司だつたんだよね。
過去形で幸ひである。

まあ、やつがれがここに書いてゐる文章もさういふ文章だと思はれてゐるのだらうけれどもな。

もとい。

わかりやすい文章やよい文章を書くには、本を読むことだ、とはよく云はれることである。
本は選ばないといけないと思ふがね。
たとへば翻訳書ばかり読んでゐたら翻訳調の文章を書くやうになつてしまふかもしれない。いまはだいぶましになつた……といひたいところだが、とんでもない翻訳といふのはまだまだたくさん存在する。「だつたらヲレに訳させろ!」とはよく思ふことである。

明治以降昭和初期までの日本文学を読むといい、といつたのは水村美苗だ。
しかし、それもどうなんだらうか。
いい文章ではあるだらう。だが、自分の書くときの参考になるかといふと、とくにビジネスの場で参考になるかといふと、チト首を傾げてしまふ。

「わかりやすい文章を書くには、本を読むことだ」といふのは、即効性のある対処法ではないといふことだらう。
もつといふと、ある程度の年を取つてから読みはじめて、はたして役に立つのだらうか、といふ疑問はある。

と、くさしておいてなんだが、いままで出会つた中で本をよく読む人でわけのわからない文章を書くといふ人はまづゐない。
つまり、「本を読むこと」には効果があるといふことだ。
問題は、みな、幼少時からたくさん本を読んでゐる、といふことである。
おとなになつて必要にかられて本を読み始めて、さてそれがわかりやすい文章を書く助けになるのかどうか、それは定かではない。

ほかには、「自分の云ひたいことをまづ考へてから書く」といふのがある。
そんなの当然ぢやん、と思ふが、仕事上で読む文章は、まづ「あんた何が云ひたいの?」と問ひつめたくなるやうな文章ばかりである。
仕事でいやいや書くからか?
それとも仕事で時間に追はれて書くからか?
おそらく両方だらう。
時間のないときほど基本に立ち返るべきなのだが。
さう書きながらやつがれも、そんなことはすつかり忘れてしまふことの方が多い。といふか、忘れてばかりである。

自分の云ひたいことを、「誰に伝へるか」を考へるのも大事だといふ。
社内で目にする文章は、そこのところがすつぽりと抜け落ちてゐるものが多い。
きみはこれを誰に向かつて書いたつもりなんだね。
さう訊きたいやうな、そして、訊いたところで「さあ……」といふ返事が来るだけだらうといふやうな、そんな気持ちでいつぱいだ。
書けと云はれたから、とか、仕事で書かねばならぬから、といふやうな理由で書いてゐると、ここのところがおろそかになつてしまふのであらう。
経験があるからよくわかる。

さうか、やつがれが目にする「わけのわからない文章」の大半は、職場で目にするものである。
つまり、「仕事といふことで書きたくもないのに書かされてゐる」といふのがいけないのだらうか。
もしかして、「どうしても書きたい!」といふ強い思ひのもとに文章を書いたら、それまでわけのわからないメールを出してゐた人でも、意味のよく通じる文章を書いたりするのだらうか。

…………自分で書いてゐて、それはないなあ、といふ気もする。

とにかく、この「どうしたらわかりやすい文章を書けるやうになるのか」といふことと「なぜ人はわかりにくい文章を書くのか」といふことについては、ちよつと考へていきたい。

まあ、いいんですよ、わかりにくくてもね。
おもしろけりやね。
問題はおもしろくもない、といふことなのである。

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Thursday, 24 July 2014

情報カードを使ふ

先日、5×3カードを使ふやうになつた、といふ話を書いた。
日々、なんとなく使つてゐる。

Index Cards

学校に通つてゐた時分には、いろいろな5×3カードを使つてゐた。
LIFEの罫線のあるクリーム色のカードをメインに、色付きのカードや薄手のカード、あと読書ノート代はりに図書カードを使用してゐた。
クリーム色のカードはいまも使つてゐるし、色付きのカードもまだあるやうだけれど、薄手のカードと図書カードはどうなんだらう。
大きい文房具店に行けばまだあるのかな。

さう思つて、Webで検索してみたら、なんだ、いろんな種類があるぢやあないか。
図書カードもちやんとある。
さうだよなあ。図書カードなんて一度使ひはじめたら、延々と使ふものだものね。
やつがれはLIFEのカードを愛用してゐた。
コレクトは、当時行きつけの文房具屋になかつた。
たまに別の店に行つてあると買つてゐたけれど、図書カードはフォーマットや見てくれが一定でないと、ね。

はじめての5×3カードはMeadだつた。
それも、それしか手に入らなかつたからだ。
Meadのカードに覚えたての参考文献や引用文の書き方にしたがつて書いてゐた。
もうちよつと先に行ければ論文の書き方に進めたのだらうけれど、残念ながらそこまでは行けなかつた。
そこまでは行けなかつたけれども、論文めいたものを書くときには役に立つた。

学校に通つてゐた時分、すなはち人生で一番情報カードを使つてゐたころは、京大カードも使つてゐた。
横長に綴じられるやう二穴のカードを使つてゐた。
専用のバインダに綴じて持ち歩いてゐた。
かさばるので使はなくなつた、とは、以前書いたとほりである。

現在、どのやうに情報カードを使つてゐるのか。
うーん、ここで「かう」と書くほど、決まりがあるわけではない。
なにしろ最近また使ひはじめたばかりだからね。
基本的には、なにごともひとつのノートに書くのがいい、と思つてゐる。
あとで探すのが楽だからである。

さういひながら、三年手帳を使ひ、クイール・ノートやMoleskineなどのノートを使ひ、スケジュール帳にはSmythsonのSCHOTT'S MISCELLANY DIARYを使ひ、そのほかEvernoteも使つてゐる。

さうしやうと決めてさうなつたわけではない。
いつのまにかさうなつてゐたのだ。
すなはち、いまの状態がやつがれには向いてゐる。
さういふことなのだと思ふ。

とはいへ、おほよそのことはその時々で使つてゐるノートに集約されてはゐるのかな。
ノートといふのは、使ひ終はると持ち歩かなくなるものである。
さうすると、出先で「あれ、これ、前も書いたのに」と思つても、すぐには確認できない。
また、「あのときなんて書いたんだつたかなあ」といふことも、帰宅するまではわからず仕舞である。

薄くてかさばらないノートを用ゐることにして、二三冊前のノートは持ち歩くことにしてもいいかな。
そんなことを考へたこともある。
SmythsonのPanamaならできさうだ。Moleskineだとチトかさばる。クイール・ノートやGMUNDのノートだとさらにかさばるだらう。

いま手元にある使用済みのカードは、いづれも今日書いたものだ。
7枚ある。
内訳は、本やWebサイトからの引用文と、自分の中で答への見つからない問ひ、それとその問ひについて思ひついたこと、だ。
すなはち、なにかの折には見返したい内容、といふことだ。

答への見つからない問ひなんてまさにさうだと思ふ。
それについて連想したこともさうだらう。
カードに書いて折にふれて並べ返してみたい。
そんな気がする。

これまではさうしたこともすべてノート書いてゐて、そして、ノートが使用済みになると同時にほぼ忘れ去られてゐたんだな。
たまにノートを見返すと思ひ出すくらゐで。
でもそのころにはもうそんな問ひに対する気持ちは冷めてゐたりした。
そこのところをカードでうまく拾へるといいなあ、と、思つてゐる。

あと、もうひとつ考へてゐるのが、情報カードで句帳である。
現在やつがれの句帳は、SCHOTT'S MICELLANY DIARY 2010だ。これの一日の欄に一句、もしくは季語だけつければ一句になるやうなことばを書き付けてゐる。
これはこれで薄くてそれなりにたくさん書けてとてもいい。
でも、カードにしたらどうだらう。
カードに一句、もしくは季語だけつけたら一句になるやうなことばを書いておいて、ぱらぱらと眺めるやうにしたら、いいんぢやないかなあ。
出先でジョッターを取り出しておもむろに句を書き付けたりしたら、ちよつと矢立てに句を書き付ける人のやうな感じぢやああるまいか。

形から入るのはどうよ、とは思へども、ちよつとやつてみやうと思つてゐる。

ちなみにやつがれの俳号は、子貝といふ。

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Wednesday, 23 July 2014

いづくんぞ訓読せざらんや

思考訓練の場としての漢文解析」を読んだ。
読んだら漢文を漢文として理解できるやうになるかなあと思つて読み始めた。

「思考訓練の場としての」には英文解釈や現代国語、化学があるのらしいが、まつたく知らなかつた。
漢文解析ではじめて知つた。
受験とか、とくに大学受験とか、縁がなくなつて久しいからな。

「漢文が読みたくなつたら、学習参考書を探せ」とは、以前から書いてゐることである。
白文とまではいかなくても、句読点や返り点や一二点のついた漢文ならば、学習参考書売場に行けば見つかることがある。しかも手頃な価格で手に入る。
いふことなし。

さう思つてはゐるけれど、それで漢文の学習を、ましてや受験対策の勉強をしやうなどとは、つゆ思つたことはなかつた。
当然、この本も受験対策に読み始めたわけではない。
漢文を外国語として読むことができたらな、とチト思つて手にとつてみた。

「思考訓練の場としての漢文解析」を読んでまづ思つたことは、「これ、今の受験生はほんとに読むのかなあ」といふことだ。
A5サイズ上下二段組の三百ページほどの本である。
「国公立理系」や「東大医学部」を目指すやうな優秀な人は、読むのかなあ。
これを読んで漢文問題を解くことができるやうになれば、たいしたことぢやないか。
それはさうかもしれない。

