タティング道具を持ち歩くわけ
先日、あみものの話の時に、「外出先でなにもすることがなくなるのが怖い」といふやうなことを書いた。
だから常に手仕事道具を持ち歩いてゐるのだ、と。
やつがれのする手仕事のうち、一番荷物がちいさくてすむのはタティングレースである。
したがつて、日々、糸を巻き付けたタティングシャトルの入つてゐるがま口の財布を持ち歩いてゐる。
がま口の財布については、だいぶ以前に書いたな。
皇室御用達、といへば聞こえはいいが、見た目にはかなり「をばさま向き」の財布である。
これの使ひ勝手がよくてね。
財布として使つてゐたときもいいと思つてゐたけれど、タティングシャトル入れとしてもとてもいい。
そろそろくたびれてきて次がほしいかもと思つてゐるのだけれども、どうやらちよつとモデルチェンジをしたやうだ。
なにかほかのものを探すかどうか、悩んでゐる。
もとい。
外出先で時間をつぶすもの、といつて、本もある、とそのとき書いた。
いまだつたらスマートフォンもありだな。
やつがれのかばんの中にも、本とiPhoneとは入つてゐる。
だつたら時間をつぶすならそれだけでいいぢやあないか。
なにもわざわざタティングレース用具など持ち歩かなくたつて。
さういふ意見もあらう。
本やスマートフォンだけではダメなのだ。
先日もさう書いた。
なぜダメなのか。
本を読んでも、なにも残らないからだ。
わかる。読んだら、記憶には残る。知識になることもあらう。
しかし、目に見えるものはなにも残らない。
本は残るかもしれないが、それはやつがれの作つたものではない。
さう。
自分の手で作つたものはなにも残らない。
読書のむなしいところはそこである。
料理もさうだ。
生きていくのに最低限の食事の支度はともかく、やつがれが趣味で料理を楽しまない所以はそこにある。
時間をかけてあれこれやつて、そこにはなにも残らない。
なにも残らないのにゴミと洗ひものだけは残る。
むなしい。
正直に云ふと、「むなしい」といふ気持ちとはちよつとちがふ。
ちよつとちがふけど、まあ、人生なんて所詮むなしいものか。
何年か前、休日になると絵を描いてゐた時期がある。
ちよつと前に見てきた芝居の絵とかを描いてゐた。
図画工作や美術の授業では努力点しかもらへなかつたやつがれが、である。
そのうちそれがリカちやんやジェニーの服づくりになつた。
家庭科の授業では努力点しかもらつたことのないやつがれが、である。
それが、あみものやタティングレースになつて現在に至る。
絵と人形の服とあみものやタティングレースの共通点は、「作るとなにか残る」だ。
できあがつたものを見ると達成感がある。
捨てるまではなくならないので、それまでのあひだは達成感を得ることができる。
ひとつ新たなことをはじめると、以前やつてゐたことは次第にやらなくなる傾向がある。
それは、「なにか作つた」といふ達成感だけがほしいからだらう。
べつに絵や人形の服でなくてもよかつたのだ。
たまたまあみものだけは昔からやつてゐて好きだつたからつづいてゐる。
それにほかならない。
この「なにか作つて残したい」といふのは、人間の本能のやうなものだらうと思つてゐる。
究極のそれは、「自分の子孫を残したい」だ。
世の中ではすでに云はれてゐることだらうけれども、男の人は「自分の子孫を残した」といふ実感を得にくいところがあつて、それで絵を描いたり彫刻を作つたり、作曲したり小説を書いたりしてきたのだらう。
しかし、さうして日々編んだり結んだりしてゐるものも、いづれは捨てられてしまふ。自分から捨てることもある。
だつたら、それはやはりむなしいことなのではないか。
まあ、人生なんてもともとむなしいものか。
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