これがやりたかつたのか
今月の歌舞伎座の興行は6/25(水)に千秋楽を迎へた。
初日に昼の部だけ見て、21日に夜の部を見に行つた。
夜の部の喜利は「名月八幡祭」だつた。
吉右衛門の縮屋新助。演目と配役が発表になつたときに、「それは楽しみだな」と思つた。
思つて見に行つて、結果、なんだか予想のななめ上をいく良さだつた。
さう、よかつたのである。
予想のはるか上をななめにいく感じでよかつた。
見て、「ああ、播磨屋さんはこれがやりたかつたのか」としみじみ思つた。
芝居を見に行く人は、大抵は好きな役者の出る好きな演目好きな役の芝居を見に行くのだらう。
ご多分にもれず、やつがれもさうである。
やつがれはねえ、「伽羅先代萩」の仁木弾正と細川勝元とがどちらもいい役者が好きでねえ。
「伽羅先代萩」の対決と刃傷とが出るときは、かなりうきうきと見に行くことが多い。まあ、配役次第だけど。
しかし、今回、「これがやりたかつたのか」といふ芝居を見るのも、いいもんだと思つた。
それが好きな役者だつたらなほさらだ。
実は、「これがやりたかつたのか」と思つて、見に行つてよかつたな、と思つた芝居が、半年前にもあつた。
十二月の国立劇場、「弥作の鎌腹」がそれである。
主役の弥作はやはり吉右衛門。
もしかしたら地下鉄で見るからに鄙な里の猟師といふか農夫といふかそんな出で立ちの播磨屋が大根を肩に担いでゐるポスターを見たことのある向きもあるかもしれない。
どんな芝居かも知らないし、最初はあまり期待しないで見に行つた。
さうしたところ、どうだらう。
これがねえ、よかつたんだよねえ。
決して好きな芝居ではない。
決して好きな役ではない。
しかし、「あー、これがやりたかつたのかー」といふ、腑に落ちた感覚。しかも、登場人物それぞれにすばらしい演技。
いやー、見に行つてよかつたねえ。見に行かなかつたら、この感動は得られなかつたのだ。
かういふ芝居もあるのだねえ。
あらすじとか、具体的にどんな芝居だつたのか、といふことは、おそらくすでにあちらこちらで書かれてゐることだらう。
ゆゑに、ここではいちいち書かない。
「弥作の鎌腹」も「名月八幡祭」も、どちらも後味のいい芝居ではない。
それが、よかつた。
それだけのこと。
「これがやりたかつたのかー」といふ芝居の見られる、といふのは、実に貴重なことだと思ふ。
大抵の人間は、やりたいことはやれないからだ。
以前、まだ「ニュースステーション」だつたころ、ヨーヨー・マが出たことがあつた。
「若い頃は、認められるのに必死だつた。やつと最近、自分の好きなやうに演奏できるやうになつてきた」といふやうなことを云つてゐた。
ヨーヨー・マにしてさうなのか。
そのときさう思つた。
歌舞伎でいふと、今月はこんな座組で、こんな芝居をやつて、「でもオレはこれはやりたくない」とかいろいろもめて、最終的に「まあこれだつたらいいか」といふ線に落ち着くのではないかなあ。
それもそれができるのは大幹部だけで、その他の人々は、割り当てられた役を演じてゐるのぢやないか知らん。
そんな中で、「これがやりたい」といふ芝居をして、しかも客に「これがやりたかつたのかー」と思はせることのできるといふのは、これは実に稀有なことなのだ。
さう思ふ。
そして、そんな場に居合はせることのできた喜びをかみしめるのだ。
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