読み進むうちに思つたことは、「これ、英文法のわからない人には理解できないよね」だつた。
この本では、漢文の文法を英語の五文型で説明してゐる。関係代名詞や名詞句、副詞句なんてのも出てくる。漢文を学ぶうへでは滅多にお目にかからないやうなことばばかりだ。
英文法も、「国公立理系」や「東大医学部」を目指すやうな人ならば、完璧に近いくらゐ理解してゐるもの、といふことなのだらう。
残念ながらやつがれの英文法はかなりさびついてゐて思ひ出し思ひ返しながら読むことと相成つた。

この本は「手引き」だ。
この本を読んだからといつて即漢文がわかるやうにはならない。
まづこの本を読んで、それから実践にあたる必要がある。
受験生にそんな時間つてあるのだらうか。
高校三年生を「受験生」ととらへるからいけないのか。
高校二年生、いや、高校一年生くらゐから大学受験対策をしてゐるものといふ想定なのかな。

語学に近道はない、とはよく云はれることである。
ないけれど、従来の方法では漢文を理解できない、或は理解し難かつたといふ人向けにはいいのかなあ。

と、なんとなく歯切れが悪いのは、「だつてやつぱり訓読できないとダメでせう?」といふ思ひがあるのと、もつと云へば「だつてやつぱり訓読文が好きなんだもん」といふのがある。

訓読文が好き、といふ話は以前もした。
「漢詩紀行」には中村吉右衛門による日本語の朗読と中国人による中国語の朗読とがある。
これまた以前書いたことだが、高校生のときにひよんなことから教師が李白の漢詩を中国語で朗読してくれたことがあつた。
これがなんともうつくしい音の詩で、そのときは、漢詩を中国語で読むことができたらなあ、と思つたものだつた。
自分で読むことができなくても、せめて人の朗読したものを聞きたい。

さういふ思ひもあつて「漢詩紀行」のDVDを入手した。
そのはずだつた。

そのはずだつたが、吉右衛門の朗読ばかりを聞いてゐる、といふ話をここにも書いた。
中国語の朗読が悪いわけではない。
いや、まあ、強いて云へば、悲しい詩もつらい詩も、すべてなんとなく楽しげなやうすで読まれるのがチト苦手、といへば苦手かもしれない。

しかし、吉右衛門の朗読ばかりを聞いてしまふのは、ひとつには播磨屋の朗読がすばらしいといふこともあるけれど、「つまるところ、自分は漢文を訓読した文が好きでたまらないのだ」といふ、それに尽きる。

訓読文が好きなのは、柴錬とか中島敦の影響だらうなあ。

そして、本邦の古典の多くはこの訓読文の流れを汲んでゐる。
もちろん、やまとことばで連綿と書かれた作品もあるし、古文の授業はさうした作品をおもに取り上げてゐるやうには思ふ。
でも、それを書いた人は漢文を訓読したものに慣れ親しんでゐただらうし、授業でとりあげられない多くの作品は、訓読文やそこから派生したやうな文章で書かれてゐる。

こんなかな遣ひをする理由について、「過去と断絶されるのがイヤだつたから」と書いたことがある。
訓読文を捨てるといふこともまた、過去と断絶されることだ。
やつがれにとつてはさうなのである。

まあ、かういふかな遣ひをしたり、訓読文を読んだりするからといつて、過去と親しいわけでもないんだけどね。残念なことだけれども。

とはいへ、漢文を漢文として、すなはち、外国語として読むことができたらなあ、とも思ふんだよね、冒頭にも書いたやうに。
それではといふので、この本を読んだ後、手持ちの本のうち句読点だけが打たれてゐる漢文の本など読んでみたが……
長年の習慣といふのは恐ろしいね。
覚えたとほりに読まうとしても、なんとなく「アニハカランヤ」とか「マサニ……セントス」とか「イマダ……ズ」とか読んぢやうんだよねー。

さうか、英語を訓読文にしてみるといふのはどうだらう。
そんなことは幕末や明治初期の人々がすでにやつてゐることだとは思ふが、なんとなく楽しさう。

……役に立たないからか。

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Tuesday, 22 July 2014

根気無用

The Twirlyといふモチーフをつなぎつづけて幾星霜(大げさ)。
なんとか三つめのモチーフがつながつた。

The Twirly

何度も書いてゐるやうに、これはThe Twirlyといふ六角形のモチーフを七つつないで大きな六角形を作り、それを横にといふか縦にといふか、とにかく一列に三つならべたものである。

前回、The Twirlyの作り方を間違へてチェイン部分のくり返しを忘れてゐたことがあつた。
気づかぬままに作りつづけて到達したのが21枚つなぎであつた。
つまり、やつと間違へに気づく前とおなじラインに並んだ、といふことである。
写真からもわかるかとは思ふが、すでに22枚目を作りはじめてゐる。

糸はLizbeth #40のPeriwinkleを使つてゐる。
Lizbethは、一等最初に販売された#20が一番使ひやすいやうに思つてゐる。
でも#40もいい糸だと思ふ。タティングレースをしてゐるときなど、リングの芯糸を引つ張るときも引き心地なめらかだしね。

この先、まだまだつなぐ予定である。
いつできあがるかわからないけれどもね。

Webの相談サイトなどを見ると、「タティングレースでウェアものなどを作るには、相当な根気がゐる」と書かれてゐる。
さうかなあ。
ウェアものではないけれど、以前極細毛糸でタティングレースのスカーフを作つたことがある。
十二角形といふかほとんど円のやうなモチーフを77枚くらゐつないだのだつたか。最初は100枚つなぐ予定だつたけれども、ちやうどよい長さになつたところでやめた。

それを作るのに根気が必要だつたか?
うーん、どうだらう。

ここでも何度か書いてゐるが、やつがれには何が足りないつてとにかく根気が足りない。
以前は「自分に足りないのは集中力だらう」と思つてゐたが、どうやら足りないのは集中力ではなくて根気の方だつたのらしい。
なるほど、それなら合点のいくことがたくさんある。

したがつて、タティングレースのスカーフを作つたときも、根気は必要なかつたやうに思ふ。
作つてゐるうちにできた。
そんな感じだ。

このThe Twirlyをつないでゐるものもおなじやうな感じである。
つないでゐるあひだにここまで大きくなつた。
といつて、まだ21枚しかつなげてはゐないがね。

もちろん、大きなものを作るのにはなにごとも根気が必要なのだとは思ふ。
とくにレース作品のやうに繊細なものは作つてゐる最中も気遣ひが必要で、それはそれは根気のゐるものだ。

しかし、それで「根気が必要だ」とか「要は根気だ」とか思つてゐたら、完成しないんぢやないかなあ。
すくなくともやつがれの場合はさうだ。
あみものでいふとセーターとか大判のショールとか、タティングレースでいふとさつきも書いたスカーフとか、「作つてゐるうちにいつのまにかできてゐた」といふ感じなのである。

さうでないと、大きなものは作れないんぢやないかなあ。
それとも世の中の人は「根気だ根気だ」と思つて大作を作つてゐるのか知らん。
それはつらいことではないか知らん。

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Monday, 21 July 2014

ストールを編んでゐる

風工房のシンプル夏ニット、こもの」から、T.アクセントカラーのストールを編みはじめた。

T.アクセントカラーのストール in Progress

糸は指定糸のハマナカのフラックスC。色は本では赤だけれども、マスタードイエローにしてみた。
黄色い糸といふのはあまり使はないし、普段あまり身につけない。この糸の色はなかなかいいと思つてゐる。ちよつと金色のイメージもあつてよい。
「アクセントカラー」といふ意味でいふと、紛ふことなくアクセントカラーになる色だしな。

針も指定の5号。めづらしく二本棒針で編んでゐる。群ようこの「毛糸に恋した」に出会つて以来、なんでもかんでも輪針で編むやうになつて幾星霜。
輪針の方が肩が凝らないし、輪編みにも使へるし、うつかり手を離しても針を取り落としたりしないし、いいこと尽くめなのだが、輪針で平編みをするとただ一点、「あみものをしてゐる」といふ気分はすこし欠けるやうな気はする。
今回も、一段編み終はつたところでうつかり針を取り落としたりしつつ、編み進めてゐる。

ハマナカ フラックスCは「かぎ針用」と銘打つて売つてゐる店もあるやうだ。
確かにラベルの参考使用針にはかぎ針のサイズしか書かれてゐないし、ゲージもかぎ針編みのときのことしか書かれてゐない。糸の撚りを見るとS撚りのやうなんだがなあ。編んでゐるあひだに撚りが甘くなつてもいいとふことなんだらうか。ま、いいか。
そんなわけで、棒針編みでも特に支障なく使へてゐる。

編みはじめたのは先週のことだ。
編みはじめて、しまつたと思つた。
なんと、裏を編むときにも減らし目があるのである。
それも、模様の向きによつて右上二目一度と左上二目一度とがある。
裏メリヤス編みで、である。
めんどくさい。

と、当初はそんなことを思ふてゐたのだが、編みはじめてみると、悪くない。
確かになかなか編み進まなかつたりはするけれど、これはこれでいいんぢやないかな。
まあ、この夏中に仕上がらないかもしれないけれど。

でも、ストールの出番は夏以降といふ気もするしな。

先日玉編み模様のスカーフを仕上げたのですこし気分がもちなほしたのか、なんとなく日々ちよこちよこ編んではゐる。
裏にも減らし目とかあつて、なかなか進まないけど、まあ、編みつづけてゐるといふことはいいことだ。
多分な。

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Friday, 18 July 2014

そんなことしてゐるんだつたら早く寝ろ

この忙しいのに、NHKラジオ語学講座の録音は、日々消化してゐる。
忙しいからただひたすら消化してゐるだけなのだが、我ながらなにやつてんだよ、と思ふ。

以前は、忙しくなつてくると聞かなくなつてしまつてゐた。
何年か前に、仕事があまりなくなつて、それでいつもおなじやうな時間に帰つてこられるやうになつて、それで何年かぶりに一年間とほして聞くことができた。
それ以来、なんとか毎日、たまに土日にかかることもあるけれど、といつた感じで聞きつづけてゐる。

