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Friday, 30 May 2014

ノートがあまりに減らないのは

好きなことについて書くことは、むづかしい。

四月からアサヒ屋紙文具店のクイール・ノートを使ひはじめた。
このノートについては、ここにも何度も書いてゐる。
萬年筆との相性も最高だ。
ゆゑにどんどん書けるだらう。
さう思つてゐた。
使ひはじめたころは。

ところが、である。
なんだかあんまり書き込んでゐないんだよなあ。
使用済みのページ数がなかなか増えない。
Moleskineのポケットサイズ罫線ありと比べると、クイール・ノートは方眼用紙になつてゐて、マス目にそつて書くとかなり字が細かくなる。
また、クイール・ノートはほぼ文庫サイズなので、Moleskineのポケットサイズに比べたらちよつと大きい。その分一ページに書ける量も多くなる。

しかし、サイズはあまり問題ではなささうだ。

今回、クイール・ノートを使ふにあたつて、「ほんたうに好きなことについて書いてみたい」といふやうなことを考へた。
好きなことつて……ここにもいくらでも書いてゐるぢやあないか。
さうも思ふ。
これまで使つてきたノートにも、好きなことはくどいほどに書いてきた。

だが、ほんたうに好きなこと、好きなことを好きである実体については、ほとんど書けてゐない。
自分ではさう思つてゐる。

ほんたうに好きなことについては書けないので、勢ひ、その周辺のことにばかり言及してしまふ。
そして、中心よりも周辺の方が広いのはあたりまへで、ゆゑにいくら語つても語り尽くせない。語らうとすればするほど、外郭へ外郭へと対象が広がり、二進も三進も行かなくなる。

また、真に好きなことではないから、いくらでもことばを費やせてしまふ。
妙な話かもしれないが、さうのである。
だいたい好きなことは好きのだ。だから、いくらでも語れる。いくらでも語れて、でも、肝心要のことについては、ことばが及ばない。なんとか迫らうとしてことばを費やして、そして、徒労に終はる。

いつもさうである。

いつそ、ほんたうに好きなことについてはなにも云はないことにしたらどうか。
さう思ふこともある。
そして、Twitterでつぶやいた内容の解析結果を見てみると、ほんたうに好きなことや好きなものの名称は、ほとんどつぶやいてゐない。
その周辺のことやものについては、何度も何度もつぶやいてゐるといふのに。

もしかしたら、自分が「ほんたうに好きなこと」と思つてゐる、その「好きなこと」は、実は全然好きでもなんでもないことなのではあるまいか。
さう思ふこともある。
だから語れないのではないだらうか。
それはありうるかもしれない。
いはゆる、思ひ込みだ。

そこらへんのこともつきとめやうとして、今回のノートには「ほんたうに好きなことについて書きたい」とか、最初のページに書いてみたんだがなあ。
どうやらこれがなかなか書き込めない原因のひとつなのらしい。
最近やつとそのことに気がついた。

語れないのなら、もう語るまい。
それについては語らず、その周辺について何千語何万語と語つてみやう。
さうするうちに、語らずにいるものの輪郭くらゐは見えてくるのではあるまいか。

と、開きなほるのに、すこしかかつてしまつたな。
でもまあ、今のノートを使つてゐるあひだは、ちよつと抵抗してみやうかなと思つてゐる。
ほんたうに好きなことについて、できるだけ向き合ふやうにして、つづつてみたい。
多分、心の底では書きたくて仕方がないのだと思ふてゐる。
書きたくて仕方がないけど、書けないんだよな。

まづは今のノートを使ひきるまで、無駄な抵抗を試みることにしやう。

Thursday, 29 May 2014

近頃の萬年筆事情

最近、パイロットのカクノを愛用してゐる。

Untitled

ここのところ文書の誤字脱字チェックのやうなことばかりしてゐる。
このとき、印刷した文書に訂正内容を書き込むのにカクノを使つてゐるのだ。

インキの色は青い方に色彩雫の孔雀、紫の方におなじく色彩雫の紫陽花を入れてゐる。
赤色にしない理由は、「赤ペン先生にならないため」だ。
自分用には朱紺色鉛筆を使ふときもあるけれど、他人に見せることが前提の場合は、カクノを用ゐることにしてゐる。
誰しも自分の書いた文章を他人にとやかく云はれるのはイヤだらう?
ましてや、「無駄にエラそー」なやつがれに云はれるなんて、やつがれだつたら我慢できないよ。

といふわけで、少しでも視覚的にやはらかな印象を、といふのがひとつ、また、書いたあと、確認しやすい色、といふのがひとつ、さうした理由で孔雀と紫陽花とを使つてゐる。

カクノは、使つてゐる人はご存じだと思ふが、インキの減りが普通の万年筆より早い。
それも道理である。
なぜならカクノのペン軸は密封されてゐないからだ。
キャップの先と尻の部分を見ると穴があいてゐるのがわかる。
これがインキの減りの早い原因になつてゐる。

以前のペリカーノJr.にもこの問題はあつた。
問題はあつて……でも、それつて、悪かないんぢやない?
だいたい、万年筆に補充したインキは、早く使ひきつた方がいいとされてゐる。
最近どこかで見かけた注意書きには、補充したインキは一ヶ月以内に使ひきること、と書いてあつた。
同様に、ボトルインキも早めに使ひ切るに限る。

カクノにしてもペリカーノJr.にしても、日々使ふ前提で作られてゐるのだらう。
あるいは、カクノの方は学校で使用する前提もなし、「早めにインキを蒸発させてしまへ」といふ考へで作られてゐるのかもしれない。
だつたら、そんなに目くじらをたてることでもない。
カクノには、丁寧な使ひ方説明書もついてくるし、万が一インキがつまつたとしても、それを読めばなんとかできるだらうし。

といふわけで、ここのところかつてない勢ひでカクノのインキを補充してゐる。
カクノが書きやすいペンだからだ。
気軽に使へるしね。
たぶん、今後もしばらくはカクノに活躍してもらふやうである。

とかいひながら、ここのところ、ペリカンのスーベレーンM400もいい感じなんだよな。
やつがれのスーベレーンは9年前にフルハルターで調整してもらつたアイヴォリートートーイス(「ホワイトトートイス」だが、フルハルターのサイトに「アイヴォリーといふてもよいやうな色合ひ」といふやうなことが書かれてゐたので)。
現在ではねぢの溝の部分にインキ汚れが染み着いてしまつてあまりうつくしいといふ感じではなくなつてしまつたが、なに、それだけ使つてゐるといふことだ。
モンブランのロイヤルブルーを入れてゐる関係で、Moleskineを使つてゐるときにはあまり活躍の場がない。
でもSmythsonの紙とは相性抜群なんだよねえ。
今年はSchott's Miscellany Diaryを使つてゐるので、意味もなく書き込んではニヤリとしてしまふ。危険人物である。

さうさう、どうやら昨日でこのblogも十歳になつたのらしい。
すつかり忘れてゐた。
最初のエントリは、奥泉光の「鳥類学者のファンタジア」の感想だつた。どうも時に隔てられた人間たちの関係に弱いところがあつて、この小説もさうしたところがたまらなくよかつた。
帰宅したらチャーリー・パーカーでも聞くかな。

Wednesday, 28 May 2014

流転無恆處

誰知吾苦艱
と、曹子建の「吁嗟篇」はつづく。

しかし、思ふのだ。
流転して恆の処なし?
上等ぢやあないか、と。

といふわけで、昨日で飯田市川本喜八郎人形美術館の現在の展示が終はつた。
今日は定休日である。
明日明後日と臨時休館で、土曜日から新たな展示が公開される。

去年のいまごろも、「飯田の展示が変はつてしまふー」と嘆いてゐた。
なにを嘆くことがある。
さう疑問に思ふ向きもあらう。
展示がかはつたとて、人形は同じぢやあないか、と。

それがちがふのである、といふ話は、ここでくどいほど書いてゐる。
ちがふのである。
そのときの展示によつて、同じ人形でもまるで別人のやうに見える。
人形劇のときとも別人のやうだつたりもする。
たとへば呂蒙がさうだつた。
「人形劇三国志」の呂蒙といへば、「あれはない」と酷評されるほど、「三国志演義」とは違つてひどい悪人である。
当然、テレビに登場するときも、えらいヒールな顔つきで出てくる。
それが、展示になると違つたんだよなあ。
どこか遠くの空を見て、行く先に思ひをはせる姿は、とてもあの人形劇に出てきた呂蒙とは思へなかつた。

そのときによつてちがふといへば夏侯惇だ。
はじめて飯田に行つて見たときは、失礼ながら夏侯惇とは思はれぬほど思慮深げに見えたものだつた。
それが次の展示のときには、武人らしい猛々しさもある姿で立つてゐた。
同じ人形なのに、である。

だから、行くのがやめられない、といふ寸法だ。

昨日までの展示は、ここにも書いたが、酒呑みには堪へられない展示だつた。
石広元・孟公威・崔州平の三人が飲んだくれてゐるさまを見るにつけ、「ああ、酒呑みつて、いいなあ」と思つたものだつた。
人形劇では石広元と孟公威とは一緒に飲んでゐる場面がある。崔州平はその前に出てきてゐるのでその場にはゐない。
しかし、三人してかうして飲んだこともあつたのだらうか、とか、いろいろ想像しちやふんだよね。

さらに、人形アニメーションの展示にゐた李白がすばらしかつた。
いつたい何回李白のケースのまはりをぐるぐると経巡つたことであらう。
李白のうしろに立つて、李白が見てゐるだらう月を見上げる。
「花間一壺酒」、などとつぶやいてみる。
「獨酌無相親」。いいぞいいぞ。
飯田に行くときは、睡眠不足のことが多い。
「今夜は飲まないことにしやう」と思つてゐても、この李白を見たら、ねえ。
といふわけで、今回の展示を見に行つたをりには、ついつい飲んでしまつたりしてゐる。

ところで今回の展示では、孔明が草蘆にありしころの姿である、といふのがチトめづらしいんではあるまいか。
まあ、何回かに一度はあるのだらうけれど。
隣に立つ水鏡先生の衣装があまりにすばらしいので、ちよいと見落としがちだつたが、孔明の身につけてゐるのは小千谷縮なのださうである。

人形劇で、草蘆にありしころの孔明といふと、登場する前の逸話がとにかく印象深い。
玄徳が関羽と張飛とをつれて、はじめて孔明の草蘆にたどりつく。
すると、ひとりの若者が出てくる。
孔明の弟で、諸葛均と名乗るこの青年、愛想もなければそつけもなくて、とてもクールでたまらない。
もしかすると、諸葛均に腹を立てて二度と草蘆を訪れなかつた人物もひとりやふたりではないのではあるまいか。
「兄はゐません」といふ諸葛均は、では待たせてもらへまいか、といふ玄徳に、それはかまはないけれどいつ帰つて来るかわかりませんよ、と答へる。
どこに行つたかも、いつ帰つてくるかもわからない。
四日か五日で帰つてくることもあれば、十六日くらゐになることもある。
長いときは半年も帰つてこなかつた。
しかも、してゐることといへば「このあひだは野原で昼寝ばかりしてゐたと云つてゐました」、ときたもんだ。

いいなあ。
昼寝ばかり。
夢のやうな暮らしぢやあないか。
心のおもむくままにふらつと出かけ、気が向いたら帰宅する。
うらやましい。
当時、心底さう思つた。

当時心底さう思つたことをすつかり忘れてゐて、先日DVDで見直して、あらためて「ああ、なんてうらやましい」と思ひ出してしまつた。
いいぢやあないか、「流転して恆の処なし」。
まあ、曹子建には曹子建のつらい思ひがあつて、そこもよくわかるし、それだからよけいに「吁嗟篇」は好きなのだが。
しかし、それとは違つた意味で「吁嗟此轉蓬居世何獨然」とひとりごちるのも、いいんぢやああるまいか。
作者には申し訳ないけれども。

次回の展示ではどうかなあ。
新たな展示では、「平家物語」がメインになるやうだ。
ここのところ人形劇の展示は三国志ばかりだつたので、これまた楽しみだ。

糜滅豈不痛、か。

Tuesday, 27 May 2014

修行

先週、80番の糸でタティングしてみた話を書いた。
DMCのスペシャルダンテルは細いけれども、結びやすい糸ではある。
結びやすい糸ではあつても、こちらの技量が追ひつかねばどうしやうもない。
そんなやうな話だ。

