ヤな輩の宝庫
どうしても、他人のことを一言批判せずにはゐられない。
小学生のとき作文にクラスのお楽しみ会の感想を書いたことがある。
お楽しみ会といふのは、授業をつぶしてクリスマス会だとかお別れ会だとか称してなかよしグループごとに演しものをする会のことである。
いまはさういふの、ないのかなあ。
すくなくともやつがれが小学生のときはやつてゐた。
「クリスマス」会と称すると宗教色が出るので、「お楽しみ会といふことで」と云ふ教師もゐた。
いづれにせよ、おなじクラスの仲のよい同士が四五人づつ組んで、手品を披露したりちよつとしたお芝居を演じたりしたのだつた。
読み返してみると、当時のやつがれは、他人のグループのことをまつたく誉めてゐない。
いや、よくよく読めばちやんと誉めてゐる。
誉めてはゐるが、必ず否定から入る。
なんだよ、ヤな輩だな。
しかも自分たちのやつたことはそれなりに誉めてゐたりする。
念入りにヤな輩だな。
みづからのその欠点に、その当時気づいてゐればよかつたのだが。
気づくこともなく、ここまで来てしまつた。
或は気づいてはゐたのかもしれない。
気づいてはゐて、しかし、なほすことはできなかつたのだ。
なんで、かう、世の中にたいして、まづ反対するやうな態度を取つてしまふかね。
かういふのつて、遺伝なんぢやないかなあ。
生まれてからの環境や親のしつけのせゐでさうなるとはチト思へない。
それほど環境の違はないだらう兄弟のやうすを見てさう思ふ。
まあ、遺伝でも兄弟に出ないのはをかしいやうな気もするが、そこはそれ、あつちには遺伝しなかつたんだ、と思へば済む話である。
たとへば、我が家にはほぼ隔世で喘息持ちがゐて、やつがれは喘息持ちだが兄弟や従兄弟はさうでもない。あ、ひとりだけ従兄弟にゐたな、喘息持ちが。そんな程度だ。
遺伝だから仕方がない。
自分のせゐぢやないもんなあ。
さう思ふとちよつと気が楽になる。
わかつてゐるんだつたらなほせよ、といふ意見もあらう。
だが、実際になほさうとしてみると、生まれつき批判的なものの見方をしない人間との差が気になるのだ。
所詮、生まれつきよい性質を持つた人間には、どうやつてもかなはない。
相手は最初からものごとを肯定的にとらへる。
こちらは最初は何かを見て否定的にとらへてしまひさうになつて「あ、いけない」と思つて肯定的に見やうとする。
全然違ふだらう?
そんなわけで、とくにもうこの年になつたら、さういふ自分と折り合ひをつけていくしかないんぢやないかな、と、そんなことを思つてゐる。
なんでそんなことを考へたのかといふと、「世説新語」の三巻を読んでゐるからだ。
平凡社東洋文庫の「世説新語」の三巻は、「賞誉篇」からはじまる。その次が「品藻篇」。どちらも人物批評の篇で、「賞誉篇」は他人を誉めたもの、「品藻篇」は誉めたものもあるけれど、どちらかといふともつと辛辣な内容のものが多い。
まあね、「賞誉篇」も、他人を誉めたものといふよりは「あいつのことをこんな風に誉めることのできるオレ様つてエラい!」みたやうな態度が透けて見える気がするくらゐだから、「品藻篇」は推して知るべし、てなところがあるけれどもね。
その「賞誉篇」を読んでゐると、誉め方にもいろいろある、と解説にはある。
たとへば、いろんな角度から誉めてみる、とか。
いろんな人を誉めるところからはじめて、最後に「その人々よりも優れてゐるのが誰某である」と〆てみる、とか。
最初は貶しておいて、「しかしこんなすばらしい面がある」といふ風に最後にもちあげてみる、とか。
なるほど、貶しておいてもちあげる、か。
それはいいんぢやないか。
誉めておいて落とすよりはよほどいい。
今後はその手法でいくか。
どうせ、批判から入るところはなほせやしないんだし。
そんなわけで、あひかはらず「世説新語」は楽しい。
平凡社のサイトに「読み始めると止まらない」と書いてあるが、まさにそのとほり。
ヤな輩ばかりで、ほんと、楽しい一冊である。
#誉めてます。
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