おもしろくてためにならない「役に立たない」シリーズ
役に立たないことしか好きではない。
あみものなどをしてゐると、こんなことを云ふ人がゐる。
「あみものは編んで楽しいし、できあがつたものは役に立つし、飽きたり着られなくなつたりしたら糸をほどいて再利用できるし、ほんと、いいことばつかり」
残念ながら、やつがれはあみもののさういふ面をほとんど評価しない。まつたくしないわけではない。いひわけにはなると思つてゐる。
帽子や手袋、くつ下を編むのは防寒のため。
役に立つぢやあないか。
でもその実、編むと決めたその瞬間から、「役に立つ」だなんてこれつぽつちも考へてゐない。
編みたいから編む。
それだけである。
むしろ、やつがれにとつて、あみものは害悪だ。
編む時間があつたら家事をしろ。
もしくは仕事の足しになるやうなことを、あるいは人のためになるやうなことをすればいいのに。
おそらく、世の中の「役立つことが好きな人」はさう考へるのにちがひない。
そして、大半の人は、さう考へるのだ。
今朝、駅の中にある書店に寄つたら、守屋洋の孫子の本が平積みになつてゐた。
出たのはもつと前なやうな気がする。多分、NHK教育TVの「100分de名著」で孫子をとりあげた直後くらゐではなかつたか。
だいたい、守屋洋守屋淳つて、昔からこんな本をたくさん出してるよね。
#訂正
#守屋洋ぢやなかつたね。
#守屋淳。
#申し訳ない。
その本の帯に、「ビジネスの場ですぐ役に立つ孫子」みたやうな惹句が躍つてゐた。
「ビジネスの場ですぐ役に立つ」。
こんな惹句で、この本を手にする人がゐるんだらうか。
ゐるんだらうな。
やつがれにはちよつと信じられないけれど。
むしろ、「役に立たない孫子」といふ本はないのか。
そんな本があつたら、なにをおいても買ふけどなあ。
いいぢやん、「読んでもまつたくためにならない孫子」。
いいぞいいぞ。
たれかそんな本を書かないものかなあ。
ゐないのならば、ヲレが書く。
それくらゐの勢ひである。
「役に立たない論語」とかもいい。
どこかからお叱りを受けさうな気がするけども。
「役に立たない経済学」とか、もしあつたら読みたい。絶対買ふね。
いいなあ、「役に立たない」シリーズ、とか。
思ふに、読書人(といふものが存在するとして)には、さういふ嗜好の持ち主が多いんぢやあるまいか。
書店の店頭にあふれるビジネス書なんて、常日頃から書籍に親しみ、収入のほとんどを本代につぎこむやうな人は、見向きもしないんぢやあるまいか。
そんな気がしてゐる。
統計を取つたわけではない。
単なる勘である。
それでもあれだけのビジネス書が発売されて、本棚を埋め尽くしてゐるといふことは、えうは、普段本を読まない人を相手に商売してゐる、といふことだらう。
つまり、「役に立たない」シリーズは商売として成り立たない。
最近ではものすごーく特殊な嗜好の人々だけにねらひをつけた商売とかあるけれどもね。
まあ、本ぢやあねえ。
しかも「役に立たない」ときてゐる。
だが、待てよ。
ここはひとつ「孫子」の兵法でも読んで、「役に立たない」シリーズのマーケティングとやらに生かしてみるのはどうだらうか。
そして、そのときの経験を「役に立たない孫子」に盛り込むのだ。
あら、なんだか先が見えてきたぢやない。
問題は、さうすると、「孫子」が役に立つてしまふ、といふことか。
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