好き嫌ひの屁理屈
あみものをする手の動きをして「フィンガーダンス」と呼んだのは、たた&たた夫さんだつたと記憶する。
フィンガーダンス。
あみものの手の動きは、まるで指が踊りを踊つてゐるかのやうだ、といふのだ。
うまいこと云ふなあ。
やはり、長くあみものを愛してきた人はいふことが違ふよなあ。
実はそれまで、あみものをするときに指の動きを意識したことはほとんどなかつた。
それで下手だつたのかなあ、とも思ふが、意識するやうになつてからもうまくなつたわけではないので、それは関係あるまい。
手の動きは意識してゐた。
あみものをするとき手の動きが好きだなあ。
長いこと、さう思つてゐた。
いまも思つてゐる。
おそらく、やつがれが刺繍だとか縫ひものをしないのは、手の動きがそれほど好きではないからである。
春秋を経てきた人々にはお馴染みの由利徹の持ちネタに、縫ひものをする女の人の形態模写がある。
あれはすばらしかつたし、あんな風に縫ふことができたら、もしかしたらやつがれだつて縫ひものを好きになれたかもしれない。
さう思はないでもない。
さう思はないでもないけれど、やはりあの手の動き自体はそれほど感銘を受けるものではない。
お笑ひだから、とか、形態模写だから、ではない。
自分で実際にやつてみてさう思ふのである。
なんだらうな、扱つてゐるものが大きすぎるかもしれないな。
雑巾ならいざ知らず、縫ひものといふのは基本的に大きなものを扱ふ。着るものだからね。
ボタン付けひとつとつてみても、ボタンは小さいけれど、その下のシャツやジャケットはかなり大きい。取り回しが不便だ。
あみものも、やつがれがあまり着るものを編まないのは、実はさういふところがあるのだと思ふ。
前身頃とか後ろ身頃とか、大きすぎるでせう。
あれを前に後ろにひつくりかへしつつ編むのには、ちよつと気構へがゐるんだよね。
刺繍ならハンカチといふのもあるが……考へてみたら、やつがれも長いことレース編みなどをやつてゐるが、ついぞハンカチの縁の飾りなど編んだことはない。
縫ひつけないといけないからだ。
編みながら編みつけていく方法や模様もあるにはあるけれどね。
一度はやつてみたいなあと思ひつつ、やつてことはない。
多分、ハンカチに興味がないからだらう。
興味がないといふか、洗つたらアイロン必須、といふところがハンカチは敷居が高いのである。
やつがれが手ぬぐひを愛用する所以のひとつでもある。
縫ひものとあみものとで、手の動きのどこに違ひがあるのか。
縫ひものはあまりやつたことがないので、しかとは云へない。
思ふに、手の動く範囲ぢやないかなあ。
手といふよりは腕かもしれない。
なんとなく、縫ひものの方が腕の動く範囲が大きいやうに思ふのだ。
縫ひものだつて、大きいものを縫ふにしても、手で布をたぐりよせながら縫ふのであつて、とくに腕が大きく動く、といふことはないのだらうとは思ふ。
でもなあ、なんとなく、こー、縫つたあとをしごいたりなんだりするでせう。
あみものでも、ひつくりかへして編む場合は、それなりに腕の動くものだ。
ただ、やつがれの編むやうなものは、ほとんど肘から下は動かないやうなものが多いんだよね。
実際は肘の動きが重要だつたりはするんだけどね。
さういふところが、好きなんぢやないかなあ。
タティングレースもそんな感じだと思ふ。
リングの糸を引くときに、ちよつと肘が動くけど(そしてやはり実際は常に肘の動きは重要なのだけれど)、でも、シャトルを動かしてゐるあひだは、さほど肘は動かない。
と、好き嫌ひの理屈はいくらでもつけられるものなのである。
ほんとは縫ひものが好きだつたらいいなあとは思ふんだけれどもねえ。
もし生まれ変はることがあつたなら、料理と掃除と縫ひものが好きな人間に生まれたい。
さうしたら、人生どれほど楽しいことか。
などと思ひながら、あみものをしたりするのである。
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