といふわけで、その後、すこし太めの糸でタティングしてみました、といふ結果がこの写真である。

Tabathas

Kersti AnearのデザインしたTabathaといふ栞を作つてみた。
上が40番、下が20番の糸で作つたものである。どちらも糸はLisbethだ。

最初に作つたのは、下の20番手の方である。
日曜日にNHK教育TVの将棋を見ながら作つた。
といふわけで、一時間半くらゐでできたわけだ。
やつがれは手が遅い方なので、早い人なら一時間もかからずにできるのだらう。

Lisbethの20番は、総じて結びやすいと思ふ。
確かLisbethで一番最初に出たのが20番の糸だつた。
三玉ほど買つて、そのときは大して感銘をうけなかつた。
「こんなものかな」くらゐに思つてゐた。
販売元のHandyHandsから、「最初のLisbethの糸の品質がよくないので、作りなほしてもらひました。今回はそれを送ります」といふて、新たな糸が三玉やつてきたのは、購入後どれくらゐたつてからのことだつたらうか。
まあ、見違へるほどによくなつてゐたね。びつくりだ。いままでのアレはなんだつたんだらうといふらゐよくなつてゐた。

その後、もつと細い糸や太い糸などヴァリエーションも増えて、本邦でも店頭で取り扱ふ店があつたりして、結構この糸を使つてゐる人は多いんぢやないかと思ふ。
ちなみに、Lisbethを扱つてゐるのを見たことがあるのは、越前屋とドヰ手芸とである。いまもあるかどうかはわからない。

閑話休題。
下の栞を作るのに使つた糸も、とてもタティングのしやすい糸だ。
タティングのしやすい糸の場合、リングを引き締めるときに引き締めすぎることがない、とは以前書いた。
今回もそんな感じだつた。
ところが、ここにひとつ問題があつた。
Tabathaは、20番で作ると大きくなりすぎてしまふのである。

栞の下にあるのは、新書サイズの本のカヴァである。そのカヴァから栞がはみだしてゐる。
いや、それはちよつと、大きすぎるだらう。
文庫本に使つたら、完全にはみ出てしまふ。はみ出しすぎてしまふ。
ぬーん。忘れてゐた。

といふわけで、おなじ日曜の夕方ごろから、今度は上の40番の糸でおなじ栞を作つてみた。
サイズとしては、許容範囲だらうか。
文庫に使つたらやはりはみ出さうだけれども、なに、栞は多少ははみだしてナンボだし。

先に20番を使つたせゐだらうか、40番のときはなんだかやりづらかつた。
シャトルに巻いた糸に妙にねぢりが入つてゐたこともある。
多分、巻き付ける時に変な撚りが入つてしまつたのだらう。
それでリングを引き締めるときに、糸がねぢれてしまつて、うつかりすると糸にこぶができさうな感じだつた。実際できたこともあつたしね。

Lisbethは20番が一番いいのかもしれないなあ。
そんなことも思つたりする。

いづれにしてもさらなる精進が求められる。
20番で練習すればいいか知らん。

ところで、この栞、どちらも一番最初の部分に誤りがある。
ぐるつと回つて最初に戻つてきてはじめて気がついたので、どちらもあとの祭りだつた。
どうかしてるのかな。
どうかしてるのかも。

Monday, 26 May 2014

棚卸

例によつて、くつ下は全然進んでゐない。
どうしやうかと思ふくらゐ進んでゐない。
まだかかとにも入つてゐないしなあ。
とはいへ、編みあがつたところで即使ふとも思へないので、まあ、いいか、と思つてゐる。

編みあがつたら即使うものといつてなにがあるだらう。
時期的に、綿とか絹とか麻で編んだものだらうな。
いまはまだいいけれど、この先屋内の冷房がきつくなつてきた時のためになにか羽織るものを編む、とか。

糸はある。
絹はもう何年前に買つたのか忘れたパピーの絹糸がある。
中細くらゐだと思ふのだが、なにを作るつもりで買つたのか、まつたく定かではない。
着分はあるので、なにか着るものを編むつもりで買つたのであらう。
去年、一玉出してきてためしに編んでみた。
「すてきにハンドメイド」のテキストに載つてゐたかぎ針編みのショールでも編むかと思ふたのだが、試し編みした結果、やつがれの求めるやうなものにはならなかつた。
それでそのままはふつてある。

麻もある。
去年、風工房の本に載つてゐるストールを編むために、指定糸を指定外の色で買つた。
去年は、おなじ本に出てゐるかぎ針編みのスカーフに手こずつてしまひ、ほかのものはなにも編めなかつた。このスカーフもまだ仕上がつてはゐない。最後の糸玉の途中で放置してある。
まづはこれを先に完成させるかな。スカーフは綿の糸だ。

綿麻混紡の糸もあつた。
むかしのカネボウ、今でいふベルクリエイトの糸だ。編みやすい糸なんだよね。
安売りしてゐたのをなにも考へずに十玉大人買ひしたものだ。
その後Ravleryによさげなプルオーバーがあつたのでそれを編むつもりでゐる。

といふわけで、糸はある。
絹糸の方はともかく、麻の糸の方は作りたいものもある。
あとは、はじめればいい。
はずなんだがなあ。

さういへば、去る秋冬もさうだつたけれども、この春夏もあみものの本を買つてゐない。
タティングレースの本は二冊ほど買つた。一冊、ビーズを取り入れたものも買ふつもりでゐたが、たまたま店頭で見かけたときにどうしても買ふ気になれずにそのままにしてゐる。
あれ、近々もう一冊くらゐ出るんだつけか?

タティングレースの本は買ふのに編みものの本を買はない所以は、編みものは買はなくても編みたいものがすでにあふれるほどあるからだ。
タティングレースはそれほどでもない。
特に近年出版された本によく出てゐるやうな小さいものを、やつがれはタティングで作りたいとは思はない。
なのに書店で見かけるとつい買つてしまふ。
いかんなあ。

「毛糸だま」も夏号は買はない気がする。
などと云ひながら、以前も書いたけれど、本で見たときはいいとは思はなかつたのに、Ravleryなんかで実際に編んだ人の写真を見たりすると、無性に編みたくなつたりするときがあるんだよねえ。
あれはふしぎである。
Monkeyといふくつ下などは、Knittyで見たときはそんなにいいと思はなかつたけれど、Ravelryでいろんな人の編んだいろんなMonkeyを見たら、「やつがれも編まねば!」と思つたものなあ。
なんだらうね。
おなじものがいくつもいくつも並んでゐると、よく見えるのだらうか。
謎である。

そんなわけで、買ひそびれて後悔するのもイヤなのだが。
しかし、なんだかピンとこないのである。
いつたい、誰向けの作品なの?
さう思ふことが多いからだらう。
すくなくとも、やつがれ向きぢやあないことは確かだ。

ひとまづは、くつ下かスカーフか、つづきを編むことにしたい。
タティング熱がおさまつたら、だらうけれど。

Friday, 23 May 2014

おもしろくてためにならない「役に立たない」シリーズ

役に立たないことしか好きではない。

あみものなどをしてゐると、こんなことを云ふ人がゐる。
「あみものは編んで楽しいし、できあがつたものは役に立つし、飽きたり着られなくなつたりしたら糸をほどいて再利用できるし、ほんと、いいことばつかり」

残念ながら、やつがれはあみもののさういふ面をほとんど評価しない。まつたくしないわけではない。いひわけにはなると思つてゐる。
帽子や手袋、くつ下を編むのは防寒のため。
役に立つぢやあないか。
でもその実、編むと決めたその瞬間から、「役に立つ」だなんてこれつぽつちも考へてゐない。
編みたいから編む。
それだけである。

むしろ、やつがれにとつて、あみものは害悪だ。
編む時間があつたら家事をしろ。
もしくは仕事の足しになるやうなことを、あるいは人のためになるやうなことをすればいいのに。

おそらく、世の中の「役立つことが好きな人」はさう考へるのにちがひない。
そして、大半の人は、さう考へるのだ。

今朝、駅の中にある書店に寄つたら、守屋洋の孫子の本が平積みになつてゐた。
出たのはもつと前なやうな気がする。多分、NHK教育TVの「100分de名著」で孫子をとりあげた直後くらゐではなかつたか。
だいたい、守屋洋守屋淳つて、昔からこんな本をたくさん出してるよね。
#訂正
#守屋洋ぢやなかつたね。
#守屋淳。
#申し訳ない。

その本の帯に、「ビジネスの場ですぐ役に立つ孫子」みたやうな惹句が躍つてゐた。
「ビジネスの場ですぐ役に立つ」。
こんな惹句で、この本を手にする人がゐるんだらうか。

ゐるんだらうな。
やつがれにはちよつと信じられないけれど。

むしろ、「役に立たない孫子」といふ本はないのか。
そんな本があつたら、なにをおいても買ふけどなあ。
いいぢやん、「読んでもまつたくためにならない孫子」。
いいぞいいぞ。
たれかそんな本を書かないものかなあ。
ゐないのならば、ヲレが書く。
それくらゐの勢ひである。

「役に立たない論語」とかもいい。
どこかからお叱りを受けさうな気がするけども。
「役に立たない経済学」とか、もしあつたら読みたい。絶対買ふね。
いいなあ、「役に立たない」シリーズ、とか。

思ふに、読書人(といふものが存在するとして)には、さういふ嗜好の持ち主が多いんぢやあるまいか。
書店の店頭にあふれるビジネス書なんて、常日頃から書籍に親しみ、収入のほとんどを本代につぎこむやうな人は、見向きもしないんぢやあるまいか。
そんな気がしてゐる。
統計を取つたわけではない。
単なる勘である。

それでもあれだけのビジネス書が発売されて、本棚を埋め尽くしてゐるといふことは、えうは、普段本を読まない人を相手に商売してゐる、といふことだらう。

つまり、「役に立たない」シリーズは商売として成り立たない。
最近ではものすごーく特殊な嗜好の人々だけにねらひをつけた商売とかあるけれどもね。
まあ、本ぢやあねえ。
しかも「役に立たない」ときてゐる。

だが、待てよ。
ここはひとつ「孫子」の兵法でも読んで、「役に立たない」シリーズのマーケティングとやらに生かしてみるのはどうだらうか。
そして、そのときの経験を「役に立たない孫子」に盛り込むのだ。
あら、なんだか先が見えてきたぢやない。

問題は、さうすると、「孫子」が役に立つてしまふ、といふことか。

Thursday, 22 May 2014

川本喜八郎人形ギャラリー 鬼界島

四月二十五日から展示中の渋谷ヒカリエは川本喜八郎人形ギャラリーについて、今回は平家物語のうち「鬼界島」を書く。

「鹿ヶ谷」からの流れで、ここには三人ゐる。
ケースの奥、向かつて左側に立つてゐるのが、藤原成経である。
まんまるい顔にまんまるな目、しまりのない口元、着てゐるものはもとは貴族めいた衣装だつたらう襤褸である。
この、襤褸なやうすがとてもリアルだ。
かつて、大河ドラマ「平清盛」の見てくれが汚いのなんのと文句をつけた人がゐたといふ。
でもそれをして、「あんな風に着つつ慣れにしといふ感じを出せるなんて、なんてすばらしいんだらう」といふやうなことを云ふのたは、坂東玉三郎だつた。
渋谷の少将成経、とてもとても地元の娘さんとのlove affairなんて想像できないやうな、幼い顔立ちだ。
と、考へてしまふのが、歌舞伎の「俊寛」に慣れ親しんだものの病であらう。
芝居では少将成経は白塗りのいい男だし、着てゐるものも襤褸ではあるけれどもそれなりに身支度は整つてゐる。
それとも、渋谷の成経くらゐ親しみやすい感じの人の方がlove affairには向いてゐるのだらうか。
でもどこか呆けた印象があるんだよなあ、この成経には。

その隣にゐる平康頼も、同様に都で着てゐたらう衣装がぼろぼろになつてしまつた、といふやうな出で立ちで立つてゐる。
成経もさうだけれども、衣装の如何にも日に焼けたらう褪色ぶりがみごとだ。
成経にしても康頼にしても、「なんで鹿ヶ谷の陰謀なんかに加担したの?」と問ひかけたくなるくらゐ、無防備で怠惰な印象を受ける。「なんかの間違ひでせう」と云ひたくなるくらゐだ。
といふわけで、前回の「鹿ヶ谷の陰謀は、陰謀でもなんでもなくて、単に酒の上での戯れごとだつたのではないか」といふ仮説にうなづいてしまふわけだ。
まあ、無防備なのはともかく、怠惰なのは慣れない遠島の暮らしでさうなつてしまつたのかなあ、といふ気はするけれども。
成経が「船?」といふやうに驚いてゐて、「そんなことあるかよ。幻だらう」と康頼が云つてゐる。
そんな風にも見える。

