もつと書きたい
昨日も書いたやうに、現在使用してゐるノートや手帳の類は三種類。
スケジュール帳(といふ名の記録帳)のSCHOTT'S MISCELLANY DIARYに、日記帳の三年手帳、そしてその他いろいろを書くノート(いまはアサヒ屋紙文具店のクイール・ノート)だ。
電車の中とか町中などとつさに紙とペンを取り出せないときにはEvernote。
5×3カードを使ひはじめた話は先日も書いた。読んだ本などからの引用や自分の中で整理のついてゐないこと、引き続き考へたいことなどを記してゐる。
書くといふことでいへばblog、か。
これくらゐの量は普通に書くだらう。
さう思つてゐる。
世の中にはもつと書く人がたくさんゐる。
ほぼ日手帳やMoleskineの使ひ方の本を見ると、とにかく世の中「かく人(書く人も描く人も)」がたくさんゐるのだなあ、としみじみしてしまふ。
そして、やつがれはもつと書く時間があつたらなあと思つてゐる。
先日、もともと日記帳には三年手帳を使つてゐて、それがほぼ日手帳を使ふやうになつてまた三年手帳に戻つてきた、と書いた。
それはおそらく、日記を書くのにかけられる時間と連動してゐるのだと思ふ。
三年手帳のやうな連年手帳は、昔から使ひはじめては挫折してゐた。
はじめて続けられるやうになつたのは、12年ほど前のことだつたと思ふ。
池袋に芝居を見に行つて、なんだかものすごくものを書きたくなつた。
その足で西武のLibroに向かつたところ、ちやうど手帳フェアの真つ最中で、そこで集文館の掌中版三年手帳に出会つた。
以後、六年間二冊の三年手帳を使つた。
久しぶりの日記帳だつたから、最初のうちは三年手帳の一日分の量でなんとかなつてゐた。
根気のない人間のこととて、それまで日記帳はつけてはやめつけてはやめのくり返しだつた。小学校の高学年から高校生くらゐまでの間、毎日ものすごく日記を書いてゐたことがあつたけれど、それ以降さういふことはない。当時は庄司薫の話を真似して「本音の日記」と「建前の日記」のやうなものもつけてゐたこともある。
なんて、そんなこと、いまのいままですつかり忘れてゐたよ。
このころの日記は、おそらくもうない。
さういへば同時期には文通なんてなものもしてゐたし、毎週テレビドラマの感想文を書いてゐたこともあつたなあ。
もとい。
三年手帳を使ひはじめて五年を迎へたあたりでほぼ日手帳に出会ひ、当初は並行して使つてゐたが、そのうちほぼ日手帳にだけになつた。
ほぼ日手帳にだつたら書きたいだけ書ける。
さう思つてゐたのは最初の一年くらゐで、そのうちすぐに「これでは足りない」といふことになつた。
それでこれまた当時話題になつてゐたMoleskineを使つてみたりとか、ほぼ日手帳のカヴァにはさめるやうにA6サイズのメモ帳を補助として使つてみたりして、いまに至る。
たぶん、ほぼ日手帳を使ひはじめて移行したくらゐのころは、手帳に、といふか、日記帳に向かつてゐる余裕があつんだな。
当時は睡眠時間を削つてあれやこれやをやつてゐたしな。そのときのツケがいま回つてきてゐるのだらう。それで日記を書く時間もなくなつてきたといふ気もする。
ユビキタス・キャプチュアといつて、思ひついたことをいつでもどこでも書きとめる、といふ動きがある。
これについても何度か書いてきた。
最初はうまくいかなかつた。
なぜといつて、やつがれの書きたいのは「メモ」ではないからだ。
あるていどまとまつた文章を書きたい。
MoleskineのPocket Size Ruledを使ふと一ページにだいたい400字くらゐ書く。
一度にそれくらゐは書きたい。
けれどもあるていどまとまつた文章を書くには時間が必要だ。
それでうまくいかなかつたのである。
メモではなぜダメなのか。
「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」という本で、森博嗣はかう書いてゐる。
メモをとろうと思った瞬間に、つまり言葉にしようとすることで失われるものが多すぎる。どうせ最後は言葉にするのだ。メモよりは、本文を書く方が言葉の数が多いので、失われるものは最小限になる。
たぶん、飯田市川本喜八郎人形美術館や渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに行つて、メモを取らないのもそれとおなじことのやうに思ふ。
メモではダメなのだ。
たとへばいまヒカリエにゐる諸葛瑾の衣装の、黄色といふか黄土色といふかしぶい金といふかの衣装に緑色が配されてゐるのが、布地の薄くてぱりつとした感じも相まつて、人形劇のときに比べて見た目にとてもさはやかなのだけれども、そこで「黄色」とか「緑」とかメモしただけではダメなのである。
ほんたうは見たままを再現できればいいのだらう。写真なり絵なりで表現できれば一番いい。
しかし、写真撮影は禁止されてゐるし、やつがれには絵は描けない。
それでとにかくひたすら見て、時間のあるときにそれを脳内で再生しつつまとまつた文章を書くしかない。
……なんかそれも無駄だなあ。
あとは、まあ、忘れてしまつたらそれはそれよ、といふ気もしてゐる。
それが変はつてきたのは、年を経て、またおそらくは睡眠不足の結果として、記憶力が減退してきたからだらう。
情報カードを、それも5×3カードを使ふやうになつてきたのも、そこに理由があるのだらうと思つてゐる。本来、5×3カードはやつがれには狭すぎる。名刺サイズはなほさらだ。それでも使ふやうになつた、といふのは、まあ、書きとめておかないと、忘れ去つてしまふから、だらうな。
問題は、メモを書きとめるには記憶を思ひだすよすがになるやうなことを書かないといけない、といふことだ。単に単語だけをつらねても、あとでそれを見て思ひ出せないやうだといけない。それつて案外むづかしいことなんぢやあるまいかな。
と、結局いつもいつもおなじことをくり返しくり返し書くばかりだが、ほんたうはもつと書きたい。なんとかして書く時間を作りたい。
いまは書き出すことすらあきらめてゐるやうなことも書きたい。
この思ひはいつたいどこからやつてくるのだらう。
と、いふやうなことを「書きたがる脳 言語と創造性の科学」を読みながら考へてゐた。
この本については、また書く予定。
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