聞きつづけてなにかいいことがあるか、といふと、これがない。
語学が身に付いてゐるといふ実感はまるでない。
NHKラジオ語学講座に申し訳ない思ひでいつぱいである。
きつと、聞き続けることで身に付けてゐる人もたくさんゐるのだらう。
まあ、なんとなく、通年、英語以外の語学の場合は半年、聞き続けることができなくて挫折してゐる人の方が多いんぢやあるまいか、といふ気もしないではないが。

なぜ聞きつづけてゐるのか。
ひとつには、「聞かずにゐられるか」といふ思ひがある。
仕事が忙しいからといつて、聞くのをやめるのは、負けることだ。
さういふ思ひがある。

負けたつていいぢやないのさ、とも思はないでもないし、実際さうやつて聞かない日もある。
でも土日でcatch upしてるんだよなあ。
ふしぎ。

もうひとつの理由としては、「何かしらためになることをしたい」と思ふ気持ちがどこかにあるからだらうな。
これだけさんざん「役にたたないことが好き」「無用の用」とかいふてゐるのに、心のどこかではやつぱり「無駄なことはしたくない」と思つてゐるのだ。
多分。

心のどこかではさう思つてゐて、しかし、やはり役に立たないことが好きなのは変はらない。
だから身に付かないし、身に付いたとしてもやつがれ風情では役に立てることができない。
なぜならやつがれは成毛眞のいふところの「日本人の9割」だからだ。
或は水村美苗のいふところの「エリートではないその他もろもろの人」といつてもいい。

成毛眞も水村美苗も、日本人のうち英語ができるやうになるのはほんの一握り(成毛眞説では1割)のエリートでいい、といふ。
多分、さうなのだらうと思ふ。
なぜなら、日本にゐるかぎり、英語が必要な状況に陥ることはまづないからだ。
仕事でも必要ないしね。エリートぢやないから。といふか、仕事ができないから。
だいたいやつがれの勤める会社はグローバル企業を標榜してゐるはずなのに、海外から客を招いて講演会などを開くときは必ず通訳がつく。
それつてさ、社員は英語ができないつてことでせう? もつといふと、社員は英語ができなくてもいい、と思つてゐるといふことだ。

さう思はれてゐると思ふと、なんとなく「ぢやあできるやうになつてやる」と思つてしまつたりするわけだが。
でもまあ、できるやうになつても役に立たないのは、上に書いたとほりである。

実を云ふと、やはり心の中のどこかでは、ゲーテの

Wer fremde Sprache nicht kennt, weiß nichts von seiner eigenen.
といふことばがひつかかつてゐる、といふのはあると思ふ。
これつて、案外真理なんぢやないかな。
よその国は知らず、本邦では昔から漢籍に親しんでゐる人の方がきちんとした文章を書けたんぢやあるまいか。
欧米ならラテン語か。

つまり、母国語をなんとかしたいと思ふから外国語を学んでゐる、と。

………………いや、自分で書いてゐてそれはウソだな、と思ふなあ。

ここのところ国語の文法のことを考へてゐて、結局説明するには英語の文法を持つてこないとどうにもならないことがあつたりしてはゐる。
それで学んでゐる、といへなくもないか?

まあ、いづれにしても、相当無駄なことをしてゐることにはかはりはあるまい。

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Thursday, 17 July 2014

とりとめのないノートの話

あひかはらずアサヒ屋紙文具店のクイール・ノートを愛用してゐる。

使ひはじめたのが四月十七日。もう三ヶ月も使つてゐる。
三ヶ月も使つてゐるのには理由がある。
ひとつは、方眼罫で升目がちいさいため、書き込む文字も小さくなるからだ。
線を無視して記入すればいいのだが、なぜだかそれはむづかしい。
いきほひ字が小さくなるから、書ける量も増える。
たとへば、Moleskineの罫線ありポケットサイズの場合、だいたい一ページに400字くらゐ書く。
クイール・ノートだと、670字前後といつたところだ。すくなくとも五割は多いことになる。

ほかの理由として、Moleskineの方が気軽に書き込むことができる、といふのもある。
その訳は文具仲間が云ふてゐたことなので、ここには詳しくは書かない。

でも、なるほどなあ。
ふしぎな話だが、仕事に関するメモなども、Moleskineにであれば抵抗なく書き込むことができる。
なのに、なぜだかクイール・ノートには書く気にならない。
Smythsonのノートでもさうだな。
GMUNDなら書く気になるかも。

なぜクイール・ノートやSmythsonのノートに仕事のことを書きたくならないかといふと、それは、「もつたいないから」に尽きる。
あるいは、「そんなことで自分の愛するノートを汚したくないから」。
さうも思ふ。

最近は、クイール・ノートに5×3カードをはさんで持ち歩いてゐて、なんとなくノートに書きづらいことは、カードに書くやうにしてゐる。
高校生のときに5×3カードの使ひ方を習つた。
主に、論文用の文献の書き方やそこからの引用の書き方だ。
その後の生活に役に立つてゐるか、といふと、うーん、どうだらう。
ただ、たぶん、正しい引用文の書き方を知つてはゐるんぢやないかな。
役に立たないけど。

情報カードについては、京大カードがいいといふ話もある。
B6サイズのノートは大好きだし、一時使つてみたこともある。
どうにもあれは大きくていけない。
なかなか持ち歩けないのだ。
大きいからいろいろ書けて、それこそノートの代はりになるんだけどねえ。
持ち歩くことを考へたらやはり5×3ノートだらう。
最近は飯田に行くとキング堂で買ふことが多い。見つけやすい場所にあるからだ。

高校生のときに習つたのは、完全に自分の外の情報の書き方だつた。
上にも書いたとほり、文献の書き方とそこからの引用文の書き方のふたつを習つた。
自分の考へをカードに書いてとつておく、といふことは、そのときは考へたこともなかつた。
でも、なにを書いてもいいんだよね。
そんなわけで、最近書いたことをさらしておくと、「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」といふ曹子桓の「典論」の書き出し部分とか、「ポワレつて具体的にどんなもの?」といふメモとその答へとかだつたりする。

情報カードの話はまたの機会に。

といふわけで、クイール・ノートを使つてゐるわけだ。
ところで、長々とクイール・ノートを使つてゐる理由がもうひとつだけある。
それは、「最近なんだか何も書く気にならないから」だ。

つかれてゐる、のだらうな。
なんにも頭に浮かばない。
二月頃、「ユビキタス・キャブチュアのまねごとをはじめた」と書いたが、それもつづかなくなつた。
書きたいことがなにも浮かばないからである。

これまたふしぎなもので、でも何か書きたいのである。
何か。
文字、だな。
できれば太字や極太の萬年筆で、くろぐろと、何かを書きたい。

あるとき気がついた。
仕事で煮詰まつてくると、反故紙の裏に、覚えた詩を書いてゐることに。

最近のやつがれのことだから漢詩が多いけれど、「Annabel Lee」だとか「Richard Cory」を書いてゐることもある。それは、カリグラフィーペンを持ち歩いてゐることとも関係がある。
カリグラフィーを習つたこともないし、教則本を見たこともない。
でも、こんな感じだらうな、といふので、「It was many and many a year ago, In a kingdom by the sea」とか書いてみるのは、これはとても楽しいことだ。

そして、驚くなかれ、カリグラフィーペンで漢詩を書くのも、思ひのほか楽しい。もちろん縦書きだ。あ、でも横書きもいいかもな。今度試してみん。

さうやつて、自分のことばではない、他人のことばを書いてゐると、なんとなく頭の中がすつきりしてくる。
考へなくていいからだ。
考へることなく、思ひ浮かんだことばを、それも時を経てきたすばらしいことばを、次々に書き散らす。

いい。
これはいい。
かんたんながら大変な気分転換になる。

そんなわけで、最近は疲れてくると、反故紙に詩を書いてゐる。
別に詩でなくたつて、たとへば覚えてゐるといへば「二都物語」の出だしと終はりとか、「論語」の一部とかだつていいぢやあないかと思ふけれど、なぜだか詩の方がいいんだな。
詩心なんてまるでないけどね。
或は詩心がまるでないからいいのかもしれない。

最近は、家でもカリグラフィーペンを出してきてノートに詩を書き散らしたりしてゐる。
そんなに疲れてゐるのか。
疲れてゐるんだらうな。

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Wednesday, 16 July 2014

フィギュアとドール

この春から「人形活劇 新・三銃士(以下、「人形劇三銃士」)を再放送してゐる。
我が家の録画機は勝手に「人形劇三銃士」を録画してゐる。
おそらく本放送のときに予約録画してゐたことを記憶してゐるのであらう。
本放送のときに一とほり見たし、DVDにも焼いた。その後見てはゐないけれど、それは後半、とくに最終回付近の展開が「三銃士」としてはあり得ないものだつたからだつた。
まあ、ほんとにひどかつたね、「人形劇三銃士」の後半の内容は。

そんなわけでもう見ることもないだらうと思ふてゐたのだが、録画機の録画するにまかせて見直して見ると、これが案外いいではないか。

「人形劇三銃士」の人形たちはかなり異形である。
ロシュフォールなんか、シルエットだけ見たらほとんどエヴァンゲリオンだ。
リシュリューはあからさまに蜘蛛のイメージ。

そして、どの人形も躰に比してその手が異様にでかい。

それはさうなのだけれども、見てゐるうちにそんなことは気にならなくなつてくるんだよなあ。
セットのすばらしいことはもちろん、人形たちがほんたうに喋つてみづからの意思で動いてゐるやうに見えてくる。