その二人の前にゐる俊寛は、しかし、まつたく違つてゐる。
このケースの主役は俊寛なのでは、と思ひたくなる所以である。
なんたつて、ふたりゐるしね。鹿ヶ谷のときの俊寛と、鬼界島のときの俊寛と。
俊寛の衣装は、もちろんぼろぼろではある。ぼろぼろではあるけれども、上に着たものの色は少将や判官よりは濃い。もとは深い牡丹色のやうな色だつたんだらう。
膝を突いて腕を伸ばし、去りゆく御赦免船に向かつて呼びかけてゐる。
そんなやうすに見える。
髪はのび、表情には鹿ヶ谷で見せてゐるやうな不適なやうすはない。
鹿ヶ谷のカシラとはちがつて、眉が動くやうになつてゐる。
ここぞといふときに動かしたのにちがひない。
浄瑠璃の「俊寛」とはちがひ、この俊寛は不本意ながら島に置き去りにされるのだらう。
それでゐて、目にはまだ力が残つてゐる。
それがすこし不思議である。
このあと俊寛は、がつくりと力を落としてしまひ、弟子の有王丸が島にたどりつくころには、都での威勢はいまいづこ、といつた瀕死のやうすになる。
人形劇ではそこまではやらなかつたんぢやないかな。
やはり、「平家物語」もちやんと見ないとダメかー。

ギャラリー内部はこんな感じである。
今回、ギャラリーの外のケースには、妾馬……ではなくて、メカ馬が並んでゐる。
「人形劇 三国志」に出てきた騎馬兵だ。
見ればわかると思ふが、おそらく1/8くらゐのスケールの、ちいさな人形がおなじくちいさな馬に乗つてゐる、そんな人形たちである。
さう、人形「たち」である。
当時彼らはコンピュータ制御で動いたのだつた。
それで人形劇ではムリだらうといはれてゐた騎馬の動きを実現したのである。
馬につける細工によつて、落馬させたりもしてゐたといふ。
メカ馬については、「チャチい」とか「興醒め」とふ意見もある。
やつがれは、「画期的だつた」と思つてゐる。
よく見ると、一頭一頭飾り物もちがふし、人形も一人一人身につけてゐるものも得物も違ふ。顔つきだつて、多少のちがひがある。
これひとつ(といつても何人も何頭もゐるわけだが)を見てゐるだけでも、実に楽しい。

ほかには、前回も飾られてゐた川本喜八郎関連のムック本が飾られてゐる。
前回、呂布と貂蝉との写真の部分が飾られてゐた角川書店から出版された本は、今回は赤壁のころの周瑜・魯粛・諸葛亮の写真の部分が展示されてゐる。
呂布と貂蝉とは実にすばらしい写真だつた。
「もうお前しか見えないぜ」とばかりに必死なやうすの呂布にどこかうつろな表情の貂蝉といふのが、このふたりの関係をよくあらはしてゐるやうに見えた。
今回の写真は、ちよつと演出過多かなー、といふ印象はあるものの、でも三角形の緊張感をよくあらはしてゐるやうに思ふ。

平凡社から出てゐる本は、現在でも入手可能なので、興味のある向きには是非。

「赤壁‐苦肉の計」の前篇はこちら
「赤壁‐苦肉の計」の後篇はこちら
「厳島」の前篇はこちら
「厳島」の後篇はこちら
「鹿ケ谷」はこちら

Wednesday, 21 May 2014

80番の糸を使ふてみる

優しいタティングレース」を買つた話は、一昨日昨日と書いてきた。
なかで、「いいなあ」と思つたものは、80番の糸を使つてゐる、といふことも。
本では、DMCのスペシャルダンテル80番を使つてゐる。
ところによつては「Tatting Thread」などとも呼ばれてゐる糸である。
正式名称ではあるまいと思ふがね。
しかし、海外の手藝用品サイトなどを見ると、たまに「Tatting Thread」と称してDMCのスペシャルダンテル80番を商つてゐるところがある。
「なるほどねえ」とうなづく向きもあらう。
この糸はタティングしやすいものね。

タティングレースをはじめてしばらくたつたころ、80番の糸を使つてゐたこともある。
色が多彩なのがいいやね。
もう廃番になつてしまつたが、淡いピンクのとてもよい色の糸があつた。いまあるものとは少しちがふ。淡い色ではあるけれど、日の光の下で見ると、実にやはらかくてよい色の糸であつた。
コルドネスペシャルの80番も買つたなあ。

その後、80番手以上の細い糸でタティングすることがまれになつた。
理由は……うーん、我ながら謎である。
ひとつには、80番手以上の細い糸で作つたものは、実用にならない気がしたからだらう。
なにしろ、繊細なのである。
普段使ひにするなんて、考へられないくらゐ、華奢なのである。
そこがいいのよ、といふ意見もあらう。
さう、タティングレースをはじめる人は、どうやらどんどん細い糸を求めるやうになる。さういふ傾向がある。
その傾向が、おもしろくなかつたんだらうな、おそらく。
それに、太い糸の方がタティングのスティッチがはつきり出る。ぷつくりとふくらんだ結び目は、太い糸の方が明らかに見える。
細い糸より太い糸の方がいいぢやん。
そんな風に思つたわけだ。
天邪鬼だから。

その後、以前ほどタティングしなくなり、手元にあるのは20番とか40番の糸ばかりになつた。
大抵40番を使ふんだけれども、ときどき20番を使ひたくなるときがあるんだよねえ。
作品によるんだと思ふ。
栞だと、ちよつとしつかりめに作りたいときは20番くらゐがいいなと思ふときがあるんだよね。

そんなわけで、40番を超えるやうな糸とはご無沙汰してゐたわけだ。
そこに「優しいタティングレース」である。

いいなー、80番。

だが待てよ。
確か、手元にあるぢやあないか、DMCのSpecial dentellesの80番が。

といふわけで、急遽作つてみたのがこれである。

Tatted Motif

「優しいタティングレース」に掲載されてゐるものだ。
作りはじめた時点で、すぐに「80番はやつがれには過ぎた糸だ」といふことが痛いほどわかつた。
やつがれにはこんな繊細な糸をあやつるだけの技量がない。
技量はないけれど、糸を巻いてしまつのたで、とりあへず二段目まで作つてみた。
ボビンにはまだ糸がかなり残つてゐるので、もうちよつとつづけられさうな感じだ。
まあ、ボビンは入れ替へればいいから、いやになつたらとりあへずボビンを替へればいいんだけどね。

で、まあ、出来はよろしくないのだが、しかし、スティッチ自体はきれいに出るのがスペシャルダンテルのいいところだよなあ。
あと、おなじ80番でもダルマやリズベスのものより圧倒的に結びやすい。
だからなんとなく使へるやうな気がしてしまふんだらうな。実際はそこまでの力量はないのに。

とりあへず、まちつと太い糸で精進することにしやう。

Tuesday, 20 May 2014

ダブルインパクト

昨日のエントリにも書いたとほり、先週、GR-8 Tatting Shuttleが届いた。
木はPink Ivory。この木で作つたスピンドルを持つてゐるので、どんな木かといふ予想はだいたいついてゐた。

昨日もすこし書いたやうに、手に取ると、木目のつまつた感じがする。感触はつるりとなめらかだ。
手持ちのGR-8 Tatting Shuttleの中では、黒檀の手触りによく似てゐる。
これと比べると、Bloodwoodはすこしなめらかな感触に欠けるところがある。Ash(トネリコらしい)は、なめらかさはあまりなくて、持つたときにしつとりした感じがする。

重たさでいふと、計つてはゐないけれども、手に持つた感じだと、Bloodwoodが一番重たくて、Pink Ivoryと黒檀はおなじくらゐかな。結構ずつしりくる。Ashが一番軽くて、あまりずつしりとした感じはしない。

総じて、今回購入したPink Ivoryは、手持ちの黒檀のタティングシャトルによく似た感じがする。
色以外は。

そんなわけで、手にした瞬間なんだかうれしくなつてしまつて、ついつい栞なんぞを作つてしまつた。
でも、気力がなくて糸始末はしてないけど。

さうかうするうちに、金曜日に「優しいタティングレース」を購入して、これがまたなんとなくいい感じの本なので、つい、黒檀とPink Ivoryとに糸を巻いてしまひ、作つたのが、「優しいタティングレース」の表紙になつてゐる替襟に使はれてゐるモチーフである。

Untitled

これがむづかしくてなー。
大きいリングつて、リングを作つてゐる途中でどうしてもスティッチをよせてしまふやうになるので、スティッチがつまつてしまふんだよねえ。
で、それを解消しやうとしながら糸を引くので、加減がどうもうまくつかめないのだ。

小さいリングは小さいリングで糸を引ききれないことが多い。

そんなわけで、よれよれしたモチーフになつてしまつた上、あとちよつとのところで糸がなくなつてしまつた。

うーん、これはここで終はりにするかなあ。

替襟自体はちよつと作つてみたいので、もう一度最初から作りなほすかもしれない。

「優しいタティングレース」は、昨今出版されてゐるタティングレースの本とちがつて、すこし大きい作品が多いのがいい。
ちいさいものはすぐに作れていいけれど、おなじものをいくつも作つても始末に困る。
のみの市で売る? 自分でデザインしたわけでもないのに?

その点、大きいものは作るのに時間はかかるけれども、その分仕上がるのはひとつだけだし、まあ、いいんぢやないかなつて、さう思ふ。

シャトルと本とのダブルインパクトで、ここのところだいぶしよぼくれてゐたタティング熱再発といつたところ。
なんといふか、こー、ほかのことを考へずにタティングばかりしてゐられるやうな、そんなことつて、できないか知らん。
そんな、夢のやうなことばかり考へてしまふ。

Monday, 19 May 2014

本物らしく見せるには

先週は、ほぼなにひとつ編んでゐない。

Katnissといふくつ下を一足同時に編んでゐる、といふ話はここで何度か書いた。
放置中である。

理由はいくつかある。
四月の末くらゐから「Trouble is my business.」を地で行くやうな仕事をしてゐて、自由な時間がほとんどなかつた。
さうして忙しくしてゐるうちは、帰宅後意地でも編む。
だが、さういふ状態から抜けて、しかもその仕事をしたせゐで本来の仕事が遅れてしまつてゐる、といふ状態がつづくとチト厳しい。
家に帰りつくと、疲れてしまつてなにもできない。
「なにもできない」といふのは文字通りの意味で、布団を引くことさへできない。寝間着に着替へるさへ面倒だ。
椅子に座るとそのままもう動けなくなつてしまふのだ。
それでなにもせぬまま時間だけが過ぎて行つて、就寝時間が遅くなり、翌日最悪の状況を迎へる、といふことに相成る。

もうひとつの理由は、実は、先週、注文してゐたタティングシャトルが手元にやつてきたことだ。
以前からよく書いてゐるGR-8 Tatting Shuttleである。木はPink Ivory。持つたときに目のつまつた感じがする。そして感触はとてもなめらかだ。
いいぢやあないか。
さらに、週末に「優しいタティングレース」を買つてしまつたので、余計にタティングレース熱があがつてしまつたのだらう。
とかいひながら、疲れてよれよれの状態で結んだりするのでたいしたものは作れてゐないし、その作れたものもなんだからよれよれのぼろぼろなのだが。

さて。

そんな状態ではあるが、5/18(日)、国立劇場の小劇場で文楽の昼の部を見てきた。
竹本住大夫引退公演である。
その話はまたの機会があれば、といふことで、今回は終演後のバックステージツアーで感じたことをちよつと書く。
終演後、文楽の人形について、人形遣ひ・吉田和生に直接伺ふ機会を得た。
そこも細かい話はいろいろあるのだけれども、そこはおいて、文楽の人形の衣装は、染めの段階から注文してゐる、といふ。
人間用の衣装の柄では人形の大きさには合はないからだ。また、客席から見たときに見栄えのするやうに作る必要もある。
織りで柄を出してゐるものは当然織りの段階から注文を出すんだらうな。
刺繍も同様だらう。
さうでないと、本物らしく見えないのらしい。

文楽の人形は、1/3くらゐのスケールだらうか。昔の人と比べたら身長は1/2くらゐかもしれない。かなり大きい。
手の抜けないサイズである。

ここでも以前に書いたやうに思ふが、1/6スケールのリカちやんやジェニーの服を作る場合、人間のそれとまつたくおなじやうに作るよりは、大胆に省略したりデフォルメしたりした方が、それらしく見えることがある。
きものなども、人間のきものを仕立てるやうに仕立ててもいいけれど、すつきり着つけやうとしたらちよつと工夫が必要だ。

