「生産的」に毒される
タティングレースはやはりそれなりに進んでゐる。
昼休みにやる、と決めてゐるのがいいんだらうな。
昼休みいつぱい使つて食事することはまづないし。
そのかはり、昼休みにほかのことができないといふ弊害がないわけではない。
ほかのこと、といふのは、たとへば外食する、とかだな。
外食にはいろいろ問題があるから、まあ、それでもいいんだけれども
外食で傷害になるのは、「好き嫌ひが多い」といふ点だ。
以前、森博嗣が、「食べきれない量のものは最初から頼まないし、好きな料理であつても残すやうなものがある皿よりは、それほど好きでなくても食べきれるものばかりの皿を選ぶ」といふやうなことを書いてゐた。
奥方はさうではないのだ、とも。たとへば、缶コーラを買ふから飲みきれるのかと思ふたら、半分くらゐ飲んで残りは森博嗣にくれるのだといふ。
森博嗣は、飲みきれないのなら最初から買はなければいいのに、と思ふのだが、奥方はさういふ考へ方をしないのらしい。
やつがれはどちらかといふと森博嗣派だ。
好きなものよりも食べきれるものを選ぶ方が多い。
うまくきれいに残せないから、といふのが一番の理由だ。
もつときれいに残せたらねー、多分、好きなものを選んでゐるやうな気がする。
もとい。
昼食時といふのは、なんだかよくわからないが、「サービス」と称していろいろ余分なものがつくことがある。
それがいちいち嫌ひなものだつたりするんだな、やつがれの場合は。
それで、時間の短い昼休みに外食といふ危険を冒すことを厭ふわけだ。
……なんの話だつたか。
あ、さうか、昼休みにやると決めると進む、といふ話か。
ほかにすることがないからな。
家でも編んだりタティングしたりはしてゐるんだけれど。
でもここ二週間くらゐは家ではろくになにもしてゐない。
なんか、もう、帰りつくとなにもできない気分なのだ。
なにもできなくてなにをしてゐるのかといふと、まあ、一応、ラジオ講座の録音分を聞いて、あとはなにもしてゐないに等しい。
せいぜいWebを徘徊するくらゐか。
生産的ぢやないねえ。
しかし、この「生産的」といふことばが、案外足かせになつてゐるんぢやないか。
さう思へてならない。
別に、人生「生産的」でなくてもかまはないのだ。
誰だ、人生は「生産的」でなくてはならない、とかいひ出したのは。
などといひながらも、やつがれもまたこの「生産的」といふことばに毒されてゐるものなのであつて、それであみものとかタティングレースとかを無駄にしてしまふのだらうとは思ふてゐる。
あみものやタティングレースをすると、なにかしら「自分がやつた」ことが残るではないか。
それでやつてゐるのだらう、といふことは、以前もすこし書いたとほりである。
生産的。
そんなこと云つてるか精神病んぢやう人が増えるんだぜ。
さう思ふんだけどねえ。
といふわけで、自宅ではほとんどなにもしてゐなくて、「結局、自分はあみものやタティングレースなんか好きでもなんでもなかつんだな」とか思ふたりする今日この頃なのである。
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