人形に罪はない。
たとへどんなに脚本がまづかつたとしても。

さういふことなのだと思ふ。

「人形劇三銃士」の人形たちは、木製であるやうだ。
顔にはつきりと木目が浮いてゐるから、たぶんさうなのだらう。
首は髪の毛にいたるまで木でできてゐる。
おなじ人形デザインの人による「人形劇シャーロックホームズ」は、陶器でできてゐるやうに見受けられる。とくに登場人物の髪の毛のつやつやとしたやうすは、陶器のやうな感じがする。

どちらもフィギュア的だ。
フィギュアは、髪の毛をとかしたり髪型をかへたりすることができない。
「人形劇三銃士」や「人形劇シャーロックホームズ」の人形たちとおなじである。

一方、「人形劇 三国志」の人形たちはといふと、髪の毛には糸が用ゐられてゐる。結ひなほさうと思へば結ひなほせるし、ちよつと具合が悪いとなつたらシケ(ほつれ毛)を作ることも可能だ。

こちらはドール的とでもいはうか。
リカちやん人形を思つてもらへればわかると思ふが、ドールといふものは、髪の毛をとかすことができる。うまくすれば髪の毛を結んだりすることもできる。
「人形劇 三国志」の人形たちもさうなつてゐる。

「人形劇 三国志」の人形たちも、「人形劇三銃士」と「人形劇シャーロックホームズ」の人形たちも、どちらも胴串を使用した人形である。
着せ替へる際は、首だけ抜いて別の衣装を着付けた胴体にさすやうになつてゐる。

それだけ考へるとどちらもフィギュア的だ。

しかし、髪の毛のことを考へると、一方はドール的で他方はフィギュア的である。

もうひとつ、「人形劇 三国志」の人形たちがドール的で、「人形劇三銃士」と「人形劇シャーロックホームズ」の人形たちがフィギュア的である特徴がある。
それは手だ。

「人形劇 三国志」の人形たちの手には、中にワイヤが入つてゐる。その上にシリコンをかぶせてあつて、剣や槍、楽器や扇などを持つときは、指を曲げて、つかめるやうになつてゐる。
そんなところはとてもドール的だなあと思ふ。
リカちやん人形の手ではもちろんそんなことはできないけれど、しかし、リカちやんやジェニーには手足の関節が曲がるやうになつてゐるものがある。かなり制限はあるけれど、そのままでポージングできるやうになつてゐる。

一方「人形劇三銃士」や「人形劇シャーロックホームズ」の人形たちの手は木や陶器(おそらく)でできてゐる。ゆゑに、曲げたりして形を変へることはできない。
なにかを握らせやうとしたら、さういふ形になつてゐる手につけかへる必要がある。たぶんさうしてゐるんぢやないかな。
そこらへんがフィギュア的なんだよなあ。

「人形劇 三国志」の人形たちは、もともと川本喜八郎が人形アニメーションをやつてゐたからああいふ手の構造をしてゐるのだらう。
飯田市川本喜八郎人形美術館に行つて人形アニメーションの人形を見ると、そのちいさい手の指の先まで人間の関節とおなじやうに曲げることができるやうになつてゐる。
それをそのまま人形劇の人形にも生かしたのだと思はれる。

やつがれはドールの方が好きだ。
フィギュアはほとんど持つてゐない。
理由は、ドールの方が表情豊かなやうに感じるからだ。
髪の毛をいぢることができるといふのもその理由のひとつである。
フィギュアといふのは、フィギュアを作る人が作つたまま飾るしかない。
ドールは、着せ替へたり髪型を変へたりポーズを取らせたりして、如何様にも動かすことができる。
意のままになる、といふよりは、より生きてゐるものに近い感じがする。

それぢやあ「人形劇三銃士」や「人形劇シャーロックホームズ」の人形たちが好きではないかといふと、そんなことはないんだよなあ。
「人形劇三銃士」の人形たちは飯田市川本喜八郎人形美術館にあるといふけれど、再放送もしてゐることだし、なんとか見られないものかと思ふし、「人形劇シャーロックホームズ」の人形たちとは本放送のはじまる十月になればNHKセンターの入り口あたりで会ふこともあるのではあるまいか。
そんな風に思つてゐる。

なぜさう思ふのかといふと、「人形劇三銃士」の人形たちも「人形劇シャーロックホームズ」の人形たちも生きてゐるからだらう。

やつがれがフィギュアよりドールが好きなのは、ドールの方がより生きてゐる感じがするからだ。
そして、どうやらいままでのやつがれは、フィギュアの生きてゐるさまをよく観察してこなかつたせゐでさう思ひ込んでゐるのらしい。

まあ、よくよく考へてみると、人形劇の人形といふのは動くんだよね。
だから生きてゐるやうに感じられるのかも、といふことはある。
すると、可動式のフィギュアなら、やつがれの趣味にあふのではあるまいか。

いや、だからといつて可動式フィギュアを買つたりはしませんよ。
買ひませんとも。

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Tuesday, 15 July 2014

ちよこつと進む

タティングレースは、やはりそれなりにすすんでゐる。

The TwirlyといふモチーフをつないでゐるUFO (UnFinished Object) も、四度めの挑戦で無事三つめのモチーフがつながつた。
現在、つないだ三つめのモチーフを完成させてゐる途中である。

毎回書いてはゐるが、このUFOは、The Twirlyといふ六角形のモチーフを七つつないで大きい六角形のモチーフを作り、その大きいモチーフ同士をまたつなぐ、といふものである。
とりあへず、横に三つつなげられるめどがたつたので、その先のことも考えはじめたところだ。

ところで、このUFOは、これまた何度も書いてゐるやうに、昼休みに作つてゐる。
家でも作ればいいのだが、なぜだかやつたことはない。

なぜだらう、と考へて、それは、やつがれがモチーフつなぎが苦手だからなのではないかといふ結論に達した。

モチーフつなぎが苦手なのは、まづ第一に糸端の始末がモチーフごとに発生するからである。
ちいさいモチーフほど糸端の数も多くなる。
モチーフつなぎ、いいなあ、といつも思ふのだが、完成に至らないことが多いのは、この「糸端の始末」に原因があることが多い。

また、モチーフごとに終はつた気になる、といふのも苦手な理由のひとつだ。
編むなら編む、結ぶなら結ぶで、延々とやつてゐたい。できれば糸のなくなるまで。いや、その糸さへ、できあがるまでつながつてゐたら、と思ふことさへある。
あみものなら毛糸だまの大きさ(といふか毛糸だまの糸の長さかな)、タティングレースならやはり糸の玉かシャトルに巻ける糸の長さによつて区切りができてしまふ。
それは仕方のないこととして、とにかく、なにものにも煩はされずにひたすら編んだり結んだりしたい。
でもモチーフつなぎだとさうはいかない。
モチーフをひとつ作り終へたら、そこで一旦作業は中断する。
糸を切つて、始末はあとまはしにするなりなんなりして、また一からモチーフを作りはじめねばならない。
この一連の作業が、ちよつとdestractingなんだよね。

ではなぜThe Twirlyをつなぐことはできてゐるのか。
それは、昼休み、しかも食べてあまつた時間といふ短い時間の中でやつてゐることだからではあるまいか。
もともと時間にかぎりがある。
その中でなら、たびたび作業が中断することがあつても、まあ、気にならない。
さういふことなんではないかと思つてゐる。

そんなわけで、家ではなにか糸のつづくかぎり延々結べるものを作りたいと思つてゐるのだが。
夕べ、新たな夏ものストールを編み始めてしまつたので、タティングレースはしばらく家ではやらないかな。

などといひながら、久しぶりに糸を買つてしまつたので、なにか作りたい気はあるのだが。

これは日曜日に「人形劇シャーロックホームズ」を見ながら作つてゐた栞である。

Jane's Bookmark

「人形劇シャーロックホームズ」は三月に放映したときに録画して、一度見てそのままになつてゐた。
春から「人形活劇 新・三銃士」の再放送がはじまつて、録画機が勝手に録画してゐるのでまた見なほしてゐる。
すると、これがいいんだね。
脚本はいまひとつだつたが、それつて人形に罪はないしね。
といふわけで、ぢやあシャーロックホームズも見なほしてみるか、と思つたといふわけだ。
この栞は20番くらゐで作るのが好きである。
これもLizbeth#20で作つた。
栞とか、使はないんだけどねー。

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Monday, 14 July 2014

嗚呼勘違ひ

できてゐた。
どうやらさういふことらしい。

去年編み始めたかぎ針編みのスカーフは、去年の段階でできあがつてゐたらしいことが判明した。

「風工房のシンプル夏ニット、こもの」に掲載されてゐる玉編み模様のスカーフである。

Crochet Scarf

編まうと思つた理由は三つ。
ひとつは、夏用のマフラーがほしかつたから。
ひとつは、七宝模様が好きだから。
ひとつは、ハマナカポームでマフラーを編んでみたかつたから。

最初の理由に説明はゐるまい。
おなじ本から、リネンのスカーフを去年編んだ。
スカーフといふよりは、ショーレット(ちいさいショールのことをかう呼ぶ)といふ感じなので、ちよつとかさばる。
しかもスラブ系の糸なので、ちよつとカジュアルなんだよね。まあ、このスカーフはそれがいいんだけども。
で、見るからにレースつぽいスカーフがほしいな、と思つたわけだ。
ちなみに、リネンのスカーフといふかショーレットの方も棒針編みのレース模様ではあるのだが。

ふたつめの理由は、まあ、好きだから、としか云ひやうがないな。
タティングレースでも七宝模様が好きで、藤戸禎子の本に載つてゐる替襟も前から作りたくてたまらない。替襟なんぞは作つても使ふまいなと思つて作らないだけで、実際は似たやうなものを作つたりしてゐる。

みつつめの理由は、ハマナカのポームで編んだものは肌触りがやはらかいときいてゐたので、一度スカーフのやうなものを編んでみたいと思つてゐた。洗つて使へる、とも書いてゐる人もゐたしね。
実際編んでみて、レース糸のせゐか模様のせゐか、思つたほどやはらかなくないんだけど……まあ、今後使つてゐるうちに変はつてくるかもしれないな。