これが1/5スケールのスーパードルフィーになると、リカちやんでやつたやうな省略をすると途端に安つぽくなる。
できるだけ人間の衣装に近い感じでちいさく作る。さうしないと、なんだかをかしいのだ。

たとへば、やつがれはリカちやんやジェニーのセーターなどを編むときは、できるかぎり、とぢはぎのない方法で編む。
とぢたりはいだりが面倒くさい、といふこともあるし、苦手、といふのも事実だけれども、とぢたりはいだりしたときにできる縫ひしろ部分が、どうしてもゴロゴロするからだ。

世の中には、リカちやんのセーターを編むにもきちんと人間のそれを編むときとおなじやうにこだはつて編む人がゐるといふ。
それはそれでいいと思ふ。
さういふ人はきつとちやんとあみもののできる人なのだらう。
やつがれは……うーん、なんていふか、無手勝流だからなあ。

でも、とぢはぎのないセーターの方が着つけたときにすつきりして見えるんだよね。
それに、腕のあげさげもしやすい。
リカちやんに編むセーターは、さういふところが大事かな、やつがれにとつては。

それぢやあスーパードルフィー用はどうするか、といふと……やはり縫ひしろはできるだけ作らない。
あと、リカちやんのときは、ぱつと見たときにそれらしく見えればいいやといふやうなレースを使ふときがあるけれど、スーパードルフィーのときは人間用の替襟をそのまま編んでショールにしたりとかするね。糸や針はそのままのときもあるし、ちよつとちいさいものを使ふときもある。

とか書きながら、最近、全然そんなものは編んでゐないなあ。
とりあへずリカちやんの夏ものでも編むか。
くつ下を編み終へたら、だけど。

Friday, 16 May 2014

川本喜八郎人形ギャラリー 鹿ケ谷

四月二十五日から展示中の渋谷ヒカリエは川本喜八郎人形ギャラリーについて、今回は平家物語のうち「鹿ヶ谷」を書く。

一昨年だつたらうか、辻村寿三郎の「平家物語」の展示に行つた。
鹿ヶ谷の説明文に、「鹿ヶ谷の陰謀は、陰謀でもなんでもなくて、単に酒の上での戯れごとだつたのではないか」といふやうなことが書かれてゐた。
なるほどなあ。
平家に不満を持つた人々が集まつて、酒を酌み交はす過程で、
「どうですか、ひとつ、平家なんか打倒してやりませうよ」
なんてな話になるわけだよ、酔つた勢ひでさあ。
それでどんどん盛り上がつちやつて、そのうちとつくりが倒れたもんだから、
「瓶子が倒れましたぞー」
とか、ますます楽しくなつてきちやつた、と。
だから策といつてもなんだか杜撰だし、実際、酔ひが覚めたら「なんだつたつけ……ま、いつか」くらゐの感じだつたのではあるまいかなあ。
でもほら、ゐるでせう、さういふ酒の席にひとりくらゐはなんだかまはりの盛り上がりに乗れない人つて。

といふわけで、「鹿ヶ谷」のケースの一番左端に座してゐるのが、その「ひとり盛り上がりに乗れなかつた男」、多田行綱である。
いや、まあ、盛り上がりに乗れたか乗れなかつたかはわからないが。
さうでもないか。打倒平家といふ波には乗れなかつたんだよな、蔵人は。
狂騒の中ではよかつたけど、みんなと別れてふと我に返つたときに、「だが待てよ」と思つてしまつたのだらう。
行綱は、三角眉の尻が上がつてゐて、ちいさな目の尻は下がつてゐる、そんな顔立ちをしてゐる。
この場では、とりあへずみんなの仲間入りをしてゐる。
そんな印象で座つてゐる。
衣装は、ちよいとくすんだ黄色の大柄なもの。陰謀の場にはそぐはないが、酒盛りの場であればばつちり。そんな出で立ちだ。

やつがれの中ではすつかり「鹿ヶ谷の陰謀」といふのは、実は単なる酒盛りの果て、といふことになつてゐる。
でも、中には本気の者もゐただらう。
たとへば、行綱の隣に座つてゐる西光なんかは、本気も本気、「やつたるでー」といつた状態だつたのではあるまいか。
いかにもきかん気の強さうなカシラがさう物語つてゐる。
身につけてゐるものも、この中ではかなり質素な感じだ。
「オレがこんなに本気なんだから、みんなだつておんなじだらう」
そんな風に思つてゐるやうにも見受けられる。

よくわからないのがその隣に座つてゐる成親さまだ。
あ、うつかり「さま」をつけちやつた。
ご存じ藤原成親は、平重盛の義兄である。
さう、平家の次期頭領たる重盛の妻は、成親の妹なのである。
なのに反旗を翻すのか。
説明にもあるとほり、成親は、宗盛に先を越されて本来ならば自分がつくはずだつた位につけなかつた。
おそらく、宗盛のあとはまた誰か平家一門のものがその位につくのであらう。
自分の番は永遠に回つてはこない。
成親はさう考へたのにちがひない。
さうでなければ、平家にたてつかうなんて、無謀だ。
娘はあつちにゐるわけだしさあ。
まあ、もしかすると当時は自分の娘に対する考へ方がいまとは違つたのかもしれない、と思はないでもない。
嫁に行つたものは嫁に行つたもの。家を出て行つたのだから、あとは知るか。
それはちよつと乱暴かもしれないが、さういふ考へ方もあつたかもしれない。
いづれにしても、成親は、どこまで本気だつたのかよくわからない。
ここにゐる成親は不満顔である。
すこしあがり気味の顎からそんな感じを受けるのかもしれない。
衣装は、これまでに見てきた藤原家の人々よりは質素に見える。

その成親のななめうしろに燦然と立ち尽くすのが、このケースの主役・後白河法皇である。
いや、このケースの主役は俊寛なのかな。
ま、いいか。
いづれにしても、ひとり高いところに立つて、じろりと彼方を睨みやる姿がとてもいい。
身につけてゐるものも、これでもかといふくらゐきらびやかである。金糸をふんだんに使つた法衣に九条袈裟。全体的には、黄緑色のやうにも見える、ちよつと玉虫色を想像させるやうな色合ひだ。
派手といふ意味では、浄海入道よりずつと派手だ。そして、その派手な衣装に、人形はけつして負けてゐない。見事に着こなしてゐる。
いやはや、目を引くわー。
後白河法皇のカシラも、「陰謀大好き」つてなやうすに見える。しかも、時忠にはない妖気のやうなものさへただよつてゐる。
実際陰謀好きだつたのではあるまいか。
鹿ヶ谷ではどこまで本気だつたのか、不明だが。
「平家? 倒れてくれればラッキーかな」くらゐな感じだつたのかなあ。

さて、そのななめ前方で、成親・西光・行綱を睥睨するやうにして立つてゐるのが、俊寛僧都である。
こちらも、後白河法皇には遠く及ばないものの、身につけてゐるものは立派なものだ。
豪勢な頭巾をかぶり、小豆色かな、法衣には白つぽい花かつみの模様が散らしてある。
俊寛は、このあと鬼界島に流されて、御赦免船には乗れず、弟子の有王丸がやつてきた時にはもう都での威風はまるでなく、といふ悲劇的な話で有名だ。
ここでは、都にゐたころのエラそーでちよつと人を人と思はぬやうな雰囲気の漂ふ俊寛である。
目の玉の動くカシラだしね。
眉もはねあがつた形で、如何にも気が強さうだ。

この俊寛が、鬼界島に流されて、といふのが、次回の話である。

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Thursday, 15 May 2014

川本喜八郎人形ギャラリー 厳島 後篇

四月二十五日から展示中の渋谷ヒカリエは川本喜八郎人形ギャラリーについて、今回は平家物語のうち「厳島」のつづきを書く。

さて、中央に立つ清盛の向かつて右斜め前には、徳子がゐる。
覆ひかぶさるやうにして、琴を弾じてゐる。
衣装は十二単。
うつむいてゐるのでよく見ようとするとチト苦しいが、ぱつと見たところ、実に川本美人といつた趣である。
印象としては嫁ぐ前だよねえ、と思ふのだが如何に。

といふのは、その背後に二位の尼と安徳天皇がゐるからである。
安徳帝は、この後出てくる禿とおなじやうな髪型をしてゐる。おなじ衣装を着て一緒にゐたらどちらがどちらかわからないくらゐだ。
といふのも、「なにもおわかりでない」といつた印象の顔立ちだからだ。
御年から考へたら仕方がないことではある。
だいたい、だいぷ年上だらうに、禿にはどこか頭のねぢが一本か二本、足りないやうな感じがするものな。
二位の尼は、そんな安徳帝に寄り添ふやうに立つてゐる。心持ちうつむいた顔に、皺の影が見える。
時子は、二回目の展示のときにゐた。目のきつぱりとした聡明さうな顔立ちだつた。
今回の展示では、どこか気弱げに見える。
一族の行く末を見通してゐるのではないか。
そんな気がしてならない。
以前、飯田で見た新たに作つた二位の尼は、毅然としたやうすだつたがね。見惚れたものである。
渋谷の二位の尼も、飾りかたによつてはさう見えるのかもしれない。

徳子の隣が忠度。
衣装の色は、敦盛の衣装をもつと男らしくしたやうな感じである。
上が代赭で、下が浅葱色、とでもいはうか。
忠度は、小鼓を打つてゐる態。
これがまたなかなかきつぱりとした表情でいい感じなんだよねえ。
平忠度といふと、古い世代には「薩摩守をきめこむ」なとどいふ、忠度にとつてはよろこばしくない言い回しで有名だ。
春秋に富む方々のために書いておくと、「薩摩守=忠度=ただ乗り」といふことで、無賃乗車のことをさう云つたのである。
「平家物語」なんかには「詠み人知らず」の逸話が取られてゐたりするし、かうして見るとなかなかの武人に見えるし、おそらく鼓もよく打つのだらう。
最近は「薩摩守をきめこむ」などといふ人間もゐないやうだ。
忠度もさぞかし安堵してゐることだらう。

忠度の隣にゐるのが宗盛。
こちらは大鼓をかまへてゐる。
衣装はベージュのやうな色合ひで、ほかの人々のやうに透けた素材ではない。裾に菊だらう、刺繍された花が散らされてゐる。
この宗盛の顔つきが、「如何にも」といつた感じで、なあ。
ちよつと小太りでいいとこのボンボン然としてゐて、あまり苦労も知らぬ(宗盛はさうでもなからうが)態の、ぼんやりとした表情をしてゐる。
まあ、この男に任せたらダメだね。
と、さういふ目で見るからよけいにさう思ふのかもしれない。
少し真ん中によつた眉がさらに情けないやうすをいやましにしてゐる。
大鼓もちやんと叩けるのかどうか、といつた雰囲気すら漂ふ。

忠度と宗盛とのあひだ、後方にゐるのが頼盛である。
初老のお貴族さまといつた出で立ちで、重盛、経盛同様に蚊帳の外感が強い。
頼盛は、なにしろその衣装がいい。
渋い紫色の透ける地で、よくよく見ると市松模様になつてゐる。その上に白銀の糸で蝶が大きく刺繍されてゐる。
重盛の黒い衣装にはチトかなはねど、頼盛の衣装もいい。

宗盛の隣、ケースの一番右端には、教経がゐる。
左端の知盛と対をなす、黒を基調にした鎧姿である。
顔も、知盛は白塗りだが教経は砥の粉。眉の動くカシラであることがわかる。
知盛はゆつたりと構へてゐるやうに見える一方、教経はどこか思ひつめたやうな表情で座してゐる。余裕が感じられない、といふか、ユーモアを解さない、といふか、そんな感じがする。
知盛と教経との対照的なやうすがおもしろい。
端と端なので、見比べるのはチト難だが、今後もこのふたりには注目してゆきたい。

さて、「厳島」の一団には加はつてゐないのかもしれないが、ケースとケースのあはせめ、角のところには時忠がゐる。
背後に「平家物語」と大書した垂れ幕が下がつてゐる部分だ。
時忠の前には禿がふたり。
一方はちよつとふつくらとした顔立ちで目が細く狡猾さうで、もう一方は顔が長くびつくり目をしてゐて頭の毛が三本くらゐ足りないやうなやうすの禿である。
その背後に立つ時忠の、陰謀家めいた表情が、たまらなくいい。
どうもやつがれは、川本喜八郎の人形のうちでも陰謀家のカシラが好きでならないやうだ。
ややうつむきがちに、扇を口元にあて、左の方向を睨むやうにして、時忠は立つてゐる。
この、鋭い目線がいい。
前回の展示では、義時がそんな胸に一物ありさうなやうすで立つてゐて、やつぱり好きだつたんだよなあ。
ちよつとした展示替へがあつたら、また義時のときのやうに目が前を向くこともあるのだらうか。それもチト楽しみではある。
衣装の色は薄い茶で、青海波模様の透ける地。
今回、少なくとも「厳島」には透ける素材の衣装を身につけてゐる人形が多い。

