子曰はく
ときどき、自分は芝居なんか全然好きぢやないんぢやないか、と思ふことがある。
将棋の対局を見るやうになつて、もう十年くらゐたつ。
でも、全然指せるやうにはならない。
詰め将棋も、最近はやつてないなあ。
でもまあ、たまにやる。
なぜといつて、詰め将棋はひとりでもできるからだ。
思ふに、囲碁を打つたり将棋を指したりできるやうにならないのは、自分ひとりではできないからだ。
対局、といふからには、もう一人必要なのである。
もとい。
囲碁や将棋はひとりではできない。
コンピュータ相手に練習するといふ手もあるけれど、どうもそれがうまくいかなくてね。
ああいうのは、初手は対面で習はないとダメなんぢやなからうか。
そんな気がする。
芝居見物は一人でもできる。
だいたい見に行くときは一人だ。
しかし、出かけなければならない。
大抵劇場といふのは都会にある。
さうでなければ人の多いところにある。
混雑した電車に揺られ、人の波をかきわけるやうにして劇場にたどりつく。
ついたらついたで、広いはずの劇場内が狭く感じられるほど人がたくさんゐる中を、なんとか自分の取つた席にたどりつく。
幕間は幕間で、押し合ひへし合ひする人をできるだけ避けるやうにして移動する。
帰るときは、イヤホンガイドを返却するので滞る人の流れを気にしつつ、人の殺到する出口に向かはなければならない。
疲れる。
とにかく疲れる。
芝居を見る以前の段階で、疲れてしまふのである。
つまり、やつがれは「一人ででき」て「でかけなくてもできる」ことが好きなのだ。
それが一番楽しい。
「論語」に、こんなことばがある。
子曰知之者不如好之者好之者不如楽之者
あることを知らうと学ぶ人はそれを好む人にはかなはず、好む人は楽しむ人にはかなはない。
そんな意味だと思ふ。
「学ぶつてことはさー、それなりに好きつてことでせう?」
と、やつがれなんぞは思ふわけだが、仕方なく学ぶ人もゐるだらう。
芝居ならば、別に好きでもなんでもないけど、一応たしなみとして見ておかう、なんてな人は、芝居か好きで好きでたまらない、といふ人にはかなはないわけだ。
……かなはないつて何が?
と、いまふと疑問が首をもたげてきたが、とりあへずここではおく。
で、芝居が好きで好きでたまらないよ、といふ人でも、芝居を楽しむ人には到底及ばない。
そこでいふと、おそらくやつがれは芝居のことは好きなのだ。
好きだけど、楽しんでゐない。
だつて人が多いんだもん。
行き着くまでと帰るときの苦行が耐へ難いんだもん。
で、結局何が楽しいのか。
あみものとかタティングレースとかだよなあ。
家でひとりでできるもの。
あと、最近出かける予定のない休みの日にのんびり飲みつつ本を読むのも楽しい。
酔つてゐるからかもしれないけれど、折に触れ「なんて楽しいんだらう」と思ふことがあるくらゐだ。
楽しい。
楽しいけれど、それでぢやあ「知之者」とか「好之者」とかに及んでゐるのか、といふと、うーん、そんなことはない気がするんだよねえ。
でもまあ、楽しければ、いいか。
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