考へる暇があつたら読め
「世説新語」がおもしろい。
なんでおもしろいのだらう、と考へて、一話一話が短くて必ずオチがある、といふのがいいのだらうと思ひ至つた。
オチはわからないことが多いがなー。
あと、「うまいこと云つたもん勝ち」なところもいい。
「あーこの人、これ云つたあと、今でいふ「ドヤ顔」したんだらうなあ」とか、秘かに考へる。
楽しい。
なんでこんなことが楽しいのか。
我ながら不思議でならない。
現在は「世説新語2」を読んでゐる。
読みはじめる前に、「文選 詩篇」を読んだ。「世説新語」とあはせて読んだらおもしろからうと思つたからである。
逆だつたなあ。
なぜといつて、「世説新語」を読んでゐると、「文選」を読みたくなつてくるからだ。
「世説新語」に登場する人物の多くは、その作品が「文選」にとられてゐる。
おもしろい逸話があつて、その注釈に「この賦は文選読めば出てくるよ」みたやうなことが書いてある。
読みたいだらう?
くるほしいほどに読みたくなつてくる。
ところが、我が家には「詩篇」の、しかもダイジェストしかないんだよなあ。
うーん。
この際、ダイジェストでもいいからおなじシリーズの賦篇と文章篇を買ふか。
いやー、それはないなあ。
だつて「「文」選」だもの。
ダイジェスト版と知りつつ「詩篇」を買つたのは、「詩篇」なら原文が出てゐると思つたからだ。
選ばれた文を鑑賞するなら、当然もとの文を読みたい。
翻訳された文だけでは、なぜ選ばれたのか、わからないかもしれないぢやあないか。
もちろん、もとの文、すなはち漢文を読んで理解できるわけではない。
でも、わかるわからないは問題ぢやないんだよね。
それではなぜ「文選」を買ふことをためらつてゐるのか。
それは、「買つても読めないかもしれない」と思ふからだ。
「史記」をちびちび読んでゐる、といふ話は以前書いた。
全十五巻、いまやつがれとしては四巻めを読んでゐる。
いつ読み終はるだらうか。
ちよつと気が遠くなる。
一度読んで終はりではない、とも思ふてゐる。
それは「世説新語」もおなじなんだけどね。
今後何度も読むだらうし、読みたいとも思つてゐる。
そんな中に、「文選」を入れる余裕があるだらうか。
人間、生まれたときから人生のカウントダウンははじまつてゐる。
はじまつてはゐて、それを意識することは、おそらくこどものうちはない。あるとしても、終りはもつと先のことだと思ふことが多いのではあるまいか。
カウントダウンの聲を意識するやうになりはじめると、「あとどれくらゐ本を読めるだらうか」だとか「あとどれくらゐあの曲やその曲を聴けるだらうか」とか、そんなことを考へはじめる。
少なくともやつがれはさうだつた。
それで、「「史記」は全部読めればそれでいいか」と思つたりもするわけだ。
上に書いたことと矛盾するかもしれないけれど。
しかし。
「世説新語」を楽しみたいのなら、「文選」も手元にあつた方がいいよなあ。
ぬーん。
そんなこと考へてゐるあひだに読めよ。
さう思はないこともないのだが。
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