といふわけで、「鹿が谷」「鬼界島」につづく。

「赤壁‐苦肉の計」の前篇はこちら
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Wednesday, 14 May 2014

川本喜八郎人形ギャラリー 厳島 前篇

四月二十五日から展示中の渋谷ヒカリエは川本喜八郎人形ギャラリーについて、今回は平家物語のケースを見ていく。

入り口を入り左にまがつて正面にあるのが、「厳島」と名付けられた展示である。
栄耀栄華をほこる平家一門がずらりと並ぶさまは壮観だ。

さう、渋谷もさうだし、飯田もさうなんだけれども、ちよつと引いたところからケース全体を眺めるのもこれまた実に楽しい。

この「厳島」のケースがさうだし、もうひとつ平家物語のケースである「鹿ヶ谷」「鬼界島」もさうだ。
人形劇三国志でいへば、入り口を入つてすぐ左手にあるケースは、ちよつとはなれたところから眺めると、孔明が実にエラそーに見える。「三国志」と書かれた垂れ幕を背にしてケースの中央に立つた姿は、その場全体を統べるもののやうな風格がある。
三国志のもうひとつのケースの方は、ちよつと統一感に欠ける気がするが、まあ、気のせゐかもしれないし、蔡瑁・蔡中のせゐかもしれない。

といふわけで、「厳島」である。
向かつて一番左端にゐるのが知盛だ。
白い面に白の印象の強い鎧姿で座してゐて、頭には烏帽子を載せてゐる。
いい。
なんとも、いい。
清盛亡き後の平家の頭領然としてゐる。
頼りになりさう。
頼りになりさうなんだが……兄をさしおいて自分が前に出るわけにはいかなかつたのか。
はたまた軍事の才能はあつたけれども、政治の才能はチト足りなかつたのか。
いづれにしても、知盛はやうすがよい。

その斜め後方に重盛が立つてゐる。
重盛は、その場に参加してゐないやうに見受けられる。
いはば、蚊帳の外、とでもいつた感じだ。
黒字に黒の龍の模様の衣装が大変にすばらしい。
最初は刺繍かと思つたが、あれは織りで模様を出してゐるのかな。
近くで見られないのが残念だ。
衣冠束帯姿で、天をあふぐやうにしてゐる。
岳父の流刑が堪えたか。
それともみづからの寿命を悟つたのか。
我が世を謳歌する一族の中で、ただ一人、憂ひを帯びたやうすがたまらない。

知盛の隣には敦盛。
青葉の笛を吹いてゐる、といつたところか。
衣装は上が代赭といふにはもつと明るいやうな色合ひで、下は瓶覗きといふにはちよいと緑がかつた色で、華やいでゐるやうにも見える一方で、なんとなくあか抜けない感じにも見える。
実際その顔も、どことなくぼんやりとした印象を受ける顔である。

その隣には経正。
こちらも琵琶を弾いてゐる。
衣装は上が深緑といはうか抹茶色のちよつと透ける素材で(敦盛もちよいと透けるやうな素材なのは一緒)、襟元から紫色がのぞいてゐる。下は七宝模様。
敦盛よりは厳しい顔立ちをしてゐて、どことなく若いころの片岡進之介に似てゐるやうな気がする。

敦盛と経正とのあひだの後方に経盛。
重盛よりはましだけれども、若干蚊帳の外感があるのはいなめない。
衣装はベージュといふか、「蚤の腹色」とでもいはうか、渋くて地味だが、おそらく鳳凰と思はれる鳥の模様が描かれてゐる。
カシラも渋いをぢさんの顔立ち。

経正の隣が惟盛。
吹いてゐるのはしちりきだらうか。
透ける素材の青い衣装がよく似合つてゐる。ところどころに白い鳥が飛んでゐるのもいい。
人形の紹介の文章にも惟盛のことを褒めるやうなことが書いてはあるが、どうも「所詮は鳥の羽音に驚いて背走する軍の頭領」といふやうすがあることは否めない。
さういふ偏見の目で見てしまふこちらがいけないのかもしれない。
資盛はゐないんだな。

惟盛の斜め後ろ、このケース全体の中央にゐるのはもちろん浄海入道である。
清盛、ですな。
赤い法衣に金糸と黒糸とを使つた九条袈裟が重々しくも華やかだ。
清盛の出番は、これで終はりなのかな。
さう思ふと、なんだかチトさみしくもある。
初回の展示のときは、布衣の若者だつた。世に不満でも抱いてゐるかのやうな表情で、ちよつと上を見て立つてゐたけつか。
二度目の展示のときは、鎧姿だつた。今思へば、これが一番やうすがよかつたかもしれない。兜を背中にまはしてゐたつけ。
三度目、すなはち前回の展示のときは、太政大臣の姿だつた。左右に白拍子を侍らせた姿は、決して立派とはいへなかつた。それに、やはり、どこか不満げでもあつた。
今回の展示では、功成り名遂げて一門の繁栄をことほぐ姿のはずなのに、やはりどこか不満げなんだよなあ。
さう思つて見るからだらうか。
これまでの展示で、「清盛、いいなあ」と思つたことがない。
比べたら、二回目がよかつた、くらゐである。
人形劇で見るとまた違ふんだけどね。
なんといふか、一度くらゐはもうちよつと幸せさうなやうすの清盛を見てみたかつた。
そんな気がする。

といふわけで、つづく。


「赤壁‐苦肉の計」の前篇はこちら

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Tuesday, 13 May 2014

うまくいかないことばかり

使ひたいときに使はうと思つてゐた糸がない。
まあ、世の中そんなもんだよな。

といふわけで、先日作りはじめた途端失敗してしまつたドイリーの真ん中部分を仕上げはした。
まんなかのチェインの長い部分も失敗してしまひ、まあ、これはもともとさうなる運命だつたのだらう、と、あきらめることにしてゐる。
そんなわけで写真はなしだ。

それにしても、タティングレースに関してはここのところ、なにをやつてもダメなんだよなあ。
Jon YusoffデザインのThe Twirlyといふモチーフをつないで作つてゐたドイリーもどきは、チェインのくり返しが一回足りないといふので、ランナーといふにも短いやうな中途半端な状態で終へてしまつたし。
今回は今回で、つなぐ場所を間違へて、しかもそれに気づくのが遅かつたので、もうそのまま突つ走つてしまつたし。

なにか小さいものでも作ればいいのだらうか。
栞とか。
モチーフでもいいけれども。

ところで今回、久しぶりにGR-8 Tatting Shuttleを使つた、とは先日書いたとほりである。
使ひはじめると、これがまたいいシャトルなんだな。
前回書いたときに、すでに「使ひ方を思ひ出した」といふやうなことを書いた。
今回使つてゐて、ますますいい感じで使へてゐる。
ここのところ、Aerlitのシャトルを主に使つてゐる、とも、何度か書いてゐる。
Aerlitのシャトルのいいところは、ボビンのとりはづしのできるシャトルであるといふことと、軽いといふことである。
軽いので、二個使ひをしてスプリットリングを作るときなどに、芯糸の方のシャトルを手の甲側にまはしても、重たい感じがしない。
GR-8 Tatting Shuttle だと同じことをしたら、かなり重たい感じがすることになる。

だつたらAerlitのシャトルを使へばいいぢやないか。
さう思はないでもない。
Aerlitのシャトルの困るところは、ボビンに糸を巻きづらいところである。
ボビンがつるつるしてゐるので、糸を巻きつけるときに滑つて苦労をする。
その点については、Aeroのシャトルのボビンの方がいい。ボビンがAerlitに比べてざらついてゐるので、糸を巻き付けやすいのだ。
糸を巻き付けやすいといふことは、糸がほどけてきづらいといふことでもある。
特に糸が残り少なくなつてくると、ボビンから糸がほどけてずるずると出てきてしまふことがある。
ボビンに適度なざらつきがある方が、さういふ事態に陥りにくい。

GR-8 Tatting Shuttleはどうか。
黒檀のシャトルは、シンガーミシンのボビンにあはせて作つてもらつたものである。
シンガーのボビンは、芯の部分にみぞがある。したがつて糸を巻きやすいやうになつてゐる。
Bloodwoodのシャトルは注文したときにボビンもいくつか頼んだ。
こちらも芯の上下にみぞがある。
今回、Bloodwoodのシャトルのボビンに巻き付けた糸をギリギリまで使ふことになつた。
それでも、途中でずるずるとほどけてくることはなかつた。
よくできてるぢやあないか。

あとは、まあ、くどいほど書いてゐるやうに、GR-8 Tatting Shuttleはおそらく一番つきあひの長いシャトルなので、そりやここ一年ほど使ふやうになつたシャトルよりは使ひやすいのは当然、といつたところだらう。

うーん、それにしても使はうと思つてゐた糸はどこに消へてしまつたのか。
それともあれは夢だつたのだらうか。

Monday, 12 May 2014

踵をどうしやう

Katniss in Progress

くつ下は、すこしづつ編み進んでゐる。
Magic Loopでの一足同時編みは久しぶり、と前回書いた。
編みはじめのうちは、なんだか要領を得なくてなかなか進まなかつたが、先週半ばくらゐから、すこし編めるやうになつてきた。
そんな気がする。

それにしても糸と模様とがあはないことこの上ない。
縄編み部分の編み目がつぶれてゐないので、糸自体と模様との相性はいいのだと思ふ。
問題は糸の色(といふか模様といふか)と縄編みだ。

編みはじめる前から、「あはないだらうなあ」と思つてはゐた。
ここまであはないとはねえ。

この写真はまだましな方を写してゐる。
裏はもつと「あはないねえ」といつた色合ひになつてゐる。
そちらを踵側にするつもりだけどねえ。

さう。もうあと一模様も編むと踵に入る。
編み方にしたがへばさうなる。
どうするかなあ。
毛糸の残り具合からいつて、もうちよつと長く編むことは可能である。
履き口はTwisted German Cast onを使つてゐることもあつて、かなり余裕があるしね。
長くするか。
指示通りに編むか。
いつもそのあたりが悩みどころである。

悩みどころといへば、実は踵もさうなのだ。
踵は三角まちのある方法で編む、と、編み方にはある。
しかし、読んでゐてなんだか面倒くささうなんだよね。
踵を返した(heel turn)あと、いろいろ計算をしないといけないのらしい。
最近編んでないから単に引き返し編みだけの踵にしやうかなあ。
ちよつと日和りつつある。

見た目は三角まちのある踵の方が好きなのだが、履いたときにぴつたりくるのは引き返し編みだけで編んだ踵の方なんだよね。どちらかといふと。

このくつ下は結構気に入つたし、もう一足編んでもいいかな、と思つてゐる。
今度編むときは、ちやんと模様と相性のいい毛糸で編みたい。
今回は、ものの試しに引き返し編みの踵で編んでみて、やうすを見る、かなあ。

といふのも、とにかく計算するのがめんどくさいのである。
やれやれ。

Friday, 09 May 2014

考へる暇があつたら読め

世説新語」がおもしろい。
なんでおもしろいのだらう、と考へて、一話一話が短くて必ずオチがある、といふのがいいのだらうと思ひ至つた。
オチはわからないことが多いがなー。

あと、「うまいこと云つたもん勝ち」なところもいい。
「あーこの人、これ云つたあと、今でいふ「ドヤ顔」したんだらうなあ」とか、秘かに考へる。
楽しい。
なんでこんなことが楽しいのか。
我ながら不思議でならない。

現在は「世説新語2」を読んでゐる。
読みはじめる前に、「文選 詩篇」を読んだ。「世説新語」とあはせて読んだらおもしろからうと思つたからである。

逆だつたなあ。
なぜといつて、「世説新語」を読んでゐると、「文選」を読みたくなつてくるからだ。
「世説新語」に登場する人物の多くは、その作品が「文選」にとられてゐる。
おもしろい逸話があつて、その注釈に「この賦は文選読めば出てくるよ」みたやうなことが書いてある。
読みたいだらう?
くるほしいほどに読みたくなつてくる。

ところが、我が家には「詩篇」の、しかもダイジェストしかないんだよなあ。
うーん。

この際、ダイジェストでもいいからおなじシリーズの賦篇と文章篇を買ふか。
いやー、それはないなあ。
だつて「「文」選」だもの。
ダイジェスト版と知りつつ「詩篇」を買つたのは、「詩篇」なら原文が出てゐると思つたからだ。
選ばれた文を鑑賞するなら、当然もとの文を読みたい。
翻訳された文だけでは、なぜ選ばれたのか、わからないかもしれないぢやあないか。