これを編むのに、えらい時間がかかつてしまつた。
理由は単純で、細い糸を細い針で編むから、である。
細いといつてもエミーグランデくらゐなのかな。かぎ針もレース用の0号ではある。
しかし、この糸と針とで前の玉編みに編みつける形で次の玉編みを編む、といふのは、なかなか至難の技であつた。やつがれにとつては。

もともと、くさり編みの途中にピコを編みつけるのが苦手である。
いいなあと思ふマフラーなんぞがあつても、「あー、くさり編みの途中にピコがあるのかー」といふのであきらめることもあるほどだ。
なぜくさり編みの途中に編みつけるピコが苦手なのかといふと、どこに針を刺したらよいのかわかりづらいからである。
大抵のあみものの本には、ちやんと「ここに針をさすのですよ」とばかりにわかりやすい絵がついてくる。
それを見てもうまくできないんだよねえ。
絵のとほりにやつてゐるつもりで、できあがるピコはどうも写真のそれとちがふ。もはや「ピコ」と呼んでいいものかどうか、悩むほどである。
細編みに編みつけるピコはいいんだけどなあ。

玉編みで七宝模様を作るこのスカーフでは、細編みに玉編みを編みつけ、さらにその玉編みに次の玉編みを編みつけて、最後に細編み、といふ要領で編み進んでゆく。
細編みに編みつける方はまだしも、玉編みに玉編みを編みつけるときつて、どこに針を刺すんだ?
試行錯誤をつづけることしばし。
一番最初に編んだあたりと、一番最後に編んだあたりとでは、針を刺す位置がことなつてゐる。
まあ、スカーフを見たところで、しかとそれとはわからないとは思ふけれども。

そんなわけで、編むのに異様に時間がかかつてしまつた。
去年のうちに完成させるのをあきらめて、昨日、久しぶりに手に取つてみた。
本にはハマナカポームを三玉強使ふことになつてゐた。
去年、四玉めに入つたところで、力尽きた。
三玉編みきつたところでは、まだ長さが足りない気がしてゐたんだよね。
それで、昨日、また再開して、でも、なんだかもう十分長いやうな気がした。
本を見ると、138段だか編む、と書いてある。一段1cmだから、138cm。それくらゐがいいだらうな。うむ。
自分の編んだものを数へてみると、なんと、201段もある。長さも138cmはとつくに超えてゐる。

なんだよ、去年のうちに編み終はつてたんぢやんよ。

なんだかがつくりしてしまつた。

がつくりしてはしまつたが、糸端の始末をして、水通しをして、のばして乾かしてみた。
手触りは、上にも書いたとほり、期待してゐたほどやはらかくはならなかつた。
でもまあ、編んでゐる途中気になつてゐた模様の不揃ひな部分はあるていど解消されたから、いいかな。

夏でもわりと濃い色の服が多いので、かういふ色のこものはいいんぢやあるまいかと思つてゐる。

さて、次はやはり去年編むつもりで買つておいたハマナカのフラックスCがあるのだが……おなじ「風工房のシンプル夏ニット、こもの」から、ショールを編むつもりでゐる。
棒針編みのレース模様なのだが、今回このスカーフを作るにあたり、「かぎ針編み、楽しいなあ」と思つてしまつたんだよねえ。
久しぶりにかぎ針編みだつたからかもしれない。
201段にもなつてしまつたのは、実は「編みはじめたら楽しくてやめどきが見つからなかつたから」といふのも理由だつたりするし。
おなじ本に、フラックスCを使つたかぎ針編みの三角ショールもある。
そつちにしやうかなあ。
あ、でも、なんとなくピコが多いんだよね、この三角ショール。
糸の色は気に入つてゐるので、早く編みはじめたいのだが。さて。

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Friday, 11 July 2014

メモ魔考

やつがれはメモ魔ではない。

たぶん、一般の人よりはメモを取るが、取る人ほどは取らない。
もしかすると一般の人よりも取らないかもしれない。
ただ、取るときというか取る条件が違うだけで。

たとへば、板書されたものをノートに書き写す、といふことはあまりしない。
学校に通つてゐた時分にはしたけれど、しなくなつてからずいぶんとたつ。
本を読んでゐるときも、作者の云ひたいだらうことや、その本や章の主旨についてはあまり書き出したりしない。
書くとしたら、自分が気になつたところだ。
本題とはあまり関係なかつたりすることが多い。
まれに本題と一致することもある。
そんな感じだ。

飯田市川本喜八郎人形美術館やヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに行くときは、メモは一切取らない。
見るだけ見る。
そして、帰り着いて、覚えてゐることだけを書き記す。
このblogに書いてゐることもすべてさうだ。
だから間違ひがあることもあるし、まつたく覚えてゐないこともある。
ある人形の衣装については記憶してゐるけれども、さてその隣の人形はどうだつたか、といふと、覚えてゐないことも多い。
それは、このblogに書いてあることを見ればすぐわかることである。

では展覧会に行つたときはメモを取らないのか、といふと、さうでもない。
この前「栄西と建仁寺」展に行つたときは、展示室内の椅子に座つてそのとき思ひついたことを書きつけた。
なんとなくそんな気分だつたからである。

ヒカリエや飯田でメモを取らないのは、印象に残つたことだけを書き記したいからだ。
見るはしからメモを取つてゐたら、その量は膨大になつてしまふ。
そこから取捨選択するのはまた大変だ。
とにかく見る。見て見て見る。
さうして印象に残つたことだけを書き記す。
それでいいぢやあないか。
さう思つてゐる。

以前は、芝居を見てゐる最中にメモを取らうとしてゐたことがある。
幕の開く前からノートを開いて用意しておき、書いても音のしない筆記具を手にメモを取つてゐたこともあつた。
やめたのは、やつがれのメモを取る様を見て音をたててメモを取る輩が増えると困ると思つたからである。
こちらは音のしないやう最大限の努力をしてゐる。
それを理解せずに形だけ真似する人が増えたら、やつがれが困る。
それに、やつがれ以外にも芝居を見てゐる途中でメモを取る人がゐるのだが、例外なく書きながら音を立てるんだよね。
ボールペンを押す音をさせたり、紙をめくる音をたてたり、ボールペンが紙についたりはなれたりする時の音に無頓着だつたり、鉛筆のたてる摩擦音がうるさかつたり。
ああいふ人は、自分がメモさへとれればいいのだらう。
まはりのことなど、どうでもいいのだ。
さういふ人間と仲間だと思はれるのは心外だ。
ゆゑに、芝居を見てゐる最中にメモを取るのはやめたのだつた。
かはりに、幕間に取ることはある。

そんなわけで、やつがれはメモ魔ではない。
メモを取るのはかなり好きな方だとは思ふけれど、「はしたない」と思ふこともある。
なんでもかんでもメモを取つてゐる姿を見ると、さう思つてしまふのである。
イメージとしては、がつがつ食べるのとおなじ感じかな。
たぶん、メモを取つてゐるときのやつがれも、端からはさう見えるのだらう。
さうも思ふ。

世の中には、メモを取りまくつても、「はしたない」と感じさせない人もゐるにちがひない。
それは、見るものを不快にさせない食べ方のできる人がゐるのとおなじことだらう。
どうすればさうなれるのか。
興味があるなあ。

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Thursday, 10 July 2014

飯田市川本喜八郎人形美術館 人形アニメーション

6月6日、7日と、飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回は人形アニメーションの展示について書く。

人形アニメーションの展示はいつも似たやうなポージングになつてしまふのだらうか。
そんなことを思ふたりする。
といふのは、今回いづれも以前の展示でも見たことのある作品の登場人物が並んでゐて、そのときとあまり変はつたやうすがなかつたからだ。

「いばら姫またはねむり姫」のいばら姫は、椅子に腰掛けて刺繍をしてゐる。これは、以前の展示でもさうだつた。
以前の展示でもさうだつたけれども、その精緻なさまに魅入つてしまふ。
「刺繍をしてゐる」と書いたとほり、ほんたうに刺繍をしてゐるのである。
今回、映像も見ることがかなつて、糸をとほした針を布地にさして、刺繍してゐるさまを見ることができた。
よく見れば、針にとほした糸のあるあたりの模様は刺しかけになつてゐる。
うなる。
また針を持つ手の繊細なことといつたら。
いばら姫の周囲はぐるりと回ることができるので、360度いろんな角度から見られるのもいい。

ほかはすべて「死者の書」に登場した人形たちである。
展示室の一番隅にゐるのは持統天皇だ。
空を見上げて彼方をかつと睨みつけた姿は、衣装の色もあひまつて、炎のかたまりのやうである。
以前の展示のときも書いたやうに、見る角度によつて、坂東玉三郎によく似てゐる。細面に見える位置から見るととくに似て見える。

その隣にすこし大きめのケースがあつて、郎女と語り部の媼女とがゐる。
これも以前の展示とおなじで、郎女は機の前に座つて、織物をしてゐる最中で、媼女はその横で織り方を指導してゐる、といつたやうすである。
この機がすばらしい、といふ話もその時に書いた。
だいたい、ここまで準備するといふのがすごい。
実際に織れる機を人形サイズに作つて、映像を撮るのにふさはしい長さまで生地を織つておいた、といふ、その労力の前に気が遠くなることしきりだ。
郎女の休む部屋だらう、屏風といふか仕切の向かうに床がしつらへてあるのも以前の展示とおなじである。

展示室の出口付近のケースには、恵美押勝と大伴家持が、押勝邸で酒を酌み交はす場面を再現した展示になつてゐる。采女がそれぞれひとりづつ侍つてゐる。
これも以前の展示とおなじだが、気のせゐかな、押勝と家持の位置が逆になつてゐるやうな気がする。
なぜさう思つたかといふと、押勝の表情が以前見たものとちよつと違つて見えたからだ。
以前見たときは、ちよつといやらしげな感じの視線だなと思つたのだが、今回はそれほどでもなかつた。胸に一物ありさうなところは一緒だつたけれどもね。

