無用の用
先日、「漢文法基礎」を再読した。
ここ一年ばかり漢文のマイブームがきてゐて、意外なことにつづいてゐる。
「ぢやあここでひとつ「漢文法基礎」でも読みなほすか」といふので、読みなほしてみた、といふわけである。
ところで、これまた去年の夏から、細々と「新釈漢文体系」の「史記」を読んでゐる。
なぜ読みはじめたのか。
「史記」を読む前に、「十八史略」を読んだ。
読んで、「なんか、これはもつと元になるものを読まないといかん」と思つた。
なぜさう思つたのかは、わからない。
それで、去年の七月、国立劇場の歌舞伎鑑賞教室に行く前に、「本紀」の下を買つた。
どうせ読むならおもしろさうなところから読まうと思つたからである。
「新釈漢文体系」の「史記」の「本紀」の下は項羽本紀からはじまる。
やはり、そこからだらう、と思つたわけだ。
「新釈漢文体系」にしたのは、原文が載つてゐるからである。
句読点や返り点、一二点などはついてゐる。
ついてゐないとまづ読めないからね。そこは歓迎だ。
世の「史記」には、原文が載つてゐないものが多い。
といふ話は以前にしたか。
一番確実で安値で手に入るのは学習参考書だ、と、その時に書いた。
「史記」を読みたい、といふとき、なにが読みたいのか。
内容だけわかればいいのか。
だつたらダイジェスト版でいい。
「十八史略」でも十分だらう。
しかし、「十八史略」では満足できなかつた。
せつかく読むのだから、司馬遷の書いたとほりとはいへないが、しかし書いたものに限りなく近いだらう形で読みたいぢやあないか。
さう思つたわけだ。
一杯やりつつ「史記」をちびちびと読む。
そんな読み方でずつと来た。
はづかしながら、素面のときに読んだことがない。
ここに来るまでに「世家」の下と「列伝」の三とを読んだ。
今、「本紀」の上を読んでゐる。
死ぬまでに全部読めればいいな、くらゐのつもりでゐる。
読みはじめた時点では、まだ全巻出版されてゐなかつたしね。
どうやら今月、最後の一巻が出版されるのらしい。
出るか出ないかやきもきせずにすむな。
読んでゐて、ときどき思ふ。
「やつがれは、なぜこんなものを読んでゐるのだらう」
読みたいから読んでゐる。
それだけのはずである。
それだけのはずなのだが、読んだところでいいことがあるわけではない。
仕事に役立つわけではないし、普段生きていくのにまつたく必要はない。
読まなくたつて生きていける。
むしろ、ほかに読んだらためになる本が世の中にはいくらもあるのだ。
なのになぜ、やつがれは「史記」なんぞを読んでゐるんだらう。
冒頭に書いた「漢文法基礎」には、最後著者が読者に向かつて、「今後も漢籍を読んでもらひたい」といふ主旨のことを書いてゐる。
「そんな役に立たないことを」といふ向きもあらう。だが、「無用の用」といふこともある。
著者はさうも書いてゐる。
なるほど、「無用の用」か。
やつがれ風情が考へたところで、役に立つかどうかなんて、わかるはずがない。
いまでも読んでゐて、「なんで自分はこんなものを読んでゐるのだらうか」と思ふこともある。
さういふときは「無用の用」を思ひ出すことにしてゐる。
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