もちろん、もとの文、すなはち漢文を読んで理解できるわけではない。
でも、わかるわからないは問題ぢやないんだよね。

それではなぜ「文選」を買ふことをためらつてゐるのか。
それは、「買つても読めないかもしれない」と思ふからだ。

史記」をちびちび読んでゐる、といふ話は以前書いた。
全十五巻、いまやつがれとしては四巻めを読んでゐる。
いつ読み終はるだらうか。
ちよつと気が遠くなる。

一度読んで終はりではない、とも思ふてゐる。
それは「世説新語」もおなじなんだけどね。
今後何度も読むだらうし、読みたいとも思つてゐる。
そんな中に、「文選」を入れる余裕があるだらうか。

人間、生まれたときから人生のカウントダウンははじまつてゐる。
はじまつてはゐて、それを意識することは、おそらくこどものうちはない。あるとしても、終りはもつと先のことだと思ふことが多いのではあるまいか。
カウントダウンの聲を意識するやうになりはじめると、「あとどれくらゐ本を読めるだらうか」だとか「あとどれくらゐあの曲やその曲を聴けるだらうか」とか、そんなことを考へはじめる。
少なくともやつがれはさうだつた。
それで、「「史記」は全部読めればそれでいいか」と思つたりもするわけだ。
上に書いたことと矛盾するかもしれないけれど。

しかし。
「世説新語」を楽しみたいのなら、「文選」も手元にあつた方がいいよなあ。
ぬーん。

そんなこと考へてゐるあひだに読めよ。
さう思はないこともないのだが。

Thursday, 08 May 2014

一日間風神雷神図屏風三双鑑賞

美術館や博物館には滅多に行かない。
人ごみが苦手だからである。
もつと云ふと、藝術作品に興味がないんだな。
いや、それともあるのだらうか。
展覧会といふのは混んでゐても空いてゐても、ほかの客を気にし乍ら見ることになる。
「この絵、ぢつくり見たいんだけどなー」と思ひつつも、客が多いと係員に「足を止めないでください」とか注意されるし、少なければ少ないで、自分ばかりでこの絵を独占してもほかの人に悪いし、と気にかかる。
だつて好きな作品は、やつぱり心行くまで楽しみたいぢやん。

そんなわけで、去年「書聖 王羲之」展に行つたのを最後に展覧会の類には行つてゐないし、その前は多分十年くらゐあいてゐる。東急文化村で見たマグリット展、かな、「書聖 王羲之」展の前は。

そんなやつがれが、この連休は展覧会に行つてきた。
ひとつは東京国立博物館の開山・栄西禅師 800年遠忌 特別展「栄西と建仁寺」
もうひとつは出光美術館の「日本の美・発見IX 日本絵画の魅惑」である。

さう。
一日で風神雷神図屏風を三双すべて見る。
それが今回の任務であつた。
#「任務」て……

「栄西と建仁寺」展で俵宗達の、東京国立博物館本館で尾形光琳の、出光美術館で酒井抱一の、それぞれの風神雷神図屏風を見ることができる。
いい時代に生まれたなあ。
もとい。

三者の風神雷神図屏風を比較した話なんぞといふものはいくらもあるだらう。
さう思つて、ここには書くまいと思つてゐた。
あたりまへのことは書かない、といふ、左氏伝の筆法である(違。

でもまあ、ありきたりではあるけれども、思つたことを書いておかう。

一日で三双すべてを見る。
それに伴ふ弊害を考へないではなかつた。
多分、一番最初に見た絵に引きずられるだらう。
さう思つてゐた。
実際、危惧してゐたとほりになつた。

一番最初に見たのは伝・宗達の風神雷神図屏風だつた。
ご覧になつた向きにはご存じかと思ふが、見てゐるだけで楽しい気分になつてくる絵である。
NHK教育TVの「びじゅチューン」といふ番組で、井上涼なる人物が、「風神雷神図屏風を見て、デートの場にかけつけて来た二人を思ひついた」といふやうなことを云ふてゐた。
なるほど、この絵を見てゐると、そんな微笑ましさを覚えなくもない。
屏風自体は横長で、ゆゑに空間の広さを覚える。
ほんのわづかだが、雷神の方が風神より高い位置にゐるやうに見える。肘があがつてゐるからだらう。
空間とわづかな位置の違ひだけで、格段に生き生きとしたやうすに見える。

といふのが、光琳の風神雷神図を見るとよりよくわかる。
光琳の屏風は縦長だ。
さらに、風神と雷神との周囲の雲が黒くかなりはつきりと描かれてゐる。とくに雷神の方の雲は宗達に比べて描かれてゐる範囲が広い。
つまり、空間が狭い。
風神と雷神との上下の位置はほとんどおなじやうに見える。ゆゑに互ひに向かひあつてゐるやうに見える。向かひあつてゐるやうに見えるのに、なぜだか「デート」の趣はない。
#だからデートぢやないんだつてば。
光琳の方が皺の描き込みなども多くて、宗達と比べると若干リアルな感じがする。
それと、光琳の方が保存状態がいいのか、色がはつきりくつきりしてゐる。
そんなあれこれがないまぜになつたのだらう、光琳の風神雷神図からは宗達のそれほど躍動感を感じなかつた。

それぢやあ抱一は、といふと、不思議と動きのある絵なんだなあ、これが。
抱一の屏風も縦長で、それは光琳と変はらない。
ちがふのは、皺などの描き込みが光琳より少ないのと、雲の描き方もまばらなこと、そして、一番ちがふのは、雷神の方が風神より高い位置にゐることだ。
抱一は、宗達の風神雷神図を知らなかつたといふ話がある。
それがほんたうだとするなら、光琳の風神雷神図を見て「俺ならかう描く」と思つたのだらう。

見る人が見れば、もつといろいろあるんだらうが、やつがれにはこれが精一杯だ。

さうさう、雷神つて、おへそがあるのね。
あるなら他人のを取るなよなー。

「栄西と建仁寺」展では、実は水墨画がおもしろくて、海北友松が若いころに描いた襖絵なんか、友松つぽさが稀薄で、おもしろかつたなあ。もちろん「雲龍図」や「竹林七賢図」もおもしろかつたけど。
といふやうな話は、まあ、また機会があれば。

Wednesday, 07 May 2014

川本喜八郎人形ギャラリー 赤壁‐苦肉の計 後篇

渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの四月からの展示についてである。
前回、入口を入つてすぐのケースについて書いた。
今回はそのつづき。
「赤壁‐苦肉の計」といふのなら、このケースこそ主役なのではないかと思ふ。

一番左端にゐるのが闞沢だ。
闞沢は、人形劇のときにはどことなくをばさんめいた雰囲気があつた。
なんだらうね。口のまはりに髭生やしてたりするのにね。
思ふに、くるくるとうねる髪の毛と大きな目、ふつくらとした頬が、「をばさん」な雰囲気だつたのかもしれない。
ヒカリエの闞沢は違ふ。
人形劇に出てゐたときの雰囲気をどことなく残しつつ、をばさんめいた雰囲気は微塵もない。
そして、なんだか、とつても人形つぽいカシラだ。
「なにを云ふてゐるのか、だつて人形だらうに」といふ向きもあらう。
わかる。さう云ひたくなる気持ちはとてもよくわかる。
何度か書いてゐるが、ここに飾られる新たに作られた人形のカシラは、どこかリアルな感じになることが多い。
前回で云ふなら許褚や夏侯惇だ。
人形劇のときの趣を残してはゐるものの、許褚のカシラは人形劇のときの方がユーモラスでデフォルメがきいてゐるし、夏侯惇のカシラは前回の展示のときの方がずつとシリアスかつリアルな感じだつた。
先日書いた徐盛にしてもさうである。いま渋谷にゐる徐盛は、そのまま人形劇に出てきたら浮くんではあるまいかと思ふくらゐリアルな出来のカシラである。
それが、闞沢の場合は違ふのだ。
人形劇のときよりデフォルメがきいてゐる。そして、云はれないと川本喜八郎作とは気づかないかもしれない。そんな感じがする。

おなじことはそのすこし手前にゐる黄蓋にも云へる。
敢て云ふなら、「まんがチックなカシラ」、といつたところだらうか。
黄蓋は、人形劇のときはガラス(あるいはアクリル)の目だつた。今回はガラスは入つてゐない。
人形劇のときは、「モデルは舅か鬼一のカシラか知らん」と思ふてゐたものだつた。
いま渋谷にゐる黄蓋のカシラからは、元となるカシラを想像するのはチトむづかしい。
まあ、こちらに文楽の素養が足りないこともあるけれども。
でもなんか違ふんだよなあ。
こちらも、云はれないと川本喜八郎の人形とは思はないかも。
しかし、黄蓋と闞沢とはよく雰囲気が似てゐる。
同時期に作つたものなのかもしれないなあ。

その隣やや後方に孫権が座つてゐる。
孫権は初回の展示のときにもゐた。向かつて左前方にゐる孔明の後頭部を焦げよとばかりに睨みつけてゐた、とは、当時書いたとほりである。
今回の孫権は真正面を向いてゐる。
カシラは人形劇のときよりもわづかに縦長になつてゐて、それでちよいとばかり大人びて見えるやうな気がする。
正面を向いてゐるので、瞳の緑の色もわかりやすい。
それにしても、孫権つていつつもかうして正面切つて座つてゐるやうな気がするんだがなあ。
飯田で見たときもさうだつた。
ほかの恰好は見られないのだらうか。
たとへば立つてゐる姿、とかさ。
孫権は武将の出で立ちとかしたことないから、あまり勇ましい姿は期待できないのかもしれないが……
あ、でも、殺生石を斬つたりとかしてたよねえ。
そんな、動きのある孫権を見てみたい気がするなあ。
ムリかな。

その右前方に周瑜がゐる。
周瑜の目は今回も正面を向いてゐる。
周瑜は初回の展示のときにゐて、そのときも目は正面を向いてゐた。
周瑜といへば、キリキリと眦の切れるのではないかと思ふほど睨みつける表情が印象深い。呂布とどつちが、と思ふくらゐだ。
人形劇のときのポスターの写真も周瑜はそんな感じだしね。
その周瑜が、だ。初回の展示のときも今回の展示のときも、真正面を見てゐる。
思つたね。
初回のときに思つた。
もしかしたら、渋谷の周瑜の目は動かないのではあるまいか、と。
動かないかはりに、目を閉じることができるのではないか、と。
そんなことないかなあ。
さすがにそれはないか。
目が動かなかつたら、楽士が間違へたときにそちらをちらりと見ることができなくなるもんね。
目が正面を向いてゐると、横を見てゐるときよりも表情は柔和になる。
人形劇のときのキリキリした周瑜ももちろんいいけれども、どこか穏やかな表情で立つてゐる周瑜も悪くない。

その周瑜を向かつて左から見たときに、周瑜の肩口から覗くほんのり微笑んだやうな小喬のかんばせがたまらないのが今回の展示である。
我ながら何を云ふてゐるのかわからない。
わからないけれども、ここが今回のベストアングルだな。
さう思ふくらゐ、いい。
いいなあ、小喬。
人妻なのに、見るからに少女のやうな出で立ちである。衣装にピンクの部分が多いからだらうか。
躰も全体的に小さくて、顔もちよいと丸くて小さい。
衣装のピンク色が甘過ぎるんだけど、それがまたいい感じなんだなあ。
妹が少女のやうなら、姉はしつとり女らしいのだらうか。
そんな妄想もしてしまふ。
動くところを見てみたいねえ。

その右側、すこし離れたところに蔡中がゐる。
「お願ひ」といふやうに手を組んで前につきだし、膝をついてゐる。
これがまた前回書いた蒋幹とおなじくらゐ、人形劇に出てゐたときと変はつたやうすがない。
そのまんま。
蔡中も、さほど出番の多い登場人物ではなかつたがなあ。
あれか、蒋幹も蔡中もそれほど活躍の場がないから、印象を新たにする機会がなかつた、といふことなのだらうか。
それはあり得るかもしれない。