「死者の書」はここのところ毎年川本喜八郎の命日に飯田市川本喜八郎人形美術館で上映されてゐる。
今年も見られるかな。
できれば大きい画面で見てみたいんだよね。

展示室の外のホワイエには、いつもどほりヤンヤンムウくん三体、三匹のこぶたのブーフーウー、ミツワ石鹸の三人娘とアサヒビールのほろにが君、「風の子ケーン」のケーンとその父母がゐる。そのときによつて変はる展示はババヤガーのババヤガーと女の子と男の子がゐる。

いつも、「風の子ケーン」はやつてゐて楽しかつたんではないかな、と思ふ。
シルクロードをやりたい、といつてゐた、といふこともあるけれども、かうしてヤンヤンムウくんなどと並んでいつも展示されてゐる、といふのは、思ひ入れがあつたんだらうといふ気がして、な。
ケーンの父シュマロを見るたびに、「馬騰と似てゐるなあ」と思ふ。
母ローランのうつくしさにも目を見張る。

といふわけで、以上が今回の展示の内容である。
このときに見たアニメーション作品については、またの機会に。

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Wednesday, 09 July 2014

今年の手帳を振り返る SCHOTT'S MISCELLANY DIARY

Untitled

今年のスケジュール帳は、SmythsonのSCHOTT'S MISCELLANY DIARY (以下、SCHOTT'S)だ。
去年の十一月最終週からはじまつてゐて、使ひつづけてゐる。

最初は、使ひつづけられないのではないかと思つてゐた。
理由はふたつある。
ひとつは、日曜始まりではないといふこと。
もうひとつは、見開き一週間であるといふこと。

これまで使つてきたスケジュール帳のうち、一年間使ひとほせたものやその後も何度か使つてきたものは、たいてい日曜始まりで、カレンダー形式のページがあり、さもなければ見開きの左側が一週間で右側がメモ欄になつてゐるものだつた。
「超」整理手帳とか、使ひつづけてみたいのだけれども、なんとなくつづかない。

世の中のスケジュール帳の多くは月曜はじまりである。
それがなぜダメなのかといふと、カレンダーを見ながら書き記すときに、書く日を間違へがちだからである。
日付でなく曜日、それも日曜から数へた曜日で書いてしまふからだ。
ほぼ日手帳を使ひつづけてきたのは、カレンダー形式のページが日曜始まりである、といふことも大きい。
まあ、今年はちよつと停滞してしまつたけれども。

欧米は、カレンダーも月曜始まりなのだらうか。
日曜日は安息日、といふことならば、さうなのだらう。
だとしたらなぜ日本は日曜始まりなのか。
ま、そこはおいておくか。

見開き一週間のスケジュール帳がつづかない理由は、我ながら不明である。
一日に書ける量が多くていいんぢやないか、と思はないでもないし。
おそらく、日付に関はらないこともいろいろ書きたいんだらうな。

といふわけで、おそるおそるSCHOTT'Sを使ひはじめてみたのが、去年の十一月ごろのことだ。
それから半年以上たつて、今でも使つてゐる。
使ひつづけられた理由も、ふたつある。
ひとつは、薄くて軽くて小さいこと。
もうひとつは、なんでも書くやうにしたこと。

薄くて軽くて小さいといふのは、大きなことである。
SCHOTTT'Sは、MOLESKINEのポケットサイズとほぼおなじ大きさで、厚さは半分くらゐだらうか。
おなじやうな用途のスケジュール帳の中では一二を争ふ薄さなのではないかと思ふ。おなじくらゐの大きさの能率手帳よりも薄い。
そして、軽い。重さをはかつておけばよかつたが、生憎といま手元にはない。
薄くて軽くて小さいので、たいていのかばんに入る。
といふか、やつがれが普段使つてゐるかばんには、問題なく入る。
ゆゑにいつでも持ち歩くし、常にそばにある。
使ひつづけるのに、支障がほぼない。

常に手元にあるので、なんでも書ける。
実際にはスペースに限りがあるので、「なんでも」書くわけにはいかない。
とりあへず、予定のほかに、その日したことやあつたことなどを書いてゐる。
たとへば、その日どんなかばんを持つてゐたかを毎日記してゐる。
読み終はつた本の題名や、つれて行つてもらつた居酒屋、萬年筆のインキを補充した日、雪の残り具合など、ぱらつと見た感じだとそんなやうなことを書いてゐる。
ヒカリエに行つた日や飯田に行つた日はもちろんだ。

かうして見ると、スケジュール帳といふよりは記録帳だ。
これまで使ひつづけてこられたスケジュール帳も、多くは記録を残す用途に便利なものだつた。

以前も書いたやうに、SCHOTT'Sは、読む手帳でもある。
Ben Schottの集めたtrivialなネタが、手帳中に埋め込まれてゐる。
それを読んでゐるだけでも楽しい。
そして、自己の記録も、見返してナンボなものである。
なるほど、SCHOTT'Sはやつがれ向きの手帳だつたのだな。

あとは、もうちよつと読みなほしやすい字で記入できればいいのだが。
それはまた別の話。

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Tuesday, 08 July 2014

二度あることは三度ある

タティングレースは、進んでゐるやうで進んでゐない。
前回、六角形のモチーフを七つつなげた大きな六角形の三つめをつながうとして、二回失敗した、と書いた。
二回ともつなぐ場所を間違へてしまつた。
三回めは、つなぐ場所には気をつけてなんとかなつてゐたのだが。
最後のピコのつなぎを失敗してしまつたのだつた。
The Twirlyといふモチーフは、ぐるりと六角形を作つて、最後のチェインを一番最初に作つた外側のピコとつなげる。
外側でつなげる場合、ちよつとした技が必要だ。
本などでは、折つて折つてつなげる、とある。
それに失敗したんだな。
うーん、ここのところこの方法で失敗したことはなかつたのに。

またもや「X-Files」のスカリーのせりふが脳裡をよぎる。
ま、それはおかう。

気を取りなほして、四回めに挑戦してゐる。
昼休みにね。

家では、ぼんやりとモチーフを作つたりしてゐる。
モチーフの方は、これといつた目的もなく作つてゐるので、なんだか今一つぱりつとしない。
「なにかしなければ」といふので作つてゐるからなほさらだ。
とくに、モチーフの途中で糸がなくなりさうになるともういけない。
別のシャトルに糸を巻いて、糸をつないで……とか考へていくと、それだけで疲れてしまふ。
まあ、それでもなんとか最後まで作つたりはするのだが。

そんなわけでひとつ作ると次にしかかるのにも時間がかかる。
これではいけない、といふので、昨日ひとつ栞を作つてみた。

Floral Bookmark


Kersti AnearのFloral Bookmarkである。
糸はLizbeth #40のFruit Fizz。神戸のドヰ手芸に行つたをりに購入した。
Floral Bookmarkは過去にいくつも作つた。
いくつも作つて、いづれも行き方知れずである。
気力のない証拠に、糸端の始末がまだできてゐない。

花びらの部分が長いチェインでできてゐる。そこに気をつけながら作つたつもりだ。
つもりだつたのだが、やはりなんだかねぢれてゐるやうなところがあるなあ。
整形すればなんとかなるか知らん。

さう、整形もまだしてゐないのだ。
だから糸端もそのままなのである。
これぢやあできたとはいへないよなあ。
まあ、できたとも思ふてはゐないけれども。

現在、一事が万事こんな調子である。
それでもタティングレースはやつてゐるだけまだましかな。

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Monday, 07 July 2014

Why Don't You Just Sleep on it Tonight?

例によつて編んではゐない。

……もう一ヶ月くらゐは碌に編んでゐないのだらうか。
そんな気もする。
タティングレースはそれなりにしてはゐるのだが。

うーむ。

去年編みかけのままはふつてあるかぎ針編みのスカーフでも編むかのう。
さう思つて即手の届くところにおいてあるのだが、去年手間取つて記憶があるせゐかなかなか手が出ない。
ハマナカポームなので、きつと肌触りはいいスカーフになるはずなんだけどなあ。

あみものblogなどを見てゐると、「これもいい」「あれもいい」と思ひもするのだが、なかなか手が出ない。
「こんな感じの毛糸は手持にないしなあ」と思ふからだ。
そして、毛糸を買はうといふ気にはならない。
いま、こんなに編めてゐないのに、毛糸を買ふ、だと?
家にはそれこそ売るほどあるといふのに?
ないわー。

以前はそれでも毛糸を買ふてゐたんだがなあ。
無駄遣ひをしないといふ意味ではいいことなんだけれどもね。

考へてみたら、芝居も今年はひとつも巡業に行つてゐないし、今後も行く予定がない。
歌舞伎座でも三階席の三等Bにしか座つてゐないなあ。
もちろん、いい席で見たいと思ふやうな芝居がない、といふのが理由ではある。
理由ではあるけれども、なんだか精神活動が滞つてゐるんぢやないか知らん。

なんてなことを書いてゐないで、寝るか。

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Friday, 04 July 2014

飯田市川本喜八郎人形美術館 -魏・呉・蜀-のうち呉

6月6日、7日と、飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回は「三国志-魏・呉・蜀」のうち、呉について書く。

その前に、呉のケースとはちよつとはなれたところに小さいケースがある、その話をしておかう。
このケースには紳々竜々がゐる。
あぐらをかいて座り込み頭を抱へる竜々を、なんとなくながめてゐる紳々、といつたやうすだ。
以前、落ち込んだやうすでうつむく紳々を見る竜々は、なぐさめてゐるやうに見えたがなあ。
そこがキャラクタのちがひだらうか。
それとも、ちやんと見たら今回の紳々もなぐさめてゐるやうにに見えたりするのかな。
それは今後の課題といふことにするか。

