My Photo
October 2024
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

« 一日間風神雷神図屏風三双鑑賞 | Main | 踵をどうしやう »

Friday, 09 May 2014

考へる暇があつたら読め

世説新語」がおもしろい。
なんでおもしろいのだらう、と考へて、一話一話が短くて必ずオチがある、といふのがいいのだらうと思ひ至つた。
オチはわからないことが多いがなー。

あと、「うまいこと云つたもん勝ち」なところもいい。
「あーこの人、これ云つたあと、今でいふ「ドヤ顔」したんだらうなあ」とか、秘かに考へる。
楽しい。
なんでこんなことが楽しいのか。
我ながら不思議でならない。

現在は「世説新語2」を読んでゐる。
読みはじめる前に、「文選 詩篇」を読んだ。「世説新語」とあはせて読んだらおもしろからうと思つたからである。

逆だつたなあ。
なぜといつて、「世説新語」を読んでゐると、「文選」を読みたくなつてくるからだ。
「世説新語」に登場する人物の多くは、その作品が「文選」にとられてゐる。
おもしろい逸話があつて、その注釈に「この賦は文選読めば出てくるよ」みたやうなことが書いてある。
読みたいだらう?
くるほしいほどに読みたくなつてくる。

ところが、我が家には「詩篇」の、しかもダイジェストしかないんだよなあ。
うーん。

この際、ダイジェストでもいいからおなじシリーズの賦篇と文章篇を買ふか。
いやー、それはないなあ。
だつて「「文」選」だもの。
ダイジェスト版と知りつつ「詩篇」を買つたのは、「詩篇」なら原文が出てゐると思つたからだ。
選ばれた文を鑑賞するなら、当然もとの文を読みたい。
翻訳された文だけでは、なぜ選ばれたのか、わからないかもしれないぢやあないか。

もちろん、もとの文、すなはち漢文を読んで理解できるわけではない。
でも、わかるわからないは問題ぢやないんだよね。

それではなぜ「文選」を買ふことをためらつてゐるのか。
それは、「買つても読めないかもしれない」と思ふからだ。

史記」をちびちび読んでゐる、といふ話は以前書いた。
全十五巻、いまやつがれとしては四巻めを読んでゐる。
いつ読み終はるだらうか。
ちよつと気が遠くなる。

一度読んで終はりではない、とも思ふてゐる。
それは「世説新語」もおなじなんだけどね。
今後何度も読むだらうし、読みたいとも思つてゐる。
そんな中に、「文選」を入れる余裕があるだらうか。

人間、生まれたときから人生のカウントダウンははじまつてゐる。
はじまつてはゐて、それを意識することは、おそらくこどものうちはない。あるとしても、終りはもつと先のことだと思ふことが多いのではあるまいか。
カウントダウンの聲を意識するやうになりはじめると、「あとどれくらゐ本を読めるだらうか」だとか「あとどれくらゐあの曲やその曲を聴けるだらうか」とか、そんなことを考へはじめる。
少なくともやつがれはさうだつた。
それで、「「史記」は全部読めればそれでいいか」と思つたりもするわけだ。
上に書いたことと矛盾するかもしれないけれど。

しかし。
「世説新語」を楽しみたいのなら、「文選」も手元にあつた方がいいよなあ。
ぬーん。

そんなこと考へてゐるあひだに読めよ。
さう思はないこともないのだが。

« 一日間風神雷神図屏風三双鑑賞 | Main | 踵をどうしやう »

Comments

Post a comment

Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.

(Not displayed with comment.)

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 考へる暇があつたら読め:

« 一日間風神雷神図屏風三双鑑賞 | Main | 踵をどうしやう »