その右隣、すなはちケースの一番右端には蔡瑁がゐる。
こちらは名札を見ないと誰だかわからない。それくらゐ、人形劇のときとは変はつてしまつてゐる。
人形劇を知る人ならば、蔡瑁といふよりは曹豹だな、と思ふのではあるまいか。
人形劇のときの蔡瑁は、今月末までは飯田市川本喜八郎人形美術館にゐる。
いま飯田にゐるやうすと人形劇のときのやうすとはだいぶ異なるが、でもまあ、人形劇を見た人が見たら「蔡瑁だな」とわかる。
人形劇の蔡瑁が、実はやつがれは結構好きでね。
といふ話は何度かしたか。
もう、こすつからーい悪でね。小悪党。決して大事を為すことはない、小さい小さいケチな悪。
人形劇のときはさういふ感じがよーく出てたんだよねえ。
曹操に降つてからのごまをするやうな感じとかもよかつた。
渋谷の蔡瑁には、さういふ感じはあまりしない。
さうだなあ、なんとはなし、大人つぽい顔立ちをしてゐる、といへやうか。大人しさうでもある。
なんでこんな風に変はつてしまつたのか知らん。気になるなあ。

といふわけで、三国志の人形はこんな感じ。
次回、平家物語につづく。

「赤壁‐苦肉の計」の前篇はこちら

Tuesday, 06 May 2014

赤は血の色黒は罪の色 タティングシャトル篇

かつて、おなじタイトルでシャープペンシルについて書いたことがある。
そのシャープペンシルはいまでも使つてゐる。
シャープペンシルを使ふ機会はあまりないものの、筆箱の中には入れてゐる。

今回はタティングレースの話である。
タティングレースといふか、タティングシャトル、かな。

Already Made a Mistake

「どこが赤なんだよ」といふ聲が聞こえてくるやうな気もするが、Bloodwoodなので「赤」といふことでひとつ。
光の加減によつて、赤くきらきらすることもある、と、念のため書いておかう。

先日から「ドイリーを作りたい気分なの。白か生成りの糸で」と書いてきた。
白や生成りの糸が手持になかつたので、この色を選んだ、といふ話は先週書いた。
先週は、糸を選んだところで時間切れになつてしまつて、シャトルに糸を巻くところまではたどりつけなかつた。
このままではなにもしないと思ひ、連休最終日の今日、朝からせつせと糸を巻き、時間を見つけてはちよこちよこ結んでみた結果が上の写真である。
いきなり間違へてゐる。

気づいたときにはすでにリングをいくつも作つてゐたし、それを全部ほどく時間は我が人生にはない、と判断してそのままにした。
これはドイリーの中心部であるが、さういふわけでこれ以上大きくなることはあるまい。

もともとはJan StawaszのTatted Treasuresに掲載されてゐるドイリーを作るつもりだつた。
Jan Stawaszものなので、ダブルスティッチの真ん中にピコを作つたりする。
いつもそれを忘れがちで、それで失敗することが多い。
今回はそこんとこはクリアできてるんだがなあ。うーん、残念。

ところで、最近シャトルはAerlit、糸はLisbeth #40ばかり使つてゐたので、今回勝手のちがふことが多かつた。
糸はいい。今回使つた糸は、糸を引くときの糸の滑り具合が最高だ。
どうも糸の滑り具合とかつて、染料によつてちがふ気がするんだよね。
だいぶ昔に「オリムパス金票40番の緑色はダブルスティッチがとてもcrispな感じになつて好き」といふやうなことを書いた。
同じオリムパス金票40番でも、ほかの色だとそんな感じはしない。ターコイズブルーが若干似たやうな感じがあるかな、といふくらゐだ。
また、特にこのメーカーの糸、とは限らないが、黒い糸はなんとなく使ひづらい気がしてゐる。
黒いレースはいいんだけれどねえ。なんとなく、糸が硬い感じがするのだ。
それつて、染料のせゐなんぢやないかなー、と思ふんだよね。
実際はどうかわからないけどもさ。

今回のこの糸は、色のせゐだかどうかは知らねども、結んでゐてもいい感じだし、糸を引く時がなにしろいい。
糸を引きやすいと、思つたより糸を引きすぎないものだ。引き加減を制御しやすいからである。
引きづらい時ほど引き過ぎてしまひがちなんだよねえ。

この糸、もつとほしいなあ。
さうは思へど、手持にほかの糸がたくさんある状況ではチト無理か。

シャトルにはもつと違和感を覚えた。
以前はこのシャトルばかり使つてゐたのになあ。
Aerlitとちがつて、このシャトルは糸を繰り出すときに親指の爪でねぢをひねる必要がある。
そのコツといふかやり方といふかを思ひ出すのにしばらくかかつた。
Aerlitだとボビンを回せば糸の長さを調節できるもんね。
GR-8 Tatting Shuttleの場合、糸を短くしたいときは片手でシャトルを持つてもう片方の手でボビンに巻き取る必要がある。
これ、ほかに方法がないのかなあと思つていろいろと探してゐるのだが、どうやらないつぽい。裏返しにしたときとかシャトルを持ち替へるときにちよつと不便なんだよね。慣れもあるけれど。

さすがにこればかり使つてゐた時期があるだけあつて、そのうち思ひ出したけどね。
思ひ出すと、「やつぱり使ひやすいわー」と思ふ。
木の感触がいいんだよねえ。
大きいから使ひづらいといふ人もゐるけれど、やつがれはそこはあまり気にならない。
クロバーのシャトルの時でもそんなに速く操れるわけではないのでね。

ひとまづ、間違ひはあるけれどこれを完成させる、かのう。

Monday, 05 May 2014

Magic Loopでくつ下を編む

連休に入つて、くつ下を編みはじめた。

Katniss in Progress

Katniss(rav)といふ。
つて書いたところで、まだ模様にも入つてゐないので、なにがなんだかわからないが。

どうやら最後にくつ下を編んだのは、二月らしい
このくつ下はその後履いてみて、「編み込みにしなくてもあたたかいくつ下つて編めるもんなんだなあ」としみじみ思つた。もつと模様がよく出る糸で編むんだつたな、と、ちよつと反省してゐる。
今回のくつ下には縄編みが入つてゐる。やはり糸の選択を誤つたやうな気がしてゐる。
ま、それはいつものことだからな。
Monkeyなんか二足編んだけど、どちらもなんだかしつくりこない糸を使つてしまつたもんなあ。編んでて途中でわかるからやめればいいんだけど、やめられない。
Monkeyについては、それでもよく履いてゐる。なぜといつて、きちんとフィットするからだ。あれはいいくつ下ぢやよ。

ところで、今回は久しぶりにMagic Loopで一足同時に編んでゐる。
うーん、最後に一足同時編みをしたのはいつだつたらう。
写真によると、2010年が最後なのらしい。
なんと!
もう4年もたつのか。
道理でうまく編めないはずだ。

くつ下を編むなら、四本針か五本針でちまちま片方づつ編むのが好きだ。
いろいろやつてみたが、この方法が一番自分の好みにあつてゐるやうに思ふ。
何度か書いてゐるけれど、一本の針にかかつたたいした数ではない目をちまちま編んで、次の針にうつつてまたちまちま編んで……のくり返しが好きなのらしい。
手の動きも最小限だし。
くるくる編んでゐるうちになんとなくできあがる。そんなところがいい。

四本針なり五本針で編むときの問題は、何段目を編んでゐるかわかりづらいことだ。
傍らに段数カウンタを用意して編むこともある。
しかし、くるくる編んでゐるうちにカウンタを回す(あるいは押す)のを忘れてしまふこともしばしばだ。
結局、段をひとつひとつ数へるしかなかつたりする。

さうするとなにが問題なのかといふと、片方仕上げてさてもう片方と思つたときに、何段編んだらいいかわからない、といふことだな。
とはいへ、大抵はなにかしら模様のあるくつ下を編むことが多いので、模様からぴつたり同じ数の段を一足同時編みにもいくつか方法はある。
今回のMagic Loopもそのうちのひとつだし、単純に四本針なり五本針を二つ用意して、片方を一段編んだらもう片方を一段編む、といふのもありだな、とは思ふ。やらないけどね。
あと思ひつくのは棒針二本を使つて編む方法かな。編むことは可能なんだけどね。
しかし、ただのメリヤス編みとかゴム編みとかのくつ下の場合は、なにかしら段数を数へる仕組みを作つておかなければならない。

さういふ場合は、一足同時編みだよな、やつぱり。
それに、たまにはこの方法で編まないと、編み方を忘れるし。
なによりも、手が忘れる。

一足同時編みの方法にはいくつかあるけれど、やつがれはいつもMagic Loopだ。糸を持ち替へることさへ忘れなければ、一番ふつーに編めるからである。

でもまあ、同時に一足編むので、その分なかなか進まなかつたりはするんだよね。
といふわけで、現在「なんでこんなに進まないのか」とちよつとイラついたりしてゐる最中である。
慣れてくればもうちよつと心の平穏を得ることができる、かな。

Friday, 02 May 2014

川本喜八郎人形ギャラリー 赤壁‐苦肉の計 前篇

早いもので渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの展示替へから一週間。
予想はことごとくはづれて……といふほどでもないか。後白河法皇出てきたしな。
まあ、そんなわけで、当然のやうに初日から行つてきたわけである。

これまでは平家物語の人形のかざられてゐたギャラリー外のケースには、関平がゐる。
人形劇のときよりも凛々しい顔立ちをしてゐるやうに思ふ。
人形劇のときは、勝平の成長した姿といふことで、幼いころの趣を残したカシラになつてゐたからな。
それでなんとはなし幼い印象が抜けなかつたのだらう。
ギャラリーの外でお客さんをお出迎へする関平には、そんな心遣ひは不要だつたのにちがひない。
どことなく中村勘九郎に似てゐるなあ、と思ふ。顔の形かな。あるいは顔のパーツの配置具合かもしれない。
衣装は全体的な色の印象は赤で、人形劇のときは下はターコイズブルーのやうな色だつたやうに思ふけれども、今回は淡い感じの色合ひになつてゐる。

中に入つて、むかつて左側が三国志、正面と右側が平家物語だ。

三国志は「赤壁‐苦肉の計」と銘打たれてゐる。
さうかー、やはり官渡の戦ひは無視されてしまふ運命なんだなあ。
関羽の千里行もなし、といふことは赤兎馬もなし、である。
さう、今回は、これまでの展示ではじめて玄徳・関羽・張飛の三兄弟がゐない。
これにはちよつと驚いた。
「人形劇三国志」つていつたらやつぱりこの三人でせう。
三兄弟に代はるのが孔明、といふことなのかな。ことなのかも。

といふわけで、入口に近い方から行かう。
入口に一番近い位置にゐるのは、蒋幹である。
人形劇のときとほとんど変はつたところはない。
衣装もサテン調の明るい牡丹色だ。肩口に黄色い花がついてゐるところが念入りに派手である。なぜか左前だけどなー。
カシラもおどけた眉にびつくりしたやうなどんぐり眼は人形劇のときのままだ。
これまでの展示からいくと、あまり出番の多くなかつた人形は人形劇のときとかなり異なる出来になつてゐる、といふ印象がある。
たとへば初回の展示の李儒や陳宮がさうだし、その次の蹇碩などもさうだ。
出番の多かつた人形はほとんど変はらない。
前回の程昱はかなり変はつてゐたけれど、よく出てゐてあれだけ印象が違ふのは程昱くらゐだ。
ほかの人形もすこしづつちがつてゐたりはする。たとへば曹操はちよつと上品になつてゐるし、張飛はちよつとおとなつぽくなつてゐる。孔明は若干カシラが卵形に近い形になつてゐるやうに見受けられる。
そこいくと、蒋幹は「もしかして飯田からつれて来たのか?」と思ふほど人形劇のときのままだ。
それとも、蒋幹はとにかく衣装が派手だしやることも大げさだから、その印象が強くて、実はかなり変はつてゐるのにそんなに変はつたやうには見えないのだらうか。
まあ、そのうち赤壁前夜を見なほすことにするよ。

その隣、やや奥にゐるのが龐統である。
龐統は、初回の展示のときにもゐて、そのときには「どこか風狂めいた印象がある」と書いた。
正直云つて、正面から見ると怖かつた。瞳孔が開いてゐて、どこを見てゐるのかわからない。
それが、向かつて右側から見たときには、実にいい表情に見えたものだつた。
今回の展示では、初回のときの右から見たときの印象に近いものがある。
もつと云ふと「かつこいい(敢て幼児語を使ふ)」。
初回の展示のときには、右から見ると夢見る青年の顔つきだつた。
今回の展示では、もつと大人に見える。
初回のときには口にくはへてゐた猫じやらしを、今回は手にさげてゐる。猫じやらし込みで衣装なのかね。
衣装は、当然かもしれないが初回のときのままだ。地味で質素な出来で、唐草模様の刺繍もかなり太い糸で刺されたものである。
そこがまたいいんだけどー。