呉のケースは、蜀と魏のケースの隣にある。
呉のケースの印象は、
What ever happened to 諸葛瑾?
のひとことに尽きる。

だが、まあ、左端から順番にいかう。

左端の手前には、喬国老と呉国太が立つてゐる。
かうしてみると、このふたり、まるで夫婦のやうだよなあ。
躰は右側を向いてゐる。視線の先には二喬がゐる。
まるでこどもか孫を見るかのやうだ。
以前から思つてゐることだが、飯田で見る喬国老は、人形劇で見るときよりも厳しいやうすに見える。
呉国太はその逆だ。
飯田の呉国太は、いつでも上品な肝つ玉母さんのやうな面もちで立つてゐる。
表情がとてもやはらかい。人形劇のときはもつときついをばさんつて感じだつたのにな。
二喬を見守る姿も、ゆゑになんともやさしくていいのだ。

この二人の背後に立つてゐるのは魯粛である。
魯粛も二喬を見てゐる、のだらうか。
それとも周瑜になにごとかささやいてゐるといふ感じかな。
今回はそんなにおろおろとしたやうすには見えない。
飯田の魯粛の沓は派手ではない。地味な感じだ。いまヒカリエにゐる魯粛の沓は飾りがついてゐたりして派手なのにな。沓はひそかに派手つて、結構いいと思ふんだけどな、魯粛。

その隣、やや前に周瑜がゐる。
魯粛のかぶつてゐるものと似た形の冠(なのだらうか)をかぶり、裾にラーメンのどんぶり模様の入つた衣装を身につけてゐる。赤壁前、柴桑城から帰つてきたときの出で立ちだな。
周瑜は赤壁のあとの、もつと細い冠(なのだらうか)をかぶつた姿が好きなんだがなあ。あれは見られないのか知らん。
周瑜は、義姉も妻も見てはゐない。「おのれ曹操(あるいは「おのれ孔明」だらうか)」とでも云はんばかりに虚空を睨みつけてゐる。
うーん、周瑜は飯田の方がいい男、かな。
すくなくとも、飯田の方がきつい印象の顔立ちだとは思ふ。ヒカリエの周瑜はなんとなくやさしい顔立ちをしてゐる。すくなくとも人形劇の印象に比べると、ね。

このケースの中央手前には、二喬がゐる。
妹の小喬と姉の大喬がこちらを見てゐる。
小喬を見て愕然としたね。
いやー、ありていにいつて、これは、俗に云ふ「おへちや」といふアレなのではあるまいか。
なんといふか、この人欲しさに戦を起こすなんて、ちよつと考へられない。
そんな感じなのである。
なんだらう。たれ目なのがいけないのかなあ。
どうも、飯田で見る美人の人形にはつり目の持ち主が多い。単にやつがれの好みがさう、といふだけかもしれないけれど、でもなあ、ヒカリエの小喬はどちらかといふとため目だけど、とつても可愛く見えるがなあ。
二喬は、人形劇には直接は出てきてゐない。説明のために、紳助竜介の背後のモニタにあらはれたくらゐだ。
それにしても、うーん……何をかいはんや。

一方の大喬は、こちらはどちらかといふとつり目で、きつぱりとした顔立ちの美人である。
まあ、美人である。
すくなくとも小喬よりは「美人」と呼ぶにふさはしい。
夫亡き後、悠々自適の生活でも送つてゐたのかなあ。
そんな風にも思へる。
姉はきつぱり美人で妹はおつとり美人(といふほどでもないけれど)、といつたところかな。
この二人、どちらもつれあひに早くに死なれてしまつて、その後どうしてゐたのやら、と思ふのだが。
かうして見ると、それなりに楽しく過ごしてゐたのではあるまいか、といふ気がしてくる。
あ、小喬のつれあひは、このころはまだ生きてゐるのか。すまんすまん。

その後ろに孫権がゐる。
以前も書いたけれど、孫権はいつもおなじやうな格好なんだよなあ。たまにはもつと動きのある格好をしてもいいのに、と思ふ。
前垂れが龍、といふ話は玄徳と曹操とのときにも書いた。
孫権の前垂れは色が派手といふのが特徴である。
サテン地でものすごい緑なのだ。
「ものすごい緑」といふのは、絵の具にありさうな緑といふことだ。ヴィリジアンとでもいはうか。
これも以前も書いたやうに、だいたいここにゐる人形の衣装は帯地から作られてゐるといふが、いつたい誰がこんな派手な色の帯をしめてゐたのか、どんな着物にあはせてゐたのか。
さういふところが異様に気になる。

このケースの一番右端には、問題の諸葛瑾がゐる。
もー、ほんとにどーしちやつたのよ。
さう訊きたくなるくらゐ、意気消沈としたやうすで、おそらくは二喬の方をぼんやりと眺めてゐる。
なんかね、かう、力がないやうすなんだよね。
なにをそんなに悩むことがある?
話があるなら聞くから。とりあへず一杯やらうよ。
さう声をかけたくなるほどである。
去年のいまごろも飯田に行つて、「一番話しかけたさうにしてゐるのは諸葛瑾」と思ふた。
このときは、ちよつと顎があがつてゐて、なにか云ひたげなやうすに見えたんだよね。
さぞかし云ひたいこともあらう。つもる話もあるだらう。
そのときはそんな風に思つたのだが。
うーん、ほんとにどうしちやつたのだらうか、飯田の諸葛瑾は。

BBCのウェブサイトに、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に関する記事が出てゐた。
なぜこの絵は人気があるのか。
記事では、「謎があつて、いくら見てもその謎を解き明かせないからである」と書かれてゐた。
絵の中の少女は、わづかに口を開けてゐる。これは、当時のオランダ絵画ではめづらしいことなのださうな。
こちらをふりむいて、わづかに口を開けてゐる、なにか云ひかけてゐるところなのか、それとも云ひ終はつて口を閉ざす直前なのか。
少女が何を云つたのか、あるいは何を云ひたかつたのか、それは誰にもわからない。今後判明することもないだらう。
ゆゑに、この絵は人々を惹きつけてやまないのだ、といふのである。

飯田の諸葛瑾もそれだな。
いや、諸葛瑾の場合は云ひたいことはだいたい想像がつくやうな気もする。
想像がつくやうな気もして、しかし、やはりなんだかわからない。
ゆゑに、どうしてもそこに視線が行つてしまふのである。
ああ、しかし、なにゆゑあんなに意気消沈としたやうすでゐるのか。
気になるよ、諸葛瑾。

人形アニメーションの人形と、この日見た映像作品についてはまた機会をあらためて。

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Thursday, 03 July 2014

再訪 文房具カフェ

六月の最終土曜日に、表参道の文房具カフェに行つてきた。
二年ぶり二度めである。

Untitled

行つて、「前に来たのは開店直後だつたのか」とあらためて思つた。
壁一面に巨大な模造紙がはられてゐて、「二周年」といふやうなことが書かれてゐたからだ。
そこにはいろんな色でいろんな人々が思ひ思ひに開店二周年をことほぐ絵や文字をかいた跡があつた。

店は地下にある。
階段を下りていくと、向かつて左側の壁には文房具などが展示されてゐる。
半分くらゐ下りると、店内のやうすが見えてくる。

最初の印象は「にぎはつてゐる」だつた。
以前来たときは、開店してまもないころだつたこともあり、また平日だつたこともあつてか、店内は落ち着いた雰囲気だつた。
飲食する客はそこそこゐて、でも店内の文房具を見る客はそれほどゐなかつた。

いまは、文房具目的のみで来てゐる人もかなり多いやうだ。
またテーブルも常にほぼ満席で、注文も多いのだらう、カウンターの中も威勢のいい感じだつた。

天井は高かつたといふ印象がある。
地下といふこともあつてか、照明は控へめだ。これが最初のときは「落ち着いてゐる」と思ふた所以かもしれない。

ぱつと見たとき、月光荘のスケッチブックや鉛筆、ショルダーバッグが目についた。
月光荘の縦長のショルダーバッグはちよつといいのだ。あれはなかなか使ひやすいかばんだ。
普通にちよつとした画材を入れて持ち歩くのもいいし、通勤などにも使ひやすい。ストラップを一番短くしたときに、うまいこと脇の下におさまるんだよね。もちろん文房具を入れてもいいし、やつがれは毛糸と編み棒、スピンドルと毛などを入れてゐる。
スケッチブックも種類が豊富だ。紙の種類によつて選べるやうになつてゐる。
月光荘ものはちよつと好きなもので、いきなり気分がもりあがつてしまつた。

テーブルはすべてうまつてゐたので、待つあひだ文房具を見てまはつた。
うつかりくらつと買ひさうになつてしまふなあ。
マスキングテープとか、普段全然使はないくせに、ああいふところでああいふ風にならんでゐて、女の子たちがわらわらとむらがつて「可愛い!」「これにしやう」なんて選んでゐると、つい「やつがれも」とか思つてしまふ。
いかんいかん。

ほどなく席に案内されて、メニューを見た。
前回来たときは、紅茶のアフォガードとコーヒーを頼んだ。
紅茶のアフォガードの紅茶の味が濃厚なところがとてもよかつた。
どうやらメニューからはづれたのらしい。
「モンブランのおいしいインク壷」といふ名前だけ見て、興味を持つて注文したところ、残念ながら品切れであつた。
次回行く口実ができたな。
といふわけで、「ほうじ茶のブリュレはちみつ風味」とブレンドコーヒー(名前は「イマジン」)を頼んでみた。

まづ、コーヒーが大きめのカップにたつぷり入つてくるのがいい。
ブリュレはぱりぱりとした食感となめらかな食感に、はうじ茶と焦げた味との香ばしさと甘さが混然として、うまい。

