川本喜八郎人形ギャラリー 赤壁‐苦肉の計 後篇
渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの四月からの展示についてである。
前回、入口を入つてすぐのケースについて書いた。
今回はそのつづき。
「赤壁‐苦肉の計」といふのなら、このケースこそ主役なのではないかと思ふ。
一番左端にゐるのが闞沢だ。
闞沢は、人形劇のときにはどことなくをばさんめいた雰囲気があつた。
なんだらうね。口のまはりに髭生やしてたりするのにね。
思ふに、くるくるとうねる髪の毛と大きな目、ふつくらとした頬が、「をばさん」な雰囲気だつたのかもしれない。
ヒカリエの闞沢は違ふ。
人形劇に出てゐたときの雰囲気をどことなく残しつつ、をばさんめいた雰囲気は微塵もない。
そして、なんだか、とつても人形つぽいカシラだ。
「なにを云ふてゐるのか、だつて人形だらうに」といふ向きもあらう。
わかる。さう云ひたくなる気持ちはとてもよくわかる。
何度か書いてゐるが、ここに飾られる新たに作られた人形のカシラは、どこかリアルな感じになることが多い。
前回で云ふなら許褚や夏侯惇だ。
人形劇のときの趣を残してはゐるものの、許褚のカシラは人形劇のときの方がユーモラスでデフォルメがきいてゐるし、夏侯惇のカシラは前回の展示のときの方がずつとシリアスかつリアルな感じだつた。
先日書いた徐盛にしてもさうである。いま渋谷にゐる徐盛は、そのまま人形劇に出てきたら浮くんではあるまいかと思ふくらゐリアルな出来のカシラである。
それが、闞沢の場合は違ふのだ。
人形劇のときよりデフォルメがきいてゐる。そして、云はれないと川本喜八郎作とは気づかないかもしれない。そんな感じがする。
おなじことはそのすこし手前にゐる黄蓋にも云へる。
敢て云ふなら、「まんがチックなカシラ」、といつたところだらうか。
黄蓋は、人形劇のときはガラス(あるいはアクリル)の目だつた。今回はガラスは入つてゐない。
人形劇のときは、「モデルは舅か鬼一のカシラか知らん」と思ふてゐたものだつた。
いま渋谷にゐる黄蓋のカシラからは、元となるカシラを想像するのはチトむづかしい。
まあ、こちらに文楽の素養が足りないこともあるけれども。
でもなんか違ふんだよなあ。
こちらも、云はれないと川本喜八郎の人形とは思はないかも。
しかし、黄蓋と闞沢とはよく雰囲気が似てゐる。
同時期に作つたものなのかもしれないなあ。
その隣やや後方に孫権が座つてゐる。
孫権は初回の展示のときにもゐた。向かつて左前方にゐる孔明の後頭部を焦げよとばかりに睨みつけてゐた、とは、当時書いたとほりである。
今回の孫権は真正面を向いてゐる。
カシラは人形劇のときよりもわづかに縦長になつてゐて、それでちよいとばかり大人びて見えるやうな気がする。
正面を向いてゐるので、瞳の緑の色もわかりやすい。
それにしても、孫権つていつつもかうして正面切つて座つてゐるやうな気がするんだがなあ。
飯田で見たときもさうだつた。
ほかの恰好は見られないのだらうか。
たとへば立つてゐる姿、とかさ。
孫権は武将の出で立ちとかしたことないから、あまり勇ましい姿は期待できないのかもしれないが……
あ、でも、殺生石を斬つたりとかしてたよねえ。
そんな、動きのある孫権を見てみたい気がするなあ。
ムリかな。
その右前方に周瑜がゐる。
周瑜の目は今回も正面を向いてゐる。
周瑜は初回の展示のときにゐて、そのときも目は正面を向いてゐた。
周瑜といへば、キリキリと眦の切れるのではないかと思ふほど睨みつける表情が印象深い。呂布とどつちが、と思ふくらゐだ。
人形劇のときのポスターの写真も周瑜はそんな感じだしね。
その周瑜が、だ。初回の展示のときも今回の展示のときも、真正面を見てゐる。
思つたね。
初回のときに思つた。
もしかしたら、渋谷の周瑜の目は動かないのではあるまいか、と。
動かないかはりに、目を閉じることができるのではないか、と。
そんなことないかなあ。
さすがにそれはないか。
目が動かなかつたら、楽士が間違へたときにそちらをちらりと見ることができなくなるもんね。
目が正面を向いてゐると、横を見てゐるときよりも表情は柔和になる。
人形劇のときのキリキリした周瑜ももちろんいいけれども、どこか穏やかな表情で立つてゐる周瑜も悪くない。
その周瑜を向かつて左から見たときに、周瑜の肩口から覗くほんのり微笑んだやうな小喬のかんばせがたまらないのが今回の展示である。
我ながら何を云ふてゐるのかわからない。
わからないけれども、ここが今回のベストアングルだな。
さう思ふくらゐ、いい。
いいなあ、小喬。
人妻なのに、見るからに少女のやうな出で立ちである。衣装にピンクの部分が多いからだらうか。
躰も全体的に小さくて、顔もちよいと丸くて小さい。
衣装のピンク色が甘過ぎるんだけど、それがまたいい感じなんだなあ。
妹が少女のやうなら、姉はしつとり女らしいのだらうか。
そんな妄想もしてしまふ。
動くところを見てみたいねえ。
その右側、すこし離れたところに蔡中がゐる。
「お願ひ」といふやうに手を組んで前につきだし、膝をついてゐる。
これがまた前回書いた蒋幹とおなじくらゐ、人形劇に出てゐたときと変はつたやうすがない。
そのまんま。
蔡中も、さほど出番の多い登場人物ではなかつたがなあ。
あれか、蒋幹も蔡中もそれほど活躍の場がないから、印象を新たにする機会がなかつた、といふことなのだらうか。
それはあり得るかもしれない。
その右隣、すなはちケースの一番右端には蔡瑁がゐる。
こちらは名札を見ないと誰だかわからない。それくらゐ、人形劇のときとは変はつてしまつてゐる。
人形劇を知る人ならば、蔡瑁といふよりは曹豹だな、と思ふのではあるまいか。
人形劇のときの蔡瑁は、今月末までは飯田市川本喜八郎人形美術館にゐる。
いま飯田にゐるやうすと人形劇のときのやうすとはだいぶ異なるが、でもまあ、人形劇を見た人が見たら「蔡瑁だな」とわかる。
人形劇の蔡瑁が、実はやつがれは結構好きでね。
といふ話は何度かしたか。
もう、こすつからーい悪でね。小悪党。決して大事を為すことはない、小さい小さいケチな悪。
人形劇のときはさういふ感じがよーく出てたんだよねえ。
曹操に降つてからのごまをするやうな感じとかもよかつた。
渋谷の蔡瑁には、さういふ感じはあまりしない。
さうだなあ、なんとはなし、大人つぽい顔立ちをしてゐる、といへやうか。大人しさうでもある。
なんでこんな風に変はつてしまつたのか知らん。気になるなあ。
といふわけで、三国志の人形はこんな感じ。
次回、平家物語につづく。
「赤壁‐苦肉の計」の前篇はこちら。
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