その隣、ちよいと手前にゐるのが諸葛瑾だ。
人形劇のときより若干顔が長くなつてゐる。
だがまだ驢馬の名前にするには足りないなー。まちつと長くないとなー。
人形劇の諸葛瑾はその役回りのせゐか、非常に「苦労人」といつた趣の顔をしてゐたやうに思ふ。
今回の展示では、苦労人めいた部分は影をひそめ、謹厳実直なところにちよいと「頼りになる男」風味を加へたやうな顔立ちになつてゐる。なんていふのかな、「切れ者」度があがつてゐる、とでもいはうか。皮膚の色もすこし白くなつてゐるんぢやないかな。
人形劇の諸葛瑾といへば、その実直さうな様子のわりに衣装はきんきら(でも渋い)だつた。
今回の展示でもきんきら具合は変はりない。ただ、前掛けが若草めいた緑色の三升のやうな柄に龍を散らした柄になつてゐて、これが人形劇のときにはなかつた爽やかさを醸し出してゐる。しかも散つてゐるのが龍の模様だし。
その下は菊の花を散らした模様で、こちらは金色がかつてゐるけれどもちよいと地味。

諸葛瑾の隣が諸葛亮。
Twitterで「美しい」とつぶやいてゐる人がゐたけれど、向かつて左から見た孔明は、実に厳しいやうすに見える。
うつくしいといふよりは、怖い。
いや、わかる。
「おそろしいほどのうつくしさ」とか「うつくしくて怖いほど」といふことはある。
あるけれど、うーん、多分、今回の孔明は、厳しい感じを目指して飾られてゐるんぢやないかと思ふ。
正面から見ても、多少はやはらぐものの、やはり厳しい空気を纏つてゐるものなあ。
右から見てはじめて、「あら、孔明先生、実はお若いのね」といふ感じがする。
赤壁なんだし、人形劇のときのやうすからいへば、もつとお気楽な感じでもいいのになあ。
「人形劇三国志」の赤壁の戦ひ前後つて、孔明はひとりで楽しげだものな。
それとも、上にも書いたやうに、孔明ひとりで玄徳・関羽・張飛の肩代はりをしてゐる、と考へると、その重責から厳しい表情になつてしまつたりする、といふことなのかな。なのかも。
蒋幹と諸葛瑾がすこし右、龐統がすこし左を向いて立つてゐるのに比べて、孔明は正面切つて立つてゐる。
怖い感じがするのはそのせゐもあるのかも。
ここまでの四人はなぜか右側だけ沓の先がのぞいてゐる。
かうして見ると、孔明の衣装といふのは一見質素なんだよなあ。
黒くて透ける上着の下は瓶覗きとでもいひたいやうな、ほとんど白に近い水色の衣装で、沓もあつさりとしたデザインである。このあと出てくる魯粛などは沓の先にも宝玉のやうなものがついてゐるが、さkうした飾りは孔明にはない。
この飾り気のなさがいいのだらう。

孔明の隣は魯粛。
初回の展示のときは、まさに「おろお魯粛」の名に恥ぢないおろおろつぷりだつた。
今回はおろおろしたやうすはないやうに見受けられる。
ただ、初回のときにも抱いた「なんだか顔が薄い」といふ印象はそのままだ。
なぜ薄いかといふと、顔のパーツの色が薄いからである。
あと、これも初回も思つたけれども、魯粛は目まはりが浅くて、これでほんとに目を閉ぢたりできるのか知らん、と疑問である。
そこまではわからないからなあ。
上にも書いたとほり、魯粛の沓の先には緑色の宝玉がついてゐる。冠りものにも緑色の石がついてゐるのでおそろひといつたところか。
さうさう、魯粛はなぜか沓の先が両方とも覗いてゐるんだよね。
なぜなんだ。
もしかしたら沓の先の飾りを見せたかつたのかな。
孔明は書いたとほりだし、龐統は沓だけゴテゴテしてゐたらをかしいし、諸葛瑾も沓はそれほど派手ではない。蒋幹の沓はもつとゴテゴテしててもいいのになあ。
そんなわけで、魯粛の沓を見せたかつたに三千カノッサである。

その隣、ちよいと後方に、馬上の趙雲がゐる。
前回の曹操よりすこし右側の位置、かな。
この趙雲が凛々しくて、なあ。
趙雲は、初回の展示のときは槍を構へて半身になつて立つてゐた。
今回も槍を持つてゐる。でも赤壁の趙雲つて、どちらかといふと弓の印象が強いがなあ。あれは船上なので、まあ、いいのか。
初回のときは、「人形劇のときより皮膚の色が赤みがかつてゐるやうに見える」と書いた。どちらかといふと、赤みはそのままで、人形劇のときより色白なのかもしれない。
あと、初回のときは勇ましさ一番、みたやうな感じだつたけれども、今回は勇ましいといふよりは、やはり「凛々しい」だなあ。
凛々しい若武者。
だいたい「人形劇三国志」の趙雲の印象といへば、「いつも爽やか好青年」だ。もうそれは、死の直前までさうである。
実際は、まあ、ちよつとヤな奴だつたりする場面もあるし、さうさういつでも爽やかでもなかつたりもするのだが、そんな事実を忘れてしまふほど、「いつも爽やか好青年」の印象は強い。
まあね、ちよつと見とれるくらゐいいよ、今回の趙雲は。

その隣が徐盛。
かう云つちやあなんだが、最初見たときは「あんた誰?」くらゐのいきほひで誰だかわからなかつた。
名札を見て、「え、徐盛なの?」と驚くほどである。
人形劇のときの徐盛は、もつと、こー、いはば「人形めいた顔」をしてゐた。
人形なんだからあたりまへなんだけどもさ。
「人形劇三国志」の呉の面々といふのは、濃いぃ顔立ちの人が多い。
そもそも孫堅がさうだし、程普、甘寧、闞沢、黄蓋……あげたらキリがない。
周瑜と魯粛と諸葛瑾とがちよつと趣がちがふけれども、特に武将は「濃いぃ」カシラが多い。
南方の明るさを人形のカシラに表現するとかうなるのか。
程普・甘寧・徐盛については常々さう思つてゐた。
それが、今回の展示の徐盛は違ふ。
なんていふのかなー、をぢさん?
さう云つてしまつたらおしまひか。
人形劇のときのデフォルメのきいた感じはなくなつて、なんだかリアルな顔立ちをしてゐる。
なんでこんなに変はつてしまつたのか。
訊きたいときに訊く相手がゐないといふのがさみしいやね。

といふわけで、つづく。

Thursday, 01 May 2014

無用の用

先日、「漢文法基礎」を再読した。
ここ一年ばかり漢文のマイブームがきてゐて、意外なことにつづいてゐる。
「ぢやあここでひとつ「漢文法基礎」でも読みなほすか」といふので、読みなほしてみた、といふわけである。

ところで、これまた去年の夏から、細々と「新釈漢文体系」の「史記」を読んでゐる。

なぜ読みはじめたのか。

「史記」を読む前に、「十八史略」を読んだ。
読んで、「なんか、これはもつと元になるものを読まないといかん」と思つた。
なぜさう思つたのかは、わからない。
それで、去年の七月、国立劇場の歌舞伎鑑賞教室に行く前に、「本紀」の下を買つた。
どうせ読むならおもしろさうなところから読まうと思つたからである。
「新釈漢文体系」の「史記」の「本紀」の下は項羽本紀からはじまる。
やはり、そこからだらう、と思つたわけだ。

「新釈漢文体系」にしたのは、原文が載つてゐるからである。
句読点や返り点、一二点などはついてゐる。
ついてゐないとまづ読めないからね。そこは歓迎だ。
世の「史記」には、原文が載つてゐないものが多い。
といふ話は以前にしたか。
一番確実で安値で手に入るのは学習参考書だ、と、その時に書いた。
「史記」を読みたい、といふとき、なにが読みたいのか。
内容だけわかればいいのか。
だつたらダイジェスト版でいい。
「十八史略」でも十分だらう。
しかし、「十八史略」では満足できなかつた。
せつかく読むのだから、司馬遷の書いたとほりとはいへないが、しかし書いたものに限りなく近いだらう形で読みたいぢやあないか。
さう思つたわけだ。

一杯やりつつ「史記」をちびちびと読む。
そんな読み方でずつと来た。
はづかしながら、素面のときに読んだことがない。
ここに来るまでに「世家」の下「列伝」の三とを読んだ。
今、「本紀」の上を読んでゐる。

死ぬまでに全部読めればいいな、くらゐのつもりでゐる。
読みはじめた時点では、まだ全巻出版されてゐなかつたしね。
どうやら今月、最後の一巻が出版されるのらしい。
出るか出ないかやきもきせずにすむな。

読んでゐて、ときどき思ふ。

「やつがれは、なぜこんなものを読んでゐるのだらう」

読みたいから読んでゐる。
それだけのはずである。
それだけのはずなのだが、読んだところでいいことがあるわけではない。
仕事に役立つわけではないし、普段生きていくのにまつたく必要はない。
読まなくたつて生きていける。
むしろ、ほかに読んだらためになる本が世の中にはいくらもあるのだ。
なのになぜ、やつがれは「史記」なんぞを読んでゐるんだらう。

冒頭に書いた「漢文法基礎」には、最後著者が読者に向かつて、「今後も漢籍を読んでもらひたい」といふ主旨のことを書いてゐる。
「そんな役に立たないことを」といふ向きもあらう。だが、「無用の用」といふこともある。
著者はさうも書いてゐる。
なるほど、「無用の用」か。
やつがれ風情が考へたところで、役に立つかどうかなんて、わかるはずがない。

いまでも読んでゐて、「なんで自分はこんなものを読んでゐるのだらうか」と思ふこともある。
さういふときは「無用の用」を思ひ出すことにしてゐる。

2014年4月の読書メーター

2014年4月の読書メーター
読んだ本の数:6冊
読んだページ数:2238ページ
ナイス数:7ナイス

三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)感想
毒舌家の本は読まないやうにしてゐる。真似したくなるからだ。毒舌家には藝がある。毒舌をきかせる技がある。それがないのに真似だけしても愚かなだけだ。ゆゑに著者の本は敬して遠ざけて来たのだが、「李白と杜甫」がおもしろかつたので、つい……。「「曹操」「劉備」なのになぜ「諸葛亮」と書かぬのだ!」と怒るやつがれは間違つてはゐなかつたのだー、と、ちよつと安心できる一冊。
読了日:4月3日 著者:高島俊男
正史 三国志〈4〉魏書 4 (ちくま学芸文庫)正史 三国志〈4〉魏書 4 (ちくま学芸文庫)感想
孫礼の管仲評に腹がよぢれるのではないかと思ひ、いはゆる魏志倭人伝の「人々は生まれつき酒が好きである」に「そーよねー」と思ふ。長いものとか虫とかが苦手な人は華陀伝は避けた方が吉。
読了日:4月9日 著者:陳寿,裴松之
墨攻 (文春文庫)墨攻 (文春文庫)感想
読む前に「墨子」の抜粋版を読んだ。その時感じた気持ち悪さや「ムリ! 絶対ムリ!」といふ印象が、実によくあらはされてゐて、改めて感心することひとかたならず。
読了日:4月11日 著者:酒見賢一
漢文法基礎  本当にわかる漢文入門 (講談社学術文庫)漢文法基礎 本当にわかる漢文入門 (講談社学術文庫)感想
ここのところ漢文の本を読むやうになつたので、復習のつもりで読む。いろいろすつかり忘れてゐる。「なんでこんなものを読んでゐるのか」と時々思ふが、「<無用の用>だよな」と思ふことにしたい。
読了日:4月16日 著者:二畳庵主人,加地伸行
日本文法 口語篇 (岩波全書 114)日本文法 口語篇 (岩波全書 114)感想
文法を学ばねば、といふので読んでみた。もつと入門書的なものを選ぶべきだつたのかもしれないが、まあ、よしとしたい。可能を表現するとき「ら抜き」することもあるよね、とか書いてあつて、「もうこのころ(初版は1950年発行とのこと)からかー」とか、感慨深い。
読了日:4月24日 著者:時枝誠記
The Amazing Thing About the Way It Goes: Stories of Tidiness, Self-Esteem and Other Things I gave Up OnThe Amazing Thing About the Way It Goes: Stories of Tidiness, Self-Esteem and Other Things I gave Up On感想
著者のあみもの関連以外の本を読むのははじめてである。あみもののときも思つてはゐたが、結構しつこい書きつぷりである。ゆゑに時々ダレる。表題作である母親としてあることについて書いた文章や、self-esteemに関する文章などには、ちよつと身につまされたりした。
読了日:4月30日 著者:StephaniePearl-McPhee

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