ランチョンマットは画用紙でできてゐて、右端がアンケートになつてゐる。それ以外の部分は好きなやうに使つていいやうだ。
カウンターにカランダッシュの色鉛筆がたくさん並んでゐて、好きな色・好きな鉛筆を取つてきて、ランチョンマットにあれこれかく(描くも書くもあるので)人も何人かゐた。
やつがれは、テーブルにあつた鉛筆でいろいろ書いてみた。
楽しい。
意味もなく楽しい。

書いてゐてわかつたのだが、テーブルといすとの高さがものを書くのにちやうどいい。
まあ、やつがれの体格にあつてゐる、といふだけのことかもしれないけれど、参考にしたいな。

前回は入会を断念したが、今回は会員にもなつてみた。

Untitled

鍵を受け取つて、さつそく引き出しをあけてみる。
ああ、さうだよなあ。
昔、自分の机の引き出しの中は、こんなだつた。
そんな気がする。
会員限定引き出しなので、写真は撮らなかつた。
欲を言ふと、いろんな硬さの鉛筆があるといいなあ。

そんな感じで、次回はモンブランのインク壷に再挑戦しに行かなければ。
表参道には滅多に行かないんだけれどもね。

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Wednesday, 02 July 2014

今年の手帳を振り返る ほぼ日手帳篇

七月になつて早二日。
今年も残り半分をきつてしまつた。

今年は、はじめてSCHOTT'S MISCELLANY DIARYをスケジュール帳として使つてゐる。
ほかに日記帳として集文館の掌中版三年手帳も去年から引き続き使つてゐる。

今年は、ほぼ日手帳を使ひつづけられなかつたな。
と、過去形で書いてしまふと、なんなのだが、しかし、まあ、そのとほりである。

去年の暮れには、ここ三年ほどすゑ置き手帳と化してゐたほぼ日手帳を持ち歩くつもりでゐた。
手帳カヴァも新調したしね。カンダミサコの文庫サイズ用手帳カヴァ。これがいいんだよねえ。萬年筆を指す円筒型のペン差しもついてゐるしさ。
それでなぜ使はなくなつたのか、といふと、ほぼ日手帳の新たな使ひ方を見つけられずにゐるからだ。

去年、三年手帳を使ふやうになつて、書き記す内容がほぼ日手帳とほぼおなじなのが気になつてゐた。
ほぼ日手帳の方がたくさん書けるので、より詳しく書き記すことができる。でも、三年手帳の内容で十分な気もする。

かつては、逆の流れをたどつたんだけどね。
もともと集文館の三年手帳を使つてゐたところへほぼ日手帳を使ふやうになつた。書く内容はほとんど一緒で、でもほぼ日手帳の方がいろいろ書ける。
といふので、三年手帳は使はなくなつた。

今回、なぜそれとは逆の流れをたどることになつたのか。
ほぼ日手帳では書ききれないことが増えたからだ。
三年手帳からほぼ日手帳に移行したときは、ほぼ日手帳の一日のページで十分だつた。
それが足りなくなつて、別にノートを使ふやうなつた。
さうすると、ほぼ日手帳になんでもかんでも書かなくてもいいのである。

一昨年、昔使つてゐた三年手帳が出てきて、読み返してみたらなんだかおもしろかつたので、また使ふことにした。
去年一年は三年手帳とほぼ日手帳とどちらも使つてゐて、このままだつたらほぼ日手帳はなにか別の用途に使ふべきだな、と思ふやうになつた。

それで今年も使ひはじめてみて……うーん、いまだにこれといつた使ひ道を思ひつかずにゐる、といふわけだ。

このまま、日付は無視して普通にノートとして使ふかな、とは思つてゐるけれどもね。
ただそれにはほぼ日手帳はやはりちよつとかさばるんだよね。
すゑ置きにして、読書ノートにでもしやうか知らん。

そんな風に思つてゐる。

SCHOTT'S MISCELLANY DIARYについては、まさか半年も使ひつづけられるとは思ふてゐなかつたのだが。
それはまた別の話。

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Tuesday, 01 July 2014

崖つぷち

タティングレースは日々、といふか、少なくとも昼休みに食事をして残つた時間で結んではゐるのだが。
六角形のThe Twirlyといふモチーフを七つつなげて大きい六角形にして、それを二つつなげた、といふところまではここに書いた。
三つめを作つて、すでにつながつてゐる二つにつなげやうとして、二回失敗した。
それも気がついたのは、どちらもモチーフが完成してから、といふ体たらくである。

吁嗟。

先週も書いたな。
「モルダー、あなた疲れてゐるのよ」つて。

なんで間違えるかねえ。
まあ、なんとなく理由はわかつてゐるのだ。
七つつなげた大きい六角形を作つてつなげやうとするから失敗するのである。
すでにできてゐる大きい六角形を二つつないだものからつなげるやうにして作れば、おそらくこんなことはない。
ないことはないかもしれないけれど、発生頻度は下がるだらう。

わかつちやゐるんだがなあ。
わかつちやゐるけど、やめられない。
バカだね。

さういふわけで、昨日三回めに挑戦して、どうやら今回はちやんとつなげたやうな気がする。
このあと、The Twirlyをさらに二つて三つめの六角形は完成する。
その先をどうするか、だ。

まだつなげるつもりなんだけれども、大きい六角形を作りつつつなげるのは無謀だらうなあ。
すでにつながつてゐるところからひろげていくのが一番いいのだらう。

先週のなかばくらゐからはなにもしてゐなかつたけれども、家でも別のものをちよこちよこ結んではゐる。
夕べもちよつとやつてゐた。

どうもね、やつぱり疲れてゐるんだね。
疲れてゐると、どんどんちいさい道具を使ふものにシフトしていく。
これまでの経験をかへりみると、どうやらそんな感じだ。
たとへば、スピンドルといふのは案外おほきいものである。
一番ちいさいものでも、棒針よりはおほきい。
その棒針も、種類によるが、四本針や五本針でなければ、かぎ針よりはおほきい。
そして、かぎ針はタティングシャトルよりおほきいのである。

本なんかでもさうで、疲れてゐるときに大判の本を読むのはつらい。
自然と、新書とか文庫とかに流れていく。

文庫よりもちいさい本はなかなかないし、タティングシャトルよりもちいさい道具を使ふ手藝をやつがれはたしなまない。

といふことは、現在崖つぷち、といふことか。

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2014年6月の読書メーター

2014年6月の読書メーター
読んだ本の数:6冊
読んだページ数:2003ページ
ナイス数:15ナイス

世説新語3 (東洋文庫 847)世説新語3 (東洋文庫 847)感想
人を褒めた賞誉篇から豪快な人の話を集めた豪爽篇まで。賞誉篇の次がもう少し辛辣な話も出てくる品藻篇なのだが、賞誉篇のころから「あいつをこんな風に褒めることのできる俺つて最高」みたやうな感じが透けて見える。ほんたうにヤな人ばかり出てきて、実に楽しい。「阿堵物」の由来なんかもここに出てゐる。曹操と楊脩との応酬は、ちよつと「一休さん」風味だな。
読了日:6月9日 著者:劉義慶
Becoming Freud (Jewish Lives)Becoming Freud (Jewish Lives)感想
伝記&伝記作家嫌ひでならしたフロイトの若き日々を語る(或は語らんとする)本。「検閲を経た過去だけが受け入れられる」といふのはそのとほりかも。妻への最初の贈り物が「デイヴィッド・コパフィールド」とか、知らなかつたなあ。この本、「Jewish Lives」といふシリーズの中の一冊とのことだけれども、刊行予定の本もおもしろさう。
読了日:6月16日 著者:AdamPhillips
蘇東坡詩選 (岩波文庫 赤 7-1)蘇東坡詩選 (岩波文庫 赤 7-1)感想
左遷されまくりある時は死刑になりかけた蘇軾の詩は、それでもなほ明るいといはれるが、さうかなあ。確かにさういふ詩も多いやうに思ふけれど、案外しんみりした詩も多いやうに思ふ。さうは思ひつつも、「赤壁賦」は客の心境にはなれても蘇軾の心境にはなかなか到達できさうにない。唐詩もきちんと読み込んでおきたいなー、と思ひつつ、その前に詩経とか楚辞とか読めよなー、と自分にツッコミつつ読む。
読了日:6月19日 著者:蘇東坡
漢字世界の地平: 私たちにとって文字とは何か (新潮選書)漢字世界の地平: 私たちにとって文字とは何か (新潮選書)感想
文字とは何か。何なんでせうね。漢文を受け入れた日本で、日本風に訓読みするか或は書いてあるとほりに読むかといふ熱い戦ひがあつたといふのはおもしろいなあ。かういふことがあつたから英語などは返り点とか打たない方式になつたのか知らん。それとも最初にオランダ語とか英語とかに触れた人々は漢籍に親しんでゐたがゆゑに特にそこのところは苦労せずに読めたのか知らん。頼山陽が「司馬遷と同じ世界の住人になることを望んで(pp139-140)」ゐた、といふのはちよつといいな。さういふ観点で「日本外史」を読んでみたい。
読了日:6月23日 著者:齋藤希史
言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)感想
文法のことが気にかかつてゐて、その延長線上で手にした本。まあ、なんといふか、一概に「かう」とは云へないつてことね、多分。実際の対談ではどうだつたのかわからないが、間髪入れないツッコミとその内容に時々唸る。
読了日:6月25日 著者:野矢茂樹,西村義樹
論語 (中公文庫)論語 (中公文庫)感想
昨今いふ「ライフハック」なんてなものは、全部ここに書いてあるのでは、と思ふ。「毎日新しいことを学んで、毎月学んだことを振り返る」なんてのもさうぢやない? 結局、人は繰り返しおなじことを云ふものなのかもしれないなあ。
読了日:6月30日 著者:孔子,貝塚茂樹

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